百万通りの確定勝利 車まで戻れば律儀にもリアドアの前で男が待っていた。
「お帰りなさいませ」
以前はこれにいかがでしたかと続いていたが、あまりにも自分が敗走ばかりなので自然と言わなくなった。それはそれで腹が立つ。
車体が揺れるほど強い勢いでシートに座る。驚いたのか男のいつもぼんやりとした目が多少開いた。はは、ざまあみろ――心のなかで呟く。声に出してしまえばあまりにも自分が小物になってしまうから、あくまで心だ。
エンジンが鳴りみるみる景色が遠ざかっていく。今日こそ横に座っているはずだった彼からも。
「……くそ」
どうすればいい。幼少期から一流家庭教師に囲まれてきたと自負する自分だが、こればかりはお手上げだ。
告白を成功させる方法なんて誰からも教わらなかった。
好きだ、では駄目だった。愛してるも、結婚したいも。
直接的な言葉では響かないのかと抽象的表現を混ぜてみれば「もう一回言ってほしい」と音声検索アプリを立ち上げられた。マイクに向かって喋ってみてね!の文字を憎んだのはかつてない経験だった。贈り物はだいたい「どうも」で済ませられ、ボディランゲージは「楽しそうだね」で片付けられ、かくなる上は肉体的接触しかあるまいと不意を見てなんとか確保したところご近所に見られた。少年の必死のフォローがなければ自分は終わっていた。
今日に至っては最悪だ。いつも通りのつもりだった。言葉をおくり、何かしらアピールして、断られたら撤退。この一連の流れは彼にもすっかり馴染んだ物になったらしい。近づくこちらに気づくと「じゃあ」と当たり前に赤毛と別れ、人通りの少ない路地に移動し、壁に背をついて待つ。ここ数十回ほどでできた自分達のルーティンだ。最初に告白したときはこんなものが生まれるとは想像していなかった、できるかそんなこと。
「おはよう、愛抱夢」
返されない愛をそれでも送り続けることができた理由のひとつがこれだ。朝の挨拶なんてまるで親密な仲のようだと空しい満足を得られる。
「やあ、おはよう」
「今日は何言う?」
展開が早い。始まる前から成功率を下げるんじゃない。
「……そうだな」
言葉を迷うことはない。毎朝リストアップされる百個単位の台詞からひとつ丁寧に選びあげ、練習もこなして完璧に仕上げてきているのだから。
ただ毎日そうするうちにある疑念が現れているのも確かだった。やり方はこれで正解なのか。彼に気持ちが届かないのは他人の言葉だからじゃないのか。
魔が差したと言うべきだろう。膨れ上がった疑念が破裂し、自分の中で眠る悪魔を叩き起こしたのだ。
「ランガくん」
「はい」
言う予定だった台詞を削除。そうして自分の言葉で彼に気持ちを伝えようとして――。
「……待ってくれ」
言葉に詰まった。馬鹿な、自分が。そんなはずはない。もう一度口を開く、キュッと喉が絞まり声どころか息もままならなくなった。
言わなければと思えば思うほど脳から言葉が逃げ出していくようだ。
何を怯えている。簡単だ。普段から彼に想っている気持ちをそのまま口にすればいい。運命を感じた日、初めて心を通わせ、運命を確信したビーフ。そして、運命でなくとも君がいいと、そう思ったあの夜。その全てを言葉に変えればいい、それだけなのに。
真っ白になった頭が不安の紫に染まっていく。膝からガクリと力が抜け薄汚れた地面に着いた。
手が差し出される。
「愛抱夢?」
「……あ」
もし、自分の言葉で。自分の感情をこの子に伝えたとして。それを否定されたら、自分はどうすればいいのだろう。
彼の手のそばをうろついた手は制服の袖をつまむように着地した。失笑する気にもならない。
「急に座ったからおどろいた。どうしたの」
「何でもないよ。だけどもう帰ろうかな」
「……しなくていいのか」
「今日はね。また明日には素敵な告白で君の心を射止めてみせるさ」
わかったと彼が頷けば髪がさらりとつられる。銀糸にも似た輝きをいつか手に入れることはできるのだろうかと考えるうちに手が伸びていた。
不思議とランガは避けなかった。もしかすると慰められているのかもしれない。指ですくように彼の髪を堪能する。
ああやっぱり、これが欲しい。
白と紫のマーブル模様のなかひとつだけ残った想いがぽつりとこぼれた。
「僕は多分明日も明後日も、何ヵ月も何年後だって、君に愛を囁くのをやめられないんだろうな……」
さらさらと手に流れるやわらかさが日常になるまで、こんな無様さえ晒して少年の元に行くのだろう。
「……」
数度まばたきをしたランガがほんの少し手に向けて首を倒した。気のせいだったかもしれない。
明日には素敵な告白。自分は確かにそう言った。
「……おい」
「はい」
「僕がお前に言った中で一番響いた言葉は何だ。言ってみろ」
「お答えできません」
「何故だ……」
「おそらく彼には響かないので」
納得のいく答えだった。
いつものようにリストアップされた台詞に目を通すが、どれもこれもしっくりこない。自分の感情にぴたりと合う言葉が見つけられない。これでは今日も負け戦だ。
「申し訳ありません」
運転手は目を伏せるが、別にこいつのやり方が変わったわけではない。変化したのは自分だ。
「……行ってくる」
