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    薙沢ムニン

    @muninmumu

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    薙沢ムニン

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    【GAIA】 六章 Ⅰその②

    #星と死の記録
    recordOfStarsAndDeath
    #クロイツとルーナ

    【GAIA】 六章 Ⅰその②前回【https://poipiku.com/3273886/6825167.html】


    ー---------------------------------





     天空は沈みゆく太陽の血に染まり、大地は痛ましい雨に濡れ、数多の命が耐えている。
     世界の終焉をこれ以上に無く示唆するような眺望の中で、竜は涙に暮れている。絶望と悲痛に嘆いている。喉が破れ血を吐いても、叫び続けている。

    ―――――ああ、どうして、どうして。

     血の匂いが充満し、吐き気を催すほどの防魔の毒にむせ返りそうになる。
     血液、髄液、肉塊、骨片、内臓―――――二度と光を帯びることのない命達。
     人間も、竜も、皆一様に死んでいく。
     幾度と無く見た地獄絵図が、繰り返し脳裏で鮮明に蘇る。
     忘れるなと脅迫されるように。
     思い知れと罵倒されるように。

    ―――――どうして、貴女が死ななければならない。

     頬にそっと手が添えられた。
     熱い涙が伝う。
     貴女が弱々しくも美しく微笑む。
     最後に何かを囁いた。
     人間が殺到する。
     奪われる、穢される、尊い魂。
     絶叫。絶叫。絶叫!
     狂喜の叫びと狂気の争いが交じり合う。
     いつから世界はこんなにも変わり果ててしまったのか。
     長い長い氷の檻から解放されたところで、再びの苦界。
     
    ―――――死ぬのは私独りで充分だったはずなのに

     死ぬのは自分だけで構わない。
     この命で最愛の人が救えるのならば、喜んで差し出すというのに。

     突き刺さったのは何だ。
     劇毒の矢。
     命を狩り取る星からの死の宣告。

    ―――――私は何故逃げた?

     これは、呪いだ。
     永遠に許されない、罪の証だ。
     不死者は笑う―――――「なんとまぁ悲しい物語なのでしょうか!」

    ―――――殺してやる。必ず、報いを。

     〝涙〟が視界に映る。
     黄昏の空へと堕ちていく。呑み込まれるように、身を任せて。
     飛翔する。風を切って、未練に焼かれて、流星のように。
     

     唯一の姉―――――クロニアの姿が蜃気楼のようにかき消えた。






    「      」







    ―――――貴女の最後の言葉が思い出せない。





        ◆


    (また、変わらぬ天井―――――夢)

     次にクロイツが目覚めたのは、魔物と会話を交わしたあの夜から丸一日後の朝だった。
     嫌な夢から逃げた先でまた嫌な夢を見る。そんな泥沼のような連鎖の中で眠り続けた故、あまり疲労感は抜けきっていなかった。
     夢の内容は、全て共通して同じだった。

    (姉上)

     自分を庇って死んだ実の姉の夢。
     美しき、黒い竜。
     時にはクロイツを責め、時にはクロイツに微笑む、空想と事実がぐちゃぐちゃにかき乱されたような夢ばかりだ。
     夢見は最悪だったが多少の休息は取れた為、腹部以外の傷は八割方回復してきていた。声音もほとんど元通りに戻っている。 竜の再生力でも未だ完治しきれないとなると、腹部の傷を蝕む毒素がとてつもなく強力であることがわかる。
     あの攻撃は本来ならば即死していてもおかしくない威力を帯びていたのだから。

    『ワアイ!ゲンキー?』

    『ワハー』

    『オハオハオ!ハオー!』

     目覚めたクロイツに気づいたのか、綿を彷彿とさせる小型の魔物達が枕元に集まってくる。
     この魔物がフリュという名称であることをクロイツは思い出すが、むしろこんな弱小の下等生物の名を何故覚えていたのかを自問する。

    (……ああ、姉上が以前保護しているのを見たからか)

