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    rani_noab

    @rani_noab
    夢と腐混ざってます

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    rani_noab

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    男主ゼン夢。キャラスト&ボイスからの解釈(ネタバレ)。その人が———ならば、その人生に自分が居なくても構わないゼンの話。25000字くらい。なんでも楽しめる人だけ。

    愛を識る人 教令院の廊下で見覚えのある万年筆を拾った。
     興が乗って装飾を掘り色を塗って、丁寧に磨き滑らないようにニスを塗ったものだ。重さと重心も考えている。プレゼントして喜ばれるので、学生時代に時折作っていたものだ。この模様は誰宛だっただろうか、と考えて、ここしばらく会ったことのない人間のことを思い出した。
     知論派のアルハイゼンだ。
     優秀な成績を残したのに、書記官という地味な職に着いたことは知っていた。すれ違ったことはあっても、お互いに声をかけたことはない。アルハイゼンが周囲との交流を拒絶していることは知っていたし、俺と仲が良いわけでもなかったので、迷惑だろうと思いこちらからは挨拶もしていない。
     あげたのは4年ほどまでだ。まだ持っていたのか、と不思議に思い、それからその万年筆のペン軸が曲がっていることに気づいた。今回落とした衝撃か、その他の理由かはわからない。試しに少し書いてみれば、インクは入っていなかったので、曲がったのは以前なのだろう。ペン先は使い込まれていて彼の力の癖がついているのがわかる。アルハイゼンがこの万年筆を愛用しているのだろうことが分かった。
     不思議な気分だった。
     思考をまとめる際に、工作をする癖があるのだが、いつの間にか凝ったものを作るようになっていた。確かに作った万年筆の評判は良い。学者を辞めたら店が開けると言われるほどだ。だが、覚えている限り、彼には知的財産からの収入があり、裕福な生活を送っているはずだ。スメールには筆記用具をステータスにする風潮もあり、プロに頼めばもっと良いものが作ってもらえる。それなのに、どうして俺が作ったものを持ち続けているのか分からない。
     ひとまず持ち帰った。それからいまだに趣味として作るので、道具を使ってペン軸を直し、それからペン先も変える。昔は学生で金がなかったか、今は金が入ったものをつけてやることが出来る。
     彼が常駐していないことは、他の人間の話から知っていた。せっかくなので、万年筆用の箱を厚紙で作る。素材が簡素なので、捨て難いと思われるのもいやだと思い、簡単な装飾だけ描いた。
     完成させて書記官の執務室へと向かった。
     入り口のレターケースに入れておけば気づくだろう。
     余計なおせっかいをしたとは思ったが、大事に使ってくれているのは嬉しかった。
     執務室に行くと、なんとなく予感した通り、不在の時間だった。レターケースにそっと入れた。
    「ルディ?」
     久しぶりに聞く声に振り返る。
    「アルハイゼン」
     目を見張って向き直る。
    「何の要件だ?」
     単刀直入に問いかけられて苦笑する。久しぶりの言葉も何もないところが彼らしい。
    「いや、ちょっと届け物をしに」
    「君の役職を考えると書記官に縁があるとは思えない。返答が必要なら今確認する」
    「ありがたいが、対応時間じゃないだろう?それに返答は必要ないんだ。もう入れてしまったし、都合がいい時に確認してくれ」
     アルハイゼンの問うような視線に俺は曖昧に笑った。
    「見ればわかるよ。要件はそれだけだ。じゃあ、また」
     彼が気を使うとは思えなかったが、勝手なおせっかいが気恥ずかしい気がする。
     背後でアルハイゼンがレターケースを開けた音が聞こえたが、俺は振り返らなかった。
     俺は教令院に所属している学者だが、提出されたデータの検証を仕事としている。専門は機関術だが、早さと正確性が賢者たちに気に入られて、あれこれと無茶な依頼を完了するうちに、いつの間にか何でも引き受けるようになってしまった。
     様々な分野の最先端の論文が読めるので、喜んでやっているが、毎日忙しい。いつの間にか学生まで雇うような立場になってしまった。といっても、正確さを重視する性格優秀な学生しか雇えないので、人手はいつも不足している。
     今日も今日とて一日スケジュールは埋まっている。
    「うーん……」
     そんな中、飛び込みの依頼に腕を組んで唸る俺に、学生は不安な面持ちで俺を見つめている。
    「再現性がないな。これじゃあ君の論文は成立しない」
    「そ、そんな……。でも確かに今までは動いてたんです!どうして動かなくなったのか分からなくて……、最後の希望として先生にお願いしたんです!発表は今日の夕方なんです!なんとか原因を見つけられないでしょうか……」
    「確かに、遺跡発掘においてこの小型自立装置はトラップを探知するのに有用だとは思うが……」
     作り直すには時間も予算もない。なんとか修理したい。じゃないと卒業出来ない。と訴える学生に少し考える。
    「持ち運びの際は分解していたのか?」
    「いえ、組み立て直すのに時間がかかるのでこのまま運びました」
    「外装を全部分解してもいいか?」
    「えっ……でも……」
     操作出来るようにエネルギーコア周辺は開けられるようにはなっているが、全て分解するとなると話は別だ。学生は時間を気にしているのは分かっていた。俺が黙って返事を待つと、やがて学生は頷いて頭を下げた。
    「どちらにせよ直らないと、意味ないですもんね……。お願いします」
     言われた瞬間、ネジを開け外装を剥がし、エネルギーコアではなく、機械を保護する部分をひとつずつ手に取り確認する。
    「曲がってるな」
    「えっ?!」
     小さな木材の部品を取り出し、俺はそれを手のひらに乗せて学生に見せた。
    「で、でもこれただの緩衝部分ですよ?」
    「組み立てた時の構造を思い浮かべろ。この部品が曲がっていることで軸になる金属部分が僅かに傾き、コアとの接続部分に圧がかかっているんだ」
     言いながら俺は学生が持ってきていた設計図を元に、木材をその通りに切ってやる。
    「実際に遺跡で実験したと言っていたな。木材は熱と乾燥で変形するのは分かっていたはずだ。予算が厳しいのは分かっているが、材質をもう少し考えるべきだ」
     言いながら組み立て直していく。
    「は、早すぎる……」
     学生の言葉を聞き流しながら、元通りに戻して俺はスイッチを入れる。
    「う、動いた……!」
     今までの沈黙が嘘のように稼働した装置に、ぱっと表情を明るくした学生に微笑んで俺は設計図を返した。
    「上手く行くといいな」
    「ありがとうございます!先生……!このご恩は忘れません!」
    「それは卒業出来てから言ってくれ」
     何度もお礼を言って実験室を出て行った学生に、さて、と俺は時間が押しはじめたこの後の作業に思考を切り替えた。
    「褒められた行為じゃないな」
     最近聞いた声に俺はドアを振り返る。
     そこには、アルハイゼンが腕を組んで立っていた。
    「見てたのか」
     手を止めずに俺は仕事を再開する。順調にいけば今日のノルマは達成できるだろう。
    「君が教えてしまっては意味がない」
