彼等次第 掠れた星空の下で、ライトアップされた桜が白く華やかに舞い散る。四人と別れた景元は通りかかった小さな橋で、そんな桜を見るともなしに眺めた。
「綺麗だな……今度、丹恒も連れてこようか」
自然とそんな独り言を口にする。きっと自分の隣に寄り添う丹恒も、口元にほんのり笑みを浮かべて桜を楽しんでくれるだろう。
先程の飲み会であんなに彼との距離に戸惑いをあらわにしていたくせに、景元はすぐにスマホを取り出し丹恒の名前を呼び出した。恋人の期待に応えられていない男が、調子のいいことだ。丹楓たちに知られたらまた非難されるだろう。自分が一番そう思っている。
メッセージアプリに何件かの新着の知らせが赤く表示されている。アプリを開く。すると、新着の名前の中に丹恒がいた。
今まさに逢いたい人の名前に、後ろめたさは引っ込み、素早くその名前をタップした。
『マンションで待ってる』
二時間前に送信された一言に息を飲む。今夜は特に約束はしていない。丹恒も兄の予定から景元が飲みの席に居ることを知ってただろう。それでも二時間も恋人を待たせていることに心臓が止まりそうになった。
桜に後ろ髪の一筋も引かれず足早に橋のある住宅街を抜け、タクシーを拾う。最短で走ってもらい、一五分。マンションのエントランスをもはや走って駆け抜け、一二階の自宅に辿り着いた。
合鍵で開いていた部屋のリビングで丹恒はソファーの横で愛猫と猫じゃらしで遊んでいた。
「丹恒……!」
「おかえり」
「みゃ~!」
春の夜はまだまだ肌寒く、エアコンもまだ必要な時もある。愛猫の為に二四時間起動している空調のお陰でリビングは暖かいが、カジュアルなスプリングジャケットを着たままの丹恒は微笑んで景元を迎えた。
「すまない、遅くなった」
「いや、約束してないし。丹楓たちと飲んでたんだろう?」
鞄にスーツのジャケットにネクタイと、ぼとぼと床に落としながらソファまで歩き、ついさっきまで外に居たかと思うほど冷たい丹恒を抱きしめる。
「冷たい……」
「ベランダで桜を観てたから」
「そっか。私もちょうど観てたよ。一緒だね」
ぽふりとくせ毛の旋毛に顔を伏せると、擽ったいと身を捩られた。
景元の肩から力が抜けていく。張りのあるソファに腰を下ろして、改めて頭一つ分以上低い位置にある丹恒の髪に頬を寄せた。景元の代わりに愛猫がトタトタと離れて、鰹節の香りが漂う餌皿に向かう。
「なんだ、丹楓に何かされたのか?」
「いや、なんでもないよ」
臍の辺りからじわじわと暖かいものが体に広がり、複雑に入り組んだ頭の中をほろほろと解いていった。ただただ青年が愛しかった。
「逢いたいと思っていたら逢えたから」
「俺に?」
「他に誰が居るんだい」
「……そっか」
はにかむ丹恒の表情が愛らしくて、抱き締める力をグッと強くする。
「痛い」
「ん、」
「本当にどうしたんだ? 酔ってる貴方なんて見たことない」
そうか、自分は酔ってるのか。そう思えばふわふわした感覚も雑多に纏まらない思考も納得出来る。
柔らかい丹恒の髪から爽やかなシャンプーの匂いがする。こんな時間だ、先に家で入浴も済ませてきたのか。だが、どうしてこんな時間に景元のマンションに居るのかは酔った頭でなく素面でも分からなかっただろう。
景元の体温が移って丹恒の頬にほのかな赤みが指す。さて、と、身体を少し離した。
「そういえば、今夜はどうしてここに?」
「それは……」
「うん?」
言いずらそうに丹恒が口篭る。
「丹恒こそ、どうしたんだい?」
そう笑いながらも焦らせることはせず、背中を撫でて青年の言葉を待つ。エアコンの起動音と、外の囁かなざわめきと、二人の呼吸の音だけか広い室内にしんと積もる。
「……貴方に抱かれに来た」
丹恒の囁く声がその静寂を払った。想像もしない、いや、いつ言われてもおかしくない言葉に景元は目を見張り、直ぐにその目を閉じた。
言葉の意味を正しくゆっくりと咀嚼する。
「丹恒、それは」
「はしたないことを言ってると自覚している。嫌ならそう言ってくれ。覚悟はしてる。……了承出来るかは分からないけれど」