     物思いに耽りそうになったところ、元気に跳ね回るフリュの一匹がクロイツの髪を引っ張り出し、苛立ちながら起き上がる羽目になる。
     フリュ達は悪意こそないが、寝起きの重傷者にも容赦がなかった。

    「路傍の塵風情が……」

    『イエイエーイ!』

    『チリッテナンダー』

     フリュ達は周囲でひょんひょんと忙しく動き回る。知能が低すぎて竜に対する恐れさえも持ち合わせていないようだ。
     あまりの煩わしさに追い払おうとするが、フリュは一層楽しげな声を上げ始める。好奇心で遊ばれているのは明白だった。
     子供の玩具にされているようで腹が立ったが、不意に自身の身内のことを思い出す。

    (奴らは、無事だろうか)

     戦線を離脱してから長期間連絡が取れずにいる部下達のことを思い浮かべ、クロイツは息を吐く。
     無駄にしぶとい個性的な下僕達がそう簡単に死ぬことはないだろうが―――――。
     機転が利く者もいるため、上手く仲間に指示を出しているだろうと、今は信じるしかない。


    〝クロイツ様がいない間、オレがここを守りますから!安心してくださいっす!〟
    〝それはアタシの台詞なんだけど何で先に言っちゃうのかなー。この後の台詞何にも考えてないんだけど〟
    〝貴方達!騒いでないで仕事に戻りなさい!あと壁壊したの誰です!?反省文……じゃない、いいから仕事しなさい!こら走るなーっ!ああああああああ私の本があああああああぁ!私のバベル語辞典初版本があああああああぁぁ!〟
    〝はーい!お師匠サマが頭を使えって言ったので頭を使って本で階段作ってみましたー!じゃじゃじゃじゃん!〟

     わっはっは。わっはっは。愉快痛快快進撃。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・。

    (また何かやらかしている予感がする……)

     彼らの安否より、彼らが愚かしい行動に走らないかがクロイツの不安の種であった。若干頭も痛い。

    『ワハハノハー』

     フリュ達は楽しげに歌い始め、仲間を追いかけ回す遊びに興じる。
     振り払ってでも追い出そうかと思案していると、クロイツの耳にこんこんと扉のノック音が届く。
     無言のまま扉を凝視し、クロイツは待ち構える。

    「入りますね」

     クロイツの予想通り、幼い少女の声が木製の扉の向こう側から聞こえてきた。
     ルーナはなるべく音を立てないように静かに扉を開け、室内に足を踏み入れた。

    (その気になれば今の状態でも、殺せる)

     ひ弱な一人と一匹ならば傷が開く心配も無く、殺せることだろう。
     今、実行する気は無くとも、クロイツはその選択肢を用意しておく。
     持ってきた水が入ったコップをベッドの隣の台に置き、ルーナはにこりと微笑む。
     屈託の無い笑顔に、クロイツはふと胸を過るものがあった。

    (……何だ?)

     不穏とも不安ともかけ離れた疑問視だったが、答えは出てこなかった。

    「お水を持ってきました。森の湖の水なので、綺麗で美味しいです」

     ルーナの言うとおり、美しい透明感を保持している水には穢れが無く、清浄だった。少なくとも人工的に濾過された水では無い。
     穢れを吸い込んだ濾過水は、例え浄化された後だとしても、口にしたいとさえ思わない。

    『アー!ルーナ!』

     ルーナがやってきて嬉しいのか、はしゃぐフリュ達にルーナはあっと声を上げる。 

    「いつの間。騒いじゃ駄目ってたくさん言いましたよ」

     いけませんと、ルーナが手招きをするとフリュ達はたちまち集まってくる。
     どのフリュも体色以外はほとんど区別がつかないが、ルーナはそれぞれをしっかりと判別できているようだった。
     フリュ達は慣れた動きでルーナの手から腕へと登り、最終的に肩の位置に落ち着く。
     丸みのある彼らが横一列に並ぶと首飾りを想起させ、少々不格好な毛玉飾りに見えた。

