〜後宮御用聞き、迅と朱雀の君継宮の若君、官位を賜わること[一]
継宮は後宮に面した北側が二階建てになっている。
大きな物見窓を備えた望楼は後宮への唯一の出入口である紫陽門を見下ろすことができた。
昼下がりのやや落ち着いた時間帯。それでも門前の美しい石畳には行き交う宦官や官女や御用商人の姿があった。
もうすぐ七夕祭があるから、あれは衣装を新調するために呼ばれた行商人だな、などと思いつつ手摺に凭れていた迅が視線を戻すと、隣の嵐山は行き交う人々を飽かず熱心に眺めていた。
ここへ来て二週間の継宮の若君には、城内はまだまだ物珍しいらしい。
精緻な造りの華麗な紫陽門。その向こうには彼が本来入るずだった後宮がある。
赤の国の王族として、正式に輿入れするのであれば豪華な持参品や嫁入道具やお付きの者共の行列を引き連れて入内するはずだったろう。しかし、実際には打ち鳴らされる銅鑼も絨毯に撒かれる花もなく、この継宮に人目をはばかるように迎えられただけだった。
林藤は『赤の国に図られたな』などと言ったが、滅亡の危機に瀕しているかの国は、花嫁に持たせる持参金を用意することさえできなかったのだ。
帝国の加護を求める見返りに、唯一の宝の『四神返り』の第一王子を献上するしか手立てがなかった。
初夏の爽やかな風が望楼を吹き抜けて、元王子の艶やかな黒髪を揺らしていく。
午後の散歩と称して、改めて継宮の中を案内して回っていた迅は、その好奇心旺盛な瞳の輝きに内心でため息をついた。
どうなんだろうか。本人は味方のひとりもいない異国への貢ぎ物にされることをどう思っていたのだろう。
この二週間の間に、迅は政務の間になんとか隙間時間を捻り出して継宮を『メジロ』として訪うこと三回。最初のきっかけにした猫をダシに様子を尋ねる会話をしてきたが、この若君は年齢のわりに冷静に自分の状況を弁えていた。かなり聡明だと言えようが、それにしても単純に『嫌だ』と思ったろうに、と考える。
あげく妃として遇することを断られて継宮の主という不可思議な立場に置かれることになったのだ。
あまり皇帝に好意を持ってくれそうにない状況だな、と客観的に思う。
迅は謁見した際に見た、未来(さき)の光景をできれば実現したい、と思っている。
けれど『天啓』とはあくまで実現出来るかもしれない可能性のひとつなのだ。
そこへ至ることが出来るかどうかは、選ぶ道筋によって変わってくる。
生まれたときからこの『青龍碧眼』と付き合い、その精度を磨かなければならない環境にいた迅は、道筋を正確に読むことに長けている。
それでもこの若君を手元に置いて、成長した未来に添いたい、というのは迅の希望なのであって勝手にそこへ突き進むのは気が引けた。
本来ならばたくさんの可能性があって、どんな拓けた明るい未来でも望めたはずの子どもに、王族だから、とそれをすべて諦めさせることはしたくない。自分自身には許されなかったことだからこそ、なおさらに。
そうして、道筋をずらす手段のひとつが『後宮には入れない』という選択だったのだが。
皇帝の顔を知らないこと──迅を誰だか知らないこと。それがこの子の『逃げ道』になる、と視てしまった。
それを潰しておいてからあの未来を手に入れても、きっと自分は罪悪感を持ってしまう、と思った。
この『手段』を守りつつ、いつかこの子どもがしかと決断できる年齢になるまで待つこと。
後宮に迎えない、というのは皇帝として最大限の好意を表した選択なのだが、果たしてそれが本人に伝わるときが来るのだろうか、と迅はメジロの官服の袖を撫でながら嘆息した。
「乞巧奠は大きな祭事だと聞いたけど」
迅のため息に気付いた風でもなく嵐山がこちらを見上げた。そう、一番近い後宮行事はさっきも考えていた七夕だ。
「そうだね、後宮をあげての催し物になるよ。妃はもちろん女官たちも技芸を織女星に奉納する」
「皇帝陛下もご覧になる?」
「その予定だとは聞いてる」
「俺もなにか披露できる芸があれば参加させてもらえるだろうか……」
「ん? 出たいの?」
訊けば嵐山はこっくりうなづいた。
「そうしたら陛下にお会いできるかもしれないだろ?」
「……う〜ん、どうかな。その辺は俺にはちょっと分からないから京介に聞いてみて」
