【GAIA】六章 Ⅱ前回【https://poipiku.com/3273886/6834784.html】
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Ⅱ.言葉
「クロイツさま。すっかり歩けるようになったんですね」
「……」
「〝りはびり〟というものですか?」
「……」
「せっかくだからこの森を案内します!」
「……ついてこなくていい」
「いけません!この森は〈迷い森〉と言って、とても迷いやすいですからついていきますっ」
あれから三日ほど経過し、クロイツは歩行ができる程度には回復していた。
自身の翼を変化させた外套や、身に纏う服も具現も完了した。
しかし飛行するにはまだ足りず、本来の竜の形態を取り戻すにも時間がかかりそうだった。
休息とは言え、いつまでも人間用の家屋の中にいるのは息苦しく、外に出て来たところ早々にルーナに見つかってしまった。
丁度洗濯物を干し終えたところだったようだ。クロイツ的には不覚である。
そのような流れでクロイツとルーナは共に森の中を歩いていた。
否、クロイツは一人で行動しているつもりだが、すぐ後ろをルーナがついてきていた。
「クロイツさまは森林浴をご存じですか?綺麗な森の空気は体に良いのですよ」
「……」
「ここは〈迷い森〉なんて危なそうな名前で呼ばれていますけれど、本当はとても穏やかな所なのですよ。この前だって可愛い魔物の赤ちゃんが生まれて……」
歩幅はまるで違えど、森に慣れているルーナは小走りで楽し気に話しかけてくる。
数日間の不本意な滞在を得て、クロイツはルーナの特性ともいえる情報を嫌でも得てしまっていた。
(この娘、よく喋る)
クロイツが無視を決め込もうと気にしていないのか、傷つく様子も欠片も無い。
日々魔物達と進んで交流しているのもあるだろうが、喋るのが好きなのだろう。それも、一方的な話したがりなのではなく、互いに意思を伝え合うこと自体が好きなのかもしれない。
つまるところクロイツと交流したがっていることが明らかなのだが、当のクロイツは人間からの友好的な態度に種族柄とんでもなく違和感を覚えてしまい、もやもやとした気持ちを抱えつつあった。
今日の天気が良いこと、毛長の魔物の毛を刈ってあげたこと、あそこの木の下には風邪によく効く茸が採れること、この季節に咲く花には素敵な花言葉があること―――――ルーナが話すことは彼女の日常での出来事が主だった。
(そんなことを私に話して何になる)
実に無意味で、無価値で、どうでもいい話だとクロイツは思った。
けれど、はなから聞く必要性のない低俗かつ耳障りな戯言とは思わなかった。
森の中で寄る辺なき魔物達に囲まれ、優しさを与えながら質素に生きている少女にとっては、語る全てがかけがえのないものなのだろう。
それを根本から否定したいとは、今のクロイツは思わなかった。
あれほど人間という種族を憎んでいたというのに、この少女に対してはもはや敵意など持てなかった。
(これほど屈託なく、警戒心の無い人間は、もはや呆れを通り越して)
(―――――人間と思いたくない)
種族への固定された観念を丸ごと覆しそうになるルーナの存在は、あまりにも稀少すぎる。
これほど清らかな人間がいること自体が、異常なのかもしれない。
少なくとも彼女が人間ではなく特定の恨みを買っていない種族であったのならば―――――。
そこまで考えて、クロイツは思考を振り払って止めた。
無意識のうちに連動して足まで止めてしまい、その場で静止する。
今しがた、昨日の夕飯の一品に普段使わない調味料を入れたら変な味になってしまった―――――という話をしていたルーナは、何の前触れもなく立ち止まったクロイツに不思議そうに首を傾げた。
やがてクロイツは首だけで振り返る。
「娘」
「何でしょう」
少し黙れと言いかけて、言葉に詰まる。
