果てを覗く「気配を消して人の背後に立つのは不躾だと思わないか?」
ふいに振り向いたドクターの第一声にエンカクは見返すにしては少々強い視線でドクターを見据えた。
空調の聞いた車内から出て、折り畳み椅子に座ったドクターの背を見つけ、エンカクは近寄った。気配を消したのは遊び心にもならない興味だ。確認と言っても良い。
「お前が俺の不躾さを咎められる立場にあると?」
気配を消したエンカクに気づける者はロドスでもそう多くない。武力をもたないはずのこの男が気づくのは奇妙なことだった。
「君が期待するものを私は何も持っていないよ」
エンカクの声音に何を感じたのか、ドクターは早々に白旗を挙げるような調子で言った。
「だったら何故気づいた反応をする?」
「私が気づいたことに気づいた君を誤魔化すのは、それこそ不躾だろう?」
フェイスガードを開けて顔を見せたドクターの口元には笑みが浮かんでいる。エンカクの挑発的な態度も声も、まるで意に介した様子はなく、むしろ揶揄うようだ。それはエンカクがドクターが戦士ではないことを分かっていると知っているせいだ。今の彼はそれこそ非力であり、体調不良を抱えているらしい。まるで弱い。エンカクの興味の対象にはならない相手。彼が『ドクター』でなければ。
「オペレーターが強く緊張する作戦で君に出撃してもらうと、士気が上がりやすいね。君の武勇に当てられるオペレーターは多い」
「俺には関係のないことだ。お前が勝手に利用しているだけだろう」
「そう。でも感謝をしているよ。君がロドスに入ってくれたことにね。君の要望通り、これからもきちんと君には苛烈な戦場を提供するから、安心してくれ」
エンカクの否定的な反応を見越してか、先にそう続けたドクターは、それから手元のタブレットに視線を向けてしまう。エンカクがここに残ることで、会話を続けようとする親しさはそこにはない。エンカクがドクターに与えるだけのものを、ドクターもエンカクに返している。入れ込む人間が多いのは、ドクターの上手な距離の保ち方のせいもあるのだろう。一歩下がった獲物には足を踏み出したくなる。確実に自覚的な振舞いだ。記憶がないなんて、『残念』なことではあったが、今の男も十分エンカクの興味を引く。
こちらに注意が払われないのを良いことに、エンカクは不躾にドクターを観察した。動きに俊敏さはない。器用だが戦士ほど鍛えているわけじゃない。それよりも健康維持の方が大切なのだろう。他のオペレーターの中には、エンカクの『戦闘好き』に物申してくる者もいるが、エンカクに言わせれば理性回復剤を多用して指揮を取り続けるこの男の方が狂っている。
ドクターは手を止めてなにか考え込んでいるようだ。
「物資の輸送依頼をしてきた企業が不穏でね」
聞いてもいないのにドクターが話し出す。適当な情報整理の相手だと思っているのかもしれない。
「品物に問題がありそうなんだ。だが、ひとつひとつ改めている時間はないし、なにより断れない相手からの紹介だ。厄介だよ」
相槌を求めているわけじゃないのも分かっていた。
「どうするつもりなんだ?」
「運ぶよ。というか今私たちが運んでいるのがそれだ。納品するより先に到着しておきたかったんだが、手配が出来なくてね。こうしてメールで手回しをしている。ロドスは理念に悖る仕事はしない」
「でも引き受けたんだろう?」
嘲笑するように首を傾けるとドクターは肩をすくめる。
「ああ、だから理念通りになる」
つまりそう『する』ということだ。どういう手段を使うのかなんてエンカクにはどうでもいいことだが、ドクターのその返事に声を出さずに笑う。ロドスのスリートップは誰も一度そうすると決めたことを曲げることはない。スイッチが入ったドクターにとって、取り巻いていた不利な環境は目的にたどり着くための手段に成り下がる。
「というわけで、もうひと仕事あるよ。エンカク」
怖い男だとエンカクは面白く思う。たとえ、ここが駆け引きのためだけの戦場だと知ったとして、嫌がるオペレーターはいない。みなが、この男を信頼している。
理念。エンカクにとってそれは信念と名を変えるものだが、いつでも沈着さを保つこの男の情熱的な姿を見たことがない。
エンカクがロドスに所属している理由の一つは、記憶を失ったこの男がどう『変化』し、どう『変化』しなかったのかを確かめたいからだ。人の本性は変わらない。あの時まみえた『ドクター』へ抱いた興味が、今もこの男に注がれているのはそういうことだ。
不用意に踏み込むことはできる。それはエンカクをさらなる戦争へ導くこともある。
だが今ではない。
「俺の邪魔はするなよ」
返事をするとドクターはさらりと頷いてフェイスガードを閉じる。タブレットもいじらず何か考えている様子の彼を放置して、エンカクはその場を後にした。