「了承?」
「……万が一の場合は、貴方と別れることだ」
「はっ!?」
暖かい空気が一瞬で冷えた喉に引き込まれて音量と反比例して悲鳴が細く出る。
灰色の脳が反射的に拒絶した言葉に目を大きく見開き、景元は信じられないとばかりに丹恒を凝視した。
思わずガシッと青年の両肩を掴む。
「丹恒っ」
「だが、無理だな」
詰め寄る瞬間、だが景元とは逆に静かな声がとつとつと続けた。
「言った瞬間、絶対に離れたくないと思ってしまった」
「丹恒……」
泣きそうな顔で無理やり笑おうとしたクシャリとした表情に、景元の胸は今にも止まりそうなほど早くほど鼓動を打った。
震える声で丹恒が続けた。
「……俺は、後悔したくない」
愛猫の小さな足音が隣の部屋に消えた。景元が纏っていた春のささめきがしっとりと二人の間に落ちていった。
「この先本当に別れることようなことが起きても、俺は全力で貴方を好いていたし、貴方も俺を愛してくれていた」
翡翠よりも濃い、青灰色の優しい彩りの瞳が少しの薄い波を漂わせて、今度こそ微笑んだ。
「だから、その証じゃないけれど……どうか俺を抱いてくれないか?」
その瞬間、景元の中の最後のガラスの壁が砕けて散った。
おなかいっぱいになった猫が愛用のクッションを寝床に気持ちよく寝息を立てる。
暖かいリビングから移動して、ひんやりと底冷える寝室で二人は肌を合わせてそこから熱を交換しあった。何度目かの深いキスに丹恒の薄い唇はふやけ、ぽってりと赤く色づく。
「はっ……!」
「ん」
丹恒が息継ぎをするのを許さないように、逃げる唇を追って直ぐにまた塞いでしまう。こんな乱暴なキス、彼はまだ知らないだろう。この一年、大切に大切に慈しんできたのだ。知っていてたまるか。
綺麗に付いた筋肉を撫で、明らかに自分のものではない滑らかな肌をくすぐり丸い尻の谷間に指を忍ばせる。たっぷりとローションを塗りこんだそこは初めて異物を飲み込ませるというのに喜んで景元の無骨な指を迎えた。驚くほどスムーズに襞を蠢かせ濡れた奥へ奥へと引き込んでいく。
「んっ、ん――……!!」
だがその秘所とは正反対に丹恒は甲高い声を無理やり抑え込むように耐え、抱きついた景元の体に爪を立てた。
「大丈夫かい?」
「うっ、へい、き、んぅっ!」
全身を桜色に染めて強ばらせる丹恒が声を耐える為に唇を噛みしめるのを、薄く広い舌でべっとりと舐め上げる。すると緩んだ唇の併せに滑り込み、歯列を割って中で相変わらず小さくなってる丹恒のそれをチロチロと舌先でくすぐった。
「んっ、ふっ」
「ふふっ……可愛いね、丹恒」
吐息の合間にからかうと、真っ赤な顔がさらに赤くなる。熟しきった林檎にかぶりつきたいとも思うが、それよりもと暖かい泥濘に包まれてる指先を丁寧に広げ、進めた。
ぷっつりと立ち上がっている乳首を自分のモノと擦り合わせて刺激しながら、勃起したペニスを丹恒の太ももに強く擦り付けると一際大きく身体が揺れた。
「あっ!」
その一瞬に怯えて力が抜けた青年の泥濘に、三本目の指を突き入れた。
「んぐっ、ん~~~!」
「柔らかくなってきたね」
景元の指の感触に必死で耐える丹恒を差し置いて、暖かく柔らかい胎内を先程よりも大胆に掻き回していく。滑らかな凹凸の肉壁はローション以外のものでも潤い、甘い匂いをふつふつと漂わせては男を誘ってきた。確かな愛液の匂いに腹の奥が刺激され、ペニスはさらに勃起する。
「男の子でも濡れるって本当だったんだ」
「あっあ、あ」
「潮も吹けるんだよ、知ってたかい? ……もう何言ってるか分からないかな?」
赤ん坊のような愛らしく柔らかい声しか出さなくなってきた丹恒に苦笑して、ちゅぽんと音を立てて指を引き抜いた。
先走りで濡らしてしまった彼の太ももを撫でて、筋肉の形を楽しむ。ひとしきり弾力のある凹凸を掌に馴染ませて、景元はそのビクつく太ももの裏に両手を差し入れた。
「少し体勢が苦しいだろうけど、頑張って」
「あっ、」
「愛してるよ、丹恒……」
「なんだ、その面」
「いわゆる男の勲章さ」