     来るだろうと思っていた指摘に、変わらないな、と内心で苦笑を浮かべながら口を開いた。
    「彼は優秀な学生だ。俺の手伝いを良くしてくれていた。卒業を逃し、もう一年、学生として院に留まるには惜しい人材だ」
    「優秀な人間なら、発表の日にトラブルに慌てるようなことはない。発表予定のある実験は計画的に行われるべきであり、スケジュールが管理できないのは自己の能力不足による。見ていた限り、彼のトラブルは自分で気づけるような些細なものだった」
    「時間があれば気づけただろうな」
     言って俺はアルハイゼンをきちんと振り向いた。
    「何か用か?アルハイゼン書記官。まさか学生の指導方向で議論をしにきたわけじゃないだろう?」
    「君に礼を言おうと思って来た」
     近寄ってきたアルハイゼンに俺は思わず苦笑を表に出してしまった。
    「礼を言いにきた態度じゃないな」
    「あの学生を助力することで、君の仕事予定が大幅に遅れたことが想像出来る。君に依頼されるデータ検証は重要性の高いものが多い。いちいち私情を挟んで君の時間を消費するのは、君の仕事の質を落とすことになる」
    「ご心配どうも」
     嫌味な指摘に、俺は当たり障りのない返事をした。
     嫌われていないが、好かれてもいないんだろうな。と改めて感じて俺は視線をアルハイゼンから手元の資料に向ける。
    「これでも、納期を過ぎたことは一度もないんだ」
     俺はアルハイゼンが口を挟む前に言葉を続けた。
    「万年筆のお礼なら必要ない。たまたま拾っただけだ。壊れていることに気づいて、たまたま材料があった」
     話はそれだけか?と問いかけると、アルハイゼンはまっすぐに俺を見る。
    「ペン先の材質には金が使われている。それなりの金額がするはずだ。君からこれをもらう理由がない」
    「理由が必要なら……。そうだな。仕事の労いとでも思ってくれ」
    「ならば君の方が労いを受け取るべきだ。今のように学生を支援しては睡眠を削って間に合わせているだろう」
    「よく知ってるな」
     学者はワーカホリックになりがちだが、推論から指摘するにはいささかしっかりした声音だった。
     アルハイゼンがどうしてここに留まっているのか分からずに俺は嘆息を堪えて続ける。
    「迷惑だったなら謝るよ。君が気に入ってくれているんだと思ったから直したんだ。お礼は本当に必要ない。まだ使っていてくれてるんだと思って、嬉しかっただけだから。その様子を見ると必要なかったみたいだ。悪かったな」
     やっぱり余計なおせっかいだったようだ、と少し消沈する。
    「……まだ使っていることが分かって嬉しかった。それだけか?」
    「え?」
     アルハイゼンの意図が掴めずに俺は疑問の声をあげた。
     彼の言葉の先にある意図を読み取るのは難しいことが多い。だが、どうしてその発言を確かめられるか分からない。少し考えてから、俺は表情を歪める。
    「……まさか、俺が何か君に要求するために万年筆を直したとでも思ったのか?」
    「そういう意味じゃない。俺は、」
     聞きたくない。と俺は全部言わせる前に首を横に振る。
    「良いさ。何でも。もう帰ってくれアルハイゼン。君が指摘した通り仕事が押してるんだ。君と話している暇はない」
     思ったよりもショックを受けている自分を自覚して、俺はアルハイゼンに背を向けると、次の仕事の書類の確認を始める。
    「……君がくれたものだからだよ」
     不意に室内に静かな声が落とされた。
    「君が俺にくれた唯一のものだから、大切にしていた」
     息だけで笑う。
     今更なにを言ってるんだろう。
    「……君がそんなに俺を好きだとは知らなかったな」
     とてもそうは思えなかったので揶揄いめいた返事をしてしまった。振り向いたアルハイゼンの表情はいつも通りの冷静なものだったことに、自分だけがこんな激情を振り回されているようでたまらなくなる。
    「俺が君にどのような感情を抱いていたとしても、君には関係のないことだ。君が気づくように主張したことはない」
     肩られる内容と、淡々とした声音が俺の世界からすれば、全く合っていないように見える。
    「……どうして?」
     アルハイゼンの言葉の意味を理解しようと、慎重に問いかけた俺に、アルハイゼンは微笑んだ。
     ほんの微かなその微笑みは、これまでで初めて見る表情だった。穏やかな日差しの中で読んでいた物語が、温かな結末を迎えたかのような、そんな微笑みだった。
    「君が幸福であるならば、君の人生に俺が居る必要はない」
     声は事実を伝えるように、柔らかく平坦だ。
    「君は俺と親しいわけじゃない。君は人付き合いを好むが、俺は人付き合いに興味がない。学生時代に一時君と共に居た時期があっただろう。価値観の近いは明らかだった。君は他人を大切にする性格だ。君が俺の感情を知った時に、君が俺に合わせて振る舞い、ストレスを感じるのは俺の望むところではない」
    「……どうして今そんなことを?」
     ただの、仲良くなれなかった、同級生なのだと思っていた。
     俺の言葉は彼にとっては何の意味もなく、新たな知見の喜びや、様々な感情は共有出来ないものだと思っていた。
    「先ほどの言葉も、君を心配していた。なるべく婉曲な指摘にしたことで君に誤解をさせたが、君にそんな顔をさせるつもりじゃなかった。謝罪には、理由が必要だろう。君がいう通りだ。お礼をしにきた態度ではなかった」
     続けられるだろう謝罪の言葉を俺は手をあげて押し留める。
    「……君が俺のことを大切に思っていてくれたのが分かって嬉しいよ」
     嬉しい、の響きがひどく空虚だったのを自覚した。俺はアルハイゼンから視線を逸らす。
    「君は寂しくないのか?」
    「言ったとおりだ。俺の感情は君には関係のないことだ」
     相変わらず静かな返事だった。
    「そうか。……ならもう帰ってくれ、アルハイゼン。お礼は言葉だけで十分だ」
     立ち上がると、俺は手のひらでドアを指し示す。
    「4年前、その万年筆をあげたとき、口実は論文の手伝いのお礼だったけど」
     廊下に出たアルハイゼンを俺は見やる。
    「俺は君のことが好きだったよ」
     アルハイゼンの瞳が見開かれる。そんな表情初めてみるな、と思いながら俺は微笑んだ。
    「ルディ、君は……」
     先にドアまで歩いて行って、ドアノブを掴む。
    「確かに、君には迷惑だろうな。俺は好きな人と孤独を埋めたいから、君の生き方には添えないだろう」
     尊重。良い言葉だ。
     俺は別に、好きな相手がそうして欲しいなら、全部捨てられるのに。ああ、だから相容れないんだろう。
     俺だってアルハイゼンを指摘できるような人間じゃない。
    「さようなら。アルハイゼン。万年筆、大事にしてくれると嬉しいよ」
     アルハイゼンからの言葉の拒絶を、今日ばかりは彼は汲み取ってくれたようだった。
     ドアを閉める。音を立てて鍵をかけた。
     テーブルまで戻ってきて額を抑えるようにして、ずっと静かだった感情が胸の内で暴れのたうつのにじっと耐える。
     俺もまだ好きだったのか。
     忘れてたのに、と恨めしい脳裏の声と、ちょうどいい機会だったじゃないか、とメリットを考える声が会話している。
     ああ、そうだ。仕事。
     ぼんやりと時計を見上げて時間を確認する。今日は日付が変わらないと帰れないだろう。
     ちょうどいい。没頭するものがあれば、すぐに忘れることができる。できる、はずだから。