    『アソンデタノ!』

    『ルーナモアソブ?』

    『アソブ!』

    「今は駄目です。お外にお友達がいますから、いってらっしゃい」

    『ハァイ!』

    『アソブアソブー!』

     ルーナに促されたフリュ達はばねのように愉快に跳びはね、あっという間に部屋から抜け出して行った。

    「―――――娘」

     しばしの沈黙が訪れていた部屋に、クロイツのひんやりとした声だけが流れた。
     前の時ほど張り詰めた声ではなかったけれど、決して打ち解けた声でもなかった。やはりどこかが冷たく凍りついている、そんな声音。

    「はい」

     ルーナはどきりとしながらもクロイツに向き合った。

    「私はお前に感謝すればいいのか。礼の一つでも言えば満足するのか」

    「……」

    「何故私を助けた」

     前の晩に翠眼の魔物に訊ねたことと同じ内容の問いをした。 
     ルーナは数秒間をおいてから答えた。

    「傷ついている人を見捨てることはできません」

    「偽善だな」

     痛いところを突かれたのか、ルーナはぐっと押し黙ってしまう。

    「見返りは何だ」

    「見返りなんて、いりません。わたしは本当にただ貴方を助けたかっただけです」

    「竜と人間が相容れぬことくらいは知っているだろう」

    「……外のことを知っている魔物さんから話を聞くまでは知りませんでした。わたしは世間にとても疎いのです」

    「だが、危険な存在であるということは理解しているはずだ―――――私が何故傷を負ったかわかるか。人間達を殺していたからだ」

     クロイツの言葉にルーナが息を呑んだのが伝わってくる。

    「私達はことごとくを破壊し、逃げ惑う人間を焼き殺し、弓矢を手に対抗してくる人間を斬り裂いた―――――まさか目の前の怪我人がそんな非道なことをしたとは、到底信じられぬか?」

     自分の助けた存在が、数少ない人間の住まう地を強襲した。
     魔物避けの城壁を打ち壊し、暴れ狂う暴風に根こそぎ建物や家畜は吹き飛ばされ、人間の女子供も容赦なく殺め、跡形も無くなるまで蹂躙しつくした。
     後にも先にも残ったのは大地を抉り取った幾つもの痛々しい穴と、もはや何に使用されていたのかもわからないほどぼろぼろになった残骸、原形を留めていない何かの死体、拷問を受けた直後のように全身血に染まった人間の遺体、土まで赤色に染まった廃墟、数時間前までは人間が暮らしていた地―――――見るに堪えない恐ろしい光景を想像してしまい、ルーナは思わず後ずさりしてしまう。

    「私を看護した時点で異常だが、お前は殺戮者の一つ屋根の下で平然と過ごしていた」

     異様を通り越して狂っていると、クロイツはねめつけた。

    「人間は本能的に魔の力を持つ異形に恐れをなすようにできているはずだ。それなのに何故お前は私を匿い続ける。何故、魔物と共に生きているのだ。お前は人間であろう?」

    「わ……わたしは生まれてからずっとこの森で魔物と一緒に暮らしています。み、みんなは大事な友達です」

    「愚か者め!人間でありながら人ならざる者と分かり合えるとでも?自惚れるな」

     声を荒げられ、ルーナは竦みそうになるのを必死で堪えた。
     そして、悲しげに目を伏せる。

    「わたしは人間ですが、この森でみんなと生きていく術しか知りません。だから、わかりません。人間としてどうあるべきなのか、わたしにはわかりません。ごめんなさい……」

    「―――――忠告する。私を軽んじるな。私は竜だ。世の頂点に君臨する、誇り高き竜だ。お前達のような穢れた星の破壊者共とは違う」

     竜。
     図鑑にまとめきれないほど、目録に並べきれないほど様々な種族がいる中で、竜は最強の魔獣と謳われる。
     自由自在に空を飛行し、砲弾さえ弾き返す頑丈な鱗の鎧は何物も通さず、岩石を噛み砕く顎は強堅の象徴であり、地獄の業火よりも熱い火炎を吐く。
     何も言えないルーナに、クロイツは失笑する。