「わかった!」
嵐山は元気よく立ち上がる。
「迅、一緒に厩に行こう! 陛下が俺に駿馬を下さったんだ」
「それはぜひ拝見したいね」
「青毛ですごく格好いいんだ! 拝領してから毎日の日課に馬の世話が加わった。とても楽しい」
「そっか。良かったね」
この若君は勉学にも熱心だが、どうやら体を動かす方が好きらしい。
やっぱり後宮に押し込めなくて良かったよ、と迅は密かに思う。
はしゃいだ様子で自分の馬を『名前は月白にした!』と紹介してくれる笑顔に、良駒の産地である西州から超特急で上等の若馬を手配した甲斐があったな、と思った。
とりあえず毎日、楽しく元気に過ごして欲しい。
早いところ門弟を集めて学校を開講しなければ、と脳内で算段しながら迅は笑い返した。
朝、起床の刻を知らせる鐘の音と共に起き出す。
顔を洗い、身支度を自分で済ませる。
大陸の始祖神に国と民、家族の安寧を祈念した後、朝餉。よく咀嚼し、感謝して残さず食べる。
膳を下げてもらった後は、時枝がもってきてくれた予定を確認し、正午まで休憩を挟みながら勉学をする。
赤の国にいた頃から引き続いての四書五経の他に、いざ妃に必要な嗜みを、となったら鍛錬すべき事が倍にも増えて、嵐山はいよいよ気を引き締めることとなった。
様々な教師を手配してくれた京介が言う。
「位の高い妃を目指すならば、まずは『琴棋書画』です」
「うん。他には?」
「歴史、算術、外交術、異国語、舞、詩歌、刺繍、闘茶……と言ったところでしょうか」
「……刺繍にお茶、」
嵐山は口元に拳を当ててやや怯んだ。
確かに妃になるならそれも必要なのだろう。嵐山の実家でも母は女官とともに精を出していた。いずれは妹も一緒に励むはずの嗜みだ。
まず『琴棋書画』の中でも、嵐山がわりとできる方だと思うのは将棋と書だ。あとは楽器は笛を少し、絵心は人並み。体を動かすことは好きなので演武は多少出来るけれど、あとはどれも胸を張って得意と言えるものはない。
なるほど、自分は本当にまだまだ足りていない。陛下に後宮入りをお許し頂けなかったのもっともだ、と思う。
「頑張ろう!」
「はい、頑張りましょう。でも若君はまずは講座に通うための準備から始めるのがいいと思います。何事も出来るところから徐々に進めしょう」
という訳で、嵐山は赤の国の王子だったときよりも一層、勉強に励んでいる。
「え? 針と糸?」
午後は座学よりも乗馬や弓や散歩など体を動かすことが多く、嵐山にとっては息抜きの意味合いもある。
今日は梨園を散策することになっていて、ちょうどそこへ後宮御用聞きの迅がやってきた。三日ぶりに『ご機嫌伺いに参上しました』と朗らかに現れた彼は籠いっぱいの無花果を持ってきてくれた。
『後宮の庭で採れるんだよ』というそれを四阿で一緒に食べる。
「みずみずしくて美味しいな」
「王宮は庭だらけだからね。四季の果物で採れないものはない気がするな」
「すごいな。赤の国は山がちで寒い方だったから、ここには俺の知らない果物や花がたくさんありそうだ」
「なら、いずれ全部の庭園を案内するよ」
「うん!」
「で、裁縫道具が欲しいってなんなの?」
怪訝な顔をする迅に、嵐山は妃の嗜みの鍛錬について話した。
「お茶は充がいつも美味しく淹れてくれるから、いずれ習えると思うんだ」
「刺繍ねえ。別に出来なくてもいいと思うよ。妃だって苦手な人はいるだろうし、それなら刺繍の上手な女官を召し抱えればいいんだから」
「でも、刺繍の腕の良い悪いを判断するなら、どんなものなのか知ってなきゃだめだと思う」
「あ〜……ごもっとも」
無花果にかぶりついた口元を指で適当に拭った迅は『ふうん』と感心したような声を出した。
「嵐山は本当に前向きだね。なにも八つの頃から花嫁修行にそんなやっきにならなくてもいいと思うんだけど」
「何事も出来るところから徐々に始めようって京介が言ってたから」
「なるほど」
側用人の言葉を借りるとうなづきながらも、迅は何故か微妙な顔をした。
「裁縫ねえ。まあ、おれも雑巾くらいなら縫えるかもしれないなあ」
「え、本当か! すごい!」
「禁軍で働いてたことがあるから針と糸を扱ったことはあるんだよ。自分の装備が破れたらその場で繕わなきゃならないから」
