濡れ髪にのぼせる 見せられた液晶にはカラフルに染まる地図。押された再生ボタンと共にちらほら変化を見せるなか現在地らしきマーカーの周囲は変わらず真っ赤のまま、つまり雨雲は当分去らず、ということは。
「しばらく止まなそうだ。どうしようか」
そういうことらしい――が、解らない。
どうしよう、とは何のことだろう。
目的地はまだ遠い。二人とも体力は充分のはずだ。雨が止まないのはまあそういうこともある。だからとりあえず先に進みたいのだが隣の男は何故か立ち止まり動こうとしない。それに付け加えて謎の質問。どうしようって――いや、歩けばよくないか。
言葉に悩んでいると、ふいに視界が滲んだ。睫毛に溜まっていた雨水が瞬きで入ったらしい。ぎゅっと閉じ開けば雨水がぽろぽろ落ちていく、ような気がする。曖昧なのは区別できないからだ。目から落ちるそれの出所が睫毛か、それとも今二人の頭上へひっきりなしに降り注ぐ大粒の雨達なのか。
こちらの返事待ちらしき男はただ微笑んでいる。適当に返してもいいけれど、気づかれて「なぜ」「どうして」と質問責めが始まったら面倒だ。なんとなくです、では許してもらえないときもある。今日がその日だったならこれからの予定すべて変更になりかねない、ここは慎重に行かせてもらおう。
少なくともこの意味のない質問をする意図が彼にはあるようだ。今のところ糸口すら見つからないが、努力はしてみることにする。
「待って。考える」
これくらいの要求は大丈夫だろう、多分。
ほんの口角の上がった優しげな表情が頷くのに合わせてぐっしょり濡れる髪が揺れた。待ち合わせ時とはまた違う光沢を纏うそれから落ちた雫は、まだ示されたままの液晶にぽたぽたと着地し、広がっていく。よく見ればそれ以外にも細かい雨粒が大量。少しだけ心配になる。
「防水?」
「この程度の雨なら問題ない」
「そっか……あ」
会話して閃いた。もしかして、雨だから“どうしよう”なのだろうか。
そういえば練習中このくらい降りだしたら一回止めて雨宿りすんぞと絶対に言われるし体育はサッカーからマットへ確実に変更。洗濯物はしまわなくちゃいけなくて、帰ったら制服をすぐ乾かさないと後々大変なことになる。そもそも濡れて帰るなともよく言われる、風邪引いちゃうから、と。
すっかり忘れていた。そういえば濡れるのってまずいんだ。
開けた視界にはびしょ濡れの男が一人。これは良くない、脳がようやく理解する。爪先まで濡れきった彼にいや教えてよと思う反面気づかない自分もちょっと駄目かもしれない。ともかく風邪を引いたら大変だ。わかった、と袖を引こうとしたところで、
「それで良いんだ?」
「え?」
もうひとつ増やされた謎の質問に身体が固まる。
良いって何が。いや、良いと思うんだが。他に何かあるんですか。
改めて聞かれた真意を理解できなかった脳はあっという間に大混乱。次々止まる思考も止める術はなく、気がつくとただぼーっと目の前を見つめるばかりになってしまっていた。
叩きつけるような雨音に紛れて、男のくすくすと笑う声が耳元を通り抜けていく。
つやつやの青色を滴り落ちる雨水は目を離した隙にとんでもない量になっていた。顔だってもう濡れていない箇所なんて一つも無いだろう。けれど不思議だ。自分の記憶では今くらいの大雨に降られた人達は皆眉をきゅうと寄せもしくは唇を噛み締めひどく嫌そうにしていたというのに、彼の表情は不満がないどころかやけに楽しそうにすら見える。
ぱっと目が捉えた、ひときわ大きな水滴。崩れ掛けの前髪を辿ったそれは大胆にも落ちるついでに髪の束をいくつか引きずり下ろし、けれど結局一人勝手に落ちてしまったので、残された束はおろおろと手近なところへ貼り付いた。額であったり、まぶたであったりに。
目を覆った一束を鬱陶しそうに男が指でかき分ける、その様子にどうしてかひどく心臓が跳ねた。見慣れない様ではあるけれど、それにしたって目が離せない。
払われた髪から伝った水がまぶたへと流れ睫毛に乗りふるふる震えるのに合わせて、どくりどくりと心臓が雨音に負けない大きさで鳴る。あの伏せられた目がはっきりと開けば、自分がそうだったように睫毛から水が落ち、男に偽物の涙を流させるのだろう。泣きたいところが見たいわけではない。なのに彼の赤から溢れたそれが濡れた頬や陰影の強まる首筋を流れていくところを想像するのは、どうしてか――。
「――――、っ!」
あらゆる感情を瞬時に吹き飛ばしたクラクションが、続けて二度三度と鳴った。振り向けば、薄暗いなかにぼやぼや光るもの。ヘッドライトだ。
見覚えのある車体へとすっすとこちらを追い越し近づいた男だったが、開いたドアの横で立ち止まり乗り込もうとしない。片手があがり軽やかに揺れた。ああそういうことか、気づかないことばかりだ。
乗り込んだ車内はしばらく見ないうちに内装を変えたらしい。ビニール感のある敷物の上にどんと積まれたタオルが特徴的だ。思わずまじまじ見ていたそれの天辺から一枚が取られたかと思えば、ぽふり、頭の上に柔らかい感触。乗せた男は悠々と渡されたタンブラーを傾けすっかりくつろいでいる。ずぶ濡れなのに。
「呼んでたの?」
「いや。来ると解っていた」
「そう……」
仕組みは知らないがともかく助かった。
「濡れたね」
「たまにはこんなのも悪くない。待つ間楽しめたしね、君のころころ変わる表情を堪能できた」
変に悩みすぎたかもしれない、男が変わらず楽しそうな理由は自分にあったようだ。それならいいかと思いつつこんなにも濡れてまですることかとも――。
「あんな顔するなんて少し予想外だったな……や、良い顔だったよ。扇情的で」
「それどういう、わっ」
言葉を遮るように視界が覆われる。髪を拭きだした手から慌ててタオルを取り自分でやれるからと言えば「残念」と肩をすくめられた。脳に再び混乱の兆し、やってもらった方がいいのか、そうなのか。いやどう見たって。
「俺は平気だから、自分のこと拭いたら」
シートにできた軽い池とか何とかした方がいい。そんなこと解っているだろう彼は、しかしわざとらしく眉を下げた。
「いいの?」
「……何が」
聞き返すべきではなかったかもしれない。ひたひたと寄る敗北の気配を感じとる間もなかった。口の端を吊り上げ男が笑う。
「濡れてる僕が好きなのかと」
返事はせず、ただ頭上のタオルを顔に被せた。実質答えになってしまっただろうが仕方ない、はいもいいえも言うものか。どうせ何もかも解っているくせに。
「ふふ」
耳も塞げばよかった。
濡れた服からじわじわと肌に染みる雨水。風邪は怖いがあえて放置する。どんどん濡らして、ついでに頭も冷やしてほしい。