浮き立つ初夏 幸せを言葉であらわすとすれば。例えば抜けるような晴天。どこか懐かしい山の空気。笑う友人。
大きな皿。袋一杯のお米。縦横厚さが同じ肉。
こんな感じになると思う。だから今は幸せ。少なくとも予感は充分だ。
「ちょっと。今聞いてなかったでしょ」
「ごめん」
「ぼんやりしてる暇無いんだからね。前日決めとかホントありえない……はいこれ、ランガ達の分」
受け取った段ボール箱は大して重くなかったが、
「もう一つ。あとこれもそう」
「わ、わ……」
同じサイズを次々上に乗せられるまでは予想していなかった。準備が間に合わず足元をふらつかせるこちらに、MIYAが鼻をならす。
「ふんだ、いい気味。……まあでも、これくらいにしといてあげる。貸して――」
揺れる箱へと手を伸ばそうとした彼の表情が露骨に歪んだ途端、何故か足元が定まった。一変してピタリと止まる箱達を支える腕は自分の物と、それを覆ってもう一組。
「……過保護」
こちらを通して背後の男に言うとMIYAは背伸びをして「これで終わり」ともうひとつ箱を積んだ。
「MIYAー!水汲み行くぞー!」
「早く来ーい」
「わかった。……それじゃよろしく。二人だからってサボらないこと、特にそっちのオジサン」
「おや、随分信用されてないようだ。悲しいな」
「思ってないくせに」
小さな後ろ姿が遠ざかっていく。
「終わってなかったら二人共罰ゲームだから!」
不穏な言葉を残して。
具体的な説明のない罰ゲーム、嫌な感じがする。早めに始めて終わらせたいが――賢い年下の予想はそれなりに当たっていたらしい。彼らの姿が完全に見えなくなっても自分は箱を下ろせないままでいた。
原因は明白だ。背中から回る腕が一向に力を抜いてくれない。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「そろそろ離してほしい」
「いいよ」
何のいいよなのか、腕には何も変化はない。
かわって後頭部にぽすんと軽い衝撃が来た。ごつごつとぶつかる固さは慣れた仮面の質感。顔を押し付けられている。
「しばらくこのままで良いんじゃない?そうだな……彼らが行って戻って来るまで数十分はかかるだろうから、その半分ほど……」
そのまま囁かれると、声が直に響いて落ち着かない。
「サボるのは駄目だ」
「考えてみて。ランガくんはビーフ中常に全力を出している?一秒足りとも気を抜かない?違うだろう。余力を残してここぞという時に躊躇なく使う、戦いの基本だ。当然君もそうしているはず」
「まあ、うん」
「つまりそういう事だよ」
どういう事だろう。
時が過ぎるのを分かっていながらつい考え込んだ頭を現実に引き戻したのは、ひときわ大きく聞こえた彼の呼吸だった。
「……愛抱夢、吸ってない?」
「ああ」
「いやいやいや」
思わず暴れ――られない。動いたら箱が崩れる。そのうえ腕を固定されているだけなのに身動きも微妙に取りづらい。何で。
「嫌?」
「今は正直。汗かいてるし」
「今じゃなければ良いんだね。素敵な約束をどうもありがとう」
突然生まれた約束にあっさり再開される呼吸音。そしてやっぱり解放されない腕。どれに対して反応すれば、困ったことに頼りの脳はとっくに判断を諦めていた。
「別に汗の匂いはしないけど……」
昨夜見た夢の話でもするようにうっとりと愛抱夢が呟く。
「香りがする。何だろう、あたたかくて優しくて、君そのものだ……お日様かな…………」
「――C。太陽の匂いと呼ばれる物の正体は」
『太陽の光そのものに香りはなく研究結果としては濡れた布に含まれる繊維が――』
「…………」
「さて――お前らいつまで遊んでいる気だ」
「…………情緒のない……」
「情緒で飯は食えん」