疑うことを知らない無垢な表情と眼差しを前にした途端、拒絶の一声が出てこない。
ああ、やりにくい。何なのだ。いったいこの娘は。
しばし間を開けてやっと出て来たのは、溜息だけだった。
「……いや、いい」
「はい。何かあったら言ってくださいね」
再び背を向けて歩き出すクロイツに、ルーナは嬉しそうに顔をほころばせてついていった。
◆
〈迷いの森〉という名の通り、この森は見た目こそ変哲の無い森であるが、実際に歩くとすぐに方向を見失いかけてしまう。
それが構造による効果なのか自然的な加護による効果なのかは、誰にもわからないようだ。
道すがらルーナはクロイツにそのように語った。
「この森の歩き方にはコツがあって、小さい頃にたくさん練習したんです」
小川にかかる丸太の橋を渡りながら、慣れた足取りでルーナが先を行く。
いつの間にかルーナがクロイツを先導し、森を案内する形になっていたが、すでにクロイツは彼女を振り切る方が面倒だと半ば諦めていた。
自身の傷の具合を確かめつつ、奇妙な森の散策は続く。
魔物が生息する森は珍しくないが、こうして生身の人間の少女が散歩するように歩き回れる森というのは、極めて珍しい。
時折草木の中から顔を出す小柄な魔物に、ルーナは親し気に手を振る。
「どの子もみんな優しい、良い子なんですよ」
澄んだ泉にも、木苺の林にも、切り株椅子の広場にも、多種多様の魔物達がいてルーナに挨拶する。
やはりどの魔物も凶暴さとは無縁で、穏やかな気性の弱き魔物達ばかり。
魔物達からはクロイツがひどく恐ろしく見えるのか、視線がかち合った瞬間に怯えて去ってしまう。
時々ルーナが震える子をあやしても、竜の気配にはどうにも慣れそうになかった。
ただ一人の人間だけが、怯えることなくここにいる。
「娘」
「はい」
抱えていた小さな魔物を地面に降ろすルーナに、クロイツは淡々と訊ねる。
「お前はずっと〝独り〟で暮らしていたのか」
あえて魔物達を数に入れず、疑問を投げかける。
ルーナは一瞬目を丸くしてから、少しだけ表情に影を落とす。
「いいえ―――――家族がいました」
ついてきてくださいますか?と、ルーナはクロイツを見上げる。
元よりルーナに導かれていたクロイツには、今更断る理由がなかった。
了承と受け取ると、ルーナは先ほどよりも静かな様子で歩み始める。
より深い、<迷いの森>の奥地へと。
「―――――この森は不思議な森で、傷ついていたり悲しんでいる子に道を開けてくれるんです。悪い方には道を開けてくれないので、どれだけ歩いても入り口で迷ってしまうようなのです」
その話が事実であるならば、おそらく人間だけではなく人ならざる者からも虐げられ、行き場を失くした者達の最後の楽園がこの森なのだろう。
「だからクロイツさまが来た時にすぐわかりました。悪い方ではないって」
例え、戦いで誰かの命を奪っていたとしても―――――と、小さな声で続ける。
「誰かを守ったり、大切なものを保ったりするには、ずっと、他に何も失わず損なわないでいるなんてこと、できないですから」
「……」
クロイツは、何も言わなかった。
「わたしたち人間もたくさん魔物を殺し、クロイツさまの同族の方も殺めたでしょうから、とても悲しいですけれど、争いとはそういうものなのでしょうね」
緩やかな坂道の道中、ルーナはぴたりと足を止めて振り返る。
「互いに殺し合い、憎み合って……そんなことばかりが起きている時代なのでしょうけど、きっといつの日か、手は取り合えずともお互いを許し合える日がくると、信じています」
―――――〝わたしは信じていたい。人間と分かり合え、共存できる世界を〟
ルーナの言葉と記憶の中の姉の言葉が重なり、クロイツははっとする。
「今、こうしてクロイツさまと一緒にいれていることが、わたしはすごく嬉しいです」
その微笑みは嘘偽り無く清く、穢れた世界には眩すぎた。
◆
「―――――ここは」
