アサシン&チェリッシュ×2『あらしのよるに』
『今夜、遅くから雷雨になるでしょう』という予報の通り、窓の向こうから度々、低い雷音が聞こえていた。
深夜過ぎ、迅はベッドの上でまだ起きていたが、ふと室内の照明が手元のスマホのバックライトを残してすべて消える。
ああ、停電か──。
雨は激しさを増すばかり。昨今の大雨は非常事態をもたらすことしばしばだが、まあ、すぐに復旧するだろう、と迅は楽観していた。
『暗くて怖い』にかこつけて嵐山がベッドに突撃してくるのでもなければ、後はもう寝るだけだし。
窓の外で稲妻が光った。まるで昼間のような白い光がフラッシュして、遅れて雷鳴がした。空気を震わす重低音が広い部屋の中にまで響く。雷はいつの間にかすぐ近くに来ていたらしい。
「……来ないな」
なんとなく身構えていたが廊下を駆けてくる足音は聞こえない。
『雷が怖い』やら『停電が怖い』やらで布団にくるまって怯えるようなタマではない、とわかっているが、来ないなら来ないで別の心配があるな、と迅は眉根を寄せる。
懐中電灯を持って探検よろしく真っ暗なマンション内を徘徊したり、非常用のろうそくを灯しまくったりしそうな気がする──このまま放置はちょっと危ないかもしれない。
迅は息をひとつ吐くと立ち上がった。スマホをライトにして部屋を出る。
長い廊下にも個室として与えている部屋にもバスルームにも嵐山の姿はなかった。
いやな予感がする、と嘆息しつつリビングへ踏み入ると、鼻先に濃い雨の匂いがした。隙間が空いているのか窓辺のカーテンの端がはたはたと翻っている。
案の定だ、とバルコニーに面したガラス戸を開けると、猛烈な勢いの雨の飛沫に足下があっという間にびしょ濡れになった。
真っ暗な空にくっきりとした稲妻が走る。カッと白く染まった広いルーフバルコニーの端。手摺りに足を掛けて空を仰いでいる小さな人影が見えた。
「なにしてんだ……」
叩きつけるような雨と強い風の中、嵐山は傘を差していない。風雨激しい中ではそれが正解なんだろうな、と思いつつ、迅も裸足のままバルコニーに出る。たちまち頭のてっぺんからずぶ濡れになった。着ているTシャツが水を吸って体に張り付いてきたけれど、ここまで一気に濡れると不快感も通り越してしまう。
横風を受けながら一心に空を見上げている嵐山のそばに歩み寄った。
「ちょっと、なにをのんきに雷見物してんだよ」
「じん!」
横に並んだ迅を見上げた嵐山は大声で答えた。
「すごいな、雷!」
また閃いた稲光に照らし出された顔は満面の笑顔だ。
「ほら、また光った!こんなにすごい雷を見るのははじめてだぞ!」
興奮して空を指差しながら身を乗り出すので迅は襟首を掴んで引き戻す。
「危ないよ。何階だと思ってんの」
「うん、そうだな!雷がちかい!」
雨音に負けないように声を張り上げる嵐山はついでに身振りや表情も大きくなっている。深夜だというのに元気いっぱいの様子に呆れてしまう。
「聞くだけ無駄かもしれないけどさ、怖くないの?」
迅が言ったちょうどその時、頭上でごおん、と全身に響く轟音がした。迅でも思わず肩をすくめる大音響。自然を感じるショーだというにはちょっとスペクタクル過ぎる。
だというのに、嵐山は平然と数を数えて『光った!五秒で光ったぞ、ちかいな!』と喜んでいる。肝が据わっているのは結構だが、これは行き過ぎじゃなかろうか。こいつの防衛本能はどうなっているんだ。
「街が真っ暗だから余計にすごい! これは停電だな。めったにない機会だと思う!」
「そう、停電中だよ。暗いのも平気なわけね」
「俺は暗くても見える方だからへいきだ!」
「そういう意味じゃなくてさ」
興奮している子どもにはなにを言っても無駄らしい。
厚い雲の中を芸術的な軌跡を描いて稲妻が走る。閃光が目に焼き付きそうだ。今夜寝るのにまぶたの裏で光って邪魔そうだな、と思う。