背後で数度刺々しい言葉が行き交うと、溜め息を最後に愛抱夢は離れていった。ようやく箱を下ろして振り向き――悲鳴を堪える。
仁王立ちするチェリーは片腕に彼のパートナーを、そしてもう片方の手には包丁が、沢山。
「昼まで時間がない、さっさと始めるんだな。そら、好きなのを選べ」
勝手に持ってくんじゃねえと遠くから飛んで来る声を無視して揺らされるぎらぎら光る包丁達、かなりホラーな光景だ。
「……適当に二本置いておけば。選べと言われてもそんな風に刃側を向けられたら誰だって持てや――」
愛抱夢の首がわざとらしく傾ぐ。
「ああ、もしかして慣れてない?」
「……それはお前もだろう」
びしりと突きつけられる包丁。上昇するホラー度に反比例して場の空気が一気に冷え込む中、チェリーの目は照りつける直射日光より熱く燃えている。
「勝負だ。どちらが早く切り終わるか――特訓の成果を見せてやる」
力強く宣誓してそっと包丁を置くと猛ダッシュで去っていった。移動時感の短縮、本気が伺える。
「勝負だって」
「違う材料を切るのに勝敗も何も……まあ特訓とか言っていたし引くに引けなくなったのだろうが……」
二本置いていってくれた包丁を愛抱夢が手に取る。しげしげと見つめる姿はいかにも初心者、どうやら本当に慣れていないようだ。
「……どうしようかな」
落ちた声から微かに覗く困惑ともうひとつ――仄かな火の粉の気配に気づいた瞬間、口が勝手に動いていた。
「負けたくない?」
「……そうだね。暢気な空気にあてられて忘れていた。君と同じくらいには僕は嫌いなんだ――敗北ってやつが」
仮面の奥、きれいな赤に火柱が昇る。夏っぽくていい感じだ。もっと燃えればいい。
「協力させて」
「いいよ。よろしく」
箱を開く。薄茶。薄茶。薄茶。
「全部玉ねぎだ……!?」
「持った時から薄々分かっていたけど、ふむ……こう見ると多いな……」
一箱にまとめてみる。てんこ盛りだった。
「だとしても入りきらないわけじゃない。何故こんなに箱を分けて……」
遠くの声が「用途別にしてあったんだよ」と会話に飛び込んできた。
「焼く用と煮る用、それぞれお前ら一箱ずつ、で等分に四箱。言っときゃよかった!」
鉄板を置いたジョーが人差し指を掲げる。
「まあ量は大体でいい、切り方だけは間違えんなよ。輪切りとみじん切り。ちゃんとやりゃあその分美味いもんにしてやるから」
こうだぞと見えやすいよう大きく指先を動かしつつ、もう片手で鉄串を用意する器用さは流石だ。
「いいか。無理ならすぐ言えよ」
気遣いもありがたい。ただ、そこまで不安そうな顔をしなくても。
「何かお前ら怖いんだよな……皮剥けるか、切り方分かるか?そもそも包丁持てるか?愛抱夢お前猫の手とか知ってるか?」
「心配しなくていい」
声に続いて、肩にぽんと手が置かれた。
「彼が全面的にサポートしてくれるそうだから」
「あ、うん。頑張ります」
「……なら任せるが……何かあれば、即、呼べ」
顔に不安を残したままジョーは自分の仕事に戻っていく。肉から何からの準備をテキパキこなす後ろ姿は様になっていた、きっと教えるのも上手いだろう。
「……愛抱夢。やっぱりジョーに」
「大丈夫!君なら僕らを必ず勝利に導けるさ」
「いや、わ、うわ」
肩の手に振られるまま身体が揺れる。散々した後解放されて余韻にくわんくわんする耳へ、低い声が注ぎ込まれた。
「信じているよ、僕の先生」
責任が重い。
そうしてどうにかこうにか二人で頭と根を半量ずつ切り落とし全ての玉ねぎを白くしたあとでようやく「愛抱夢に皮を剥かせて同時に自分が切れば良かったのでは?」と気づいたわけだが。
「それだと僕らが有利すぎる」
「正論だ……」
「ほぼ二対一なんだ、ハンデがあるくらいが丁度いいだろう」
自身をハンデと言い切る姿はいっそ清々しい。