整った顔の両頬に真っ赤な紅葉のカタチをした跡をつけながら、ニコニコと景元が応じる。明らかな痴話喧嘩の後をご機嫌に見せつけられて応星は嫌そうに顔を歪めた。
そんな彼らの後ろではたった今景元の車から出てきた丹恒が真っ赤に晴らした目元を隠すこともなく機嫌悪く鼻を鳴らした。ここは彼の家である。朝帰りということは、そういうことか。
だが何故丹恒はこんなに不機嫌なのだろうか。景元に抱かれたいと強く望んでいたのは彼の方だったのに。
いつもより綺麗に梳かされたサラサラのくせ毛に手をポンと置く。景元が視界の隅で眉を歪めた。知るか。
「どうした、ヤッたんだろ?」
「!」
のべつ無い竹を割ったようなハッキリそう聞いてきた応星に、一瞬ビクリと肩を震わせたが丹恒はすぐに頬を膨らませて頭を左右に振った。
「……てない」
「ん?」
振り払われた手を宙に浮かせる。聞き直すと、今度は真っ赤な目でキッと睨みつけられた。
「っしてない、最後まで……!」
「……」
「もう寝る! おやすみ!」
そう吐き捨てると、小鳥がぴちゅぴちゅ鳴く朝に似合わない挨拶をして丹恒は玄関の中に入っていった。
幼なじみの二人の間に沈黙が落ちる。
恋人を怒らせているというのに「拗ねる顔も可愛いな」とだらしなく鼻の下を伸ばしてる景元に、応星は無表情で聞いた。
「お前、インポか」
「失敬な」
すぐさま否定されて、確かにと納得する。この歳だ、もしそうならもっと若い頃に相談なり酒のネタなりするだろう。
「女性じゃないんだ。事に及ぶならきちんと準備しなきゃね」
「……あぁ、それな」
「そう」
まだ跡がくっきり残ってる頬を嬉しそうに撫でながら、景元が心から嬉しそうに笑った。
「でも、しっかり満足させたはずさ。なのに朝起きたらあの子ったら怒って。何度も叩かれてしまったよ。可愛いなぁ」
「お前、そういうとこだぞ」
丹家の朝食に呼ばれて帰るところだった応星は、景元の車に寄りかかりニヤつく幼なじみにドン引きしながら距離を取って懐から取り出した煙草に火をつけた。
この一年、景元は丹恒をとても大事に扱っていた。それこそセックスさえしないくらいに。体の関係が無いということは、もしかしなくても景元自身の愛情は恋愛を絡めないものだと内心応星は思っていた。もしそうなら、丹恒はひどく落ち込んでしまうだろう。可愛い弟分を泣く姿は見たくなかった。そうなった場合、景元を蹴るか殴るか煮るか焼くか。ここ暫くはそんなことばかり考えていた応星だったが、だが、それは杞憂だったみたいだ。
今この瞬間にきてやっと深く息を吐き出して勝手に背負った荷を下ろした。
「で?」
「うん?」
祝いとばかりに一本煙草を差し出しながら促すと、景元が小首を傾げる。あざとい仕草だと思いながら応星は煙を吸った。
爽やかな朝に紫煙が二人分交わる。
「改めて聞くもんじゃねぇが……腹は括ったんだろな?」
「――本当に失敬だな、君は」
景元が目を丸くして応星を見る。その飴玉みたいな目には、心底不思議そうな感情が映っていた。丸い猫の目が瞬き、微笑む。
「私たちのモラトリアムは終わったよ。丹恒は逃げ時を逸したんだ」
「あいつに元々逃げる気無かっただろ」
「そうかな? ……そうだといいなぁ」
一年前の丹恒の葛藤は知らない景元がのんびり煙をくゆらせる。あれだけ悩んで迷って受け入れた感情なのだ、丹恒は既に覚悟を決めていた。応星が、二人を取り巻く彼らが心配していたのは優しすぎる景元がその覚悟ごと丹恒と二人、傷つくことにならないかどうかだった。
だが見事に、二人は二度と離さないだろう手を取り合った。
立派な屋敷の中でバタバタを足音が聞こえる。家主の声がそれを追いかける。「おっと、白露にフレンチトースト作ってきたんだ」と、景元がタバコを灰ごと応星に押し付けた。レザーの灰皿が一瞬火種を燃やしてすぐに消えた。
「あいつ、さっき鮭定食食ってたぞ」
「おやつに食べればいいさ」
応星に背中越しで手を振って丹恒の後を目指す幼なじみに、職人はため息をついて煙を吐ききった。
「今度の飲みはアイツの奢りだな」
遅れて咲く桜の中に、淡い緑が萌えた。