ドクターには普段から様々な人間が秘書として側についている。武力を持たない、と自称しているドクターの護衛という意味が大きい。これまでエンカクが彼の側についたことはなかったが、請われれば従う程度にエンカクはロドスの構造と規則を守っている。傭兵として生きるのであれば、依頼の遂行と雇い主の指示は大事なものだ。自分の求める戦いを得るための下ごしらえを怠る理由こそない。
任務は無事に終了し、現在は輸送先の街で一泊のちロドスに帰還する予定となっている。功績の褒美か、豪華にもホテルの一室を与えられたエンカクは、一息つく前にドクターに呼び出された。
「外出したいんだ。良ければ護衛をしてもらえないか」
ドクターの判断をこちらに委ねる手法をエンカクはあまり好んではいない。この男の頼みを易々と断るオペレーターなどいないことを知っているからだ。ドクターはおそらく断られても、別のオペレーターに頼むことが出来る。そう考えた時に、ならば自分が、という思考から逃げられない。
「ありふれた街だ。見るところがあるのか?」
「少し息抜きをしようと思ってね」
ドクターはそんなことを言った。
「良さそうなバーを見つけたら一杯くらいは良いだろう」
「アルコールが取れる体調なのか」
エンカクの返事は問いかけだけではなく指摘も含んでいる。酒に煙草を嗜むこの男は、他のオペレーターが思っているよりも悪い体調を抱えて過ごしていることを知っていた。
「問題ない。というより少し飲みたい気分だ」
そう言うならば、断る理由はない。それにエンカクは現在、初めてのことだがドクターの秘書に任命されている。
ドクターは作戦ごとに秘書を数人に任命し、円滑な情報伝達と任務の遂行の補佐も担うのだが、今回の任務ではエンカクを中心とした作戦立案だったせいか、エンカク一人だけが任命されていた。それなのにエンカクに要求されたのはドクターの采配の通りに楽しんだだけであり、秘書らしい仕事はしていない。
飲みたいという気分が何からくるものか。エンカクには興味がないことだが、この任務の裏側で雇われた感染者たちが不当に扱われていた問題が浮上したらしい。珍しくもない話だ。ドクターも憂いてはいるようだが、いつも通りの様子ではあった。冷静と情熱を器用に併せ持つ男がどんな結末に落とし込んだかには興味があったが、期待するドクターの反応を引き出すためには今じゃない方が良さそうだった。
了承すればドクターは頷いて、気楽なホテルから足を踏み出した。
適度に発展した街の夕暮れは人通りもまだ多い。特に目的はなさそうなのに、街を眺める様子もなくふらふらと歩くドクターの側に着く。
この展開じゃ、どうせ碌なことを考えてない。
「ドクター」
エンカクはそのすぐそばによって、彼だけに聞こえる声で唇をそれほど動かさずに声をかけた。
「エンカク、手を出すな」
ドクターの返答があった直後。
ふいに人通りから飛び出してきた男が、ドクターに体当たりをする。手を出すなと言われた通りにエンカクは足を止めていたが、あの勢いでドクターがぶつかられ、怪我をしない確証はなかった。
「ぐっ!」
受け身は取ったようだが、苦痛の声を漏らしたドクターに、男はナイフを両手で振り上げた。
「お前さえ、いなければ……!!」
「エンカク、手を出さなくていい」
ひとつも動じた様子のないドクターが、男ではなく自分に声をかけたのに、エンカクは長刀に手を掛けたまま動きを止める。
そんな状況を理解していないのか、男の悲鳴のような叫びは止まらない。
「お前さえ!いなければ!!俺は破滅しなくてすんだ!家族だって、未来も安泰だったのに!何故俺の名も告発したんだ!!?!??!」
人々がなんの騒ぎだと足を止め出した。運が悪ければ通報されるだろう。
エンカクは今回の事件を手引きした数人の幹部がまだ捕まっていないことを思い返す。
輸送任務に紛れ込んでいたのは、この街で許可なく売買するのは違法の薬だ。感染者用の薬や、支給物質の類も一緒に積まれてあったと聞いた。
とある企業の、横流しをしている物流部門の仕業だったが、ドクターの調査結果に従って、この街の警察は動いたと聞いていた。そのうちの一人がまだ捕まらないと聞いていたので、この男がそうだろう。
彼らは、感染者から取り上げた薬や不当な労働で利益を得ていた人間たちだ。この街の独自の法は、薬の扱いに関して特に厳しい。懲役は数年になったとしても、顔と名前は公開され、この街どころか国での生活は難しくなる。
「俺は周りに流されただけだ!生きていくには嫌でも従わなければならないことがあるだろう!?自分から指示したことなんてない!それを……!!」
「あなたがそのナイフを振り下ろす覚悟が出来るなら」