嵐山は停電も雷も心底、楽しんでいるらしい。ひとりで大丈夫そうなら放っておいて室内に戻ればいいのに、そうしないのはなんでだろうな、と迅はひっきりなしに雫が滴り落ちる前髪を両手で掻き上げながら思う。
このおかしな子どもは心配なんてするだけ無駄かもしれないのに、なんでだろうな。
「あらしのよるだ」
と、唐突に嵐山が言った。
「たしかに嵐だけど……ああ、オオカミとヤギのやつ?」
迅がうろ覚えながら口にすると、嵐山は暗闇の中、妙にうっとりした口調で言った。
「ちがう。嵐の夜に遭難してるみたいだと思ったんだ」
嵐山は掴んでいた手すりを離すと迅に擦り寄ってくる。
「じんとふたりっきりで遭難してるみたいだなって」
雷鳴をものともしない少年は迅の体に腕を回して『世界にふたりっきりみたいだ』と言う。
──ずぶ濡れになりながら世界の片隅でふたり、じっと寄り添っている。
そのイメージを共有した迅は黙ったままゆっくりと瞬いた。
おれの人生なんて、もうずっと遭難しているようなものなのに。
普通の、ありきたりの道からはとっくに外れて、明かりひとつない真っ暗闇をひとりで歩いてきた。
今更そのことになんの感傷も湧かないけれど。
停電で真っ暗闇で。集中豪雨でびしょ濡れで。ずいぶん酷い目にあっているのに、今、隣に自分以外のぬくもりがあるだけで、いくらかマシだと思ってしまうのは。
──本当になんでなんだろうな。
「……オオカミとヤギの話のが近いと思うけどね」
「そうか? じんはオオカミ似合うけど……なら、俺がヤギか? ヤギ?」
納得いかなそうな嵐山は迅にひっついたまま首をひねる。くっついた場所から温みを感じるのは濡れそぼって体が冷えているからだろう。
「なんでも楽しめてうらやましいね。もういい加減堪能しただろ。部屋戻るよ。風呂入らなきゃダメだろコレ」
「あ〜床がびちゃびちゃになっちゃうな……ごめんなさい、後で掃除します」
「もー明日でいいよ、何時だと思ってんだ」
迅がため息をついた時、人感センサーが復旧したらしくバルコニーをライトが照らし出した。
「あ、点いた!」
振り向けば眼下の街にも無数の白い光点が戻っていた。気がつけば豪雨も雷を連れて遠ざかっていく気配がした。
「やれやれ。非常事態も終わりだな」
「もう終わりか……」
本気で残念そうな嵐山に、迅はもう何度目かもわからない『変な子』と思う。
変な子。おかしな子ヤギ、おかしなスパイ。
迅とは種族も立場も違っているのに嵐の中でも一緒にいるという。
それならいっそ本当に遭難してしまえば。行方不明にでもなってしまえば。
どうせもう、ふたりとも各々のあるべき場所を踏み外しかけているのだ。
天災も暗闇も平気だという嵐山とならば、そうなってもなんの心配もいらないんじゃないか。
それもいいかもしれないな、と迅は思った。
『バニーの日』
「うぐ……っ」
毎度のことになりつつある起こされ方に迅はもはや無抵抗であった。抵抗したところでどうせ最後には負けるのだ、という諦めの境地。であるならば体力の無駄になることはしたくない。
「じん!大変なんだ、起きてくれ」
「……いやもう、なんでもいいけど腹の上で跳ねるなって……っ」
ぐえ、と呻きながら迅は下っ腹あたりに跨っている嵐山の腰を掴んで止めた。
体力の無駄は省きたいけれど、だからといってなにをされてもいいわけではない。
「またがるのはやめてって何度も言ってるだろーが!」
「ん? そうだったか? なんでだ?」
「この……っ、重いからだよ!」
きょとん、とした顔でやめろと言っているのに腹の上で体を揺する嵐山に、苦りきった迅は力づくでそこから退かした。細っこい子どもに乗っかられたくらいで鍛えている迅にはへでもないが、問題はそこではない。厄介な。これはもはや攻撃だろう。
結局、起き抜けから迎撃に疲れた迅はひっくり返って枕に顔をうずめた。この犬っころスパイはなぜ無抵抗でいさせてくれないのか。いやになる。
「そうだ、じん。ちょっと見てくれ」
