水底まだ遠く 愛之介は目的地の海から少し離れたところでタクシーを降りた。あまり近くで停めて詮索などされては困る。ここには自分の秘密が隠してあり、なおかつそれは紛れもない犯罪行為の生きた証拠でもあった。用心に越したことはない。
小さな宿が点在するだけの避暑地。そこから外れた、地元民も寄り付かない海岸のすぐそばに小さなカントリー調の家が長年存在する。地元の人間の誰もがペンションだと思っているそれは神道家の所有する隠れ家だった。父の代に建てられ放置され続けていたこの家だが数ヵ月前愛之介の指示によって密かに改築され、ようやく日の目を見ることとなる。主人を休める憩いの地ではなく、ある少年を閉じ込めるための鳥籠として。
そう、鳥籠だ。誰よりも高く飛ぶものを天におくらず地上におろさないために愛之介が作った、ただ一つの。
「お待ちしていました」
先に到着していた忠が主人に声をかける。
「本当なのか」
「はい。既に確認を……間違いないかと」
この家について愛之介が直接出向かないといけない事案など一つ――彼が自由を奪った少年についてだ。
ランガが声を出さない。昨夜忠にそう連絡が入った。
身の回りの世話に雇っている口の堅い使用人ひとり、監視役ふたり。その誰もこの数日、ランガから話しかけられることはおろか、彼の声を聞かなかったという。
「抵抗でしょうね」
忠と愛之介は同じことを思い出していた。この生活が始まってすぐの時だ。強引に連れ去られたうえ無理矢理身体を暴かれたランガは自身もまた無茶な方法で愛之介の支配に抗おうとした。食事を拒否したのだ。栄養失調寸前まで追い詰められてもランガは何も口に入れようとせず、そのことを隠蔽しようとした前の使用人が秘密裏に入れた病院へ愛之介が駆けつけた時には髪を染め目の色を隠した状態で個室のベッドに寝かされていた。点滴に繋がれた腕の痛ましさを忘れることはない。
声だけなら不便だが問題ないだろう。だが放置すればやがて食事や睡眠の放棄へと繋がるかもしれない。早急に対処する必要がある。
「……何度試せば気が済むんだか」
「……愛之介様」
「嫌だ」
愛之介は自らの忠臣が次の言葉を発する前に鋭くはね除けた。彼にはこの、おそらく愛之介のことのみを考えている部下が何を言い出すか見当がついていた。
「僕は彼を手放さない」
きつく睨んで話を無理矢理終わらせた愛之介は急ぎランガが居る部屋の隣室へと向かった。
ランガを閉じ込めた部屋には様々な細工がしてある。
例えば隣室と繋がる壁は彼一人には必要ないほど多くの鏡で埋められている。それら全てはマジックミラー。あらゆる角度でランガを眺めることができる隣接された部屋は愛之介にとって至高のシアタールームだ。
部屋の扉はふたつ。廊下に繋がる扉、これはランガ以外関係者全てが鍵をもつ。一定の時間外の使用は禁止。
そしてもうひとつがこの隣室に繋がる扉。鍵を持つのは家主である愛之介ひとり。当然出入は自由だ。
ガラス越しにランガに触れる。少年は防音加工の室内で愛之介が帰ってきたことに気づかずただ座っていた。今の彼に許される体勢は座る、立つ、寝る、それと部屋の内側を歩くことだけ。足首の鎖は彼が外に出ようとするのを許さない。
「やあ」
扉が開き声をかけられるとランガは肩をわずかに反応させ、緩慢な動きで音の出所を向いた。愛之介の姿に瞳がわずかに揺らぐ。長期間の監禁生活で感情の色が薄くなった瞳はそれでも澄んだ青のままだ。髪や目、身体を美しく整えておかないと酷い目にあわすと覚え込ませた甲斐があったと愛之介は顎を撫でる。今や彼にとってランガは自身が作り出した芸術品だった。
「喋らないんだって?」
ランガがこくりと頷く。使用人の話ではただ声を出さないだけで意志疎通する気はあるらしい、だからこそ発覚までに数日かかってしまったが。
「いつまで?」
イエス、ノーで返せない質問は無視。これも忠が使用人達に聞いた通りだ。
「ここから出られるまで?」
頷いた。つまりイエスだ。愛之介の手が無意識に自身の太腿に爪を立てる。
どうしていつもこの子供は馬鹿げたことばかり考えるのか。苛立ちを抑えきれず厳しく詰問する。
「このまま喋らなければ何か変わると思ってる?」
ランガはしばらく目を伏せていたがやがて顔をあげ強く首を縦に振った。何度捕まえ罰を与えても変わらずこの部屋を出ることを切望する少年に心底怒りを覚えた愛之介は彼の肩を掴みその身をベッドへと叩きつけた。衝撃が伝わり跳ねた足輪が少年の足首を打ち据える。それでも彼が悲鳴ひとつあげないことに益々腹を立て胸ぐらをねじりあげた。
憤怒に満ちた愛之介の目が、唇を噛み痛みに耐えるランガの襟元からのぞく肌の白さに狙いを定める。
「君を喋らせる方法なんていくらでもあるんだよ」
首筋を撫で上げられれば、快楽を覚え込まされたランガの身体はひくりと反応を示す。口元を押さえようとしたその手を呆気なくとり彼の狼狽ごと嘲笑するように愛之介が唇を歪めた。
