そうして君と金色の朝 約二週間の海外旅行にしては小さなスーツケース。いつも通りのスリーピースのオーダーメイドスーツからは、バカンスに浮かれた様子もない。私物は大して入っていないわりに土産ばかりが山のようだ。
爽やかな初秋の風が吹く九月のある夜。両手が完全に塞がった状態でマンションのエントランスからエレベーターへと向かいながら、松井はとても取り出せそうにない鞄の中の携帯が、メッセージアプリの通知音を小さく響かせるのを聴いていた。桑名が無事に家に着いたのだろう。きっとその報せだ。
洒落た内装の箱に乗り込み、見慣れた階で荷物をどうにか押し出すようにして下りる。随分と懐かしい感覚を抱いて自宅ドアの前に立つと、一度荷物を置き、鞄から探り出したカードキーをセンサーにかざした。
そうして君と金色の朝
ドアを開いた先は出立の朝と少しも変わらず、埃っぽくなった様子もない。桑名はいつも長期不在時の管理を見越して、マンションの鍵を近しい者に預けているらしいが――おそらくは他所の本丸の豊前江だろうと松井は踏んでいる――この部屋は別だ。誰とも住んでいないし、誰も帰ってこない。
ただ……誰も居ないかと言われると、少々事情があったりする。
「ただいま」
応える相手も居ない挨拶を置いてリビングのドアを通ると、ソファに向かい、ラグの上に大量の荷物を下ろす。流石に今回ばかりは重かった。スーツ越しの腕にはきっと持ち手の跡が残っているだろう。
桑名は包容力のあるおおらかな性格に反し、好奇心と探究心ががとても強い。なおかつ皆に何かを振るまい喜んで貰うことが好きらしく、行く先々で目についた物を片っ端から土産として買い集めようとしてしまうのだ。
松井はと言うと、かつてと変わらぬ倹約家の心はあるものの、此処はもう飽食の時代だ。質が良いものを好むタイプでもあるので、今となっては好ましい、美しいと思った物はついつい手に取ってしまう一面が生まれていて……その結果がこれだ。
(荷解き、気が重いな……)
明日でもいいか……などと少々怠惰なことを考えてしまいながら、空気清浄機のスイッチを入れる。表示は良好のグリーン。室温も湿度も問題ない。ロボット掃除機も今は大人しく寝ているようだ。
旅先でも何度かクリーニングに出したスーツのジャケットを脱ぐと、抜ける肩の力に大きく息をつき、廊下から漏れる光を頼りに壁の時計を見やる。桑名があらかじめ篭手切に伝えてくれた帰宅時間よりも、三十五分ほどの遅刻だ。
松井はネクタイを指先で緩めると、衣擦れの音を立てて引き抜いてしまい、ジャケットと合わせてソファーの背もたれに預ける。ベスト姿で袖口のカフスボタンを左右順に外しながら、奥の壁際に置かれている腰の高さほどのシェルフへと向かった。
近くのフロアライトを灯してから、シェルフの上に置かれた観葉植物やアロマに視線を流す。葉の艶も良い。水は足りているようだ。
黒いレザーで作られたアクセサリートレーにすらりとした手を伸ばすと、時計やピアス、サングラスなどと並んでペアで置かれている、ごくシンプルなゴールドの指輪の片方を摘まみ上げる。松井はそれをごく無造作に、何も無いカウンターキッチンの方へと、コイントスの仕草で唐突に放った。
――キン。
高音が耳に触れ、間接照明の暖かい光の中、宙に上がって落ちてくる指輪が一瞬まばゆい光を跳ねる。スローモーションの中で美しく回転するゴールド。それを当たり前のように宙で掴み取る、見慣れたバイククグローブの手があった。
何も無い、誰も居ない筈のその場所に、指輪を媒介に実体化していく姿がある。カウンターに置かれたバーチェアに腰を預けて瞼を伏せ、静かに腕を組んでいた青年が目覚めのように双眸を開いた。まるでその場所で仮眠を取っていたかのようだ。
紅いルビーの瞳が松井と視線を絡め、結ぶ。
その唇が少しだけ笑った。
「三十分の遅刻な」
相変わらずな挨拶に、松井は困った笑みを零した。
「三十七分二十五秒だよ。そこの時計があっていればね」
――豊前江。