     廊下で閉められたドアを見つめ、アルハイゼンは考え込んでいた。
    『忘れられない人がいる。その人を想っていれば、それだけで幸福だ』
     4年前に確かに聞いたあの言葉。
     微笑んだ顔があまりに穏やかで、その日アルハイゼンは自分のスタンスを決めた。
     それから4年。彼に恋人がいたという事実は一度もない。彼はあの言葉のままに生きているのだろうと思っていた。
     思い違いだった?
     ドアを横目にアルハイゼンは歩き出す。
     前提が違うのなら、全てやり直す必要がある。
     自暴の癖がある彼が何かを決断してしまう前に、手を打たなければ。



     疲れているな、とは自覚しているが、仕事を中断することができない。
     家に帰れば一人でアルハイゼンの言葉を思い出し、自分でも笑えるくらい落ち込むことが分かっていた。
     逃避だという自覚はある。最低限の健康は維持出来る理性は残っているし、もうしばらくはこうしていてもいいだろう。家族がいるわけでも、恋人がいるわけでもないので体調を崩したとしても、誰にも迷惑をかけない。
     俺の様子がおかしいことに気づいてか、学生や友人の何人かが手伝おうと申し出てくるのに若干情けない気分にはなりつつも、誰かと作業の相談をするのは気が紛れるので、ありがたく手伝ってもらった。
    「先生いますー?」
     聞き覚えのある声に振り返れば、よく依頼しにくる学者が顔を覗かせていた。
    「って、寝てます?先生、ひどい顔色ですよ」
     そう呆れた顔で琳汐(リンシー)は近づいてくる。
     彼女は俺を最初に先生と呼んでくれた子で、璃月からの留学生だ。年の差は4年ほどしかないが、何でも仕事の早さに感動したとか適当な理由で先生と呼ばれるようになった。
    「ちょっと仕事が立て込んでいたんだ」
    「またまたあ。先生、ワーカホリックだけどスケジュール管理すごく上手じゃないですか。失恋でもしました?」
     思わず目を見開いてしまった俺に、彼女も驚いたように俺を見返す。
    「あ、その……ごめんなさい。無神経でした」
     慌てたような彼女に俺は首を横に振る。
    「ああ、いや。こちらこそ。気にしないでくれ。ちょっと驚いたんだ」
     特に隠すことでもないし、彼女なら俺の面白みのないプライベートも知っている。友人というよりは先輩と後輩の関係性に近いが、お互いの分野において、お互いの知識を信頼していた。
    「もうとっくに諦めたと思っていたんだが、そうじゃなかったみたいでな。でももう目が覚めた」
     端的な説明をすると、琳汐の方が悲しそうな顔をするのに余計に焦る。
    「なんだか……他人事みたいに言うんですね」
     どうにも気を使わせてしまっている。申し訳なく思いながら、声音を意識して和らげる。
    「どちらにしても、すぐに元通りだよ。どうせ結婚するつもりもないし、それどころか恋人を作る予定もないからな。……俺には向いてないんだ」
     強がるように言った言葉にも力がなかったが、真実でもあった。
    「向いてない……ですか……?」
     戸惑った彼女の表情に、俺は余計なことまで言ってしまったことに気づき、話題をそらそうと彼女に問いかける。
    「何か用があって来たんだろう?今日はどうしたんだ?」
     彼女は黙って何か思い悩むような表情をしている。
     心配させてしまったかと表情を伺う俺に、彼女はおずおずと口を開いた。
    「あの……先生。本当に無神経な提案なんですけど……」
    「ん?」
     慰めの言葉とかだろうか。言ってみてと首を傾げると、彼女は意を結したように口を開いた。
    「私と……結婚していただけませんか?」
     予想もしなかった言葉に疑問の声もあげられず、彼女の顔を見返すと、彼女は俯くようにして言う。
    「先生は……結婚をするつもりがないんですよね」
    「そうだな。そうすると決めている」
    「実は……」
     言い淀んでから彼女は顔をあげてはっきりと俺と目を合わせた。
    「私、教令院への滞在許可期間の延長が認められなかったんです。でも私は璃月に帰るよりも、教令院で研究を続けたくて」
     彼女の言葉に、すぐに俺は彼女が言いたいことを理解した。
    「スメール人と結婚すれば、永久に滞在出来る?」
    「……はい……」
     琳汐の性格はよく知っていた。留学しにくるほどの学術への情熱があり、外国人でありながら論文が認められるほど研究に熱心であり、真摯だ。
     付き合い自体は長い。彼女がこんな提案をするのだから、気を害すよりも、よほど切羽詰まっているのだと理解できた。
    「君は成果をあげていたように思うが、延長にはならなかったのか」
    「はい。評価はされたんですけど、他の留学生を迎え入れるのに枠を空けて欲しい、と言われてしまって」
    「なるほど……」
     教令院が外国人を迎え入れる数は決まっている。成果をあげても、新しい学生に席を開けさせられるのはよく聞く話だ。よほど天才でない限り、教令院は学者はとっかえが聞くと考えているような気すらする。
    「すみません。やっぱり無神経どころか、最低の提案でした。傷ついているところだったのに、すみません……」
     落ち込んだ声音でそう言った彼女を眺める。
    「いや……、別に条件次第では構わないよ」
    「え?」
     俺の返事に彼女は目を見開いて俺を見上げる。
    「君の提案はいわゆる契約結婚だろう?俺は君と結婚してもいい」
     腕を組んで彼女と向き直った俺に、彼女は目を瞬きながらもしっかりと答える。
    「条件、というと、私の実家からの資金援助の話になりますね。先生には今まで十分な依頼料をお支払いしておりますし、経済状況についてはある程度信頼してもらえていると思います。私の親は商人で、スメールとも貿易を行っています。二女なので自由にさせてもらっていますし、結婚しても家からの研究支援はしてもらえると思います。先生にはいつでも最新の機材を使っていただけると思います」
     ここで取り繕うのではなく、条件を提示してくる彼女の率直さが俺は好きだった。
     遠慮がちではあるものの、話が早い彼女に俺は小さく笑みを浮かべる。話していて楽な相手なのは確かだ。
    「分かった。良いよ」
    「……え?先生……自分が何を言ってるか分かってます?」
     あまりに俺があっさりと承諾したので、琳汐は唖然とした表情で俺を見返している。
    「嘘じゃない。とはいえ試用期間は必要だろう。教令院は罰則こそないが、契約結婚を認めていない。結婚するとなると同じ家に住み、周囲をカモフラージュする必要がある。君と生活が出来るかを確かめてから、実際に婚約して結婚の流れが望ましい。滞在期限はいつ切れる?」
    「半年後です」
     半年。その間に結婚を決める、か。
    「なら3ヶ月間だな」
     ぽつりと言った俺を琳汐はじっと見つめている。その顔が祈るようなものであるのに、俺は曖昧に微笑んだ。
     絶対に結婚してやれるとは言えないが、試してみてもいい。と思った。彼女がこのタイミングで契約結婚を持ち出すということは、お互いの打算を受け入れられるということでもある。
    「良いん……ですか?」
    「ああ。君の人となりは知っている。君が良ければだがな。俺は、その失恋を忘れるために君を利用しようとしているし、念のため言っておくが、恋愛感情が成立しないことを前提として契約を受けるつもりだ」
    「分かってます。先生は誰も特別にしたがらないですもんね」
    「そう見えるのか?……良く見てるな」
     指摘されたことがないのに鋭いと感心した彼女はふう、と気がぬけたのかため息をついた。
    「じゃあしばらくは契約恋人ですね。せっかくなので、出来るだけ先生を支えようと思います」
    「ルディ」
     俺が端的な指摘を入れると、彼女はすぐに気づいて少し照れたように笑った。
    「はい。ルディ。よろしくお願いします」
    「ああ、よろしく」
     10分もない会話の時間で、人生の選択をすることになるとは思ってもいなかった。
     頭がその決断は本当に冷静なものなのか?と俺に問いかけてくる。
     わからない。わからないが、俺がこれから先、価値観を変えるような運命的な出会いでもなければ、結婚しないだろう確信はあった。
    『あなたは絶対に恋をしちゃ駄目よ』
     久しぶりに脳裏を過った声に分かってるよ。と心の中で返事をする。
     琳汐。彼女のことは気に入っている。戸籍なんて欲しい人が有効に活用してくれるならそれもいい。
     何事もなかったように、仕事の話を始める彼女と言葉を交わしながら、恋人に贈るような指輪でも作ろうかな、と考えていた。



