手に入れたい、というようには思わなかったと思う。どちらかというと、手放すのが惜しい。という感覚だった。
鍾離はパソコンに表示されている企画書を眺めながら、思案する。
考えるのはタルタリヤのことだ。若く、才能に溢れ、挑戦的であることを好ましいと思っていた。ファトゥスから一時的に移籍させたのは、自分ならもっと彼を輝かせられると思ったからだ。その試みは今のところ順調と言える。
自分は人並みの感情を持っていると思っているが、タルタリヤに言わせると、セーブしすぎらしい。人は自分で感情を制御できないものだとタルタリヤは言った。だからこそ、自分たちのように心躍らせる存在が必要なのだと。意図したことはなかったが、タルタリヤのことを考えるときに、確かにセーブしている、と自覚することはある。
鍾離にとって、理性と物事の天秤は揺るがせられないものだ。自分を構成する柱と言っても過言ではない。
自分が自分であるために、感情を優先することは出来ない。
それに、モラクスはほぼワンマンで成り立っている。自分が崩れては、璃月の芸能界は混沌とするだろう。まだしばらくは手が離せない。
そこまで考えてから鍾離は企画を改めて確認する。企画とは、まだ発表はしていないが、モンドの最大手プロダクション、ゼピュロスと、モラクスが合同で行う、連続ドラマの撮影の企画だ。新進気鋭の若きライター、行秋が書いたミステリードラマになる。
モラクス側から出演させる俳優をこれから決めるのに、役者を選んでいるところだった。モラクスは探偵役をになっているが、その役にはタルタリヤを推すつもりでいる。モンド側からあらかじめ伝えられている役者はそうそうたる顔ぶれだが、タルタリヤの実力ならそん色ない結果を出せるだろうと鍾離は確信していた。
『贔屓目ではないことを私は知っているけれど、世間はそうは見ないわ。鍾離先生』
そう、凝光に指摘されたことを鍾離は懸念していた。この前襲撃があったばかりだ。とんとん拍子で駆け上がらせるか否かを鍾離は思案していた。本来ならもっと早くに決めるべきだったのだが、今日までずれ込んだのは、今日の打ち合わせで相手の希望を一度聞いてみることにしたからだった。そろそろ時間だと思ったタイミングでパソコンに通知があった。凝光からだ。
『到着されました』
説明のない端的な文面を見て、鍾離は立ち上がる。今回の来客は対等な立場だ。出迎えるのが筋だろう。
エントランスまで下りると、そこには数年前にレッドカーペットで初対面の挨拶を交わした俳優の男と再会した。男はエレベーターから降りてきた鍾離を見て、目を瞬く。そのしぐさがどうにもわざとらしいがそれが彼の持ち味だ。
「おっと、鍾離先生。まさかお出迎えいただくとは、光栄だぜ」
掴み切れない本心と、蠱惑的な微笑。右目の眼帯が目を引くが、それを美しさに変えるような魅力的な男だ。モンドのプロダクションゼピュロスに所属する実力派俳優。ガイア・アルベリヒ。向こうのプロデューサーの姿が見えないことに、さては面倒くさがったなと鍾離は推測する。
「モラクスへようこそ。会うのを楽しみにしていた」
「今回はお招きいただき光栄だ。この企画を聞いた時から、俺も楽しみにしてたぜ」
わざとリークした情報で、ネットも期待が高まっている。関係者も、モチベーションが高い。
「部屋を用意してある。まずはそこで、」
案内しようと口を開いた鍾離は、エントランスのドアが開いたのに何気なく目を止めて、少しだけ言葉の間が伸びた。目ざとく気づいたガイアが
ドアを振り返る。そこにはタルタリヤが立っていた。
追いついてきたタルタリヤにも、ガイアは視線を向ける。
「よお、公子殿。素晴らしい活躍だな。噂はモンドにも聞こえてるぜ」
タイミングが良いと鍾離は思った。もともと二人が顔見知りなのは知っている。音楽番組で一緒になったことがあったと聞いていた。