適当に数個頭に放り込み覚悟を決めて向かうと、珍しくランガはそもそも一人だった。
「おはようランガくん。彼は」
「……おーい! 悪いランガ、エプロン見つかったわ! ……うわっ、愛抱夢……」
布地を振り回して赤毛が走ってくる。
「エプロン? また似合わない物を持って……」
「うっせえ、調理実習なんだよ……えっと、なに作るんだったか……」
「親子丼と味噌汁!」
やる気充分と言った感じでランガが拳を握った。
「ふーん……」
「愛抱夢お前、ぜってー興味ねえだろ」
「まあね……ああ、でもランガくんのお味噌汁には興味あるな」
「俺の?」
そういえばリストにこんな台詞があった。変なことを言うものだとは思ったが、逆にここで真面目な言葉でも出せば赤毛が何を言うかわかったものではない。もうこれでいい。
「僕のために作ってくれる? 例えば毎朝、とか」
「わかった」
「――――」
「……あ、流石に毎朝は」
無理と続く前に手で口をふさいだ。何かもごもご言ってるが聞き取り不可能なので気にしなくていい。
「おい! そいつ多分意味わかってねえから無効だろ!」
赤毛が叫ぶ。カナダから来た少年は日本語は使えるがまだ不慣れ、確かに自分も知っているが今は無視する。断固として、無視だ。
「いいだろう……結婚だ! 忠ッ!」
「万事準備を済ませてあります」
喧しいプロペラ音を引き連れ空から声が降ってきた。
「マジ、ウソ!? なんでヘリがいんだよ!」
赤毛が上空に気を取られているうちにランガを連れ高所へ走る。
「初めての逃避行だ、ドキドキするね」
下がってきた縄梯子を掴み少年に話しかければ、もごもごと文句らしき言葉が返ってきた。手に触れた筋肉の動きからしておそらく。
「ランガーッ! 親子丼お前の分ちゃんと残しとくから、無事に帰ってこいよーッ!!」
この二人の以心伝心っぷりが自分は心底嫌いだ。
「発進!」
「……かしこまりました」
「もっとやる気を出せ、結婚記念日だぞ! 」
「あのさ、愛抱夢」
シートベルトを着けたランガがところでと話しかけてきた。
「今日はしないの? 告白」
「え……ああ……いや、いいんだ。今日はもう」
今更ながら力業で言質をとった事実が痛い。言葉を濁すこちらに、更に破壊力のある一撃がぶつかってきた。
「しないんだ。残念」
「………」
心臓が痛いほど脈打ちさっさと聞けと急かす。パンドラの箱を開けるか否か、決めるのはいつだって自分自身だ。そして自分はそれを迷わない。
「……さっきのがそうだよ」
「へえ。味噌汁を作ると好きだってことになるのか」
「いや、厳密にはね」
「じゃあ俺、味噌汁作るよ。毎日は無理だけど、あなたに」
「……」
つまりそれは、そういうことでいいのか。
声の震えも隠さずに彼に問いかける。
「……僕のことを愛している?」
「正直わからない」
彼の言葉に頷き、シートベルトを外してドアへ――。
「愛之介様! おやめください!」
しまった。つい錯乱した。
「……だ、大丈夫……? 」
「全然全くひとつたりとも問題はないさ」
「じゃあ続けていい?」
続きがあったのか。
少年はゆらゆらと足を動かして話す。
「……そもそもさ。好きとか愛してるとか、わかるんだけどわかんないっていうか……愛抱夢が俺に告白してるって言うのがどうも……全然理解できなくて」
そういえば直接的な言葉であればあるほどランガは悩んでいるかのような顔をしていた。
「それに、あなたの言葉って俺には難しいんだ。俺は誰かのこと好きでも妖精には例えないと思う。パイはパイだし、薔薇は薔薇だ」
なるほど。はっきり言われれば違和感が先に。抽象的な言葉は意味が解らず、解ったとしてもいまいち乗れない、彼が抱いたことのない愛情の形だから。
「でも昨日のはわかった。俺も知ってる気持ちだった」
足はいつの間にか止まっていた。。
「昨日あなたに会ってからずっと、ずっと考えてた。それで思ったんだ。やめられないままでいてほしいって」
組んだ手をぎゅっと握るランガ、その頬がわずかに色付いている。
「多分それってそういうこと、なんだと……思うんだけど……その……いや、やっぱり違うかな……」
「それ以上考えないで」
すぐさま片手を取り彼の思考をこちらへ向ける。まだ未成熟の心は移り気だ、ここでやっぱり違いますなんて言いかねない。逃がしてなるものか。
「結論はこれから時間をかけて出すといい。今は君の、この瞬間感じている想いをただ口にしてくれないか」
ランガは「感じてるおもい」と繰り返し、制服の袖口に触れ、わずかに髪を撫で、そしてこちらを見て口を開いた。
「明日も明後日も、その先も、俺、愛抱夢に告白されてたい」
「いいよ。全部受けてくれるなら」
見たか世界の人間共。告白すること百越えて数十回、見事に成功だ。まさか決まり手が向こうから来るとは思わなかったがまあいい。これから自分は毎日最高の告白をしなければいけないようだが、大したことじゃない。勝利の確定した戦いなど恐ろしくもなんとも――ん?
床が鳴っている。止まらない。何の音だ。
「愛之介様、おやめください」
「……僕の足か」
仕方ない、動かなくなるまで踊らしてやろう。どんなに疲れたって平気だ、もう毎朝向かう場所はなく、会いたい人はすぐ隣に居るのだから。