かつての世界、かつての時代で共に生きた、刀剣男士の豊前がそこに居た。
喉奥で笑んだ豊前が身を起こし、両手のグローブを順に外すと近くのローテーブルにすれ違い様に置いて、右手の薬指に指輪を嵌めながら歩み寄ってくる。松井はその場に立ったまま、おいでと告げるかのように、穏やかな双眸でベスト姿の両腕を軽く広げて見せた。
やがて豊前の右手が松井の左腕に触れ、左手は頬に触れて、戦装束姿で松井の額に額を押し付けると、少しの間その存在を実感をするかのように瞼を閉じた。そうして双眸を開き、焦点がぼやけるほどの距離で碧い眸を見つめ、松井の手が頬に触れたところでどちらからともなく喰らい合うように唇を重ね、深く瞼を閉じる。
触れ合わせた柔い唇を深い角度で交え、ぬるい粘膜へと舌を忍び込ませる。少し硬く摺り合わされた舌先が甘く柔らかい唾液と共に絡むと、豊前は松井の身体を背後のシェルフに押し付け、ぶつかる膝を深く太腿まで交わして両手で両頬を掴み、松井もまた豊前の腕から離した両手を腰へと回し、その身を抱き寄せて互いに貪るように口吸いを交わす。
まるで長く離れていた肉体が呼び合うかのような、帰り着くなり玄関先でたまらず情事を始めるときのような性急さではあるが、そこには性欲以上に深い情愛が滲む不思議な清らかさがあった。
僅かに呼吸を乱して舌を離すと、唇を離し、額を押し付けあったまま息を整える。互いの瞳に微かな欲の光が交じるのを前に、意識的に鎮め合うこの時間は悪くない。
「フ……僕の通帳、どこにしまってあるか、いつ覚えたんだ?」
柔い笑みをこぼしながら松井が問う。豊前は息が整ってきたあたりで甘く松井の唇を吸うと音を立てて離し、ひとつ息をついた。
「だいぶ前に、防災用に貴重品を整頓してたろ? あんときだよ」
「ああ。まったく……驚いたよ。しっかり入金記録が入っているのだから。忘れていたら大惨事だった。本当に助かったよ」
「優秀だろ? 褒めていいぜ」
「はは。えらいな。豊前が銀行で通帳を手に、一生懸命ATMを使ってる姿、想像したら可愛くて仕方がないな」
そう言って、松井は気の置けない笑みを唇に乗せる。
だが豊前は、「それくらい、桑名だって普通にしてんだろ?」などと、やはり少しだけ戯れの色で拗ねてみせた。
こちら側の桑名江――松井と共に人間社会に溶け込んで暮らしている桑名は、松井の"仕事"における唯一無二のパートナーだ。プライベートは謂わばタチとタチの腐れ縁というやつで、確かに仲は相当良いものの、恋人でも何でもないのだが……どうやら豊前は、そうやって拗ねてみせることそのものを楽しんでいるらしい。
「それはそれ、君は君だろう?」
「それはそうだけどさ…。そうやってすぐ丸めるんだよなぁ、お前は」
「ふふ」
慣れた会話を交わしながら、重ねていた身体を少し重たげに離した豊前が手を差し出してくる。その手を取り、松井は目元で笑みながら軽く腕を引かれて身を起こした。
「掃除と換気、いつもありがとう。あと水やりも」
碧い瞳が室内に視線を渡す。手脚の長い、細く引き締まった長身をスーツに包んだ松井は一層美人だ。
「どーいたしまして。給料は現物支給で頼むぜ」
そう言う豊前は相変わらずの美形というところだろう。変わることのない江の深緑色は、やはりその背によく似合う。
「後でね」と、松井は夜の意味を含めた軽いアイコンタクトを返した。
アクセサリートレイに残されていたもう一つの指輪を手に取ると、松井もまた、さらりと右手の薬指に嵌める。それは異なる時空からの訪問者である豊前を、この現世に実体として固定し識別するための術式の一種だ。
本丸識別コードと個体識別コード。いわば刀剣男士のドッグタグのようなものだろう。
形状は様々で、それぞれの男士が自由に選択出来るようになっている。桑名はプレートタイプのネックレス、篭手切江は右耳のピアスだ。それらは万が一の為の安全策であるバディ制度によって二つセットで支給され、こうして時空を越える際には、現世で暮らす男士を最低一振りつけることが規定とされている。
