庵53『俳優になるのを諦めた僕が、なぜか人気俳優の付き人をやることになった話』①「君、華がないんだよね」
オーディションを受けるたびにいつも言われる言葉だった。
この間のオーディションに落ちたら、役者になる道は諦めようと決めていた。
そして今日、最終選考の落選通知を受け取った碇シンジは、深いため息とともに、己の運命を受け入れるしかなかった。
現在、二十歳。夢を諦めるには早すぎる気もするが、今からなら資格を取得したり勉強をしたりして、別の道に進むことも難しくない。三年間がんばってなんの成果も出なかったのだ。ここが潮時だろう。
「就職先……探さなきゃ」
夢を追うために大学進学も諦めてしまったが、今から夜間の大学に通うのもありかもしれない。
(僕が他にやりたいことって、なんだろう)
芝居以外で興味がある分野もあるといえばあるが、具体的にイメージしようとすると、視界がぼやける。
考えがまとまらないまま、とりあえず今日のところは酒でも飲んで寝てしまおうかと思い、近所のコンビニに行くために鞄を掴んだ。
「あ……そうだ」
今回受けたのは、とある映画の出演者を決めるオーディションだったのだが、その面接対策として、監督の過去作品のDVDを事務所から借りていたのを思い出した。
先日いろいろあって、所属していた芸能事務所はすでに退所している。書類関係の手続きも一通りすんでいるので、もう今後行く予定はない。
今さら顔を出すのも気まずい。というか、できれば社長とはもう二度と顔を合わせたくない。
(郵送でもいいかな)
いやしかし、郵送したら、借りっぱなしになっていたことが判明し、なにか連絡がきそうな気がする。
「…………」
時計を見れば、夜の九時を回ったところだった。
この時間なら、多くの社員はすでに帰宅しているはず。そして社長がこの時間にオフィスにいることは、めったにない。
(こそっと返してくればいいよね)
残念だが、コンビニに行くのはそのあとにしよう。
シンジは、棚に入っていたDVDを五本ほど掴んでリュックに入れ、駅に向かうことにした。
一人暮らしをしているアパートから電車で片道二十分の場所に、かつて所属していた芸能事務所はある。
昼間は大勢のスタッフが働いているオフィスは、今は静まりかえっていた。
マネージャーなどのデスクがある部屋の前を通りすぎて、シンジは資料室に向かった。
DVDをきちんと元の場所に戻し終えて、ほっとする。
そのままこっそり去ろうとしたのだが、廊下の奥の方から呻き声のようなものが聞こえてきた気がして、足を止めた。
この先にあるのは社長室だ。そして、社長らしき男の声が、なにかまくしたてているのが聞こえてくる。
しまった。今日はまだいたのか。しかし、様子が変だ。
(もしかして、強盗とか?)
関わらない方がいい。本能はそう告げていたが、万が一ここで去って、殺人事件にまで発展したら、自分は一生後悔することになるだろう。
それに事件なら、こそこそ逃げだしたシンジまで警察に疑われてしまうのでは?
最悪の展開を想像するのだけは得意な自分が憎い。
(やばそうだったらすぐに逃げて、警察呼べばいいよね?)
しぶしぶながらも、シンジは社長室に足を向けるしかなかった。
こういう時、ドラマだとドアはうっすら開いているものだと思うが、ここではピッチリ閉められている。
シンジは、隣の部屋に入ることにした。
社長室の隣は、社長が趣味で作ったミニシアターになっている。
そして、ミニシアターと社長室は、直接往き来できるようになっており、二つの部屋を仕切る壁の上半分がガラス張りになっている。
シンジは四つん這いになりながらミニシアターに侵入し、こっそりとガラス越しに社長室を覗いた。
「ひっ……」
そしてすぐに、後悔することとなる。
あわてて頭を引っ込めたが、見えてしまった。
床に倒れる社長。そしてその前に立つ、銀髪の男の後ろ姿が。
(やばいやばいやばい……)
事情も状況もまったくわからないが、事件の匂いしかしない。
さっき鈍い音も聞こえた気がしたけど、あれはきっと、社長が殴られた音だったのだ。
やっぱり、さっさと逃げ出すべきだったのかもしれない。
その場で頭を抱えて小さくなっていたら、社長室に続くドアが開く気配があった。
「君、いつからここに?」
声と足音が近づいてくる。
聞き覚えのある声だと思ったが、誰だかはすぐに思い出せない。
「すすすすみません! いまここにきたばっかりで、僕はなにも……!」
「何か、見たかな?」
「み、見てません!」
「見たよね?」
「見てません!」
恐怖で顔が上げられないシンジは、ぶるぶる震えて膝に顔を埋めながら答えた。
「嘘はよくないなぁ」
男の声は柔らかだった。
どう考えても追い詰められている状況だけど、怒っている気配はない。
(ていうか、すごくいい声……)
知り合いではない。でも絶対に聞き覚えがある声だ。
「顔をあげて、碇シンジくん。君と話がしたいんだ」