「そりゃどうも。ガイア、来るなら連絡してくれればいいのに」
「はは、どうせしばらくは璃月に滞在する。いつでも会える」
ひとしきり挨拶を交わしてから、鍾離はガイアを打ち合わせように用意した部屋へ案内する。
「公子殿。お前も来てくれ」
「え?いいけど、何の話?」
「お前が気に入りそうな企画の話だ」
「乗ったよ」
内容も聞かずに承諾したタルタリヤに、ガイアがおかしそうに笑う。エレベーターに乗ってから、ガイアは口を開く。
「なるほど。鍾離先生のお気に入りの投入、ってわけか」
「ガイア、お前の意見を聞きたい」
「良いと思うぜ?話題性がある。鍾離先生が選んだということは実力にも問題はないはずだ。あんたが気にしてる世間の印象については、俺が指名したってことで手を打てると思うぜ」
「話が早いな。そちらのプロデューサーは不在だがいいのか?」
「『ガイアなら失敗はしないと思うし、僕は忙しいから任せるよ。じいさんによろしく言っといて』だそうだ」
「あの呑兵衛詩人……」
唸った鍾離にガイアは笑って肩を竦めた。
「なんにしてもこの企画は成功するだろうな。鍾離先生と我らがウェンティのプロデュースだ」
エレベーターのドアが開いたのに、一同は口を閉じた。タルタリヤを振り向いて鍾離は小声で話しかける。
「唯嘉はどうした」
「途中で用があるって車にUターンしてたよ。っていうか、俺弁当持たされたままなんだけど」
「そのまま持っていてくれ。口に入れるものを手放す訳にはいかないからな」
「確かに」
視線を感じてガイアを振り向くと、口元に笑みを浮かべたガイアが鍾離たちを見ていた。首をかしげて何の話だ?と興味を持っているのを、何でもないと話を切り上げる。
「唯嘉、ね」
ガイアがそう小さくつぶやいた気がして振り向いたが、ガイアは機嫌よく鍾離についてきているだけで、空耳とは判別できなかった。
「知らなかったよ。先生が俺の演技も評価してくれてたなんて」
ウェンティが不在ということで、今回の打ち合わせは大まかなスケジュールや配役の相談に留まった。お互いの会社でまとめ直し、明後日また打ち合わせになる。
上機嫌のタルタリヤに声をかけられて鍾離はああ、と返事をした。
「いくつかのMVで演技は見ているからな。活躍の場を増やすなら絶好の機会だ」
「物にして見せるさ。念願の俳優としての仕事だ。興奮するね」
ガイアが立ち去った会議室で、先ほどの打ち合わせの内容についてタルタリヤは楽しそうに話す。
「昼飯の時間すぎてるけど、どこでお弁当食べようか?」
「唯嘉から連絡は?」
「外部の人間が入れる階まで移動するときは呼んでくれって一言だけ。一緒に食べてはくれなさそうだ。いったい何をしてるんだろうね」
タルタリヤの言葉を受けて、鍾離は少し考え込むようにする。
「弁当だが、社食でも構わないが、バーの席を借りよう。あそこならIDカードを持ってない人間は入れないからな」
佐神のことについて保留したらしい鍾離を少し奇妙に思いながら、タルタリヤはうなずいた。
「ああ。確かに同じ弁当を食べてるのは、ちょっと話題になっちゃうかもね」
くすりと笑ってタルタリヤは弁当箱の入った紙袋を持ち上げる。高級ブランドのこの紙袋は一体何を買った残りなのだろうかと、佐神に聞きそびれたが、大きさ的にシャツの類だろう。スーツならもっと大きいか、届けさせるはずだ。
バーのある階で鍾離より先にエレベーターから降りたタルタリヤは、バーラウンジを覗いてぴたりと足を止める。見覚えのある姿が二人、奥のテーブル席で向かい合っている。タルタリヤの隣に追いついてきた鍾離が、やはりか、とつぶやいたのが聞こえた。