    「やはりこの姿では説得に欠けるか?竜ならば竜らしい姿であれと思うか」

    「……竜のことは本でしか読んだことがないですが、みんな人に近い姿に変身することができるんですか?」

    「―――――これは、呪いだ」

     呪われた血族の表われだと、クロイツは洩らした。
     神妙な面持ちでこれ以上は説明する気はなく、口を噤む。

    「何にしても、今の私は脆い人型だ。寝込みを襲うでも薬に毒を仕込むでも、隙は幾らでもあったはずだ。お前達が私を人間共に突き出せない理由は理解した。それでも始末する術は幾らでもあった―――――貴様は本当に恐れ知らずで、無知な愚者だな」

     クロイツは自嘲気味に笑んで、腹部に手をやった。
     
    「治療をしたのはお前だろう?ならばわかっているはずだ。この傷は〈防魔〉の矢でつけられた傷。傷の完治が遅いのも、人型の姿から戻れないのもこれの影響だ。この状態でも歩くのがやっとだろう。死んでいないことが驚きだ」

    「防魔の、矢?」

    「……〈防魔石〉を知らないのか?」

     見知らぬ単語にきょとんとするルーナに、クロイツは呆れる以上に驚愕してしまう。
     防魔石は異形なる者を打ち払う力を持つ貴重な石だ。
     人間にとっては生存権を有するに必須であり、文明の開拓の要にもなる最重要物質―――――竜狩りにおいては、竜に致命傷を与える特攻の物。
     まさかそれを知らない人間がこの世に存在するとは、クロイツは想像だにしていなかった。
     
    「ごめんなさい、ボウマセキ……よくわかりません。でも、魔物のみんなが貴方の負った傷には毒があると言っていて、毒を消す方法を教えてくれました。この森には良い薬草がいっぱいあるんです。魔素……が影響しているらしいですが」

    (この娘はどれほど俗世から隔絶された生活を送っているのだ)

    「森に無いどうしても必要なモノは、〝外〟から取ってきましたが……」

     外という言葉にクロイツは一瞬疑問を抱くが、ルーナの様子がその時だけ変化していたことに気を取られてしまっていた。
     ルーナは一生懸命笑おうとしているが、ぎこちない表情しか浮かべられていなかった。
     小刻みに体が震え、ぎゅっと胸の前で手を組む―――――手にはまだ包帯が巻かれている。
     クロイツの脳裏に、部屋の隅で眠っていたルーナの姿が過る。
     ルーナは怯えていた。クロイツでは無い、〝何か〟を思い返して。

    「……余計な施しなど、望んでいなかった」

     自分を救う際にルーナが多大な労力を払ったであろうことを悟り、目を逸らした。

    「あの時見殺しにしていれば―――――私が死ぬべきだったというのに」

    「やめてください!」

    今の今まで控えめな声で喋っていたルーナが、唐突に声を張り上げた。

    「死んだほうが良かったなんて、そんなこと絶対無いです。無いです!」

     他人のために何をそこまで叫ぶのか、説得しようとするのか、クロイツには理解できなかった。
     何故、ルーナが今にも泣きだしてしまいそうな顔つきでいるのかも―――――わからない。

    「生きていればきっと何か。何かが変わるはずです。だから、そんな悲しいことを言わないでください……!」

     その言葉にクロイツの中で、何かを堰き止めていた糸がぷつりと切れる。

    「綺麗事を抜かすな!たかが十年程度しか生きていない小娘風情に私の何が理解できよう。共感できよう。わかられて、たまるものか!」

     聞くに堪えない戯言だ!
     次から次へと湧きあがる刃のような反論と矢のような雑言を叩きつけて、眼前の娘の立ち上がる気力さえも根こそぎ奪ってやろうかと、クロイツは歯を食いしばる。
     プライドも信念もかなぐり捨てて、大人げない発想も惨めで凶暴な思惑の中に投入し、激情を吐き散らしてやろうかと本気で思う。思ってしまう。
     こんなにも〝人間じみたやり方〟は竜である自分のやり方ではないはずなのに、衝動的に爆ぜて実行してしまいそうになるのは、やはり肉体が人に近いからなのか。
     こんな体。こんな体。こんな体―――――!

