続・彼等次第 額に唇が置かれた。ハッと息を飲む。丹恒が動けない間にも男の形の良い唇はするりと髪を辿って、耳に行き着いた。
「じゃ、丹恒……またね」
甘い囁きが鼓膜に直接吹き込まれる。頭が真っ白になり、思わず全身から力が抜けて丹恒は後ずさり何とか耐えた。
白露が丹恒の部屋に置いていった大きめのクッションを力いっぱい殴りつけ抱きしめて、少年は体中で暴れる得もしれない感情に必死になって戦っていた。
(今日も何も無く帰された……!)
麗らかな春の陽気の中、大学に無事合格した丹恒は入学直前の何者でもない春休みを満喫していた。といっても、いつもの三人で集まって遊びに出たり、大学入学の準備に追われたり、兄の道場で稽古をしたりといたって特別何かある日常ではないのだが……それでも一つ、大きな期待を胸にしていた。
恋人のことだ。
『君が一八歳になって、高校を卒業したら……そしてまだその時に気持ちが変わらなかったら、君を抱かせて?』
もう、去年の夏の事だった。
それから数々のイベントを健全に過ごしてきた二人は、丹恒の誕生日も皆で祝い、クリスマスも丹楓宅ではしゃぎ、正月も粛々と過ごした。
そして卒業式。
クラスメイトたちとの打ち上げ後、丹恒は迎えに来ていた景元の車に一泊分の荷物を抱えて乗り込んだ。
車の窓から今にも綻びそうな桜の蕾たちを眺めながら、まだ夕方にもなっていないのに心臓を早鐘のように鳴らしながら助手席に座り、運転する景元の様子を伺っていた。
涼し気な目元は前を見ながらも、丹恒の視線に気づいたのか表情は柔らかくなり、「どうかした?」と尋ねてくる。
その微笑みだけで、あの時は顔が熱くなってしまったものだ。
期待した。それはもう、存分に期待した。
一八歳になり、高校を卒業した日なのだ。さらに彼の家で卒業を祝い、泊まる予定だったのだ。朝からシャワーを浴び入念に身体を洗って準備するのも当然だろう。荷物の中にネット通販で買ったローションとゴム(サイズが分からなかったから取り敢えずLを選んだ)も忍ばせた。明日の自分は今日とは違うんだと、遠くない未来に浮かれきっていた。
だが、現実の未来は拍子抜けする程に同じだった。
景元はその夜、丹恒を抱かなかったのだ。
二人の時間を過ごし、さてベッドへ向かおうとなった時、彼は額にキスをしてそのまま丹恒を抱き締めて眠ったのである。
今にも心臓が口から出そうなくらい緊張していた少年は肩透かしを喰らい、景元の穏やかな寝顔を至近距離で見つめながら眠れぬ夜を過ごしたのだった。
それから二週間が過ぎた。
春休みも後半に差しかかろうとする今現在まで、未だに丹恒は景元と夜を共にしていなかった。二人で出掛ける機会は何度かあったが、最後にはきちんと自宅まで送り届けられてキスをして別れるのである。
「なんで……!」
ままならない気持ちが頭の中を混乱させる。唇が触れた額や、声を吹きかけられた鼓膜が未だに熱い。
まさか――
「飽きられた……?」
可能性は、なくも無い。
彼はまず見た目も良く、優しく好感の持てる男だ。仕事もモデル関係の会社の代表をしており、地位も金もある。さらに魅力的だろう大人たちに囲まれて日々を過ごしてると思われる。
乱暴な言い方をすれば、たかが一人の高校を卒業したての子供に、執着する理由もない。
思えばこの一年、彼がずっと丹恒と共にいたことが不思議なことだったのかもしれない。
今までどんな我慢を強いてきたんだろう。
「……」
その時、傍らに投げ出されたスマホが震えた。のろのろと手に取ってみれば、親友からのメッセージだ。
『久しぶり! 元気か?』
と、昨日会ったくせにとぼけた台詞と、可愛らしいウサギのスタンプがピロンと送られてきていた。
ふと、丹恒は軽い気持ちで文字を打つ。
「これは例え話なんだが、知り合いが恋人と先に進めなくて落ち込んでるんだ。これは別れる前兆だと思って良いだろうか……」
