彼等次第 見慣れた銀髪を視界の端に映し、丹恒はパッと目を見開いた。
帰宅ラッシュで酷い混雑の中、他の人よりも頭ふたつ飛び抜けて身長の高い彼が窮屈そうに荷物置き場の金網を握って、もう片手に鞄を抱えている。普段は車を使用する彼が何故こんな電車に乗っているかの疑問よりも、その心もとない表情が可愛くて丹恒は小さく笑った。
さて、お付き合いをしている二人である。
相手を見掛けたのなら傍に行きたいのが普通だが、ここは大混雑した電車の中。下手に動けないし、動いたところでわずかな距離で、それ以上の迷惑顔が三六〇度から突き刺さるだろう。
少し残念だが、次の駅まで大人しくしてようと丹恒は吊革をキュッと握りしめた。どうせこの後も会う約束はしているのだ。恋人としての余裕をもって我慢しよう。
ふと、臀部に違和感を覚えた。
傍らのサラリーマン風の男のカバンが当たったのかと思った。これだけ混雑していれば仕方ない。
だがそれが、次第に男の拳だと気づいた。鞄を握っている手がたまたまその位置に来てしまったのだろう。不愉快だが、それも仕方のないことだ。
しかしその拳が明確な意志を持って臀部の中心に来た時、そして手の甲の関節部分を間に押し込まれた時、丹恒は明確に悟った。
――痴漢だ。
「っ!?」
その瞬間、身体中に鳥肌が立った。引くつく喉に呼吸がつっかえる。全身にさが強ばったところで、丹恒が気づいたことに気を良くしたのか、拳がゆっくりと開いて手の甲全体で臀部――尻の間――を擦り付けるように押し当ててきた。感じたことの無いじっとりとした動きに臀部に力が入る。その表紙に手の甲を強く挟んでしまったから始末に負えない。痴漢の指がバラバラに動き出して、不快感を更に上げた。
(こんな、変態に……!)
例えば自分が目撃者だとしたら、丹恒は素早く犯人を拘束して被害者を助けられる自信がある。丹楓に幼い頃から身を守る手段として槍以外にも護身の為に合気道も叩き込まれてきたのだ。混雑した電車の車内であっても、その力は存分に発揮されるだろう。
だが、今はどうした事だろう。
痴漢の指が好きに蠢いているというのに、丹恒は指ひとつ動かせないでいた。頭の中に悲鳴じみた心臓の反響音と、まとまりのつかない言葉が這いずり回る。早く犯人の手をひねり上げて動きを止めさせて、逃がさないように周囲にも知らせ、次の駅で降ろして職員に引き渡し、警察に連絡する。
やることは分かっている。分かっているのだが、身体が動かない。声が出せない。
虫唾が走る感触に、怯えてしまっているのだ。
そんな自分が信じられなくてパニックになる。当然出来ると思っていたことが欠片も実行に移せなかった。
(どうしたら――)
これ以上触れられたくない。今すぐ逃げ出したい。だが身体は丹恒の意志を全て無視し続けた。
辛うじて動いた指が吊革を強く掴んだ、その時。
「そこまでだ。――次の駅で降りようか」
低く冷たい、絶対的な命令の声が頭上から落ちてきたと同時に、臀部を好き勝手に触れ回っていた手が消えた。
ゆっくり振り返る。
そこには予想通り、景元が見たことの無い厳しい眼差しで痴漢の腕を抑えて立っていた。
ぐったりと力の抜けた体で駅長室の硬い椅子に腰掛けていると、ひんやりとした空気が額にくっついた。気持ちいい感触に顔を上げると、冷たいミネラルウォーターのペットボトルを持って景元が微笑んでいた。
「お疲れ様。もうすぐ丹楓が到着するから、もうちょっと待っててね」
「わざわざ兄さんを呼ばなくても……」
「ダメだよ。嫌でも今日は我慢してくれ」
やんわりと、でも有無を言わせない口調で景元が首を振る。それに逆らう気力も無く、丹恒はペットボトルを受け取って小さく頷いた。
景元がどうやって痴漢に気づいたのか、あの混雑の中どうやって丹恒の元に辿り着き助けてくれたのか。少し冷静になって湧き上がる疑問はあるけれど、とにかく丹恒は疲れ切っていた。
痴漢という卑劣な犯罪の被害者になったのはもちろん初めてだが、こんなにも恐ろしくて心が傷付けられる目にあうとは想像も出来なかった。景元に助けられた瞬間も、駅に着きずっと付き添われて手続きをさてる最中も、心ここに在らずでほとんど放心状態だった。