    「だって、貴方は、泣いていた」

     ぽつりと、ルーナは言う。 

    「倒れていた貴方は、誰かの名前を呼んでいた」

     その言葉にクロイツの肌は粟立ち、途方も無い焦燥感に駆られる。

    「やめろ」

     やめろ。
     人間がそれを語るな。
     その名前は、知るべきではない。
     その名前は―――――私の―――――私だけの―――――!

    「ずっと、名前を呼んで、涙を……」

    「やめろ……!」

     その口を塞いで黙らせてしまいたい。息の根を止めて、音を失わせたい。
     弱くあってはならない。
     弱くあっては、意味がない。
     違う。涙など、流していない。
     強き竜は気高い。
     何もかもが間違っている!
     
    「わたしに何かできることはありますか。わたしは、貴方を」

     助けたい。 
     貴方の気持ちを理解したいと思っては、いけませんか。

    「―――――ッ!」
     
     声にならない叫び声が上がる。
     半ば自暴自棄に陥っていたクロイツは、殺意とも表せない衝動と憤怒ともつかない感情のままにルーナの細い首を掴み、そのままベッドの上に引き倒した。
     窓から注ぐ陽の光を反射させ、星のように瞬く。
     星は堕ちてしまった。願いを、一つも叶えられぬまま。

    「っ」 
     
     ぐっと握力を込めればすぐにでもルーナは絶命することだろう。捩じ切ることも引き千切ることもできる―――――殺すことは容易く、今までもずっとそうやって生きてきたはずだった。はずだったのに。
     
    「ごめんなさい」

     決して弱くない力で気管を絞められているというのに、ルーナは命乞いするでもなく謝り出していた。
     まるで自分に非があったのだと、告白するように。

    「ごめんなさい。ひどいこと言ってしまいましたか。貴方を、傷つけてしまいましたか」

     ごめんなさい。ごめんなさい。

     手を放してほしいとも、苦しいとも言わずに、人間の少女は一心に謝罪を続ける。
     彼女の瞳から一筋の涙が流れ落ちる頃には、クロイツはもう、耐えることができなかった。
      
    「何故、泣く」

     自分に対する恐怖や死に対する怖気に落涙しているのではない。
     彼女は何のために、泣いているのか。
     
    「何故、謝る……!」

     弱い人間ならば懇願し、恐れおののき、拒絶するものではないのか。
     彼女は何のために、〝ごめんなさい〟と発するのか。

    「何故私を恐れない!何故だ!」
     
     人間を憎悪することで復讐心を燃やせ、命を繋げる今―――――自分を肯定する人間に出会うなど、死の宣告を通り越した断罪に等しい。
     
    「お前の慈悲が理解できない」 
     
     ここで砕け散れば、折れれば、何も成せなくなってしまう。
     誰のためにも、何のためにも。

    「私を恐れろ!人間はそうであるべきだ!そうでなければならない!摂理に背くな!冒涜者にでもなったつもりか!恐れろ。恐怖しろ!そうでなければ、私は、私は……!」

     顔を寄せ、噛み付くような形相で迫られ、更に手に力を込められる。
     ルーナは思わず目を瞑ってしまう。目尻に溜まっていた涙が押し出され、雫となって横顔を辿って行く。

    「……?」

    にわかに、温かい水粒が顔に落ちる。明らかに自分の涙とは違う熱に、ルーナは目を開ける。
    赤い瞳は宝玉のようで、焰のように、紅い。

    「どうして、泣いているんですか……?」

    「……!?」

     はっとしたクロイツは弾かれるようにルーナから手を放し、ありえないと言いたげに自身の目元に指を這わせた。
     指先が濡れたその時、クロイツの顔色はさっと変わる。強情で塗り固めていた表情がたちまち解けていく。

    「ちが、う。違う。こんなことは」

     混乱する中で、クロイツの心は悲鳴を上げていた。
     ひび割れたまま、慟哭している。

    「何故」

     大切なモノを失い打ちひしがれる孤高の竜が、迷子になった子供のように、狼狽えている。
     迷い、戸惑い、居場所を見出せない、生きる希望を喪失し、自身をひどく責め、傷つけ、傷ついている。
     ああ、ズタボロだ。羽ばたけないほど、重い鎖に縛られている。
     ルーナは咳き込みながら、クロイツを責めることなく見つめていた。
     震えているのは、誰?