バレバレだろう。丹恒が景元と付き合っているのは三月も穹もとっくに知っている。その上でこんな相談をすれば、丹恒自身の悩みだと簡単に察せられるだろう。
でも彼は今、無性に誰かに話を聞いて欲しかった。
既読後暫くして、ピコンと返信がきた。画面を覗き込む。
そこには、簡単で複雑な言葉が書いていた。
『迷うな、やれ』
第三八四回・五騎士飲み会
そう書かれた手作りのボードが個室の三和土に置かれているのを見た瞬間、居酒屋のアルバイト店員である彼女は、どんな酒好きどもが騒いでるのだろうとゾッとした。
容姿の良い彼女は、こういった客から八割絡まれる。だから嫌なのだ、居酒屋のバイトなんて。今日で辞めるからもう関係ないけど! と大量の酒を乗せたお盆を持つ手に力を入れる。
「失礼しまーす!」と顔の表情筋を力いっぱい笑顔にして入っていったところ、しかし中にいるのはそうそうお目にかかれない美男美女の面々だった。
「こちら、ビールのピッチャーと、なり、ます……」
「ありがとう。貰うよ」
銀髪と言うのだろうか、綺麗な白髪の青年がニッコリと笑って彼女からピッチャーを受け取る。イケメンと居酒屋のビール、似合わない。
「はい、丹楓」
「ん」
それを受け取る黒髪の美女……いや、美男子は、さらにビールが似合わなかった。
「熱燗は私だ」
と言った美女が、大きいけれど切れ長の目で青年に目配せした。
「カシオレこっちでーす。応星はー?」
「芋焼酎」
明るい美少女が眉間にシワの跡がくっきり残ってる、こちらもまたイケメンにグラスを渡す。
「モヒートはこちらに。取り敢えず以上かな?」
注文された主に酒類を渡し終わり、また笑顔で「失礼しましたー!」と元気よく出ていく。しばらく個室の前で呆然とする。これ程の顔面偏差値の高い空間、こんな繁華街の居酒屋に存在していることがまだ信じられない。
通りすがりの同僚に「どうした?」と軽く頭をお盆で叩かれるまで、彼女は先程のキラキラ空間に心奪われていた。
友達に誘われるままに初めて数年。自分に合っているバイトとはいえない。だから今日で辞める予定だったのだ。しかし彼女が後日辞意を撤回して猛烈なシフトをこなすようになったのは、忙しい雇われ店長にとっては嬉しい誤算だった。
「で、景元よ。丹恒とはどうだ?」
「っ!?」
熱燗のお猪口を綺麗な指でつまみながら、鏡流が話の火蓋を切って落とした。
丹楓のビールのグラスを持つ手に青筋が走り、同時に景元の背筋には冷や汗が高速で流れる。
我関せずという風の応星も、その隣で笑顔でサラダを取り分け皆を見守る白珠も、耳ざとく聞いてるはずだ。
爽やかなミントの香りのアルコールをテーブルに置いて、景元は深く深くため息をついた。
「師匠、せっかく久しぶりに五人で集まったのだから、そんな話は――」
「その様子だと、上手くいっておらんようだな」
「うっ」
鏡流の言葉に言葉が詰まった景元に、ビールのグラスが悲鳴をあげる。
「なんだ景元、丹恒に不服があると?」
それはナイナイと白珠がジェスチャーするのに激しく同意し頷きながら景元は丹楓と鏡流に向かってテーブルに身を乗り出した。
「あの子に不満なんてある訳ないだろう!? 私たちは十分上手くいっている。互いに少し求めるものが違うのは……どんなペアだって同じだよ」
「それって丹恒くんに不満があるってことですよね?」
「だから白珠、不満なんかじゃないんだ」
「ならば何だ、はっきり言え!」
一瞬でグラスを空にした丹楓の鋭い視線が痛くもない胸に突き刺さる。
この一年、ブラコンぶりを大いに発揮して何かと景元を義理の兄からの仕置として道場に引っ張り込む丹楓だが、その愛のムチとも言うべきものは苛烈だった。いつも見える場所には打ち身を作らせずに稽古槍で打たれ体術で投げ飛ばされ、鍛えに鍛えられた景元だった。
今も正に拳を握り腹に力を入れろと言われかねない状況に慌てて座布団の上から体をずらし丹楓と距離をとる。