しばし森を歩き続け、辿りついたのは薄桃色の花が咲き乱れる花畑。
疎らな木々の合間を縫うように咲く花は、光のカーテンを思わせる木漏れ日を浴び、仄かな光を湛えながらクロイツ達を迎える。
ひどく神秘的で、どこか儚げな光景。
ルーナはなるべく花を踏まないようにしながら、花畑の中心部へと進んでいく。
少し間を開け、その後をクロイツが続く―――――長い外套が花の絨毯を撫でる。
「ここはこの森で一番綺麗な場所です。セレニアの花がいっぱい咲いていて、一番好きな場所でもあります」
そして―――――と、ある一点を指さす。
そこには二本の枝で作られた十字架が、花々に囲まれながら立てられている。
それが一目で何者かの墓標であることを、クロイツは察した。
「わたしのお母さんのお墓です。たった一人だけの、家族でした」
雨風の影響か、年期が入っているのか、少々傷んでいる墓の前に二人は並ぶ。
「お母さんはわたしが六歳の時に病で亡くなりました。それまでは、ずっとわたしを育ててくれていたんです」
森の歩き方や料理の仕方、魔物との接し方―――――今までわたしが生きてこれたのは全て、お母さんのおかげなんですと、ルーナは俯く。
「わたしたちの一族は普通の人とは違うから、こうして他の人がいない場所で暮らすしかないけれど……お母さんは本当に立派な人だったんですよ」
黄昏色の髪に瞳。
先天的であるならば髪も瞳も生まれ持った魔力等の影響を受け、特異な配色になる。
人間の髪や瞳の色としては、ルーナの持つ色は変種と呼ばれる部類だ。
それゆえに、未知を恐れる人々の迫害の対象になりやすい。
「わたしが産まれる前は同じ色の髪と瞳の人が何人かいたらしいですけど、お母さんが最後の生き残りだったんですって―――――一族で長い間人目を避けながら旅をして、最後に残ったお母さんが赤ちゃんだったわたしを連れて、この森で暮らすようになったと、小さい頃にお話ししてくれました」
赤子を抱き、石を投げる人々から逃れ、過酷な世の中で懸命に生き延びるために、隠匿の生活をおくる。
ルーナにとって身近な人間は、実の母だけだったのだろう。
そして唯一の肉親が病に伏せ、息を引き取ったことで、共に生きる同族を完全に失ったということもクロイツは理解した。
(唯一の家族)
ただ一つのかけがえのない存在を喪い、天涯孤独となる。
それは今のクロイツには他人事ではなく―――――思わずルーナに同情しかけた自分がいたことに気が付き、我に返る。
(戦死でもなければ、病死。短命で脆く、すぐに朽ち果てる)
ぽつりと、クロイツは呟く。
「人間とは、本当に弱い」
「―――――本当に」
クロイツの呟きに、ルーナが反応する。
ざあと、風が髪を揺らす。
「本当に、そう思いますか?」
それは母への侮りや人間への蔑みに対する怒りではなく―――――途方もない寂寥。
物憂げな表情は今までのルーナの明るい感情を掻き消し、悲しみとも異なる貌を貼り付ける。
一瞬、クロイツは時が止まったかのような錯覚を覚える。
それほどまでに心を動揺させる、予想外の返しだったのだ。
「お母さんは強い人でした。弱かったのはわたしです―――――わたしが弱かったから、お母さんを……」
自罰的な言葉。自責の念。
今まで垣間見せなかった自身の心内を明かしそうになったところで、ルーナは急に顔を上げる。
「このお話はやめましょうっ」
そろそろ戻りましょうと、悲しみを強引に振り払うように踵を返し、墓に背を向ける。
無理やり繕った笑顔を貼り付けて、ルーナはクロイツに笑いかけた。
「クロイツさまの傷が治り、無事に発てるまで、頑張ってお手伝いしますね」
(―――――この娘こそ)
健気なこの娘こそ、痛ましく、見えない傷に塗れているのではないか。
(だが、関係はない)
問題なく動けるようになればここを発ち、二度と関わることは無いはずなのだから。
―――――そのはずなのだから。
…続く