指に飾った指輪をまるで本物のように柔らかな横顔で見下ろし、指先で撫でる松井を見つめながら、豊前が優しげな瞳をしている。
すべての刀剣男士と審神者、そして本丸が役目を終えた今、時の政府は長きに渡った戦の後処理に奔走していた。多くの本丸は解体――あるいは解散となったが、幾つかの本丸、または個としての刀剣男士は、後もその業務に従事するために、当時の地や政府直下にその身を置き続けている。
松井と桑名は人間社会に溶け込む形でこちら側から、篭手切と豊前は刀剣男士としてこちらとあちらを繋ぐ存在として、かつての本丸で結んだ縁をそのままに、今も変わらずこの国の歴史と世界の在り方を、人知れず守り続けている。
「俺も海外行きてーなぁ。今回はぱりだっけ?」
「ああ。とても良かったよ。歌仙に聴いていた通り、美しい国だった。豊前も今度、プライベートで一緒に旅行にでも行くか?」
「んー……それが、暫く越中の方の処理で忙しいみてーなんだよな。お前も勤務先の有給、結構使っちまったんだろ?」
「まあね。三年分貯まっていたから、たっぷり休ませて貰ったよ」
時の政府からの依頼を受けて行う出陣も、こちら側では『国内旅行』『海外旅行』という便利な名前で呼ぶことが出来る。だが今回の松井と桑名の"仕事"、つまりパリでの戦後処理の任務に関しては、本当の意味での人間生活の息抜きも兼ねていた。
そんな話を交わしたところで、豊前が腰の本体を鞘ごと抜き、いつものように松井へと差し出す。
「頼むよ」
「ああ」
丁寧な所作で受け取った松井は、美しい黒鞘を慈しむ手つきで愛撫し、奥の寝室にある刀掛けへと向かった。豊前の瞳が落ち着いた微笑の光を浮かべ、その後に続く。
ごく普通のマンションの一室にはまるで似合わない、時代劇の小道具のような刀掛けがこの部屋には置かれている。そちらへと歩んだ松井が豊前の本体を預けると、自らも宙に浮かせた手の下に今まで忍ばせていた本体を実体化し、まるで揃いの刀のようにふた振りを寄り添わせる。
歩み寄ってきた豊前が、穏やかな瞳で背後から松井の腹に緩く両腕を回す。松井はその腕を撫でてやりながら、帰り着いた部屋に揃う互いの本体を、今回も安堵の想いで見つめていた。
肩口に顎を置いて身を預ける豊前が、どこか甘さのある低い声で言う。
「明日と明後日、非番の申請してきたぜ」
この部屋にあらかじめ非番を取って訪れると言うことは、そういうことだ。
「二日か。まだゆっくり出来るな。僕もしばらくは非番だ」
「桑名にも言っといた方がいいんじゃねーの? 明日んなったら、どうせまた一緒に昼飯食いに行くんだろ?」
どこか拗ねた声音で問う豊前に、松井は右肩にある豊前のおもてを見るような仕草で、「それはどうだろう」誰も居ない部屋でありながらも僅かに声を潜める。
「前に貰ったおすすめのやつ、この間買い足したんだって、新しいものを二箱もくれたから」
ダイレクトな"それ"の話に、豊前は思わず丸くした目を瞬かせた。
「――ははっ。敵わねえなぁ、あいつには」
どうやら桑名は、こうして豊前が部屋で待っていることは最初からお見通しらしい。
「僕も気に入ったからな。豊前だって気持ちよかっただろう?」
「まあ、うん。すげー、かなり、相当よかったよ」
「ふふ」
何気ない仕草は相変わらず余裕のある男のそれだが、こう言った話になると、ほんの少しだけ目元に照れた色が出るのが愛らしい。豊前の可愛いところはやはり、平時とベッドでの思いもしないギャップに尽きるだろう。
人間社会に溶け込む桑名が知力と探究心をフル活用し、語学をはじめとした様々な学問を吸収していく一方で、豊前は今も変わることなく字が多いものは苦手だと言う。連絡と言えば細切れの短文で、当然英語も不得手のままだ。
反面、戦闘能力は相変わらずの一級品で、この現世の都市で共闘した時などは、まるで人間の同僚達が好んで見ているSF映画や、壮大なCGで描かれた魔法の物語が現実になったようなスリルを、刀剣男士の身にさえ改めて教えてくれる。まさに完璧なバランスだろう。