    「ねえねえ、聞いた?ルディのこと」
     曲がろうとした廊下の先でそんな声が聞こえたのに、アルハイゼンは一度足を止めた。
    「あの“鉄壁”を落としたのって、琳汐なんだって」
    「うっそ。琳汐って、よく彼のところに通ってたけど、そういうことだったの?」
    「らしいよ。ほら、ルディって初恋の人が死んじゃったかなんかでずっと独り身だったじゃん」
    「知ってる知ってる。死んだ恋人をずっと想ってるって。それで余計に人気あったよね」
    「最近は誰も告白しないし、密かに憧れるだけ、みたいな感じだったのに、まさかねえ」
    「やっぱり恋も一途が強いってことかな」
     足を踏み出した。角を曲がると、おしゃべりに興じていた学者の二人がはっとアルハイゼンを見る。
     一瞥もせずに通り過ぎるアルハイゼンに慌てたように壁際に移動して、二人は足早に廊下を去っていった。
     教令院でルディのことを知らない人間はいない。困った時はルディを頼れ、だとか、頼みの綱、だとか、そんな言われようをしているのをアルハイゼンはよく知っていた。
     ルディの対人に関する行動はアルハイゼンには理解し難いもので、形容するなら献身だ。
     何かの言いつけを守るかのように、ルディは自分を損なわない程度の自己犠牲を、呼吸か何かのように考えているのだ。
     本人には自覚があるはずだった。一度、ルディの態度を指摘したことがある。
     その時彼は言ったのだ。
    『アルハイゼン。俺がそうすることによって、君に迷惑がかかってるのか?』
     と。
     遠回しな拒絶であり、直すつもりがないという意思表示だった。
     アルハイゼンが彼に執着を感じるようになったのに、明確なきっかけは思い当たらない。彼の『理由』と『根拠』を観察しているうちに、いつの間にか目を離せなくなっていた。彼の生き方は修行か訓練のようだ。彼にとっての人生の喜びを、アルハイゼンは想像できたことがない。唯一聞き出せたのが、あの『忘れられない人がいる。その人を想っていれば、それだけで幸福だ』。の言葉だった。
     アルハイゼンにとって、過去は過去であり、昇華されるべきものだ。懐古し、大切に記憶することを否定するつもりはない。だが、過去は知識や経験を出力するためにあると考えている。自身は絶えず更新され続けており、新たな知見と発見に価値を見出している。そのアルハイゼンから見れば、過去のある一点のみを軸にしている彼の生き方は、ひどく消極的なものに思えた。
     才能がある。人望がある。だけど彼の望みに、一般的な幸福は存在していない。
     たくさんの人間に頼られる立派な人間になり、一人で生きていくこと。
     アルハイゼンが彼の望みを言語化すると、こういうフレーズになる。
     だが、それがいかにアルハイゼンの価値観とずれていても、アルハイゼンにはそれを否定するつもりはない。まったく同じ人間など存在していない。差違があるからこそ、人は発展することが出来るのだ。
     だからアルハイゼンは彼の幸福を尊重した。
     アルハイゼンにとって、幸福は平和と限りなく近しい意味合いを持つ。
     大切な人の安寧。平和な日々。それが守られるのであれば、アルハイゼンが日々、躊躇なく削ぎ落としている面倒な仕事が一時的に増えようと構わなかった。
     彼が幸せなら幸せ、などということをいうつもりはないが、自分が彼の平和を脅かすのであれば、彼の人生から自分を取り除くことは出来る。
     アルハイゼンにとって、人間関係は優先順位が低い事柄だからこそ可能な選択だ。たとえ人からおかしい、と言われようと、アルハイゼンにとって整然とした信条から導き出したこの答えを、実行するのに疑問はなかった。
     それがまさか、間違いだったとは思わなかった。
     どこで彼の言葉の解釈を間違えたのか。彼の言動の何を見誤ったのか。
     答えが分かっているのに、解法が見つからない。おそらく何かが足りないのだ。アルハイゼンが持たない情報が鍵となっている。
     それを得られなければ、彼と対話をすることは出来ない。対話をしたとして、彼を口説き落とす事はできないだろう。
     それほど時間はない。彼が自分の現在と未来に興味がないことはもう知っている。彼なら興味がないものなら、他人に分け与えてしまってもいいと思っているだろう。
     腰のバッグに手を置いて、中にあの万年筆がしまわれていることを思い返す。
     久々に滞在時間以外に執務室のドアを開けた。
     調べ物があった。ルディの過去を調べなければならない。



     琳汐と恋人関係を築くにあたって、ルディが意識したのは二人で定期的に出かけることだ。具体的に言えば人目につくように一緒に外食をする。
     金には困っていないし、今まで使わなかった分だけ貯金もあるので、贅沢することは問題なかった。
     ここらで教令院の人間がよく利用している店と言えば、ランバド酒場だ。都合を合わせて待ち合わせ、一緒に食事をした。
     琳汐はルディの恋人の態度を上手だとはにかむように笑った。作った指輪を渡してから、彼女は敬語を使わなくなった。徐々に距離が縮まっているのを感じている。
     まるで恋愛経験があるみたい、と探るような、不安がるような言葉に、出るのは苦笑だ。
    「人の経験をよく聞いていたからだ。実践してみると意外と難しい」
    「学者っぽい台詞」
     ふふ、と笑う彼女と酒場に入る。最近常連と化したルディたちに、店員は愛想良く席へと案内した。
    「実践できるほど、他の人の恋愛相談に乗ってたの?」
    「みんな俺の実験室に来ては余計なおしゃべりをしていくからな。教令院の噂なら大体聞いたことある」
    「有名人だもんね。みんなルディのことが好きだし」
    「どうだろうな。みんな真摯に手伝ってくれる人のことは好きだと思うよ」
    「でも何度もお願いされるのって、ルディの人となりを信頼してるってことでしょ?わざわざルディを指名するのは、ルディが魅力的だからだと思うよ」
     思いがけない褒め言葉に、ルディは目を見張ってから、微笑んだ。
    「俺のエスコートが上手いというが、君は口説くのが上手いな」
    「え?あ……そんなつもりはなかったけど……」
     慌てたような様子にくすくすと笑って、ルディは手元のグラスを持ち上げる。
    「ありがとう。俺には勿体無い人だよ。君は」
    「そんな……」
     言葉を途切れさせた琳汐を見やれば、ルディの背後に視線を向けて驚いた顔をしている。振り返れば、びくりと肩を跳ねさせたのはカーヴェと、もう一人──。
     アルハイゼン。内心で名前を呼んで、ルディは自分の表情が、必要以上の驚きを出さなかっただろうことを祈った。
     バツの悪い顔で席から立ち上がって、それでも真摯にこちらに来たカーヴェに、ルディは隣に座るようにいう。
    「覗き見するつもりはなかったんだ。悪かった、ルディ」
     謝りながらルディの隣に座るカーヴェは、それでも琳汐とルディに興味があります。という素直な表情をしていた。
    「良いよ。それにしても久しぶりだな。カーヴェ。元気そうで何よりだ」
    「会うのは久しぶりだからな。でも驚いたぞ、"鉄壁"の君に恋人が出来るなんて。僕に紹介してくれないのか?」
    「その呼び方はやめてくれ。全く、誰が言い出したんだか……」
     ため息をついてからルディは琳汐に顔を向ける。
    「彼女は琳汐。君と同じ妙論派の学者だ。琳汐。彼はカーヴェ。俺の先輩。昔お世話になったんだ」
    「は、初めまして……」
     緊張した面持ちの琳汐に事情を知るルディは思わず笑う。そのルディと琳汐を交互に見てカーヴェは困ったように言った。
    「何でそんなに硬くなるんだ?」
    「彼女は妙論派の星に憧れがあるんだよ。琳汐は建築資材の研究をしているからな。期待の学者だよ」
    「本当か?それは嬉しいな。よろしく、琳汐」
     にこりと笑ったカーヴェは素直に嬉しそうだ。よろしくお願いします。と言った琳汐に、うんうんと頷いてからカーヴェは元いた席を振り向いた。
    「アルハイゼン!ノリが悪いぞ。こっちに来たらどうだ?」
    「あ、じゃあ、ルディ、隣に来て」
     ルディg反応する前にそう言った琳汐に、特に抵抗もせずルディは琳汐の隣に座る。
     アルハイゼンがこの酒場にたまに来ていることは知っていた。そうじゃなくても、彼女と二人でいる時に出くわすことがあるだろうと、ずっと心構えをしてきた。逃げるわけにもいかない。
     アルハイゼンはルディが席を移動したのを見て、特に表情を変えずに、持っていた酒のグラスを手にカーヴェの隣へと座る。
    「彼はアルハイゼン。俺の同級生だ」
     手のひらで指し示すと、琳汐は相変わらず緊張した面持ちだ。
    「書記官……の方ですよね」
     そう答えた琳汐の声音が、カーヴェに対するものとは別に僅かに硬質なものであったのを奇妙に思う。
    「琳汐です。妙論派に所属しています。よろしくお願いします」
     丁寧な挨拶にアルハイゼンは頷いた。
    「ああ。よろしく」
     意外と友好的な反応を意外に思いながらも、必要のない不和を抱かせる必要もないだろうとルディは納得する。
    「二人は元々知り合いだったのか?」
     カーヴェの問いかけに好奇心が含まれているのを感じて、ルディは苦笑した。
    「ああ。彼女の実験に協力したことがある。それ以来、何かと会う機会があったんだ」
    「私がダメ元で告白したんです。誰にも……奪われたくなくて」
     演技にしては思い入れのある言い方に、ルディは琳汐をみた。琳汐は照れたように視線をテーブルに向けている。
    「そうしたら良いよって言ってくれて。……今までよりずっと仲良くなりました。思い切ってみるものですね」
     顔を上げた琳汐は、特に気になるような表情をしているわけではなかった。
    「ルディも一途さには勝てなかったんだな。ちらっと見てたが、仲良さそうで何よりだ」
    「……カーヴェさんは、ルディと何で知り合ったんですか?」
    「僕は……昔の研究課題の時に手伝ってもらったんだ。それに、教令院でルディを知らない人間は居ないだろ?」
     そんな風にいうカーヴェに俺は茶化すように言う。
    「悪名じゃないと良いけど」
    「そんな訳ないだろ。琳汐、ルディと喧嘩したら、いつでも相談に乗るからな」
    「ありがとうございます」
     嬉しそうに笑った表情を眺めながら、グラスを口に運んだルディは、どきりと一瞬手を止めた。アルハイゼンがルディを見つめている。ルディは酒を一口飲んでアルハイゼンを見返す。
    「どうしたんだ?」
     余裕を見せようと気を張る自分がまだ意識をしているのがどうしようもない。
    「顔色が良くない。心当たりがあるなら早急に対処をするべきだ」
     目を見張ってルディは何か返事をしようと口を開け、それから閉じる。
     睡眠時間がわずかに足りない日々が少しずつ積もっていたが、誰にも気づかれたことはなかった。
    「……ああ。ありがとう。でも体調が悪い訳じゃないよ。今日はずっと低温の環境を設定してたからだろう」
     その実験をしたのは昨日だが、嘘はついていない。
     ルディは琳汐が食べ終わっているのを確認する。
    「今日は俺の恋人を紹介した記念に俺が奢るよ。カーヴェももう一杯頼むといい」
    「本当か!?じゃあ……」
     すぐに手を上げて店員を呼んだカーヴェに苦笑しながら、代金を支払って酒場を出る。
     と、ついてきていると思った琳汐が、まだカーヴェたちと何かを話しているのに気づいてルディは足を止めた。
    「琳汐?」
    「あ、ごめんなさい!今行く!」
     すぐに駆け寄ってきた琳汐に、転ぶぞ、と笑ってルディは酒場を出る。
     そつなく終わったはずだ。彼女がいる前でため息をつくわけには行かないが、いつも通りに振る舞えた。
     忘れていける。きっと。
     そう言い聞かせてルディは彼女を家に送り届けると、帰路へつく。
     誰も待っていない家に帰ることに慣れて何年が経っただろう。今日はゆっくり寝られるといいが、とルディはアルハイゼンの思いがけなかった指摘が妙に胸に残るのを振り払い、帰宅した。
     その夜、夢を見た。
     今はもう会えない両親と過ごす家の中で、相変わらずルディは孤独だった。
    『あなたは絶対に恋をしちゃ駄目よ』
     泣きながら何度も言い聞かせる母親を見上げて、幼いルディは黙って頷いていた。
     目を覚ますと夜中だった。またか、と諦めの感情で身を起こし、ぼんやりと暗さでかろうじて物の形が判別できる室内を眺める。
     誰かと自分が、カモフラージュとはいえ一緒に暮らせるのだろうか。
     違う人間が同じ家で暮らし、生活を合わせることの難しさをルディはよく知っていた。それはたいてい、お互いの恋情が邪魔をするのだと知っていた。
     琳汐が自分を愛していないことが幸いだった。じゃなければこの提案を受けなかっただろう。
     ルディは人に優しくすることに慣れているが、誰かを愛した経験がない。だが、多くの人間が満たされるものだと思っている愛は、ルディにとっては棘のようなものだ。
     睡眠を促すお茶を淹れる。体を温め、ゆっくりと元の体温に戻すことで寝つきを良くする。
     新たに加わったルーチンにはもう慣れてしまった。そのうち必要なくなるだろう。自分が繊細な人間だとは思っていなかったが、幼い頃からの恋だと思えば、それくらいの影響は出るだろうな、と頭の片隅で冷静な自分が宥めてくる。
     恋、なのだろうか。
     ただの憧れだったのかも知れない。もしくはないものねだりだ。
     思考を放棄してベッドにまた横になる。朝が近い。