「……っ、なんで僕の名前……!」
驚いて、思わず顔を上げてしまった。
そして、想像もしていなかった顔が目の前にあることに、息を呑む。
「…………渚、カヲル……!?」
知っている顔だった。
名前を呼ばれたことで、たおらかに彼は微笑んだ。
さすが、国宝級の美貌、という代名詞で有名な、人気俳優である。至近距離で拝むと心臓が止まりそうになるくらい美しい。
「僕の名前を覚えてくれていたんだね。嬉しいよ」
「……あなたの名前を知らない人間なんて、この国には一人もいないと思いますけど……」
「ふふ。言いすぎだよ。一割ぐらいならいるんじゃないかな」
謙遜しているにしても自分の知名度をしっかり認識しているらしい彼は、優雅に腕を組みながらシンジを見下ろしている。
「君はこの事務所を退所したんじゃなかったかな。どうしてここに? もしかして、社長に個人的に呼び出されたりしたのかな?」
「ちちちがいます! 借りていた資料を戻しにきただけで……ていうか、なんで僕が退所したことまで知ってるんですか!?」
相手は、渚カヲル。毎日テレビで彼の顔を見ない日はないというほどの有名人だ。対する自分は、知名度はほぼ皆無。何本かの映画やドラマに端役やエキストラで出演したことがあるだけの底辺俳優もどきだ。存在を認知されていたというだけでも信じられない。
「君、一度共演したことがあっただろう?」
「ああ……」
一年ほど前だろうか。彼が主演する映画に、エキストラで出たことはあった。かろうじてセリフはあったけど、群衆の中で一言叫んだだけのモブだ。遠巻きに挨拶はしたけど、彼と直接会話をしたことはない。
「表情が印象的だったから、覚えていたよ。それに、本番前に、誰よりも集中している様子だったから、他のエキストラとは違うな、と思っていた。うちの事務所がもう少し軌道に乗ったら引き抜こうかと思ってから、チェックしてたんだよ」
「……そういえば先月、個人事務所を立ち上げたんでしたっけ」
彼は今まで、大手プロダクションに所属していたはずだが、今後の活動方針について事務所と折り合いがつかなくなってきたため、個人事務所を立ち上げて、社長も兼任しているとニュースで見かけたことがある。
「こんなタイミングで言うのもなんだけど、どうだい? うちの事務所に来ないかい?」
そこでシンジはハッと我に返る。
ぼんやり見惚れている場合ではない。さっき見た光景を思い出した。
「ていうかあの! 社長! 殺したんですか!?」
「ん……? ああ、彼なら大丈夫。気絶してるだけだよ。でも、そろそろ警察がくるだろうから、早めに立ち去った方がいいね。話の続きはあとにしようか」
「警察!?」
「これをかぶっていて」
着ていたパーカーのフードを深くかぶらされる。
ポケットから取りだしたサングラスをかけて帽子をかぶった渚カヲルは、シンジの手を引っ張って事務所の裏口へと向かった。
外に出て三分ほど歩いたところにあるコインパーキングに着くと、渚カヲルは白い車のロックを解除した。
国産車だけど、おそらく高級車の部類に入る車種だ。
「車の運転はできるかい?」
「はい……一応」
免許は持っているし、たまに運転もしている。安い軽自動車ぐらいしか普段運転してないけど。
「悪いけど、運転してもらえないかな? 運転席だとひと目につきやすいから、なにかと面倒でね」
「えっと、これからどこに行くつもりで……!?」
「僕の自宅だよ。道案内はするから安心して」
借りたDVDを返しにきただけのはずが、なんでこれから渚カヲルの自宅に行かなきゃいけないのだろう。まったく理解できない。
「……碇シンジくん」
顔をこわばらせたまま突っ立っているシンジに、渚カヲルはふわりと微笑んだ。
「僕は君に、口止めをしなきゃいけない。わかるね?」
「は、はい……っ!」
穏やかな声音だったが、有無を言わせぬ圧力を感じて、シンジはあわてて運転席に乗り込む。
従わなかったら自分も気絶させられたりするのだろうか。怖い。とにかく言うとおりにしなきゃ、という気分になった。
渚カヲルは、相変わらず優雅な仕草で後部座席に乗り込んだ。
「そこの角を右に。大通りに出たら、渋谷方面に向かって」
「はい」
ハンドルを握る手は震えていた。
こんな高級車、運転したことがない。いつも運転している軽自動車よりも大きいし、事故でもしたらどうしよう。
いや、車の被害額も怖いが、後部座席に乗る国宝級の俳優に万が一、怪我でもさせたらもっと一大事だし、怪我をさせなくてもニュースになったら、彼の名誉に傷がつく。損害賠償を請求されてしまうかもしれない。
「そんなに緊張しないで。君は今、プロのハイヤー乗務員だ。……そういう役を演じているつもりでハンドルを握れば、なにも怖くないんじゃないかな?」
シンジの手が震えていることに気づいたカヲルが、くすくす笑いながら話しかけてくる。
「そんなこと言われたって……」
「カメラが回ってないところで演技はできないかな?」