どこもかしこも可愛いなと内心で笑みながら瞼を下ろした松井が、安心させるように優しくその手の甲を撫でる。
「ご無沙汰だからね。歯止めがきかないかも」
豊前は伏し目の吐息で笑みを滲ませ、松井の腹筋を柔く叩いて変わらぬ声で言った。
「いーよ。全部受け止めてやっから」
「……フ。嬉しい」
豊前はそうして腕を緩めると、松井の背中から胸を離す。松井は背後へと向き直り、大きな寝台を背に安心した微笑で豊前の頬に触れ、親指でその滑らかな肌を確かめるように撫でた。
「帰って来たな……」
無事に任務を完遂した安堵のせいか、愛おしい相手の顔を久し振りに見れたせいか、ついついそんな言葉がこぼれ出てしまう。
「ああ。よく頑張ったな」
わしわしと頭を撫でてくれる豊前に、松井は品良く瞼を伏せて笑む。
あの頃と何ひとつ変わらない、宝石のように光を吸い込む赤い瞳には、現世の洋装に身を包む松井の姿が映り込んでいる。
「おかえりって聴いていないな」
そんな事を言うと豊前は少し笑って、戦装束の両腕でしっかりと松井の身体を抱き締めてくれた。
「おかえり、松井。今日も誉は獲れたか?」
「ふふ……、ああ。誉の褒美に、これから僕をいっぱい甘やかしてくれ」
「ははっ。おう。任せときな」
――最高の天国、見せてやんよ。
そう色っぽく囁いて笑った豊前に背を押されながら急かされて、松井はすっかりと忘れていた携帯を取りにリビングへと向かい、無事に帰った旨を桑名へと送る。
『も~。盛り上がるのは退勤報告の後にしてよね。なんて嘘だよ。豊前は元気?』
戯れのお叱りにふたりで笑いながら、ベスト姿と戦装束姿で自撮りのツーショットを一枚撮り、送信しておく。
まずは待ちに待った非番の前夜祭にと、荷解きや土産の分配も放り出して、冷蔵庫と食品庫の中にあるビールとコーラとミネラルウォーターと菓子をローテーブルに集め、豊前が嬉しそうに宅配ピザのアプリを開く。
「ふらいどちきんとはんばーがーも頼むか?」
「食べ過ぎだよ。また前みたいに途中で眠くなっても僕はやめないからね」
「ははっ。別にいーよ? どうせ酒飲んじまうんだし。寝起きナントカ……ってやつも、ちっと興味あるしな」
「またそういう……知らないよ」
明け透けなベッドの話に悪戯っぽく歯を見せて笑う豊前に、松井は愛おしげに眉尻を下げる。
ゆったりとした所作で松井がソファに腰を下ろすと、携帯をいじりながら当然のようにそばに来た豊前が、松井の肩に手を置き、両太腿を跨いで対面の姿勢でその膝に座る。松井もまた当たり前のように豊前の細い腰に腕を回して支えながら、一緒に画面を覗き込んだ。
「フランス帰りでもピザとビールか。なんだか大学生みたいだな」
これがいい、と韓国風プルコギの入った四種のピザをターコイズで飾った綺麗な爪先で示す。豊前は焼肉風のピザをどれにするかと選んでいるようだ。
「確かにな。俺もお前も、すっかり人間になっちまったなぁ」
(いや。いつか本当の意味で、そんな日が来るのかもしれない)
そう思いながら、松井は豊前が見せてくる画面を、兄のように首を傾げて覗き込みながら話を聴いている。
確かな意志を持って選んだゴールドの指輪も、もう特別に意識することもない当たり前の日常だ。あれほど長かった戦の日々も、今となっては遠い昔のように……
いつ何がどうなるかは誰にもわからない。そうして今がある。だからこそ、今を楽しむ。刹那を愛する。未来の不安よりも、ただ目の前の花や風や月に鳥、掛け替えのない仲間たちを愛しむように。
(やりたいことをやればいい、か)
豊前の言葉は真理なのだろうなと、命に対するその聡さを、何気ない日常の中で改めて愛おしく思うことが増えていた。
「あっ、はちみつかかってる全部ちーずのヤツも食いてえ!」
「豊前。そろそろカロリーの計算を学ぼうか」
「でーじょーぶだって! ちっと太っても松井と寝たら痩せんだろ」
「豊前」
了