    「良く見ると顔色、本当に悪いね。大丈夫?」
     実験室に入ると、すでに琳汐がいた。彼女がくる予定はなかったので、珍しく思う。教令院の外では仲が良い風を装っているが、教令院内では必要以上に会わないことにしていた。
    「心配して来てくれたのか?ありがとう」
    「ううん。あれから、顔色が元に戻ったと思ってたんだけど、まだ本調子じゃないって気付かなくてごめんなさい」
     何だか落ち込んでいる様子の琳汐に、生真面目だと苦笑する。
     確かに恋人のふりをしているが、お互いに注意深くなる必要はない。
    「謝る必要は無いよ。俺の体調管理を気にする必要はないからな」
     なるべく優しい声音で伝えると琳汐は浮かない表情だ。
    「どうして……アルハイゼンさんはルディの顔色に気づいたのかな」
     ぽつりと言われた言葉に目を瞬いた。
     それくらいのことで、偽装がバレるとは思わないが、彼女には不安なことだったらしい。
    「昨夜言ったが、彼とは同級なんだ。良く同じ講義を受けていた。彼は観察眼に優れているからな。それくらいのことは気づくと思うよ」
    「そう……なのかな」
     歯切れの悪い琳汐にわずかに首を傾ける。
    「もしかして、昨日の酒場で何か言われたのか?」
    「あ、ううん。カーヴェさんがお幸せにって」
    「相変わらず酒が入るとご機嫌だなあの人は……」
     呆れてため息をつけば、琳汐はふふ、と笑う。
    「噂に聞いてたより良い人だった。なんか……破天荒な人なのかな、って思ってたけど」
    「まあ、あんまり間違ってはないな」
    「アルハイゼンさんも。……きっと噂より優しい人かも知れないね。ルディの周りにはすごい人が多いな」
    「単に顔が広いだけだ。……落ち込んでるのか?」
     二人がどんな噂をされているのかは、大体俺の耳に入っているので、想像がつく。
     それよりも、何だか元気のない様子が気になり、余計な気遣いかとは思いながらも問いかけてみる。やはり彼らに何か言われたのだろうか。
    「違うよ。ちょっと……研究で悩んでることがあって。昨日あの後夜更かししちゃったから」
    「君も人のことを言えないな。俺のことは大丈夫だよ。君が言ってた通り、ずっと顔色は良くなってるだろ?もうすぐいつも通りになる」
    「うん。無理はしないで。ルディ」
     妙にはっきりした声音で言われて、俺は琳汐を見返した。
     その言葉にもっと深い意味があるのか掴みきれずに、顔を見返せば彼女は視線を合わせずに僅かに俯いている。
     元気がないのは心配だったが、原因が研究のこととなると俺には口出しができないことだ。助言を求めていない学者に余計なことは言うべきじゃない。
     じゃあ、また。と手を振って去っていった彼女がドアを閉めるのを見やり、俺は仕事に取り掛かった。