冷たい水が唇を濡らし、ざらついた口の中を洗い、喉の奥へと流す。体の中心を通る液体が、エアコンが効いてるはずの室内でも暑くて仕方なかった丹恒を少し落ち着かせてくれた。
駅長室では、丹恒を更に余計な色眼鏡に晒されないようにと『友人の弟』と形式だけ名乗って代わりに手続きのやり取りをしてくれた景元が、静かに隣に座った。
彼の手にもある同じペットボトルが少し凹んでいる。
「……」
すまない、も。ありがとう、も。今の丹恒の口からは出なかった。ただ、手を繋いでほしいと思った。それだけで、いつもの自分に戻れる気がした。
けれども景元の両手はボトルを強く握るしかなくて、丹恒を見ようともしない。
それが酷く寂しくて、丹恒は再び俯いた。
「すまない」
ポツリと景元が呟いた。それは丹恒の好きな甘く軽やかな声ではなく、水中の奥深くに沈んでしまったかのように低く鼓膜を振るわせた。
一拍置いてその言葉の意味に気づいた丹恒が慌てて景元の顔を覗き込んだ。
「貴方のせいじゃない!」
だが青年は首を振る。
「痴漢にあわせるなんて……私は自分が腹立たしいよ」
「だから」
「本当はね、丹恒が同じ電車に乗ってたこと、結構前に気づいてたんだ」
丹恒の否定の声に被さるように、憔悴した言葉が告白を重ねる。
「後でこっそり側に行って驚かせようと思ったんだ。馬鹿だな、そんなことせず直ぐに君の所へ行けば、こんな被害に会わなかったのに……」
「全くだな」
景元が八つ当たりするように両手でペットボトルを潰した時、艶のある低い声が二人の頭上から降ってきた。
誰が、なんて考えるまでもない。兄の丹楓が到着したのだ。
長い髪を一つに纏め、珍しいジャケット姿で現れた丹楓は景元を睨みつけ、そして丹恒に視線を移した。
翡翠の中にある慈愛の眼差しに、丹恒はここで初めて泣きたくなった。
細く綺麗な手が伸びて、丹恒の頭を数回優しく叩いた。
「後で共に帰ろう。車を用意した」
「はい……」
「景元、歯を食いしばれ」
「!?」
その乱暴な言葉に丹恒が止める間もなく、立ち上がった景元の腹に丹楓の形の良い膝が綺麗にめり込んだ。
「ぐっ……!」
「ちょ、お客さん!?」
驚いたのは丹楓をここまで案内してきた駅員だ。初老の彼は突然の暴力に目を剥き、止めようと両手を広げるも丹楓の気迫に飲まれたように動けず戸惑った。
そんな駅員に同情しつつ、丹恒もこれ以上はと兄を止めようと立ち上がる。既に警察も居るのだ、兄まで逮捕されては敵わない。
「兄さん、もう止めてくれ!」
「我が弟を危険に晒した罪、万死に値するが……長い付き合いもある。丹恒の顔に免じて明日から一週間、道場に来ることで赦してやろう」
「けほっごほっ……うん、わかった」
「いや、もうこれ以上はない! 来なくていいから!」
助けてくれた相手に対して厳しすぎる兄の罰と、それを甘んじて受ける景元の間に立つ。駅員はとっくに蚊帳の外だ。
焦る丹恒の頭を、今度は景元が撫でて少し乱れた髪を梳いてくれた。
「君は気にしないで」
「だが……!」
そこで奥の扉が開いた。鉄道警察が丹楓の姿を察して、「こちらへどうぞ」と促す。景元も揃って大人二人が犯人も拘束されている奥の部屋へ入っていった。一人残された丹恒は力なく再び椅子に戻る。駅員が彼を気遣って、もう一本ペットボトルを渡してくれた。
煙草の煙がゆっくりと男の手元から揺らぎ、窓から夜の空へと登っていく。
風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭きながら、丹恒は少し驚いた。
「吸っているところ、初めて見た」
「うん?」
下ろした髪をふわりと夜風に流して景元が振り返る。その顔にはハッキリと疲れが見て取れた。
泣きぼくろの目元にクマが薄らと這う。
「ああ、煙草かい? 人前では吸わないけど、たまにね。君に匂いを移したくなかったし」
「別に構わない」
「私が嫌なんだよ」
携帯灰皿を取り出して、丹恒が部屋に入る前に半分以上長かった煙草を手早く揉み消した。