「……僕はもう、役者はやめたんです。演技なんてできません」
「どうして? 君はとても演技が上手いのに」
「……そんなこと言ってくれるの、渚さんぐらいですよ」
どうせお世辞だろう。わきまえている。
自分が所属していた事務所の社長にだって、下手くそだとさんざん罵られた。
「顔もとても可愛いし、体型も理想的だ」
「……顔も体型も、平凡で華がないっていつも言われます」
「僕はそうは思わないな。いざとなると度胸があって思いきりがいい。そういう役者は化けるよ。君にないのは、華ではなく、自信ではないのかな」
「……そうかもしれません」
その自信のなさが、多分一番問題なのだ。
だから、エキストラでの出演でそれなりにまともな演技ができたとしても、オーディションで自己アピールをしきれない。
自己アピール、そして自己プロデュースの上手さというのが、この世界で生き抜くには必要不可欠だ。シンジがもっとも苦手とするところである。
「あの社長に、いい若手を育てるだけの力はないよ。今まで君がうまくいかなかったのは、君のせいじゃない。……あの社長は、暴力団との繋がりがある。早めに関係を断っておいて正解だったね。君の判断は正しい」
「暴力団……やっぱりそうだったんですね」
「知っていたのかな?」
「噂程度ですが……。仕事が取れない所属タレントを、AVに出演させて、最終的には風俗落ちさせて、暴力団の資金源にしてるって、辞めていった先輩が言ってたんです。それで……僕もこの間、ゲイビデオに出ないか、って言われて、事務所を辞めようと決意したんです」
『君はそっちの方が向いていると思うよ』
そう言ってきた社長のにたりとしたいやらしい笑みを思い出して、吐き気がこみ上げてくる。
「へぇ……」
カヲルの声が低くなる。
気になってフロントミラー越しに顔を見たら、美しい顔に、ぞっとするほどの冷たさが浮かんでいて、思わず震え上がる。
「ああ、そこの信号を左ね」
「は、はい……っ!」
「君にまでそんなゲスな仕事を回そうとしていたとはね。やっぱり殺しておくべきだったかな」
「ああああの! 渚さんはなんで社長を……!?」
不穏な話題になってきたところで、シンジは話をそらすために、一番の疑問をぶつける。
「知り合いの記者をそそのかして、でっち上げの記事を書かせたみたいだからね。そのお仕置きさ。ついでに、彼の悪事の一部を、匿名で警察にタレこんでおいたんだよ」
「あ、あの、ちょっと前に出てた、渚さんの熱愛報道ですか?」
「そう、それ。お相手は、あの事務所に所属していた女優だろう? どうやら、炎上商法で稼ぎたかったみたいだね」
「やっぱりガセだったんですね……よかった」
「おや、君も気にかけていてくれたのかな?」
「だってあの女優さん、事務所で何度か会ったことありますが、超性格悪いですよ。僕をバイトのスタッフと勘違いして、使いっパシリさせられたこともあったし……どう考えても、渚さんには似合いません」
「ふふ、そうだね。どうせ噂を立てられるなら、君みたいな可愛い子が相手の方がよかったな」
「へ……っ!?」
後部座席から身を乗り出してきたカヲルが、シンジに顔を寄せてくる。
「新しい恋人が発覚すれば、彼女との噂はすぐに忘れ去られるだろう。どうだい? 僕とスキャンダルを起こしてみないかい?」
「ややややめてください! 僕、男ですよ!?」
冗談に決まっている。それでも、間違って急ブレーキを踏んでしまいそうになるぐらい動揺した。
「ああ……運転中にすまなかったね。もう少しで着くから、がんばって」
ハンドル操作も乱れたことに気づいたカヲルが、後部座席に背を戻す。
渚カヲルの自宅は、渋谷の繁華街からは離れた、閑静な高級住宅街にあった。
マンションではなく一軒家だ。
ガレージのシャッターが自動であいていくのを見て、「わぁ……」と声をあげてしまう。
ガレージだけでも広く、高級外車が二台ほど並んでいた。つまり、この車を入れると三台だ。
慎重に慎重を重ねて車庫入れを終えた時には、思わず深く息を吐いてしまう。
「ありがとう。運転してもらえて助かったよ。なかなかいい腕をしているね、君。本当にハイヤー乗務員になれそうだ」
「……転職先のひとつとして考えておきます」
車を降りたところで、今さらだが、『これからどうしたらいいんだろう』という疑問が戻ってくる。
「あ、あの……絶対、誰にも言わないって誓うので、もう帰ってもいいですか……!?」
事情はだいたいわかった。
非があったのがあの社長なら、仕置きを受けるのは仕方ないと思う。正直に言うと、もう芸能界の裏側のそういうゴタゴタには関わりたくない。さっさと帰って、ただの一般人に戻りたかった。
「それは困る。僕はこれから夕飯なんだ」
「え……? はい」
だからなんだというのだろう。よくわからないままシンジは頷く。
「君の分の寿司も頼んでおいたから、食べていってくれないと困る」
「はい?」