    「あれは絶対恋仲じゃない」
     家に帰るなりそう口を開いたカーヴェは、酒を飲んだわりにしっかりとした声音だった。
    「口説き落としたなら、君にあんな牽制をするか?」
     その言い方はどうにも怒っているようで、アルハイゼンは視線をカーヴェに向けた。
     どさりとソファに座ったカーヴェは予想した通り怒った表情をしている。カーヴェの言葉に返事をしないアルハイゼンに、カーヴェは憤慨したように視線を向けた。
    「君はなんとも思わないのか?アルハイゼン」
    「それよりも君がどうして怒っているのか疑問だ」
    「はあ?君は彼女の発言を聞いてなんとも思わなかったのか?」
     アルハイゼンは先ほどの琳汐の言葉を声音と共に正確に思い出す。
    『あなたには絶対に返しません。もうあの人と関わらないでください』
     思い詰めた表情と気の強さを伺わせる口調。
     アルハイゼンをはっきりと見て言った琳汐は、返事も聞かずにルディを追いかけて去っていってしまった。
    「返しません。って言ってたけど、まさか君、ルディを振ったのか?だとしたら君が彼女の台詞に怒らないのは不思議な訳じゃないのか。彼女の一方的な挑発になるからな。でも僕は彼女の言い方は認めたくないね。愛した相手を物のように表現する人間が僕は嫌いだ」
     ふん、と腕を組んだカーヴェを見ながら、アルハイゼンは立ったまま思案した。
    「君は俺がルディに振られた、のではなく、俺が彼を振ったと考えるのか」
    「そりゃあそうだろう。ルディはずっと君が好きだった。君も分かってたんじゃないのか?」
     アルハイゼンは即答を避けて腕を組んだ。
     自分の認識と違うことをカーヴェが話している。
    「……ルディの気持ちに気付いてなかったとかいうのはやめてくれよ。この状況で全く面白くないからな」
     アルハイゼンの反応を奇妙に思ったのか、そう慎重な口ぶりで言ったカーヴェにアルハイゼンは首肯する。
    「いや。君の認識の理由を知りたい。何故君は彼が俺を好きだと思った?」
    「うそだろ……。アルハイゼン、君ってやつは…………」
     言葉を失った様子のカーヴェはそれから深々とため息をついた。この先輩を強調する人間として何も尊敬するべきところのない男にこのような態度を取られることは、不本意ではあったが、カーヴェが自分と違う視点を持っていることは確かだ。
    「ああ、うん。まあ……そうか。確かに君だからこそ気づかないかもな」
     アルハイゼンに伝える気のない一人で納得した台詞に、アルハイゼンは口を開く。
    「説明出来ないほど酔っているのならおすすめの酔い覚ましがある」
    「ああもう!どうせ碌でもない方法なんだろ!別に酔ってないから大人しく聞け!あと立って腕組みをして聞くな!君、今自分がどんな顔をしているのか分かってるのか?」
    「君のように人にあからさまに感情を主張するような表情は浮かべていない」
    「それは……そうなんだが、ちょっと、いやだいぶ怖い」
     真面目な顔でカーヴェにそう言われてアルハイゼンは嘆息すると、ソファに座って足を組む。
     真剣に思案していることは確かだが、そこまで鬼気迫る態度をとった自覚はなかった。
    「ルディは他人に優しい人間だ。ここは君も同意できる内容のはずだ。でも、その優しさが誰にでも向けられるわけじゃない。優しくしても問題ない相手に優しくしてる、と僕は感じている。アルハイゼン、君の認識は?」
    「確かに差異がある。彼の奉仕精神が相手を選んでいるという印象はない」
    「そうだろうな。ルディは、これは僕の個人的な印象からの表現だが、君がそばにいれば、他人からの理不尽に耐えられると思っているんだと思う。確かに君の前では分け隔てのない人だ。無償の奉仕に返ってくるのは必ずしも好意だけじゃない。彼はそれを分かってるから、相手を選んでいるんだろうと思っていた。でも……、君の存在を感じている時は、そんな恐れを感じないんだろうという印象だった」
    「無償の奉仕か。君が言うと実に説得力がある」
    「うるさいな!僕だって分かってはいるんだ!まあこの話はいい。……ともかく、君は学生時代から周囲に人を寄せ付けなかったから、君がいる時のルディの態度の違いを知ってる人間なんて、あの頃君と研究で関わってたごく少人数だ。僕から見て、君といる時のルディはとても安定していて楽しそうだった」
     カーヴェの視線がアルハイゼンの内心を推し量るように向けられる。
    「一般的に、人は恋愛感情を抱いて以降、その相手に対し少なからず態度が変わるものだが、彼は俺と初めて会った時から態度が変わった様子はなかった」
    「もっと前から君が好きだったんだろ。どこかで会ったことないのか?」
     その可能性は、アルハイゼンも考えた。だがいくら思い返してもアルハイゼンには彼と出会った記憶はない。
     そもそも、幼少時のアルハイゼンは碌に家から出ない子供だったのだ。それゆえ、数回会っただけの人間も思い出せる。
     過去に一度教令院に入学した時に縁があったのかと思ったが、ルディがアルハイゼンと同時期に早期入学した記録はなかった。
    「俺の記憶に彼は居ない。どこでルディが俺と出会ったのかをずっと調査しているが、手がかりがない」
    「君でもお手上げなら難しいだろうな。ルディを振ったのなら……」
     言いかけてカーヴェははっとした表情になる。
    「というか君、本当にルディを振ったんだな?」
     信じられない、という眼差しのカーヴェに、アルハイゼンは本のわずかにだけ眉を顰め、詳細は省くことにした。
    「結果的にそうなった。可能なら誤解を解きたいが、そのためには彼を説得する『理解』と『物語』が必要だ」
    「君がそこまで労力を支払う相手がいるなんてな」
     カーヴェがアルハイゼンに対してどのような印象を持っているのか、問い詰めるきっかけに足る発言だったが、アルハイゼンは拾わなかった。カーヴェが真剣な表情で考え込んでいたからだ。彼が自分とルディに対して何かできないか、と心を砕こうとしているのが伝わってくる。
    「僕が知っていて、君が知らないような情報に心当たりがない……」
     心底申し訳なく思っているような声音で言ったカーヴェに、アルハイゼンは嘆息した。
    「元より君に情報提供を期待していない」
    「君なあ、もう少し言い方を考えた方がいい。全く、……あ」
     ふと何かを思い出したような顔をして、カーヴェはばたばたと自室に戻る。何かをひっくり返すような音がした後、しばらくしてカーヴェはリビングへと戻ってきた。
    「アルハイゼン、君もこの万年筆貰ったか?」
     カーヴェが出してきたのは、ルディが親しい人間に贈る万年筆だった。
     アルハイゼンのものと違い、カーヴェの万年筆は華やかな色合いで装飾されている。アルハイゼンのものと違って使った形跡があまりなく、アルハイゼンとは違う価値観で大切にされていることが伺えた。
    「ほら、万年筆を作るのは専門技術がいるだろう?もちろんルディくらい器用な人間なら、独学で作ってしまうかもしれないが、手がかりにならないか?」
     確かに、ルディがなんでも自作してしまうので万年筆もそうだろうと考えていた。学者にこそ価値を見出される万年筆の製作を得意とする理由は調べてみる価値がある。
    「なるほど。……調べてみよう」
     アルハイゼンの返事に、カーヴェは笑みを浮かべる。
    「人生の先輩でもある僕のアドバイスは役に立つだろう?君は感謝をするべきだな」
    「感謝をされたいなら日頃から先輩らしい振る舞いを心がけるべきだ」
    「なんだと!僕のどこが先輩らしくないって言うんだ!」
     起こり始めたカーヴェの声を聞き流しながら、アルハイゼンは思考する。
     どちらにせよ、調査を再開するのは明日になる。
     猶予というよりも、彼がまたあんな顔をしないかが気がかりだった。


     ルディは早足で自分の実験室へと向かっていた。
     妙論派の学者にサンプルの確認をしに行っていたが、この検証が終わればここ数日の忙しさも終わるだろう。というのも、今夜は琳汐との食事の約束があり、その時間までに区切りをつけたくてスケジュールの調整を行なっていたのだ。
     お互い学者であるならば、不測の事態で実験時間の変更の方が優先されるのだが、ルディは出来るだけ彼女との約束は守るように努力していた。
     相手に合わせる努力は彼女との契約に入っていないが、ある意味で人生を共にする相手だ。誠意を持つべきだとルディは考えていた。
     ルディの実験室にはルディの意見を聞きにきた学生も待っていたはずだ。こちらはおそらく少しのヒントで済むだろう。
     実験室の扉を開けて、ルディは二人の学生が実験台の上で何かの調合をしているのを見つける。
    「上手くいきそうか?」
    「あ、ルディ先生。戻られたんですね。今、代替品で緋櫻毬を使ってみているところです」
     確かに、昨日ルディの実験室には素材として、緋櫻毬が手に入ったばかりだ。金銭を支払えば自由に使える棚に置いてあるため、利用したのだろう。
    「緋櫻毬?確かに含まれている成分は類似しているが、雷元素を帯びているだろ?影響があるんじゃないのか?」
    「はい、だから拡散剤を用いて……」
    「何?」
     言いながら、試薬を垂らす学生にルディは血の気が引く。
     緋櫻毬に拡散剤は禁止行為だ。だが、ここしばらく稲妻からの輸入が途絶えていたせいで、学生たちの知識が十分じゃないと気づかなかった。
     止めるのは間に合わない。緊急用のボトルを掴み、学生に向かって叩きつける。
    「うわ!?」
     次の瞬間。
     バチィ!と激しいスパーク音と共に、強風が室内に吹き荒れる。雷元素で全身に痛みが走り、風圧に弾き飛ばされてルディは壁に打ち付けられた。
    「ぐっ……!」
     痛みで思考が飛ぶ。痛みに呻く。
     痺れた体は動かない。そのままルディは気を失ってしまった。