「酷くすれば簡単に鳴くだろ」
「……!」
「それとも二度と声を出せなくする?手伝ってあげる」
長い指をランガの喉元に這わせて恫喝する。
「嫌なら喋りなよ。早く。ほら」
肉体的、精神的な破壊を匂わせた脅しに、ランガの目にまたたくまに薄い涙の膜が張った。しかしそれでも変わらない決意に輝く両目は快晴に似た真っ直ぐさで愛之介を見つめ続ける。それこそ男が惹かれた少年の美しさだが、今となっては酷く不愉快に化けたそれを愛之介は何としてでもめちゃくちゃにしてやろうと残酷な罠を仕掛けた。
「……外に出たい?」
「!」
ランガが強く頷く。
「……なら出してあげよう。君が望むなら久しぶりにデートもいいかもね」
そうだ、望んだのは君なのだから、これから何が起きたとしても全ては君のせいだ。男はそう心中で唱えて舌なめずりをした。
今夜は月も姿を見せない。人はおろか生き物の気配も感じられない砂浜に、二人分の衣擦れと一人分の足音が静かに響く。
向かい合うようにランガを抱きあげて歩く愛之介は、体勢上後方を見続ける少年に声をかけた。
「楽しい?」
「……」
ランガが小さく首を縦に振る。手足に枷をつけられて自分で歩くことすら許されなくても、数ヵ月振りの下界は何もかもが刺激にきらめき隠しきれない喜びを彼に与えていた。彼はこれから自分に起こる一切を知らない。知っていたら外に出たいなんて願わなかったろうにと愛之介は哀れみすら感じていた。
二人がたどり着いたのは砂浜の終わり、即ち海。
「じゃあもっと楽しいことをしよう」
そう言って愛之介が海の中へと歩き出した。その不可解な行動をランガは黙認していたが、男の動きに合わせてふらふらと揺れる自身の足先が水に触れた瞬間急に怯えた表情で身体を固くした。
少年が知っているのは冷たいなかにもぬるさがあり薄青の水を太陽が照らす昼の海、そして今彼が足を踏み入れたのは全てを拒む冷ややかな夜の海だ。人を凍えさすほどの水温が暗闇深くから彼の足を捕らえようと手を伸ばしてくる、その恐怖は計り知れない。
「――、っ」
咄嗟に男の名前を呼ぼうとして、ランガは慌てて口を閉じた。それに気づいた男がひっそりと笑う。
かろうじて首上が出るほどの水深まで進んだ愛之介はランガの足を支えていた手から力を抜いた。両足はすぐさま水中へがくんと落ち、海水を吸収した服と足首の枷に阻まれランガはろくに動けなくなる。愛之介がランガの腰を改めて抱えなおした。決して離れないように、固く。
「――!……、……!、!」
愛之介の恐ろしい企みに気付いたランガが何度も彼の胸を叩いて逃げ出そうとするのを力で押さえ込み、男はその身をゆっくりと前へ倒していく。
ランガの背中が、髪の端が、後頭部が海へ沈み、泣き出しそうな顔すらも群青の水の中へ飲み込まれていくのを愛之介は瞬きもせず見ていた。
浸かっていた時間はものの数秒だっただろう。しかし水面から顔をあげたランガの顔は青ざめ、抵抗の意志を喪失していた。
「……、…、……ぁ」
ランガが声をあげようとした瞬間、愛之介は再び腰を倒した。
「……ぃ、いや……やだ……やだやだ、や……!」
少年の顔全体が再び夜の海に捕らわれ、がぽりと大きな泡が浮かぶ。
「――、~!……、………」
水の下、表情が恐怖から絶望に変わり、やがて目が海中と同じ暗い青に染まったころ、ようやくランガは引き上げられた。うまく酸素を取り込めずげほげほと噎せる少年の襟を無遠慮に掴み愛之介は水を掻き分け岸へ歩を進める。乾いた砂浜へぐっしょりと濡れた少年を寝かすと滴り落ちる海水もそのままに冷たく告げた。
「これに懲りたら二度としないように――君の全ては僕の物だ。声すらも」
「……ぁ、ぅ、……うぅ、う、ぐ」
ランガの目に光が戻り、彼の目から次々に涙が溢れこぼれ落ちていく。こんな抵抗すら許されず、また貫けなかった後悔がひたすらに彼を追いつめる。
泣きじゃくるランガに被さった愛之介はその涙すらも自分の物だと示すように彼の眼球へ舌を這わせる。ランガはビクリと震えたが、抵抗はしなかった。
自分は彼に逆らえない。少年はついに理解した。
未だ涙を流すランガの背を時折撫でながら愛之介は先ほど歩いた砂浜を戻っていく。
濡れた服の分を足してもランガは本当に軽い。少年の身体は監禁当初に比べ筋肉が落ち、その肌の白さは病から来るものではと疑うほど痩せ細っている。鎖も枷も要らなくなるまで数年はかからないだろうことに安堵と、どこか悲しさを覚えながら歩いていると、ランガが小さく問いかけてきた。
「俺が溺れたら、どうしてた」
澄みきった水や優しい風に例えられそうな美しい声が再び自身の世界に戻ったことに満足して、愛之介は答える。
「僕も溺れていた」
暗い世界には人影が二つ。
一つが消えれば、もうひとつも。