無題「しばらく閉閑しようと思っている」
「そう仰ると思っていました」
「それから忘機、君に頼みたいことがあるんだ」
静かにそう言って茶を啜ったあと、藍忘機の兄である藍曦臣は窓の外に視線を移した。
雲夢にある雲萍城の観音廟で起こった出来事は、瞬く間に仙門百家に知れ渡った。
各世家の宗主達が蓮花塢に滞在していたこともあり、わらわらと集まってきた彼らがことの顛末を面白おかしく語り合っていたことを藍忘機もその場で聞いている。
噂話に興じる者達がいるなか、藍曦臣は仏像や燭台が散乱し、内部が倒壊した観音廟をじっと見つめていた。普段は聡明で凛とした兄の後ろ姿は見るからに茫然自失といった様子だったことを覚えている。
無理もないだろう、建物のなかにはかつて兄が義兄弟と認め、契りを交わしたふたりの人物が眠っているのだから。
赤鋒尊こと聶明玦、斂芳尊こと金光瑤──兄と出会った頃は孟揺と名乗っていたそうだ──
血は繋がらずとも一人を兄と慕い敬い、もう一人を弟として慈しみ手引きし続けた。二人の関係は悪化を辿る一方で、そのことに心を痛めた兄は修復を試みたが溝は深く、今では命を落としあの瓦礫の下にいる。
仙門百家の間で観音廟での出来事に一応の決着がついても、兄の表情は曇ったままだった。
その間、会合が何度も行われた。
仙門百家における今後の蘭陵金氏の立ち位置について。
一連の出来事についてどう責任を取るのか。
こればかりはすぐに解決出来るものではない。蘭陵金氏はまだ歳若い金如蘭を宗主に据え、彼の叔父である雲夢江氏宗主である江晩吟が後ろ盾することに決まった。責任問題についてはこれからだろう。
そんななか、議題で一番注目を集めたものは次の仙督を誰に任命するかだった。
「金光瑤に引導を渡した沢蕪君はどうか?」
「そうだ、奴の企みを阻止した沢蕪君こそ、次の仙督に相応しい!」
「沢蕪君お願いします」
昔からずっと噂話に興じていた者達が頼み込む姿を見て、藍忘機は言葉に出来ない不快感に襲われた。
兄は好き勝手に話す彼らに曖昧に微笑むばかりで、会合中は一向に次の仙督は決まらなかった。
「私が仙督、ですか?」
「あぁ」
兄の仙督就任については、随分と熱望されていたように思う。普段は足を運ばない会合に参加した藍忘機にもそう見えた。
誰にでも平等に手を差し伸べ、文武両道といっても過言ではない兄になら、皆も安心して仙督という座を任せることが出来るだろう。
前仙督である金光瑤の補佐も行っていた事もあり、彼の良い行いを引継ぎつつ風通しの良い仙門百家を作り上げてくれる。それだけの実力があると皆がそう信じて疑わないのだ。
だが、皆が支持する本人にはその気がないらしい。
いや、その気がないというのは語弊があるだろう。どちらかといえば──
「正直なところ、今は何も手につきそうにない。叔父上にはこのあと話そうと思うが、しばらくは一人静かに喪に服したい」
「そうですか」
兄は窓の外に視線を向けたまま、こちらを見ずに話を続けた。
「あの時どうすればよかったのか、こうすれば良かったのか……。きっと答えはでないだろうね。でも忘機、これは阿瑤に生かされた私が考えなければいけない事なんだ」
だから、そう言って窓に向けていた視線をこちらに向けて話し続けた。
「何事も公平に見ることが出来る君にこそ、仙督は相応しいと私は思う。忘機、頼めるかな」
「一晩、考えさせてください」
あのあと静室に戻り、藍忘機は先程言われたことを考えていた。
今まで清談会や会合といった政にはほぼ関わらず、夜狩に行き修練を積んできた。本音と建前といったものは苦手だ。
藍忘機にとって一筋縄ではいかない仙門百家宗主達と対峙する仙督という立場は、お世辞にも向いているとはいえないだろう。
良くも悪くも影響力がある立場になる。
それでも、今まで汚名を着せられていた魏嬰こと、魏無羨の名誉を少しでも晴らすことが出来るなら……。
「…魏嬰」
雲萍城にある観音廟での騒動のあと一緒に旅をしようと誘われたけれど、断ったのは自分自身が彼の帰る場所になりたかったからだ。
昔、姑蘇に帰ろうと声を掛けたことがあった。あの時は手酷く拒否されたが、長い時を経て彼はこの部屋で食事を取り、酒を飲み、牀榻で眠った。
あの時のようにこの部屋が、雲深不知処が、彼にとって心休まる場所になって欲しいと願ってやまない。
権力なんてものには興味はないが、彼を守る力はあるに越したことはない。
再び彼に出会ったら、次こそは手を離さないと決めていたのだから──
魏無羨が先日辿り着いた町は、活気溢れる賑やかなところだった。町を歩けば軒先から客寄せの店員の威勢の良い声が聞こえてくる。
この町は特定の仙門の管轄下ではないようだ。着いて早々に邪崇退治を引き受けてやれば、お礼に数日分の寝床と食事の面倒、そして僅かであるが金子も頂戴した。
各地で邪崇を祓いながら金子を稼ぎ、愛驢馬りんごちゃんの気の向くまま背に乗り旅を続けていた。しばらくはこの町に腰を据え、少し休憩しようかと唐辛子をたっぷり利かせた炒め物で米を掻き込んでいた時だった。
「新しい仙督が決まったってよ」
「仙督って結局、何をするんだい?」
「そんなこと仙士でもない俺が知ってるとでも思ってるのか?」
「それもそうだな」
少し離れた席で食事をしている一団が何やら話している。しかも次の仙督が決まったと言っているが、それは一体誰のことなのだろうか。
清廉潔白、品行方正、魏無羨が知るなかで仙督に相応しい人物といえばただ一人しかいない。
「元気にしてるかな…」
ほんの少し前まで二人で旅をしていた。鬼腕騒動を調べてみれば、過去の自分の行いに結び付いて驚きが隠せなかったことを覚えている。
彼は、藍湛は元気にしているだろうか。
金子も貯まってきた頃だ。一度様子を見に姑蘇に行くのも良いだろう。
魏無羨は目の前の料理を掻き込みながら、久しぶりに会う知己の姿を思い浮かべて自然と笑みを浮かべた。