     誰かが、泣いてる声がする。
     子供が心臓が潰れそうなほど悲しそうな顔で、泣いてる母親の元へと駆け寄った。
    「おかあさん」
     心配しても、彼女が泣き止むことはない。余計にさめざめと泣くばかりだ。
     子供は一生懸命、慰めている。子供はまだ幼かった。拙い言葉は彼女を慰めることはなかったのを、ルディは知っていた。
     ああ、夢だな。
     ルディは部屋の角にぼんやりと立ち尽くして、その光景を眺めていた。
     昔住んでいた、懐かしいというには悲しさばかりが詰まった家。
     ルディの父親は商人で、母親は学者だった。
     父親の一族はスメールに古くから店を構え、アーカーシャ端末が普及するまでは、随分と名の知れた店だった。店は書店だったのだ。古今東西の珍しい本が所狭しと置いてあり、特に他国からの知見は、この書店でしか手に入らないと言われるほどだった。
     父親は優しい人間で、アーカーシャ端末の普及とともに売り上げが落ちている中、金のない学生に何かと本代を融通していたため、家計はいつも苦しかった。
     知恵という財産があってもそれだけでは食べてははいけないのだと、今のルディは知っている。
     父親の優しさは、特に教令院で孤独で辛い思いをする女性に響いたようだった。今だからこそ分かるが、父親は孤独で関心を引いた女が、同情を買って父親と仲良くなり、そのうちに帰らないでと言うと、可哀想になって慰めてしまうようだった。
     父親の優しさに触れた女は、大抵、辛い思いをして去っていく。
     下手な浮気性よりも性質が悪い。
     父親は、女ひとりひとりを大切にし、そのたびに家でルディと二人きりで残された母親はひどく荒れた。
     母親が言うには、ルディにもその性質があるらしい。人を破滅させる性質がある。と言った。
     母親はルディを家に閉じ込め、他の人と関わらないようにして育てた。
    『あなたは絶対に恋をしちゃ駄目よ』
     何度も言い聞かされた言葉は、涙声で記憶されている。
     幸い、ルディの周囲には様々な書籍があり、退屈をすることはなかったが、ルディはいつも寂しかった。母親は毎日のように泣いていたし、父親が帰ってくると健気に物分かりのいいふりをするので、ルディは母親を思って心を痛めていた。
     だが、恨むべき父親はルディに優しかった。父親は器用で、ルディに様々なものの作り方を教えてくれた。貧しいので、書店以外に物を修理したり、母親がセンスよくデザインをしたランプを販売したりして、生活の足しにしていたせいもあり、父親はルディに色々な技術を教えた。その中でも父親は、学者の母親を想って万年筆や、ブックマーカーなど、勉強に関わる嗜好品を良く作っていた。初めて作ったものをあげた母親が、久しぶりに喜んだ顔をしたのを見て、ルディは万年筆を作ることに熱中した。
     だが、家の状況は悪くなるばかりだった。
     そして、父親が何度か目に無断で外泊をした朝、母親は帰ってきた父親と二人で出ていき、二度とルディのところには帰ってこなかった。
     子供心に、何が起こったのかはなんとなく察していた。マハマトラがやってきてルディに遠回しに説明をしてくれるのを聞きながら、ルディは一人で生きてくしかなくなったことを悟った。
     幸い、スメールは子供の生活を保障しており、ルディが生きるのに困ることはなかった。
     だが、外で人と話すうちに、ルディは気付いたのだ。母親が言った通り、自分にも父親と同じ性質がある。同い年の子供たちと出会って、ルディは自分が自然に誰にでも野菜く振る舞っていることに気づいた。母親の言った通りになってしまう、とルディはひどく怯え、それから数ヶ月は母親の泣く夢を見て暮らした。
     ルディは自分の性質を訓練することに努めた。他人の性質を見分けることで、自分の優しさを与える量を決められるようにしたのだ。それは精一杯の自分の性質への抵抗であり、生きる術だった。
     本当のところ、同じような性質があったとしても、ルディには他人を拒絶できる意志の強さがあることは自覚していた。
     父親の姿は反面教師であり、母親の言葉は物事の正しさを考えるのに、その都度立ち止まらせるきっかけとなっていた。
     きっと父親のようにはならないだろう。そうは思いながらも、ルディは母親にかけられた呪いから逃れることが出来なかったのだ。
     それに、恋ならもうとっくにしていた。
     ずっとその恋を持ち続けるのなら、そしてそれが叶わなければ、きっと自分は大丈夫だと、ルディはそう信じていた。

     誰かが泣いてる声がした気がした。
     ルディはうっすらと目を開けて、それから体に走った鈍い痛みに呻く。
    「ルディ!」
     叫ぶような呼び声にぼんやりとその方向を見ると、必死の表情で自分を見下ろす琳汐の顔があった。
    「爆発事故があったって、聞いて……」
     その言葉にはっとルディは身を起こす。
    「学生は!?っう…………」
     ひどく頭が痛んだのに、琳汐が悲鳴のようにルディを呼ぶ。
     ばたばたと医者が呼ばれ、診察を受けたルディは、頭を打ったことからたくさんの質問や検査をされたが、ひとまず問題ないとの診断だった。
     雷元素により、筋肉や関節などがダメージを受けているが、長くても二週間ほどで退院できるらしい。
     あの学生はといえば、ルディが咄嗟に投げた耐電薬剤のおかげで、身を伏せた上に雷元素ダメージも受けず、怪我はなかったと聞いてルディはほっとした。
     緋櫻毬は雷元素により集合するが、拡散すると雷元素と花びらが弾ける性質がある。緋櫻毬の取り扱いは、学生が選択している地域特産素材学で基本として学ぶはずのことであり、教令院はルディに責任を問わないらしい。
     確かに、不在中の出来事でもあったが、学生には可哀想なことをしたと肩を落とす。
     お大事に、と言う声と共に、退出した医師を見送って、ルディはずっとそばについていてくれた琳汐にお礼を言おうと顔をむけた。
     琳汐は俯いていた。
    「……琳汐?」
    「わ、たし……。カフェで待ってて……、ルディが来ないから心配になって見に来たら……、実験室が壊れてて……」
     ぎゅ、と彼女の膝の上で握られたこぶしには、どうしてかあげたはずの指輪がなかった。
    「ごめん、心配を……」
    「事故のことを知るまで、私、ルディがすっぽかしたのかなって思った。ルディは忙しいし、実験ばっかりしてるから、時間を忘れちゃったのかなって」
     ルディの声を遮って、琳汐は話しだした。震え始めた声に、ルディは心臓が大きく打つのを感じる。
    「私いつも、先に着いて待ってる時、今日はルディはもしかしたら来ないかもって、考えてた。実験を優先するかもって。でも、それはいいの。契約関係だし、そういう距離になるのも仕方ないなって。でも、ルディ、私に合わせてくれるから……」
     顔を上げた琳汐が、目にいっぱい涙を溜めているのを見て、ルディは目を見開いた。
    「あ…………」
    「ごめんなさい……私、ルディが好きだった……」
     息を止めたルディに、両手で顔を覆って琳汐が言う。
    「契約結婚でも良いって思ってた……。あなたが誰のものにもならないなら、それで良いって。でも、あなた優しいから……、私……っ!」
     動悸で上手く呼吸が出来ない。泣いている彼女に、少しあげた手をどうしていいか分からない。
    「あなたが私の約束のためにスケジュール調整してたって聞いて、私、自分のことが本当に醜くて嫌だった。ルディが真剣に向き合ってくれているのに、私実験を優先したのかな、なんて。私、本当に……、ごめんなさい」
     顔を上げた琳汐の瞳からぼろぼろと涙が溢れる。
     彼女が尚も何かを言っている声が聞こえなくなる。
     泣いている母親の姿が重なった。
    「君のせいじゃない……、俺が……」
     心臓が苦しい。
     母親の声が何度も繰り返し聞こえてくる。もう許して欲しかった。頭が痛む。手で押さえるようにして、ふらつくようにベッドから降りる。
    「ルディ!?」
     驚愕した琳汐が何か言っているが、良く分からない。
     でも、ここから逃げ出したかった。
     結局、自分は────。
    「ルディ!!!」
     帰らないと。
     やはりあの家から外に出るべきじゃなかったんだ。