銀色のケースを煙草の箱ごと畳の上に放置しているジャケットの上に放り出して、窓から乗り出していた体を戻して丹恒に向き直った。
「おいで、拭いてあげよう」
「ん……」
手招きする景元に素直に頷き、両手を広げる彼に背中を向けて座った。ポスンと、意外と逞しい胸板にもたれ掛かる。
いつもとはほんの少し違う景元の嗅ぎなれた匂いが、入浴剤の香りを薄めていく。
「嫌いじゃない」
「そうかい?」
「何となく、落ち着く……」
彼のシャツが濡れるだろうと思いつつも、もっと距離を無くしたくて頭を景元の胸板に押し当てた。「これじゃ拭けないよ」と笑われた。
「今夜は泊まっていくんだろう?」
「そうだね。丹楓の説教でクタクタだよ」
「本当に一週間も道場に来るのか?」
「お兄さんの怒りが解けるまでは」
「俺が必要ないと言ってるのに……」
「あはは、まぁこれもケジメだよ」
柔らかく髪を拭っていた腕が、ふと離れたと思ったら丹恒を抱きしめた。煙草の匂いが強くなる。
「今日は、ごめんね」
「もう何度も聞いた。それに貴方のせいじゃないって何度も言った」
「うん、ごめん」
それにまた否定を言おうとして、丹恒は止めた。ずっと堂々巡りだ。ここは彼の気が済むまで言わせた方が懸命なのかもしれない。
抱きしめられた腕に自分の手を置く。風呂で温まったはずなのに、すでに景元の体温よりも低くなっているらしく、彼の腕が暖かく感じた。
ほぅ、と温かさに気が緩む。
「……ありがとう」
サラリと白銀の髪が肩口で揺れる。小首を傾げたのだろう景元に、もう一度言った。
「今日は助けてくれてありがとう」
「丹恒……」
「嬉しかった。でも……」
キュッと腕を抱きしめた。
「……怖かった」
その瞬間、丹恒は全身を強く抱きしめられていた。
暖かな体温が夜風に冷えた肌から体内へ、じんわりとうぶ毛を逆立てて、丹恒が微かに息を吐いた。昼間とは違う震えが這い回る。
気持ちいい。
「もう二度と、あんな目には合わせないから」
甘いあまい囁く声が、丹恒の鼓膜に注がれ染み込む。はっと熱い息が漏れて、少年は後ろを向こうとして胸板に頬を擦り付けた。
「もう、いい」
「丹恒?」
丹恒の様子に景元が気づく。抱きしめる腕の力が緩まったのに不満を覚えて、その手を強く掴んだ。
「怖かったんだ。まだ、完全に俺は貴方のものになっていないのに、知らない男に触れられて」
「っ!?」
景元にも触れられてない奥を暴かれそうで、心から恐ろしかった。
「貴方はちゃんと俺を助けてくれた。それでも俺に謝るんだったら……」
どくどくと心臓の音がコメカミに響く。昼間あんなことがあったばかりなのに、これからはしたないだろうセリフを言おうとしてる自分が信じられない。もしかしたら、あまりにも常識がなくて景元に嫌われてしまうかもしれない。
それでも、丹恒は言いたかった。彼にその願いを叶えて欲しかった。
「……だったら、早く俺を抱いてくれ」
掴んでいた腕を捻り、体全体を大きく動かす。一瞬の隙もないほど綺麗に相手を引き倒し、丹恒は驚いたまま固まっている景元に馬乗りになった。
「え……?」
「今すぐ、俺を抱いて」
切れ長の垂れたトパーズの目が、大きく見開かれる。その蕩けそうな目を見つめながら、丹恒はゆっくりと身を伏せて男の唇に自分のを押し当てた。
開け放たれた窓から夜のささめきが夏の粉雪のように舞って入る。柔らかい感触を味わいながら、丹恒は肩に触れてきた手の平に期待した。
「ということで、丹恒を守り隊、一番! 三月なのか!」
「二番にして不動のエース、穹!」
それぞれカッコつけた二人の姿に丹恒は朝からゲッソリとした顔で一応突っ込んだ。
「買収されたな?」
「ゴンチャの回数券なんて初めて見たし」
「太るぞ」
「アーチェリー部にダイエットの文字はないんだよ!」
夏休み中の登校日である。
丹恒は風紀委員の仕事と図書館へ。三月はアーチェリー部の練習。穹は恐らく、今日部活をしている運動部のどこかへ助っ人として呼ばれているのだろう。
二人が丹恒の登校時間を見計らって家にやってきたと同時に、ガレージに車が入ってきた。白いセダンは見慣れたもの。丹恒がこの夏から頻繁に助手席に乗るようになった車だ。そしてこの一週間、兄を訪ねてやってくるものでもある。