「は……はあ?」
死んだテンションで『はあ?』と言ってやるつもりが本気の疑問符が出てしまった。
うつぶせの体勢から嵐山を見上げた後、半目になる。
「なにそれ?」
「今日はバニーの日なんだって」
嵐山の頭にはウサギの耳がついていた。淡い紫色でふわふわしたそれはつまりカチューシャだ。耳の根元にはブルーのお花がついていて大変メルヘンチックだ。女の子用じゃないのか。まあ、男の子でも似合っているならいいのかもしれないが。
「バニーの日?」
「8月2日」
「ああ……だから?」
語呂合わせなのはわかったけれど、だからなんだというのか。
「わからないのか?」
前髪をアップにしてうさ耳カチューシャを装着している嵐山は不満そうに頬を膨らませた。よく見える顔はかわいいが『せっかく再販売の時間に待機してゲットしたのに』と言ってることはまったくわけが分からない。
「えーと、かわいい?」
迅が唯一わかった事実を述べると嵐山はぱあっと笑顔になった。
「そうか、可愛いか!じゃあ連れて行ってくれ」
「は?」
「バニーに迫られたってちっとも嬉しくない。本当にかわいいバニーなんて本物のうさぎさんか夢の国にいるやつくらいだろうって迅が言ったんだぞ」
「なんのはなし……?」
迅はベッドに横たわっているのに目眩を感じつつ記憶を掘り起こす。
バニーの日?……いや、それはバニーガールの話じゃなかったか。ボディラインにコンシャスなプロのバニーのいる店に潜入しろとかなんとか……馬鹿なことを言うな、と太刀川を電話で一蹴したのが先週くらいの話だ。
『お前さてはあれか? ボインよりぺたんこの方が趣味か? ちっさいとかほっそいとか可哀想なのが可愛いって思うタイプか。歪んでんな』
あまりの言われように思い出して再びムカッ腹が立ってきた。思わず枕を殴りつける。マジで馬鹿か。バニーガールに囲まれたきゃ自分でやれ、という話だ。可哀想ってなんだ。そんな要素で好んでなんかない。
「じん? どうしたんだ? 夢の国のうさぎ、可愛いんだろ?」
思い出し怒りに震える迅をうさ耳カチューシャ姿の嵐山がのぞき込んでくる。見ろ、小さい細っこいは将来性の塊だろう。まったく可哀想なんかではない。
「かわいい。それでなんだっけ?」
地を這うような声を出した迅に、嵐山は不思議そうに首を傾げて言う。
「だから、夢の国に連れて行ってくれるって話だ」
「わかった。行こう。バニーガールより全然マシ……」
「本当か!やった、絶対だぞ!」
しまった口が滑った、と思ったところで後の祭りだ。
「一度行ってみたかったんだ。連れて行ってもらえるならこのカチューシャもむだにならないし。じん、夢の国デートしような!」
「ぐ……っ、」
言質を取ったと言わんばかりの嵐山に迅は布団に突っ伏した。くそぅ、罠に嵌められた気分。
「さあ、じゃあじんはもう起きてくれ。ごはんを食べよう」
「今日すぐには行かないよ!」
「もちろんだ。ちょっと……結構、先でもいいぞ」
てっきり本日、これから連れ出されるのかと思った迅はようようベッドの上で起き直る。
「意外だな」
いつもは約束を反故にされないようにこれでもかと追撃してくるのに珍しい、とつぶやくと、カチューシャを外した嵐山は髪をクシクシ直しながらドアの前で振り返った。にこっと笑う。
「だって前髪を切りすぎたんだ。でも可愛いと言ってもらえたし。嬉しい誤算だったな」
そう言い置いて足取り軽く寝室を出ていく。
「……やられた」
誰だ『バニーの日』なんてジョークにもならない語呂合わせを言い出したのは。
迅はひとりがっくり肩を落とした。
とりあえず夢の国デートとやらの費用は太刀川からもぎ取ってやる。バニーと遊べと言ったのはあっちなのだから。
それが嵐山にしてやられた結果なのはもちろん極秘事項だ。
──後日、夢の国で自分もうさ耳カチューシャでバニーにされてしまう事は、この時の迅には予測不可能なことであった。
おしまい🐰