     アルハイゼンは、寂れた店の前で足を止めた。
     看板ももう剥げてしまい、良く見えないが、書店のようだった。
     つい先ほど、深夜にも関わらず、ドアを激しく叩いてアルハイゼンにドアを開けさせた女のことを思い返す。
     爆発事故があったことは知っていた。経緯を調べ、ルディに大きな怪我がないことを確認し、アルハイゼンは病室を訪れなかった。
     今日一日で調べたことをまとめ、明日すぐに確認し、ルディに会いに行くつもりだったのだ。
     それが数時間早まった。
     ドアに手をかけると、鍵は掛かっていなかった。中に足を踏み入れれば、埃っぽい匂いがした。本棚がたくさん並んでいるが、中は全て空だ。広い店の中をまっすぐに歩き、アルハイゼンは奥にある居住スペースへの扉を開けた。
     ひとつひとつの部屋を確認しても、人気はなかった。部屋はすでに役目を終えており、残されたわずかな家具には蜘蛛の巣が掛かっているものもあった。
     放棄された家の中を歩き、アルハイゼンは裏庭に繋がっていると思われるドアをゆっくりと開けた。
    「……ルディ」
     ぼんやりと錆びたベンチに座って、ルディは外を眺めていた。
     スメールシティで上階に位置するこの家は、良い金額になるだろうに、持ち主がいつまでも売りに出さない。
    「……どうしてわかったんだ?」
     アルハイゼンの方を振り返らずに、小さな声で言ったルディに、アルハイゼンは近寄らずにその姿を確認した。
     頭には痛々しく包帯が巻かれており、病人着と裸足のままだ。月明かりに顔色はひどく悪いが、声は穏やかだった。
    「祖母が言っていたことを思い出した。祖母が気に入っている書店の店主が、万年筆作りが上手いと。この店の店主は君の父親だな」
    「……ああ」
     返事は簡素だ。
     答え合わせが始まる。アルハイゼンはルディと向き合う。
    「祖母は行きつけの書店に聡明な同い年の子供がいると言ったことがあった。それはおそらく君だろう」
    「…………」
     ルディの返事はない。
     アルハイゼンはルディのベンチのすぐ横まで歩く。ルディの家はスメールの空中歩道の端に建てられており、下の階が見下ろせた。
     見下ろした先にあったアルハイゼンの家を、アルハイゼンは記憶の中から正確に位置を確かめた。
    「教令院に入ってから出会った君が、それ以前から俺を知っているのが奇妙だった。出会った覚えがない。だが、君が一方的に俺を知っていたなら明解になる。この家からは、俺が昔、祖母と生活していた家が見えたはずだ。今はもう撮り壊されていて確認は出来ないが、この角度なら本を読む俺の姿が見えていてもおかしくない」
    「…………」
     長いことルディは黙っていたが、やがて口を開く。
    「君のおばあさまは、とても聡明な人だった。幼いころの俺は外に出してもらえなかったが、店の中で客の話を聞くだけなら許されてた。……彼女は君の話を良くしていた。確かにここから君の姿が見えた。どんな子だろうって良く想像した。彼女は君と俺が仲良くなる機会が訪れるかもしれないと言った」
     ルディは俯く。
    「君が、羨ましかった」
     孤独に掠れた声が、夜の裏庭に落とされる。
    「君のおばあさまの話を聞けば、君が彼女に愛されていることが誰にでもわかる。俺は君がずっと羨ましかった。両親の居る家で俺はずっと寂しかったから、あんな素敵な人に愛されている君はどんな子なんだろうって考えていたよ。俺が孤独なのは、仕方のないことだ。そうなれと言われて、そう努力していたから。教令院で会った時、最初は戸惑ったけど、すぐに君が優しい人間なんだと分かったよ」
     アルハイゼンは黙ってルディの声を聞いていた。
    「君の聡明さは、いつも多くの展望を見据えている。対して俺のひとときの手助けは、優しさにならない時もある。でも俺は手を出さずに居られないんだ。君の在り方を見て、君には何も告げない方が良いんだろうと思った。君を想っているだけで、幸福だって言い聞かせて」
     ルディは俯く。
    「俺はずっと、君に愛して欲しかったんだ」
     幼い頃の自分を幻視でもするかのように、ルディは顔を上げてじっと家の方を見る。
     声音がいっそ穏やかだ。大事にされなかった幼い自分を看取るように、優しかった。
     それからルディはアルハイゼンに顔を上げて、微笑んだ。
    「良くここが見つかったな。君には何も気づかれてないと思ったのに。……迎えに来てくれたんだろう?病院に戻るよ。鎮痛剤が切れてきたみたいだし」
     今までのはただの独白だったというかのように、返事を求めてこないルディを見下ろして、アルハイゼンは口を開く。
    「君が幸福であるならば、君の人生に俺が居る必要はない」
     目を見張ってアルハイゼンを見上げたルディの表情は、笑うのに失敗したかのような笑みが浮かんでいた。
     アルハイゼンはルディの前に膝をついてルディを見上げる。
     月明かりのせいで余計に顔色が悪かった。確かに彼は、自分といたあの時が一番健やかだった。
     それならばアルハイゼンの答えは決まる。
    「今回の件で確信した。君には、俺のそばにいて欲しい」
     わずかな吟味するような間の後、ルディの目が徐々に見張られていく。
    「君の幸福を考える時、その隣に俺がいることが俺の答えだ。君はどうだ?」
    「アルハイゼン…………?」
     呼びかけてくる声が震えて、それからルディは視線を逸らす。
    「……駄目だ。……俺には向いてない」
    「君を躊躇わせるのが琳汐とのことなら、君には非はない。君は契約上なんの問題も起こしていない。むしろ彼女の方が契約違反となる。彼女は君に謝ってくれと言っていた。後日自分で謝罪をしろと伝えてある」
     アルハイゼンの言い方に、ルディは少しだけ笑った。でもそれだけで視線は合わない。
    「彼女は、君が俺に好意を持っていることを知っていたよ」
    「……琳汐に会ったのか?」
     振り向いたルディに、アルハイゼンは頷いた。
    「酒場で俺の家の情報を探して突き止め、深夜だというのにドアを大きく叩いてドアを開けさせ、君を探してくれと頼みにきた」
    「…………ああ、そうだったんだ」
     彼女らしい、とルディは呟く。
    「彼女は、君が俺に万年筆を贈るところを見て、君が好きになったそうだ」
     明らかに狼狽た視線の動かし方をする。
    「君が恐れているほど、君は彼女の人生を台無しにしてはいない」
    「……でも、アルハイゼン、」
     躊躇うルディの心を何が蝕んでいるのか、アルハイゼンには分からない。ルディから聞いていないからだ。憶測で宥め、慰めるような軽率な行動を取るには、アルハイゼンにはルディの存在は大きかった。物憂げに口を開いたルディをアルハイゼンは見返す。
     別の方向から彼を自分に向き直させる。
    「君はもう、俺に愛して欲しくないのか」
    「…………それは、」
     自分で願った言葉を繰り返されたことに、ルディはわずかに息を飲んでから言い淀んだ。
    「俺は君の幸福が俺であれば、これ以上のことはない」
     静かに告げると、アルハイゼンを見つめたルディの瞳が潤んでいく。
    「おまえ……こんな時でも容赦ないんだな……」
     手を伸ばしてきたルディが表情を隠すようにして自分に縋り付くのを抱き寄せて、アルハイゼンはルディに見えないように、深く安堵の息を漏らす。
     ルディの体は夜の空気に晒されて冷えていた。
    「君みたいに出来ないよ」
    「学習は経験からも成る。君の憧れた手本がここにあるだろう」
     アルハイゼンのその言葉は、どうしてかルディの笑いを誘ったようだった。
    「はあ、笑ったら体が痛い」
    「君の了承があるなら抱き抱えて戻ろう」
    「絶対嫌だよ。これだから神の目保有者は……」
     言いながら少しふらつきながら一人で立ち、ルディは歩き出す。それからベンチを振り返った。アルハイゼンはルディが歩き出すのを待つ。
    「……行こうか」
    「ああ」
     やがてしっかりした声音で口を開いたルディと共に、アルハイゼンは過去となった家を出る。
     ルディに言わせれば、アルハイゼンは愛を識る人らしい。
     彼はそれを羨ましいという。
     アルハイゼンにとってそれは叶えてやるのに些細な憧れだ。
     自分を優しいなどと形容する人間なら、きっとすぐに分かるだろう。

     隣に並んで二人で病院までの道を歩く。
     ルディがふと振り向いたのに視線を合わせたアルハイゼンは、浮かべられた微笑みに幸福の気配を感じ取る。
     アルハイゼンは手に入ろうとしている新たな平穏が予想以上に自分を満たすものであることに気づいた。
     見返したアルハイゼンから、何を受け取ったのかルディは笑う。
     優しく細められる目が、その訪れがすぐであろうことをアルハイゼンに教えてくれた。



     愛を識る人



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