楽し気に話しているのは、ガイアと佐神だ。ガイアの前には、佐神が食べるために盛ってきただろう弁当が広げられ、佐神の方はバーで頼んだらしいサンドイッチが置かれている。普段の佐神ならすぐに鍾離たちの気配に気づくだろうに、話に夢中になっているようで、佐神は振り向きもしなかった。ガイアの方からは鍾離たちが見えるはずだ。そう思った瞬間、ガイアの視線が上がる。鍾離とタルタリヤを見据えて、挑発的な微笑を浮かべたガイアに、理由も思いつかないままカッと煽られた自分を感じた。足を踏みいれようとしたタルタリヤは、肩を掴まれて鍾離を振り返る。
「邪魔をするな。様子を見たい」
「様子?」
いらだった表情で鍾離を見返したタルタリヤに、冷たさすら感じる瞳がタルタリヤをとらえる。
「ガイアが俺たちに声をかけないなら都合がいい。話が聞こえる席まで行こう」
「流石にそこまで近寄ったら気づかれるんじゃ……」
大胆に近寄る鍾離の後についたタルタリヤは、佐神が気配に気づいて振り返ろうとしたのに、やっぱりか、と思った瞬間、ガイアが何か言ったのか佐神はガイアに向き直る。まるで会話を聞かせたがっているようだとタルタリヤは余計に反感を抱いた。佐神のすぐ後ろのカウンター席に二人で座る。
「しかし、お前が璃月にいるとは思わなかったぜ。唯嘉、『どの』仕事で来てるんだ?」
「お前が予想してる方で合ってるよ」
声が聞こえてくる。佐神の声は親しい友人と話すように楽し気だ。
「お前がいると聞いてたら、今夜、あけていたんだが」
「構わない。お前のためなら俺の方がいつだって時間を作るさ。ガイア」
一体どういう関係だとタルタリヤはガイアと佐神の接点について想像してみるが、いまいち捕まえない。
「せっかくモラクスにいるのに俳優はやってないのか?お前が俳優をやらないのは世界の損失だぜ」
「おだてても駄目だ。俺はもう俳優をするつもりはない」
もう、という言い方に、鍾離が撮影した佐神の映画について反射的に思い浮かんだ。ちらりと隣の鍾離を見れば、鍾離は何やら考え込みながら話を聞いているようだ。
「それに、今は別の仕事をしているといっただろう。そんなことをする余裕はないな」
「そうか?鍾離先生にお願いすればどうとでもしてくれるだろ?」
溜息をつく音。
「鍾離には余計に言えないよ。察してくれ」
「俺の頼みでも?」
「ガイア」
止めるような響きをした声で名前を呼んで、佐神は続ける。
「お前が俺を買ってくれてるのは嬉しいが、お前との共演はあれで最後だ」
「一緒に世界を救った仲だろ?今度は俺たちの企画を救ってくれ」
妙な言い回しだったが、佐神は突っ込むことなく黙り込んだ。
「企画の話はお前のことなら知ってるだろ。モンド側で一つ配役が決まってない役がある」
なおも黙ったままの佐神は、反応を待つガイアの間をしばらく放置してからようやく言った。
「素人だ。そんな大きな企画に飛び込むほどの度胸はない」
「『佐神唯嘉』を演じ続けてる役者が、よく言うぜ」
どういう意味合いなのかタルタリヤには分からなかったが、それが佐神にとって深刻な台詞であることは沈黙から良く伝わってきた。向かいに回ってその表情を眺めたい衝動をなんとか殺そうとする。
「お前が今の仕事に捕らわれて出来ない、っていうんなら、契約の解除を働きかけることもできるんだぜ。唯嘉。あの子供のお守りは大変だろ?」
タルタリヤは立ち上がると、少し距離を取ってから声をかける。
「誰が子供だって?」
弾かれたように顔を上げた佐神の瞳が自分をとらえるのに、わずかにだけ留飲を下げながらタルタリヤは今来ました、という顔で近寄る。
「引き抜きならお断りだよ。唯嘉は俺のだから、余計なちょっかいはかけないでくれないかな」
ふと何かに気づいたように佐神が背後を振り返ったカウンターには誰もいない。鍾離はタルタリヤが立ち上がったとほぼ同時に立ち上がり、カウンターの奥のスタッフルームへと去っていた。
「独占欲は大人ならもうちょっと上手に隠すもんだ」
「だったらわっかりやすい挑発するあんたは大人だって?俺は、」
「タルタリヤ」