興奮しきった男が言葉を止めるほど、ドクターの声は冷静でいて、当てられるような熱を孕んでいた。
「そもそも破滅する道に流されなかった」
「──ッ!」
ナイフを握る男の両手が震えた。
ぐ、と力が込められてより高く振り上げ、そして男は力なく腕を下ろすとナイフを地面に落とした。
「破滅するならいっそ、と思ったのに……」
声を震わせる男に、エンカクは近寄り、その首元を掴むとドクターの上から乱雑に引きずり下ろす。地面に転がってなお立ち上がることなく、嗚咽を漏らし始めた男に、ドクターはゆっくりと立ち上がった。
「あなたはこの街から逃げられない。出頭するのならば、見逃そう」
街の人間はちらちらとこちらを見ながらも、緊迫した状況じゃなくなったと判断したらしく、困惑の色を浮かべながら通り過ぎていく。
「行こうか、エンカク」
ドクターの声に、エンカクは肩をすくめてそのあとに続いた。
「茶番だったな」
その背に声をかけると、ドクターは振り向かないまま返事をした。
「隠し帳簿やメールを集めてもらった際に、彼の名前も出てきたんだが、彼の言った通りに流されるまま犯罪に加担していたのが読めた。この街の社会的制裁は大きい。出るのが難しいこの街で、彼が捕まらない理由は私だろう。あの企業と取引するのは初めてじゃない。一度会ったことがあった」
それから、あ、とドクターは足を止める。
そこには少し古びた様子の酒場があり、美味しそうな匂いが漂っていた。
「エンカク、お礼に奢るよ。君は酒が飲めたな」
「護衛に飲ませるな」
「聞きたいことがあるだろう?頼むのはアルコールじゃなくてもいいさ」
エンカクの内心を見透かしたようなドクターの台詞に、エンカクは先に踏み込んでドアを開ける。
古さにそぐわず軽やかなベルの音が鳴った。
「何故止めた」
店の隅のテーブル席を選んだドクターに、エンカクは最初の注文が運ばれてくるまで待つ程度の待てはしてやった。
バーで出すには鋭い声音は、きちんとドクターにだけ通じる声量だ。
「彼に自覚してほしかったからだ。彼の人生はこれからも続く。同じ意識のまま続けられては戦場が一つ無駄になる」
「振り下ろす覚悟が出来てたら?」
暗がりで死角であることをいいことに、ドクターはフェイスガードをあけるとその唇を笑ませる。
「君の方が速い」
実力への信頼は気持ちが良いものだが、ドクターに命を預けられることを心地いいとは思わない。
ドクターが勝手に選んだ上等なウイスキーに手を付けることもなく、エンカクはその普段は隠されている瞳を見据える。
「エンカクにとって死とはなんだ?」
「また唐突だな。答えをひねる必要もない。敗北だ。俺がここで求めるのは死合いだからな」
「君にとって死が敗北なら、私にとっての死とは、思考の停止だ。私はあなたのように何の武力も持たない。あなたが気まぐれに首に手をかけるだけで簡単に死ぬだろう。でもあなたは私のことを認め脅威とも見ている。そうだろう?」
「ああ、違いない」
エンカクの返事に微笑んだまま、ドクターはウイスキーグラスを持ち上げる。
「私の戦いと君の戦いは違うということだ。私がああして幕を引けるのも、君たちがいるおかげだよ」
「都合のいい信頼だ」
「そういわれてしまうと困るが、君にとってはそうかもしれないね」
今回エンカクが秘書に選ばれたのは、それが一番「都合が良い」からだと理解した。あそこでの制止を聞くオペレーターは限られるだろう。これで機嫌を損ねるほどガキではないが、実力よりも性質で選ばれたとなると印象は違う。
「君がそんなに機嫌を損ねるとは思わなかった。すまない」
そこでそう言ってくるのがこの男だ。
「先に帰っても構わない。エンカク」
「それでお前はどこの誰とも知れない人間と楽しむって?」
エンカクの言葉にドクターはエンカクを見返す。その表情が驚いたものではなく、意外そうなものだったのにエンカクは確信を強めた。
このバーに入る人間は酒のほかに出会うことも目的としているはずだ。街によってその手の店の外見や目印は違うから気づかなかったが、この店に入った瞬間の自分たちに向けられた視線で分かった。
「会話をね」
面白がるように返事をしたドクターは否定をしなかった。会話がどこまでを指すのかを掴ませない言い方だったが、否定しないということはそういうことだ。
「俺と一緒にホテルへ戻れ。それで首に手をかけずにおいてやる」
この男が他の誰かへその手の欲を見出すことがあると知った瞬間、血を沸かすような感覚があった。
残念そうに息をつくドクターに、エンカクは歯を見せるようにして笑う。
「お前の望む会話をしてやる」
目を見張るドクターの顔に、ようやく一矢報いた気分でエンカクはウイスキーを飲まないまま席を立ちあがる。ドクターがフェイスガードを閉じた音が聞こえた。