教令院の大賢者が失脚してから一週間程。
数日ぶりに自分の執務室に戻ってきたアルハイゼンは、ドアを開こうとして手を止めた。手を引いて視線を正面に戻したところで、ドアが開き、中から男が現れる。
「ああ、アルハイゼン書記官。戻られたんですね」
冷静な声音に疲れの色はない。アルハイゼンを見返した顔にも隈も見当たらなかった。その手には大量の書類が抱えられている。
アーカーシャ端末が使用できなくなり、影響として教令院は恐ろしいことにその潤沢だったはずの用紙の在庫の枯渇が見えてきた。その中で優先される文書が男の腕の中にある。
「君の都合が良ければ部屋に戻ってくれ。報告が聞きたい」
「承知しました」
すぐに部屋の中に戻った男の背を追いかけて、アルハイゼンは書類が積み上がっている机を見やった。書類はいくつかの山に分けられており、それが種類ごとに正確に分けられていることをアルハイゼンは知っている。優先順位の高いものほど上にあるが、この膨大に思える仕分けもこの男にかかればもののついでだ。アルハイゼンの代わりにこの席に座り、自分の権限の範囲内で的確な処理をした結果が、その腕の書類となる。
大賢者代理とは別に、書記官の仕事として、論文の確認作業が膨大に湧き上がっていた。それらはアーカーシャに記録され、原本は残っていない論文であり、数人にだけ使用を許されるデータベースからデータを紙に書き出しては確認する仕事だ。
データベースというシステム自体は、これからも使用される可能性があるが、今使われているものは、アーカーシャ端末を前提としたものであり、書き出しが終わり次第、廃棄される予定だった。
その作業を行える人間として、アルハイゼンが指名したのは、この男、レヴィ・エルネだった。
「処理済みの論文リストは引き出しに。また、中止されなかった論文発表や会議の議事録は左手最前の山にまとめてあります。それから他派閥からのラブレターがごっそり。開封して仕分けしていますが、あなたなら全部ごみ箱に捨てるかもしれませんね」
僅かな笑みと共に告げられた軽口は、付き合いの長さから来るものだ。
「ああ、おそらく君の想像は当たっている。疑問点はない。何かあれば連絡しよう」
いくつか進行を聞くべき問題があったはずだが、レヴィが口にしていないということは報告する必要がないということだ。
以前より共に仕事をする機会があったレヴィへ、アルハイゼンは適正の信頼をおいている。
「それなら良かった。定時に帰れますね。お疲れ様です。書記官」
定時まではあと15分ほどだ。アルハイゼンが必ず定時に帰ることを揶揄の色もなく、そんな風にいったレヴィは、では、と踵を返した。
「君は帰らないのか?」
声をかけると、レヴィは振り返る。
「お気になさらず。ああ、それとアルハイゼン書記官」
「ん?」
些細なことを伝える声音だったので、アルハイゼンはそれほどの注意を向けずに相槌を打つ。
「この代理の肩書きが外れたら、辞表を出す予定です。忙しい時に申し訳ありませんが、状況が落ち着いたら後任について話しましょう」
「……何?」
何を言われたか分かったが、その意図が把握しきれなかった。
アルハイゼンのらしくない一瞬の思考の隙を突くように、レヴィは部屋を出ていった。ぱたりとドアが閉まる。
それが彼の意思ならば引き止めるつもりはないが、才能を持ちながら教令院を離れる理由がアルハイゼンには思いつかない。少なくとも彼は研究に熱心であり、学者である自負の強い人間だったはずだ。
代理の肩書きが外れたら、ということは、書記官代理の仕事を苦痛に思っている可能性も低い。
「理解できないな」
呟いてアルハイゼンは、最優先の書類だけ目を通すと、教令院を後にして自宅へと帰宅した。
その晩、アルハイゼンは大人になってから初めて夢を見た。
夢の中でアルハイゼンとレヴィは友人以上の関係のようだった。夢の中のアルハイゼンは感情豊かな男で、アルハイゼンの言葉にレヴィはおかしそうに笑い、戯れるように冗談や揶揄いを口にした。
レヴィの親しげなその表情をアルハイゼンは今までに見たことがない。それなのに鮮やかにアルハイゼンの脳裏に焼け付く。
アルハイゼンといる間、表情は楽しげだったのに、不意にレヴィは別れの言葉を口にする。
「行かないでくれ」
自分の声が妙に頭に響く。
そのアルハイゼンにレヴィは手を伸ばし、頬を両手で包んで、そして──。
そこで、目が覚めた。
いつもならすぐにベッドから降り支度を始めるのだが、ベッドの上にいるままアルハイゼンは夢の内容をじっくりと思い返す。
やけに現実感のある夢だった。アルハイゼンの行動原理とレヴィの反応以外は、頬を触られた触感まで残っているようだ。
一通り自分と彼の言動を確認してから、アルハイゼンは起き出して身支度を始める。
今日もするべき仕事が山のようにある。個人的な思考に時間をとっている暇はない。
夢は深層心理の現れだともいうが、アルハイゼンには夢の中のように、彼に執着するような感情を持ってはいない。
そもそも、アルハイゼンにとって感情はコントロールするものだ。あのように感情的に腕を掴み、懇願するような真似はしない。
例え、彼を引き止めるとしても、彼の心情に悪い印象を与えず、その逃げ道を封じるのが自分のやり方だ。
だが、奇妙なものだ。とアルハイゼンは夢の中の自分を思い返す。
コントロールされない感情は、不都合をもたらす可能性があるというのに、夢の中の自分に憂いはなかった。
現実のアルハイゼンとは優先順位と論理が異なるのだろう。
おそらく今日は30分ほどまとまった休憩時間を取れるはずだ。夢に関する書物を探そうと結論を出す。ささやかな好奇心と、共に。