「随分と悠長な発言だがそれで勝てる程俺は甘くないぞ……!もっと全力になれ、愛抱夢!他人だろうと使って俺に勝ちに来い!!」
やや遠く、叫びつつ止めない手元には例の特訓の成果が並べられているのがしっかりと見える。丁寧に、それはもう丁寧に切られた野菜達。
「すごい。飾り切りだ」
「あっちこそ勝つ気はあるのか……?」
愛抱夢が一度大きく息を吐き「よし」包丁を構えた。
「それじゃこっちも本格的にやっていこうか。基本の扱いを教わるのに大分時間を使ってしまったし、急ぎで」
「うん……」
実は、始まる前に覚悟していた教える苦労みたいなものは少しもなかった。改めて彼は器用なのだと認識する。一度言って見せれば即覚えるし対応も早い。では何に時間を浪費したかといえば、どう考えてもあの数分間。彼の目の前でひたすら猫の手を作り続けさせられた謎の時間に違いなかった。必要だったかな、あれ。
「面倒だからみじん切りから片付けよう。まずは縦半分――あ、待った。愛抱夢は知らないかもしれないけど……玉ねぎは、出る」
「出る」
そう。切ると、出る。
「色々工夫すれば出ないけど、時間かかるし」
「工夫って?」
「冷やすとか、ゴーグル着ける人もいるみたい。それとマスク、顔を覆えればいいから」
「へえ……これでもいける?」
とんとんと叩かれる仮面。普通に目の部分が開いているから無理じゃないだろうか。
「いや……」
「試してみよう」
包丁はあっさり振り下ろされた。迷いなく縦横と愛抱夢の手が動きみじん切りを開始する。あれ、教えたっけ。違和感が頭をよぎったが。
「……うん」
包丁を置いてこちらに向いた、彼の顔がすべて吹っ飛ばした。
「駄目だね!」
「あぁ……」
手――だと更なる事故を招きかねないから慌ててハンカチを取り出す。
「待って今……、っ!」
やってしまった。何も考えずに近づいたのは完全に間違いだった、鼻を通り目までを貫く刺激にじんわりと視界が滲む。
どちらからともなく相手を見た。多分二人揃ってそうだろう、瞬きの止まらない目。それでも平然と彼が言う。
「どうしようか。ゆっくり工夫でもする?」
「……いや」
仕方ない。
「時間がない。溢さないようにだけ気をつけて続けよう」
「そうこなくちゃ」
――協力とか頑張るってこういうことだったかな。ぼやけた完成品の山を見てしみじみと分からなくなった。
泣きすぎて顔全体がぽやぽや熱い。多分真っ赤だろう、何とかなったねと隣で笑う男と同じで。
「さて、輪切り行こうか」
「……その前に」
手をくいと引いた。意味を理解したのか愛抱夢が身を沈める。
「はい」
同じく座ったこちらに向けて当然のように差し出されるハンカチと、顔。
うっすら濡れた頬を撫で仮面の縁をなぞる。気持ち良さそうに男がうなった。
ふいに記憶の扉が開く。いつだったか、こんな彼を見た。仮面を伝い青い輪郭から滴る冷ややかな水滴。ひたすら地面に落ちるそれらに心がざわついたのだけ何となく覚えている。
不思議だ。拭うのはこんなに簡単だったなんて。
「できた」
「まだ残っているよ」
そう言われても目周辺はどうにも難しい。仮面に指を突っ込むのは普通に抵抗があるし。
「自分でやって」
「君がいい。……」
愛抱夢が何やら周囲を確認した。
長い指が仮面に沿い。
「……ほら」
「……ああ、うん、わかった……」
押し付けたハンカチはすぐに濡れてしまった。
「…………」
よほど泣いたらしく布越しの瞼は腫れぼったい。目尻の睫毛には未だに水滴が残ってゆるく震えている。ついでに眉間に浮いた汗を拭けば、驚いたのか眉がぎゅっと上がった。意識的に普段見えない部位へ次々目を向ける。そうやって思考を散らして稀に開く目を意識しないようにしないと、あまりに近くから寄せられる目線が気になってどうにも続けられそうになかった。