    「泣くなど、そんな、失態は……」

     膝を折ったクロイツは呆然と跪いたまま、目を見開いている。
     ルーナは止めどなく涙を零すクロイツの頭の後ろにそっと手を回す。黒髪は陽光を吸い込んだように温かく、まるで陽だまりのようだと思った。
    そのまま頭を優しく自分の胸元に寄せ、包み込むように抱きしめる。クロイツはされるがままに引き寄せられてしまい、抵抗一つできなかった。

    「……汚らわしい、人間め……」

     言葉での抵抗も弱々しく、それ以上は何も発言することが適わなかった。
     ルーナもまた、何も言わなかった。
     静寂な空間で張り詰めた空気を融かすような温かさ。
     クロイツは目を閉じる。
     花の甘い香りは回顧の念を催させるが、不思議と寂寥感をゆっくりと押し流してくれる。
     柔らかな感触は遠い昔の思い出を振り返らせ、クロイツは涙しながら心が徐々に安らいでいくのを感じていた。
     心地良いと思ってしまったのは、紛れもない真実だ。

    (姉上……?)

     奇しくも慈悲深い温もりは、在りし日の思い出を夢見させた。


       ◆


     あれからどれほどの時間が経過しただろうか。
     ほんの数十秒だった気もするし、長い数時間だった気もする。

    「放せ」

     ようやく解放されたクロイツは羞恥心で紅潮した頬を隠しながら、ルーナから距離を取った。
     自分とは比較にならないほど幼く、無知な人間の子供の前で涙してしまった事実が、この上なく恥ずかしくてならなかった。
     何故この娘に一瞬でも心を許しそうになってしまったのか、自分の精神が相当参ってきているとしか思えない。
     横目で恨めし気にルーナを睨む。
     彼女は首を少しだけ押さえて、クロイツのことを馬鹿にすることも卑下することも無く、純粋無垢な笑顔を浮かべていた。
     全てを許し、受け入れてくれそうな笑顔は慈悲深い聖女そのものだ。今の悲惨の時代には似遣わない、危ういモノ。
     僅かに涙で潤んだ瞳が鏡のようにクロイツの姿を映し出す。
     夕焼け色の瞳は吸い込まれそうになるほど美しい―――――あの日の空を、思い出す。
     
    「貴様のことは殺さない。だが、恩義も感じない。私を生かしたことを後悔するがいい」

     黄昏の瞳に見惚れそうになった事実を脳内でとことん否定し、眼を逸らして苦し紛れにクロイツはぼそりと呟いた。
     それに対してルーナは、温かな笑顔のままだった。

    「後悔しません」

    「……戯けが」

     短時間だが嫌というほど把握した―――――この娘は近年稀に見る聖人気質の善良者を遥かに凌駕するほどの、とてつもないお人よしだ。疑うことを知らず、傷つけあうことを望まず、自分のことよりも他人のことを第一に考えてしまう性質の持ち主だ。
     こんなにも愚直で、純粋で、種族の分け隔てなく恩愛に溢れた人間が存在するとは、想像だにしていなかった。

    「……お前は人間側なのか、それとも人ならざる者側なのか、どっちなのだ」

     その問いにルーナはしばしの間考えて、たおやかな花を連想させる微笑みのまま答えた。

    「助けたいと思った人、大事な人の味方です」

     馬鹿馬鹿しいことこの上ない平和的思考と博愛主義の鑑のような回答だったが、クロイツは不思議なほどすんなりとその答えに納得してしまった。
     この娘には何を言っても無意味であり、信念を曲げることは不可能だとわかりきってしまったからだ。

