骸は断末魔すら この日少年を見つけなければ。咄嗟にその手を取り走り出さなければ、俺の人生はもう少しましな物になっていたはずだ。
一生後悔するのだろう。
「ぜー……っ、ぜー……っ」
もう長いこと走り続けているせいで息が限界だ。
「……おい、逃げるな!我慢してくれもう少しだから……!」
無理に掴んだ手が来た方向へ戻ろうと引っ張ってくるのも辛い。事情説明も無しに連れ去られた少年にとっては当然の反応だろうが、こうでもなければ俺は彼と会話をすることはおろか接触すら不可能だったのだ。
彼に会いたいがあの男に気づかれるわけにはいかないと悩む俺の目の前を少年が通ったのは本当に偶然だった。人通りの少ない昼間の道、彼に監視は無し。この奇跡に近い幸運を逃すわけにはいかない。
「……!よし、着いた!ここなら……」
治安の悪いことで有名な通りの路地裏。ゴミの不法投棄が蔓延し野良猫と柄の悪い高坊くらいしか近づかない、ある意味一番安心できる場所だ。あの汚れを嫌う男はこんなところ気づいたって来やしないだろうから。
自分にあわせ立ち止まった少年が今だとばかりに走り出すのを間一髪食い止めた。
「待て!」
「誰か……!暦……!」
「人を呼ぶな!本当に待ってくれ!」
少年の腰にすがり付き必死で懇願する。絵面なんか気にしていたら俺の望みは叶わない。
「無理に連れ去ったことは謝罪する!だから叫ぶのをやめて俺の話を聞いてくれないか……!」
「……?」
「本当に大切な話なんだ!君に話さないと、俺は……!」
「……」
頼む頼むと繰り返す俺に困惑の表情を浮かべながらも、少年が力を抜く。
「……話だけなら」
「ありがとう。早速だが――Sを知ってるな?」
「う、うん」
「どんなことを?何でもいい、全て話してくれ」
少し迷って少年があげたのは毎週深夜に開かれる廃工場跡地であること、そこでスケートレースが行われていること、レースは何でもありなこと……まあどうしようもなく表層部の知識だった。
もちろんそれもSだ。だが真実のSはそんな物ではないと俺はよく知っている。あれはもっと危険で刺激的で忌まわしい目的のために存在する、言うなればあの男の狩り場なのだ。
「いいか、君……名前は」
「ランガ」
「じゃあランガ。君は知らなくちゃいけない。そしてできれば逃げてほしい、あの男から」
「男って」
少年の両肩を掴み、声をひそめた。
「決まってる。愛抱夢だよ」
「愛抱夢? 彼がどうして」
「詳しいことは言えないがヤツは危険なんてレベルじゃないんだ。これ以上アレに関われば君は間違いなく怪我を負う。いやそれどころか最悪」
「ッ、」
掴む手に力が入る。少年が小さく息を詰めた。
「君は、ころされ――」
「ランガくん」
甘い。
甘い声がする。背後から。脳の裏側を強く擦られたように強烈な吐き気。平衡感覚が一気に狂ったかのようだ。
「……愛抱夢」
「大丈夫かい?」
靴音が近づく。一歩ヤツが進むごとに周囲の重力が増し俺を押さえつける。縫い付けられた両足では少年を置いて逃げることすら叶いそうにない。
くそ、くそくそくそ。どうしてすぐに見つかったんだ。
少年の周囲に愛抱夢の仲間はいなかった。完全に無計画の犯行、事前に察知するのは不可能だ。それなのにどうして。
「心配したんだよ」
嘘をつくな。お前はそんな事しない。
愛抱夢がすぐ隣に来る。手袋越しの手が、ただそこにあったからというくらいの感情のなさで俺の肩を叩いた。
もうそれで全て駄目だった。膝から崩れる。
「……愛抱夢、あの、その人」
「ランガくん、ほら。耳を澄まして」
言葉を遮った愛抱夢に促されるままじっとしたランガが何かとらえて「れき」と呟く。
「……! ラ……ガ……!」