「……終わり」
「ありがとう」
ハンカチを返した手がきゅっと握られる。仮面はあっという間にあるべき所へ戻っていた。
「お返しに僕もするべきかな?」
「え、っと」
嫌ではないけど、想像だけでひどく緊張する。
「大丈夫、自分で」
「遠慮しないで」
伸ばされる手を避けられない。咄嗟に目を閉じ――耳に届いたそれに反射的に立ち上がった。
「…………?」
遥か先の方から極々かすかな人の声。
「暦だ……!」
「……へえ。分かるんだ」
「うん。絶対暦。だから多分MIYA達も居る」
つまり。
「帰ってくる……」
まだ片方しか終わってないのに。ほぼ確定した悪い未来に背中がぶるりと震えた。
「ごめん愛抱夢…………愛抱夢?」
向かいの男の様子がどうもおかしい。
とても残念そうに肩を落とす姿にはどことなく余裕がある。罰ゲームを嫌がっているにしては、落ち着きすぎというか。
「はあ……楽しかったんだけど仕方ないか。まあ良いさ、またいつでもできる――おい」
「どうぞ」
どこからともなく現れたスネークが彼に何か手渡す。艶やかな柄。よく磨かれた表面が日光を反射させるそれは。
「包丁……だよね」
今使っていたのともチェリーが持っていたのとも違う形の不思議な包丁を、愛抱夢は目線も向けずにくるりと手の中で回した。
「は……!?」
驚く心が更に衝撃を受ける。すぐ隣にあったはずの輪切り用の詰まった箱がない。見回せばすぐ見つかったがやや離れた所に移動しているうえ、いつの間にか移動したスネークに抱えられている。
「ランガくん、そこの空容器を持って僕の側へ」
早くと促されると流される他ない。
「よく見てパッと動く、敏捷性が大事だ。こちらもかなり集中する必要があるからおそらくフォローはできない。いきなり実践なんて可哀想だけど頑張って」
「何?」
「静かに。始まるよ」
箱を置いたスネークが玉ねぎをひとつ取る。足を引いて屈む体勢はまるで投球でもするような。
「――投げます」
投げた。
「!?」
玉ねぎが飛んで行く。放物線を描き落下する先は、愛抱夢の目の前。そして――。
「!?」
閃光が走ったかと思うと、玉ねぎが空中で分裂した。慌てて手を動かしキャッチ。見れば三度目の衝撃――輪切りになっている。
「……切った?」
「まだまだ来るよ」
「え、わっ!?」
スネークが投げる。愛抱夢が切る。そうして落下してくる玉ねぎを死ぬ気で受ける、さっぱり状況が理解できないまま。
「ああ慣れてきた。久しぶりだなこの感じ……どこかの忘年会が最後だからざっと数年振りか……」
「すうねん」
ということはその時点でこんな真似ができたのか。なら。
「愛抱夢、料理できるの!?っ、とと……!」
「いやできない。これは若気の至りみたいなもの」
目の前に落ちる玉ねぎを息ひとつ乱さずすぱすぱ捌く愛抱夢は、何故か若干気恥ずかしそうだ。
「伝統やしきたりに反発を試みた結果、基礎すら習得しないまま曲芸に辿り着く。そんなこともあるんだよ……」
「そう……」
意味は分からないが彼なりに大変だったのだろう。
ものの数分もしない内に包丁とスネークは消え、容器の中はたっぷりの輪切り玉ねぎで埋まっていた。暦達の声はまだ遠い、無事罰は回避できそうだ。
「お疲れさま」
「これくらい何てことないけど……もっと労って。ほら」
顔をずいと近づけられると先ほどのことを思い出す。何だか変な気分になってこっそり目を逸らした。
「拭いてくれないの」
「泣いてないし……」
「本当だ。切る間目を閉じていれば問題ないのかな」
「……」
閉じていたんだ。
「愛抱夢ーッ!」
砂埃がたたない微妙な力加減でチェリーが爆走してきた。
「おや。終わった?」
「当然だ。見ろ!」
彼の調理場には、何だろうあれ。龍?