車のエンジン音が止んでしばらくして、景元がガレージから出てきた。サマージャケットのカジュアルな姿で、丹恒に笑顔で「おはよう」と手を振って見せた。
「……過保護」
「そんなとこ言わないでくれよ。車で送っていくのも我慢してるんだから」
丹恒の半眼に垂れた目が苦笑する。わざわざ三月と穹を連れてきて護衛を頼むなんて、過保護以外の何物でもないだろうと丹恒は思う。
しかし、その気持ちは嬉しいとも素直に感じた。
照れた顔が見られないように少し下を向いて家の門を出る。
あの夜のことを思い出す。
肩をぐっと掴んだ手に行きおい良く身体を離され、丹恒はその反動で畳の上に逆戻りした。顔を真っ赤にさせた景元が息も荒く、珍しく、いや、この時始めて少年を睨みつけた。
「君はまだ高校生だろう!」
「年齢は関係ないと言ったのは景元だ」
間髪入れずに答える丹恒に、景元がぐっと喉を詰まらせる。それでも頭を振って少年の肩から手を離さずに弱弱しく言った。
「俺が今、して欲しいんだ」
「昼間のことで混乱しているんだよ」
「冷静だ」
「丹恒……」
まるで迷子の子猫のように切なく懇願する景元に、さすがの丹恒も強気を維持するのが難しくなってくる。大人しく畳に座り、それでも、と肩の景元の腕に、彼より少し小さめの手を乗せた。
「年齢は関係ないと、貴方も言ったじゃないか」
告白された時の言葉を繰り返す。その言葉は、付き合いを始めた今なら心から理解できるものだ。ならば、と。この関係を進めることだって、可能なはずだ。
だが景元は頑なに「そうじゃないよ……」と悲しそうに訴える。これでは丹恒のほうが何かいけないことを強要しているみたいだ。半分はその通りだが。
「お願いだ、もっと君を大切にさせて……」
「十分そうしてもらっている。何が今までと違うんだ」
「……」
肩を掴む腕が緩む。その大きな手が重ねていた丹恒のを取って、二人の間に置かれた。
「景元?」
「二度と、君を離せなくなるよ」
しっとりとした声が、震えるように呟く。その声があまりにも真剣で、丹恒は息を浅くした。
「もちろん、今だって君を手離すつもりはない。けれど君は若い。これから新たな出逢いだって何度もあるだろう。その中で、もしかしたら私と別れる場合があるかもしれない」
「そんなの無い」
「……うん」
丹恒の声に、嬉しそうに景元が笑った。「でもね」と続ける。
「もし万が一、そんな時が訪れた場合は、私は笑顔で君を送り出したい。幸せになっていく君が見たいから。何より君が大切だから……」
まだ少し濡れた髪を撫でられる。毛先がクルンと跳ねて、小指に引っかかった。
「でも、今ここで君を抱いたら……もうそれも出来ないだろう」
「……」
「一生、君を閉じ込めて離さない」
髪を撫でた手にそっと頭が後頭部に回って引き寄せられ、真綿に触れるほど優しく抱きしめられた。
「それでも、私のものになってくれるというなら」
彼の必死の言葉に、それ以上、丹恒は何も言えなくなってしまった。
「それにしてもさ、珍しいってか、初めてだよね、丹恒が引ったくりに会うの」
「オーラがあるから生半可な気持ちじゃ事に及べないよな」
「及んでたまるか」
「なんかふにゃふにゃしてたんじゃないの? 景元さんと同じ電車で嬉しー! とかさ」
「っ!」
図星だ。
「……早く学校に行くぞ」
「あ、ごまかした!」
「これは調査の必要があるな」
はしゃぐ二人を連れて駅へ向かう。その後ろ姿を景元が「気を付けてね!」と明るく見送った。
ちらり、と視線を後ろに流して彼を見る。白銀の長い髪をポニーテールにして、サマージャケットを羽織り、車のキーを指に引っ掛けて笑顔で丹恒を見守る彼。飼っている子猫はとっくに離乳食を卒業して元気にカリカリを食べているそうだ。
『君が、一八歳になったら……』
自分が一八歳になったら。その言葉が脳内をリフレインする。
一八歳になって、高校も卒業したら――。
真夏の蝉が激しく鳴く。秋の気配は遠く、桜の葉も青々として木漏れ日を白い地面に落とした。
汗ばむ肌を手の甲で拭って、丹恒は友人と歩き出した。