俺の耳にも聞こえる、悲痛な子供の叫び声だ。
「探してるよ。行って安心させてあげなくていいのかな」
俺と叫び声の方向を交互に動いたランガの顔が、最後に俺向きに止まる。
「……ごめんなさい」
目を逸らして呟き、彼は叫び声に向けて走っていった。
「待、あ――――ッ!」
待て、と手を伸ばそうとして――できなかった。手の上に乗せられた靴に阻まれたのだ。変形した肉の下、骨まで圧迫するように愛抱夢があっさり力を入れる。
「……この……っ! どけろ!」
「汚れてしまったんだ。拭かせてくれ」
「ぐあ、ぐ……ッ! やっぱりお前は何も変わってないままなんだな……!」
こんな時までしっかり着けている仮面のせいで男の表情は読めない。いつからこんなにゴテゴテになったんだ。昔はもっと――。
「ねえ。君、誰だっけ」
「――――」
「見覚えはあるんだが……どうにも決め手がね」
「…………」
「ああそうだ。自己紹介してくれない? 聞いてあげるから」
「………っ、ふ、ふざ、ふざけるな」
肺が苦しい。空気がうまく入っていかない。だから声も震える、それだけだ。心臓が潰れそうになる理由なんてそれだけ。
「ふざけんなよ、おまえ」
「ふざけてなんていないさ」
フードの下で彼が笑った。
それでも俺からしたらあまりにもその提案は馬鹿げていたから、そのままもう一度ふざけてるだろと言った。からかうのはやめてくれとも。
「……本気だよ」
彼がフードを外す。のっぺらぼうが俺を見る。優雅な指が仮面に沿い
「これならどうかな?ふざけてなんかないって理解してくれる?」
外れた白の下、彼の素顔を俺は初めて見た。その日そこに居たやつらの中でおそらく唯一。
世界で最も魅力的な何かに手を引かれた気分で、ふらふらと彼の隣に立って同じ月を見る。人生の勝利者とはきっとこんな気分なのだろうと確信していた。
それからはひたすら努力した。速くなる、強く滑る、毎日それだけだ。甲斐あってあっという間に俺は境界に近づいた。誇らしかったがそこに驚きはなかった。そうなって当然だ。俺は、彼の✕✕になる、そう彼が言ったのだから縮まったタイムも逞しくなった肉体も当たり前のことだった。
かつての仲間が誘いに来ても一人で効率的な練習がしたいからと断った。いや、本当の理由はきっとそうではない。俺はこの時点で、大切な仲間であった彼らをうっすら見下していた。あいつらは選ばれなかった凡才の有象無象、そう彼から言い聞かせられたのを鵜呑みにして、俺だけは違うと優越感に浸っていた。
「あの時はなんとなく君かもしれないって思ったんだ。けど今は君がそうだと心から信じているよ」
この頃には彼は俺としか滑らなくなっていた。俺の自尊心が凄まじいものになっていたのは言うまでもないだろう。
風が吹く。彼のフードが外れそうになるのを押さえる。
「ありがとう」
そんな、いいんだ。だって俺は君の✕✕で唯一の理解者なんだから。
「そうだね」
仮面越しに男が優しく微笑んだのが確かに俺にはわかった。
「明日試してみようか。僕と君が旅立てるかどうか」
それは福音だった。
ついに男が真に自分を選んだことに感情が溢れ出す。熱い目頭を必死で押さえた、その涙はきっと明日彼と共に旅立てた俺が喜びと共に流すべき物なのだから。
遠く、遠くのほうから声がする。彼の声だ。聞こえる。なのに身体が動かない。早く行かなくてはいけないのに。きっと待ってる。
愛抱夢。
「残念……違ったようだ。悲しいけれど」
俺のアダム。
「君は僕のイブじゃない」
――――。
「ふざけてなんて」
「ふざけてるんだよ、お前は!」
無理矢理動かされて顔中の筋肉が悲鳴をあげる。それでもここで何か言わなければ。そうしなきゃ、数年振りにこの街に戻ってきた理由がなくなってしまう。