「丹恒に不満を持つわけが無い! ただあの子が私に……」
「貴様に?」
「……物足りなさを、感じているだろうなとは、自覚しているよ」
勢いを失った景元の言葉に、丹楓の拳が緩む。どうしたのかと三人は景元の顔を覗き込み、応星は酒とツマミを追加した。
「まだ抱いてないっつーことか」
「応星!?」
にべも無い言葉に景元は再び冷や汗を全身にかく。まだ飲み会は序盤だというのに、彼はもう一刻も早く帰りたくて仕方なかった。こんな時こそ丹恒を抱っこして髪を吸い、安らかに眠りたかった。
だが親友たちはそんなこと、これっぽっちも許してくれるはずもない。
まずは丹楓の拳が予告無しに脇腹に炸裂した。
「うぐっ!」
「あ、すまん、つい腹が立った」
「なん、で……!」
「あれもついに大人の階段を上るのか……」
真顔の丹楓が謝りつつ、景元を無視した。複雑な兄の感情を思い知る。
問題発言をした応星は芋焼酎をチビチビ飲みながら、呆れた顔で脇腹を抑える景元を見た。
「お前な、丹恒に言ったんだろうが。高校を卒業するまで待ってくれって。もうとっくに卒業したぞ?」
「なんでそれを知って……いや、でも三月中は高校生だ。まだその時じゃ」
「普段はこっちが恥ずかしいくらいボディータッチしてくる癖に焦らす男ってムカつきますよね」
「全くだ」
「師匠まで!」
酷い言われように景元は酔ってもいないのに吐きそうだ。
確かに、彼らの言いたいことはわかる。
手を繋いだり抱きしめたり、キスなんて唇では無かったが恋をしてすぐに済ませてしまった。二人で出掛けるのも、(保護者と同じ屋根の下だが)互いの家に泊まるのも頻繁だ。
丹恒と恋人と呼べる間柄になって、この夏で一年が経つ。桜の花が満開のこの季節、夏なんてあっという間に来るだろう。
付き合って一年と言えば、大人の恋人同士ならとっくに体の関係を持っているものだ。そうじゃなくても、最近の若者はセックスに抵抗はなく興味ばかりで、中学生で初体験を済ませている子も多いらしい。それなら一七、八歳の最も多感な年頃の少年は、どれほどのものだろう。ましてや丹恒は早い段階で景元に抱かれることを望んでいた。
しかし、景元はそれを拒んだ。一時の感情だろうと宥め、落ち着かせ、未来に約束した。
丹恒への想いに年齢は関係無いと自分から言いつつ、やはり制服を着た姿に罪悪感と、大人が子供に対して持つ庇護欲が邪魔するのだ。
丹恒を抱きしめたい。キスして、穏やかな時間を過ごしたい。強気な彼とは時々喧嘩もするだろう。それを宥めて話しあって、お互いを理解して愛を囁いて……。その気持ちに嘘はない。だから景元も普段から彼に触れるし、キスもする。彼とのセックスも、何度も夢に見た。
だが、どうしてもチラついてしまうのだ。まだ赤ん坊の姿や、丹楓が頻繁に送ってくる幼い頃の写真が。
自分でもままならない相反する感情に、景元も涼しい顔の裏で悩んでいた。
およそ一年前に再開した時の、凛々しい姿に心奪われた。過ぎた春の訪れのように胸が高かった。
美しい姿勢に、所作に、気遣いに。怒った表情とはにかむ笑顔が愛おしいと、今でもたまらなくなってしまう。抱き締めたい。
キスをして、その肌にも唇を寄せたい。触れたい。彼の奥の奥まで……だがそう思った瞬間、制服から覗く細い首筋と、幼い少年の姿が頭の中で交差する。
あの純雪を自分が荒らしていいのか。
あと一歩、景元は足を踏み出すことが出来なかった。
だが、言い訳の時間は終わった。今日は三月二五日。もう覚悟を決めなければいけない。
半分ほど氷と同化したモヒートのグラスを持ち、一気に飲み干しテーブルにやや乱暴に置いた。
それまでの景元とは異なる様子に親友たちの目が更に注目する。
丹楓が嫌そうに顔を背け、同じくピッチャーの最後の中身を空にした。
「とにかく、私たちは、大丈夫だから」
それだけ言って、景元は席を立った。
第三八四回・五騎士飲み会はささやかな酒とツマミだけで静かに一旦は閉幕した。