「……一体どんな特訓してたんだか」
「ふん……俺とお前達の作業終了はほぼ同時。つまりこの勝負引き分け、引き分けだが…………おい、何だあの芸当は」
身体の横、握られた拳が震えている。
「あれが出来るならもっと早くに方を付けられただろう。愛抱夢……お前まさか……」
「いやあ……ランガくんには悪いと思ったんだが、優先順位がね」
「貴様ーーッッ!」
拳の戦いはものすごい速さで割り込んできたジョーに止められた。食品もあったし、何より二人とも手に包丁装備だったからだと思う。本当に危なかった。
「困ったやつらだ。大人なんだからもう少し落ち着いたらいいのに」
「……愛抱夢。優先順位って」
「完勝するより君との共同作業を楽しみたかった、それだけ」
「……本気じゃなかった?」
「まさか!本気だった。証拠にちゃんと引き分けまでは持っていっただろう?」
「……」
つまり全部彼の手のひらの上か。言葉も出ない。
「もちろん夜の本番ではこんなことしないから安心して。持てる全ての力を奮い全員蹴散らして真っ直ぐ君の元に飛んで見せるよ」
それはまあ、心配してないけど。
「俺もあなた達と滑るの、楽しみにしてる。…………はー……」
どっと力が抜けていく。伸ばされた腕に支えられたのをいいことに、そのまま彼にもたれかかった。
「珍しいね。疲れた?」
「ううん……何かちょっと浮かれてたみたいで」
シャツがひやりと気持ちいい。頬の熱さの原因は気温に熱気、泣いた名残。それと。
「俺が愛抱夢に教えられることがあるんだって、そわそわしてた……そんなの、あれっきりなのにね」
情けないというか、恥ずかしいというか。
口に出したことで楽になった身体を「ごめん」離そうとして「……?」より強く支えられた。
「愛抱夢」
目元に当てられたのは。
「……二枚目?」
「さっき替えが来たんだ」
やわらかい布地がとんとんと目下を叩く。
「何してるの」
「泣いているかと思ったんだけど」
「泣いてない」
「なら残りだね。少し我慢して、拭いてあげる」
優しい手付きにされるがままぼんやり力を抜いていると、愛抱夢の声が耳に入ってきた。
「……教えられているよ。あの時からずっと」
淡々とした語り口は穏やかだ。割り込まず、続きをじっと待つ。
「例えば今日は、猫の手を」
あれは教えた内に入らないだろうと言うと「そうかもね」と声は返して、笑った。
「でも僕は知らなかったんだ」
響きがほんのりと弾んでいる。機嫌がいい。
「君と会わなければきっと一生知らなかった。猫の手の正しい作り方も、人前で泣きながら玉ねぎを切っていいことも」
知らなくて良いことばかりに聞こえるそれを話す彼は心底楽しそうだ。
ハンカチ越しにやんわり触れられる。大事にされている、そう実感する度心が蕩けていく。
「……誰かに涙を拭ってもらうとこんなにも幸せな心地になれるってこともね」
「……」
気づかれませんように。願いつつ密かに息を整えた。
愛抱夢のことは相変わらずよく分からないし何も知らないから言わないけど、生きてきて一度も、誰にも涙を拭ってもらえなかった人なんて居ないんじゃないだろうか。彼にだって居たはずだ。忘れたか、無かったことにしただけで。一人くらい。一度くらい。
けれど、ああ。自分は――嫌だな。
「……そうなんだ」
初めてだと言われて。会わなければ一生知らなかったと言われて。咄嗟にそんなことないと返せなかった。わずかに沸いた喜びに似た何かを、見逃すことができなかった。
この気持ちは何だ。どんな言葉で表せばいい。
「もし――僕が泣いていたら」
うるさくてたまらない鼓動を、どうすれば。
「また拭いてくれる?」
「……うん」
「嬉しい。どうか僕を幸せにして」
例えば彼の腕の中。交わされた秘密の約束。ハンカチから香る花の匂い。
耳に残る言葉。不確かな感情。痛くて苦しいのに、ちっとも辛くない胸。
参った。予感がする。