「またやる気なんだろう……今度はあの子供を、俺みたいに! 滅茶苦茶に壊すつもりなんだろうが!」
泥酔し意識混濁したかつての仲間からこの男がまた狂った遊びを再開したと聞いた時、俺は歓喜した。
チャンスだ。俺の二度と滑れなくなった足にこれで意味ができる。
再びここに戻り、愛抱夢をとめて、可哀想な少年を救う。そうすればきっと俺は報われる。悲しいことになったけど結果見知らぬ誰かのためになったねと美しい思い出話にして生きていける。
何もかもを清算するチャンスが目の前にある。
「彼をお前のイブにはさせない、俺は何をしてもお前を止めてやる」
「……はあ、そう。はは」
「何がおかし、ぐ、ぅ」
あからさまな失笑に芯から怒りが込み上げるが、踏み潰された手の痛みが跳ね上がり言葉が続けられない。
「そういえば君みたいなのいたな。忘れてた」
「……」
「落ち込まなくていい、君だけじゃないから。彼に出会ったとき偽物のことは全て忘れると決めたんだ。操を立てるとでも言うのかな、いいよねこういうの、純愛で」
「にせもの……」
「偽物だったろう。君達全員」
「……ら、ランガは、」
一度彼の滑りを見た。仲間からもらった動画内の彼はプロ志望の子供に劣らず速く高く、確かにこれなら愛抱夢のお眼鏡にもかなうだろうと納得していた俺の耳元で、誰かが囁いた。
それほどだろうか。あれなら俺だって。
「ランガは本物なのか」
俺の問いを心底馬鹿らしいとばかりに鼻で笑い、愛抱夢が足を除けて座り込む。
仮面越しだがようやく目が合いそうだ。変わらない鮮烈さで、あの目が俺を見る――。
「解らない」
「――え?」
「運命のイブだと思っていたんだけどね。彼ときたら旅立ちを拒否するどころか僕を連れ戻した。これでは二人だけの世界なんてとても行けそうにない。とんだ見込み違いだった、参ったな」
くすりと愛抱夢が笑った。それがまるで、嬉しかったとでも言うように。
彼の瞳に誰か映っている気がする。誰だ、俺じゃない。
「でもいいんだ。僕は彼を」
そんな。
「イブでなくとも――愛しているから」
選ばれたときから知っていた。俺は一人目じゃない。俺の前にも誰かがいた。その前も。皆いつの間にかスケートをやめていた。それでも何人も同じようなやつが出続け消えていく理由は、彼らは皆この男のイブになりたくて、そうすることで彼に愛されたいと。
俺達が居た意味は。積み上げた骸は、いつか彼がただ一人にたどり着くための生け贄は。
「俺の足は、どうして」
「足?」
「そうだよ。足だ。あの日から一度も滑れてない。ボードに乗ろうとすると動けなくなる。どうしてだよ」
「さあ」
投げやりな言葉が刃を落とす。ごろりと転がったのはきっと俺の首だった。
「不幸な事故だろ」
「――死ね」
言って殴るより先に横にふっ飛ばされた。うつ伏せに倒れた俺の身体は手足ごと誰かに固く縛られ、身を起こそうと暴れればめくれた唇に砂利がへばりつく。
「お怪我は」
「無い。お前だけか?」
「いえ、先ほど一人増えました」
「……愛抱夢!」
地面を伝わる振動。
もう一人来る。おそらく今一番会いたくない少年が。
「はっ、は……、スネーク、足速すぎ……」
愛抱夢が立ち上がり声のするほうへゆったりと歩きだした。地面に押し付けられた視界は狭く、彼らの靴すら見えない。
「……!……愛抱夢、大丈夫か」
「大丈夫だよ。君こそ戻ってきていいの?」
「暦には先に練習場所行ってもらった。……あれってさっきの人だよね」
「うん。君がいなくなった途端僕に襲いかかってきてね、仕方なく拘束している」
「襲い――」
「可哀想だが妄想に取り憑かれているようなんだ」
いけしゃあしゃあと、このくそ野郎。