    「怪我が治るまではどうかここにいてください。えーっと……黒竜さま!」

     種族そのままの呼び方にクロイツは筆舌しがたい脱力感に襲われる。ルーナに悪気がないため尚更である。

    「その呼び方はやめろ」

    「それでは何と呼べばいいですか?」

     呼ぶ必要は無いとあしらいたいのが本音だが、クロイツは溜め息を交じりに声を発した。

    「クロイツ。それが私の名前だ。二度は言わせない」

     人間に名乗る状況を一切想定していなかったクロイツだが、ここで初めて彼女に名を明かした。

    「じゃあ……クロイツさま。クロイツさまと呼んでいいですか?」

    「……好きにしろ」

     素っ気なく返事をしても、ルーナはいつまでも幼いながらの柔和な態度を変えずに「はい」と、嬉しそうに笑った。
     朗らかな、優しい佇まい。

     ―――――何故だ。
     ―――――何故、姿が重なるのだ。

     黄昏の髪は夜闇の黒とは違う。
     種族も気配も全く異なり、容姿も別物。
     それでも―――――黒竜は人間の少女に、自身の姉の姿を幻視していた。

     その呪いにも似た焦がれと決別するのは、しばし先のことになる―――――。


        ◆


    ≪謎の部屋にて/同時刻≫


    「見ィつけたぁ」

     男とも女とも、高いとも低いとも表し難い声が、愉悦を交えて室内に響く。
     真っ暗な部屋の中央で爛々と輝く機材―――――魔道具を前に、文字通り空中に腰かけている声の主は、邪悪な笑みを浮かべている。
     長く艶やかな金髪。分厚い布の眼帯に、薔薇の意匠を拵えた派手な洋服。
     血の気が失せ、凍り付くほどに美しいその容姿は―――――〝今は〟青年の肉体を模していた。

    「そこらへんで野垂れ死んでたらつまらないと思ってたので、僥倖ですね―――――しかも五体満足みたいなので捥ぎ損なわなくて済みましたぁ!ははは」

     軽快に笑う青年の背後から、二人分の影が伸び出てくる。

    『よー見つけたなぁご主人様。逃げれるとこなんてぎょーさんありそうやのに』

    『竜の隠れ家……たくさん……ありそうだもの……』

     一人は電流を身に流した少女―――――雷精。
     もう一人は雑音を身に流した少女―――――音精。
     二種の妖精が青年の両脇で、奇妙な魔道具を見下ろしている。

    「この星は私の庭みたいなものですから、私の目から逃れられる者はいませんよ」
     二人の疑問に答えるように青年は告げると、自身の顎に手をやる。

    「それにしても〈黄昏の民〉と接触ねえ……いやはや因果なものですねえ」
     しばしぶつぶつと理解不能なことを呟き、考え込んでから青年はにやりとほくそ笑んで顔を上げる。

    「もう少し泳がせておく必要がありそうですね」

    『殺しに行かへんのー?早う頭から引き潰したいでー』

    『竜……殺したい……喉から引き裂きたい……血の泡……見たい……』
     
    「アルスト。プロストゥス」

     それぞれの妖精の名を呼びながら、青年はふわりと宙で立ち上がる。

    「より愉快な饗宴の下準備ですよ。ある程度肥えさせてから食べるほうが美味しいですからね」

     青年はぱちんと指を鳴らすと、どこからともなくシルクハットが出現し、彼の頭に飾られる。
     鮮血の如く真っ赤な一輪の薔薇と共に。

    「さて、クロイツさん。貴方は〝人生満期を通り越して完全破綻終了しちゃってるのにお役御免できないせいで超絶不機嫌で絶望的に最強すぎる不死身のフランシス閣下〟をどれだけ愉しませてくれますかぁ~?」

     やれやれ全く完全悪の狂人に成るのも大変ですね!―――――フランシスはケラケラ嗤いながらスイッチを切る要領で、足元の魔道具を思い切り踏み潰す。
     
     飛び散る破片に映る素顔は、全然笑っていなかった。  







                                     …続く

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