「それなら雑巾の縫い方を迅が教えてくれ」
「いいよ。時間が取れたらね」
そう言って笑う迅はとても忙しいらしい。
嵐山は『メジロ』なる仕事を初めて聞いたが、とにかくどんな雑用でもやるから引っ張りだこなのだとか。
だから、継宮へ顔を出すのも約束はできず、迅が暇を見ては隙間時間に来てくれているのだ。
不思議な存在だなあ、と嵐山は思う。
城内の官吏たちは皆、決まった職務があって、それに従ってきびきびと忙しそうに動いている。
とても大きな組織の中で、誰もが部品のように細やかにせかせかと。
そんな中で迅はとても軽やかだ。
ふらっとやって来ては嵐山の話を聞いてうなづいて笑って励まして。嵐山の知らないことをいろいろ教えてくれる。まるで友達のように。
何よりも城内で多分持て余されている自分のような存在に、そこにいるのが当たり前のように気さくに接してくれる。
継宮付きの下男や官女たちにも、いまだに腫れ物のように扱われていて、時枝以外に味方がいない嵐山にとって迅は唯一の心休まる相手になっていた。
嵐山は毎日、朝起きると今日は迅は来てくれるだろうか、と考える。
一度、京介に『メジロ』について訊いてみたところ『そうですね。そういう仕事、の人、ですね』といつもの平淡な口調を何故か微妙につっかえさせながら言った。
「おれはまだ、その人に会った事がないのですが……」
と、時枝がやや警戒を滲ませながら言うのに側用人は曖昧に笑って答えた。
「いえ、信用はして大丈夫だと思います。え〜、メジロというのは基本的には皇帝陛下の直属でして。後宮の妃嬪方のお話相手になって細かな要望を聞いたり愚痴を聞いたり。まあその、気晴らしのお手伝いをするというか」
『そうして、いろいろ汲み取るお役目ですね』と京介が説明した内容に、時枝が納得したような呟きを小さく漏らす。
「ああ、なるほど。皇帝陛下の間諜的な……」
「通常はそんな感じ、です……」
嵐山はふたりのはっきりしないやり取りを聞いて首を傾げたが、時枝が了承したのなら良かった、早く迅を時枝に紹介できる機会があればいいなあ、とだけ思った。
「さて、じゃあ今日はもうお暇するよ。若君も母屋に戻って。だいぶ暑くなってきたから暑気中りしないように気を付けてね」
『おまえは山の国から来たんだから、まだここの気候に慣れてないんだし』と迅は心配そうに言う。
「分かった。迅、明日は来られるのか……?」
「う〜ん、仕事が上手く片付けば来たいよ」
来たい、と希望してくれる物言いに嵐山はじんわりと微笑んだ。
ただお役目だから構ってくれているんだとしても、仕方なしなしの態度をされたら、たぶん自分は悲しくなってしまうから。
毎日、今日は来てくれるのか、と考える。
餌を撒いておけば毎朝必ず寄ってきてくれる、ほんとのメジロならいいのにな。
日々、鍛錬すべきことが分かったなら嵐山はその努力をするのは惜しまない。
あとは何か目標があればもっと頑張れるな、と思って七夕祭について京介に尋ねてみた。
「乞巧奠の祭事ですか?」
「妃だけでなく女官でも芸事を披露できると聞いたから、俺も参加できないかなと思って」
自分に披露出来るほどの技芸があるのか、というのはこれから考えるとして。
まずは皇帝陛下にお会いできる機会が欲しい。
嵐山を追い返さずにいて下さったことにお礼を申し上げたいし、妃になれるようにもっともっと鍛錬しますという自分の意志をお伝えしたい。
何よりも赤の国を庇護して下さる、そのことについて奏上したい事がたくさんあるのだ。
なんとか参加できないか、と言う嵐山に、京介ははっと胸を突かれたような顔をして。すい、と膝をついて真剣に目線を合わせてきた。
「若君、大変申し上げにくいことなんですが」
と前置きをする。
「乞巧奠に参加できたとしても、成果を上げたとしても、あなた様は陛下にお会いすることはできないんです」
「え?」
「若君はこの国に来られて王子ではなくなった。つまり無位無官です。位のない者は陛下に拝謁することができませんから」
妃の最高位、四夫人は正一品。後宮の最下位の官女であっても正八品。
無品の元王子、嵐山は皇帝陛下のお顔を見ることすら許されないのだ、とそういう話なのだった。