「彼に何か言われただろう? 全て忘れてしまったほうがいい。君を騙そうとしてついた嘘の可能性が高いから」
「……でもさっき話した時は、そんな人には」
服の中をくまなく調べていた手がついに肌側に隠していた物に触れた。それだけはと願ったが無情にも取り出される。
「小型のナイフを持っていました。害意があったと見て間違いないでしょう」
「――!」
刺す気は無かった。いざとなれば脅しくらいにはちらつかせようと思っていたが、あくまでただのお守りだ。
この状況でそんな言い訳が通じるわけない。
「……愛抱夢……一人にしてごめん……」
「いいよ。さして問題もなかった」
くそ、くそが。開きっぱなしの口で毒づくたび体内に臭気が充満していく。せり上がるものは悪意だ。
「愛抱夢、愛抱夢! 俺はお前を許さない! この嘘つき! 人殺し!」
「顔を上げるな!」
「っぎぃ……! 地獄に落ちろ、愛抱夢……!」
「黙れ、喋るな」
地面に顔を磨り潰されようが泥が喉に詰まろうが黙るものか。俺がここに来た意味の一切は無くなってしまったが、それでも傷くらいは付けなくては気が済まない。
呪詛を吐くのだ。愛抱夢にではなく彼の愛に向けて、彼が本当に愛しているというランガの心に楔を打ち込む。楔は深く心に刺さりやがて彼はお前に疑念を抱くだろう。そうなるまで呪ってやる、お前が再び一人になるまで。
「――イブを捨てたお前は一生愛を手に入れることなんてできない!」
「……なんだ。そういうことか。忠」
「はい」
「手を離せ。黙らせる」
「……わかりました」
後頭部を押さえつける力が離れていく。
必死で腰を反らし二人を見上げるとランガが愛抱夢を庇うように一歩前へ出た。丁度いい、子供が聞いたこともないような暴言を並べ立ててやる。悪いことをすると思うが俺だって君のせいでやり直しの機会を永遠に失ったのだ。これくらいいいだろう。
少年は唇を強く噛み締めている。そんなに怯えているくせに彼の前に立つのか。つい目元に力が入った。
哀れな子供なら救ってやったのに、どうして君が特別なんだ。
「……っ、」
たじろいだランガの腕を引き自分のほうへと向かせた愛抱夢が少年の頬を優しく撫でる。思わず目が釘付けになった。彼の手があんなに愛おしげに人に触れる瞬間を俺は見たことがあっただろうか。
知らない声音で「ごめんね」と囁くと、彼はすっと顔をかたむけ唇をランガのそれに合わせた。
「……ッ、……ん……」
ランガが咄嗟に出した腕をさらりと取り、引けないよう腰を抱いて。太陽の光などろくに届かない腐臭漂う路地裏、一回りほど離れた少年を相手に愛抱夢はひどい水音を出してキスに没頭した。唇を食み、口内をねぶる。食い荒らすような口づけ、唇の隙間からあふれた雫がランガの顎をつたう。
それをただ見ていた。顔もまぶたも動けないように固定されていたから、目の前で行われている全てを見ることしかできなかった。
まばたきできない眼球に生理的な涙がまとわりついて拭えない後悔と共に落ちていく。
少年を見つけなければよかった。
今日外に出なければよかった。この街に戻らなければ、過去を払拭するなんて決意持たなければ、あれも、これも――。
あの日彼に着いていかなければ、こんなに惨めな気持ちを抱えて生きていくことなかったのに。
視界が滲む、二人の姿がぼやけていく。
愛抱夢。ランガ。
お前らなんかに出会わなきゃよかったな。
二人の唇が離される。
「……っは、――な、何で」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど今でもない……!」
「そうかな」
愛抱夢がこちらを見て笑った。
「ほら、静かになった」