咎める声音がガイアではなくタルタリヤに向けられたのに、タルタリヤは一瞬、感情を抑えるように歯を噛むようにしてから笑みを浮かべる。
「へえ。唯嘉には俺の方が悪いんだね。まあいいよ。ガイアと唯嘉がどんな関係かなんて俺には関係ない」
身をひるがえしたタルタリヤに佐神が立ち上がる。
「タルタリヤ。どこへ行く」
「帰るんだよ」
佐神が自分についてこざるを得ないと分かっていてタルタリヤはラウンジを出る。すぐに追いついてきた佐神に、タルタリヤは本当に子どもみたいだと溜息をついた。
「タルタリヤ」
「なに?俺今、反省で忙しいんだけど……」
「昼食は?」
言われてタルタリヤははっとする。ラウンジにおいて……来てはいない。カウンターにはなかった。鍾離が回収してくれたのだろう。
「ごめん。鍾離先生の所に置いてきた……」
「食べてないのか?それなら社食で、」
タルタリヤは振り返ると佐神に飛びつくように抱きしめる。
「タルタリヤ?」
黙ったまま抱き着いたままでいると、佐神は優しい手つきで頭を撫でる。優しいのが最悪だとタルタリヤは思った。いっそ突き放してくれればいい。佐神は分かってないのだ。優しくされた方が堪ったもんじゃないことを。遊び人のくせに何人泣かせてきたんだかと心の中だけで佐神を責める。
「鍾離先生と一緒にいると安心するよ。あの人は俺のことを分かってくれる。俺のことを考えて、俺の未来も一緒に見てくれる。でもあんたは、」
黙って聞いている佐神にタルタリヤは息をつくと続けた。
「一緒にいると駄目になりそうだ」
「…………」
佐神の顔を見やり、タルタリヤはその瞳を覗き込む。
「ねえ、唯嘉。俺と鍾離先生のものになってよ。返事は今じゃなくていいから」
「タルタリヤ、何度聞かれても俺は……」
「まだだよ。勝負はまだついてないだろ?」
子供と言われたことに腹を立てているのに、今度はそれを利用しようとしている。やっぱり子供かもしれない。どっちでもいいけど。タルタリヤはそれから体を離す。
「先生のところに行ってお弁当食べるよ。唯嘉がせっかく作ってくれたんだし、あいつが食べているのに俺が食べ損ねるのは癪だから」
そのタルタリヤに佐神は困惑したような調子で言う。
「そんなにこだわるほど豪華じゃないことは、作っているところ見てたんだから知ってるだろ」
「関係ないよ。唯嘉が俺と鍾離先生のことを考えながら作ってくれたのが重要なんだ。あーあ、余計に癪だな。なんであげちゃったの?」
タルタリヤが意識して声音から真剣さを取り除くと、佐神はじっとタルタリヤを見返しながら話題の切り替えに乗ってきた。
「空腹だと思うからかわいそうだと思ったんだ」
「そうやってなんでも餌付けしないでくれる?俺を抱いた時もそんな感じだったんじゃない?」
「否定はしない」
「最悪。鍾離先生もなんで唯嘉のことなんか好きなんだろうね」
まあ俺も好きだけど。と先ほどの振る舞いが嫉妬から来ていることをしぶしぶ自覚したタルタリヤの台詞に、佐神がゆっくりとそうだな、と返事をする。
「俺も不思議だよ」
本当に不思議だと思っている声音だった。それは鍾離の感情をないがしろにするわけではなく、佐神自身にその価値がないと思っているような響きをしていた。
「ねえ唯嘉」
呼びかけたタルタリヤに、佐神はん?と返事をする。
「俺と先生なら、唯嘉を愛してあげられるよ」
目を見開いた佐神に、タルタリヤはそっと笑う。少しだけ見えた。佐神唯嘉という男の深淵。鍾離はもう覗いたのだろうか。
佐神が返事をする前にタルタリヤは踵を返す。エレベーターに駆け寄って、上階へのボタンを押した。
早く鍾離に会いたい。この乱れた感情を鍾離ならなだめてくれるだろう。それに誰も見てないところで佐神にもっと我儘を言いたい。今追い詰めたお詫びと言わんばかりにかわい子ぶるのだ。
追いついてきた佐神の気配を感じながら、タルタリヤは光るエレベーターのライトを見つめていた。