邂逅おおよそ正気じゃない。
風のない部屋で上に立ち上っていく煙草の煙に目を細めながら、カノはガラス窓の外を見やる。ロドス基地の一角。オペレーターたちの要望で中庭が作られて以降、その隣の部屋は喫煙室となっている。それは空調システムの問題でもあり、この部屋から中庭に出ることはできないのだが、カノがここにいるとき、オペレーターたちは気を使っているのかほとんど顔を出さないため、ゆっくり一人の時間が取れる。
目覚めてから多忙を極めている人生の切れ端、ほんのわずかな休息時間。
カノはここで、目覚めてからの記憶と脳に詰め込まれる情報の整理を行っている。
記憶を失っている人間に大勢の命の指揮をゆだねるなど、やはり正気じゃないとカノは紫煙を吐き出した。そしてそれを当然のようにこなしている自分もまた、正気ではない。
プレッシャーを感じるはずなのだ。おそらく、普通の人間なら。
適応するのに時間がかかるはずだ。おそらく、普通の人間なら。
民間の製薬会社が持つには大きすぎる力を持つ、ロドス・アイランドのスリートップの一人。記憶を失えばその立場も危うくなるはずなのに、相変わらず自分は自分のままでいるらしい。
だから、この状況はいっそ当たり前のことなのだろう。
オペレーターたちの信頼は厚く、だが、一部には含みのある人間たちもいる。このような人間なのだからそれも当然のことだ。そして自分はそれを厄介だとは思わない。
なにより、必要以上に踏み込んでくる人間がいない。それがカノにとって重要なことだった。
自分の心に何者も侵させない。それがカノにとっての核だ。だから安定している。情がないわけじゃない。一線を引いているというだけだ。
すべてのオペレーターに等しい優しさを。遺されていた情報から推測し、反応から適した対応を選び取る。それほど難しいことじゃない。
どのような人間だったのかは知らないが、ろくでもない人間だっただろうとは思う。じゃなければこんな風に対人行動をとることはできないはずだ。
そして、それを客観視できるのもまた、ろくでもない。
一本目の煙草が燃え尽きそうなのを携帯灰皿に押し付けて、カノは二本目を取り出した。煙草の吸い方は体になじんでいた。きっと昔も吸っていたのだろう。銘柄にこだわりはない。というよりはこだわれない。嗜好品だ。
ふいに、ドアがノックされる。手元にうつむくようにしながら、どうぞ、とカノは声を出した。
この部屋に来る人間なら、記憶を失ったカノとの関わりが多い人間だ。
「ドクター」
「クーリエか」
声を聴き分けながら、煙草をくわえて顔を上げる。その表情が冷静ながらも、少し困っている風であるのに首を傾げた。
「どうした?」
「煙草はやめたものだと思っていたが──」
入り込んだのは知らない声だ。ドアの方を振り返ってカノは目を細める。
銀色の髪。外見からしてフェリーン。資料で見た顔だ。名前と素性を思い返し、嗅覚の鋭い種族には煙草を嫌煙する者もいることも思い出す。カノはつけたばかりの煙草を灰皿に押し付けて消すと、ふたを閉じてコートのポケットに入れる。仕草は丁寧さを心掛けた。
「シルバーアッシュ。連絡を貰えれば相応の部屋で待っていたのに」
「私とてロドスのオペレーターだ。客人扱いしてもらわずとも構わない」
シルバーアッシュの視線を感じる。
雪国「イェラグ」の若き領主であり、カランド貿易の設立者。対応は気を付けるべきだとカノは資料からそう評価を下していた。
シルバーアッシュの視線は冷静であり、観察をされているのかさえつかめない。クーリエが案内したのならば、カノが記憶喪失であることは伝えられているはずだ。
「それでも、私にとっては初めて会う相手であり、あなたにとっても私は新しい評価が必要な人間なはずだ。だとするなら、もう少し、格好をつけた出会いが良かったと思っても仕方がないだろう?」
初対面だと口にする割に、カノのセリフは比較的距離が近い。
このイェラグの領主が利益を度外視し、ロドスに肩入れしているのならば、下手に距離がある会話をするよりもこちらの方が印象が良いだろう。おそらく過去のドクターとは信頼関係を築いていたはずだ。信頼できる相手じゃなければ、思い入れのない組織にわざわざ家族を預けない。
「お前の戦場での姿も、プライベートでの振る舞いもすでに知っている。心配せずとも私の評価は変わらない。盟友よ」
思いがけずに親しい間柄だったことを示唆されてカノは改めてシルバーアッシュを見返した。
この一瞬で評価をしなおしたとは思えないが、好感を持ってもらっているならそれに越したことはない。
シルバーアッシュとカノの会話が滑りだしたのを見てか、クーリエはそれぞれに頭を下げると、休憩室を出ていった。
煙草が吸いたい。とカノは頭の端で思う。
「それは光栄だ。あなたのような方にこれからも協力してもらえるのなら、心強いよ。聞いてはいるようだが、本調子ではないからな」
「たとえそうだとしても問題はない。お前の問題は私が解決してみせよう。お前に記憶がなくとも、また仲良くやればいいことだ」
カノは表情を変えないまま、内心で目を細めるような心地になる。それは友好的な意味ではない。
以前の自分と今の自分を比べられるのは状況的に仕方がないとして、それをプライベートに持ち込まれるのは厄介だ。
今の自分が昔の自分よりもぬるいことはケルシーの言葉の端々から感じていることであり、それを好んでいた相手ならば、信頼を失う羽目になる。
釘をさしておくか、と思ったカノに、そこで初めて男は唇に笑みを乗せた。
「お前はお前だ。盟友よ。記憶のあるなしに関わらず、お前の魂はそのままだ。私を甘く見てもらっては困る」
それからシルバーアッシュは身をひるがえすと、肩越しにカノを振り返る。太いしっぽが揺れたのが視界の端で見えた。
「しばらく滞在しよう。牽制が必要そうだからな」
いったい何に対する牽制か。
聞く気にならず、カノは去っていくシルバーアッシュを引き留めないままその背を見送ると、三本目の煙草を取り出す。
どうしてかざわめいて、いつものように紫煙に沈むこともできない。
「お前はいったいどういう関係だったんだ?ドクター」
返事をするための記憶は、失われている。