まばゆくて降参 どろりと黒く塗られた空。沼のような眠る直前のような底の無いそれをかき分けひゅるひゅる、揺れながら進んだ線はふっと消え――弾けた。
飛び散る光の粒と一緒にぱあんと花火が鳴く。それだけで身体の中を流れるものが少し速くなるようだ。
「どうだランガ、気に入ったか?」
「うん」
TⅤでも動画でもない、本物をこんなに近くで見たのは初めてだ。
音は大きく人は多く下を見ている限り苦しいけれど、一度上を向けばそういった不満は心から消え失せる。
あんまりきれいだから仕方ないなあと思わされてしまう、手の届かない高さで咲き誇るそれは。
「大輪の花、だね」
聞いていた通りだ。
「だろだろ?……お、また来たっ!」
胸をそらして大きく息を吸った暦は、ばらばら広がる花火達へ何かをわあっと叫んだ。
「はー気持ちいいー!」
「ちょっと、あんまり子供っぽいことしないでよ。一緒に居る僕らまで馬鹿に見える」
「……今のは?」
MIYAの頭を撫でくり回しながら彼は目だけこちらへ向け、もう一度謎の言葉を唱える。
「たまや?」
「そうそれ。たまや」
「花火があがったら叫ぶんだよ。かぎやもある」
「二種類?何で?」
「なんでって、そりゃー……二つあった方が嬉しいから……?」
「そこの物知らず二人。たまやとかぎやは昔の花火屋さんの名前だから」
なるほど。たま屋さんとかぎ屋さんか。
「両方とも同じくらいすごくて人気があったから、良い!って思った方の名前をお客さんが叫んで競った、それが始まり。覚えた?」
「はは、チェリーとジョーのファンみてえ」
「確かに似ているかもしれない。さて、どちらが鍵屋でどちらが玉屋だろうか」
「なにか違うの?」
「双方有名だが実のところ今日まで続いているのは片方だけだったり。どちらだと思う?」
「んー……」
続いている方も、チェリーとジョーを照らし合わせるのもさっぱり分からない。悩んでいると「時間切れ」と隠れていた手が前へ回された。指先がつまんでいる小袋には半透明のころんとした何かが見える。たぶんお菓子だ、つまり食べられるわけだ。
「参加賞をあげよう、どうぞ」
「どうも」
美味しい。
「暦とMIYAも……」
貰えば、と振り返ると、ずいぶん微妙な顔がふたつ並んでいた。
「なに?」
「何ってお前」
「横、横」
横を見たが、別に知らない人や自分がここに居ることで迷惑していそうな人は居ない。強いて言うなら一人、空いた手のひらにまたお菓子を落としてくれる男は居るが。
「いいかランガ、そー……っとこっちに来い。走らず焦らず、慎重に。最悪死んだふりしろ」
「それ意味ないから。とにかくゆっくり距離とろうか……急がないで……」
「酷いな、人を熊か何か、野生の獣のように」
噛まないのにね、と愛抱夢は肩をすくめる。いつの間にか腰に回されていた手はちょっと外れそうにない。熊だったらこの時点で既に生命の危機だけど、彼の場合はどうだろう。
手招きしていた二人はこちらの足がぱたぱたとその場を踏むばかりでちっとも進めていないのに気付いたようで、溜め息を吐きとぼとぼと近づいてきたが
――しかし辿り着かないどころか逆方向へ。一斉に移動し出した大勢の客に流されていく。
「みゃ――ッ!?」
「なんだ!?やけに人が……ッ、ランガ!」
背中を、とん、と小さな衝撃が襲った。
「……れ、れきー。みやー」
「ランガ、こっちに」
「おれは大丈夫、二人はたのしんできてー……またあとでー……」
「そんなことできるか、ランガ、おい!……!」
二人は完全に飲み込まれもう声さえ聞こえない。
それでもつい目は閉じてしまった。
いざやってみて気づいたけれど、もしかして、いやもしかしなくてもこれは悪いことだったのでは。
「……ランガくん、ほら。目を開けて」
「……愛抱夢」
「大丈夫。彼らはとても良いところに行き着くから」
合図の正体、愛抱夢の指が髪を掬う。
「すぐ夢中になるだろう、君の心配なんて忘れてしまうくらいにね。だから君が苦しむ必要はない」
「そうかな」
「そうさ」
花火に負けないくらい地上は賑やかだ。声と声、音と音が混ざり合っている。
「不安なら僕を信じて、あの日のように」
愛抱夢の声は小さく、それでいて良く響いた。自分だけがそう感じるのかもしれない。二人が居なくなった今、自分が聞き分けられる音は彼の声だけだから。
――先月の話だ。
始まりがビュッフェメインが食べ比べだったことを少しは疑問に思うべきだったか。得しかないデートコースで自分が気を緩ませたところにそれは来た。
「お願いがあるんだ」
「わかった。いいよ」
とりあえず頷いた。とても気が緩んでいたので。
「……いいの?」
もう一度「いいよ」と言えば向かいに居た顔が眉を崩した。不思議な表情の作りは怒っているようにも喜んでいるようにも見えて、どんな気分か尋ねれば愛抱夢は「困っているんだ」と。
「もう少し君は注意深く動いた方が良い。せめて内容は聞くなりしないと悪い人に利用されてしまうよ」
「あなたがしてるみたいに?」
気は緩んでいた。そして、そうさせられていることをうっすら理解していた。よく分からないなりに何かあるのだろうと甘味と塩気で夢心地の頭を何とか待機させていたのは愛抱夢を少々動揺させたらしい。珍しく言葉をつまらせる彼に、ほんの少しくすぐったい感情が胸のうちで跳ねた。
彼が時折こちらを驚かせようとする、その理由はこれなのかもしれない。自分もちょっと楽しかった。
「僕は……利用、はしたくないな。するなら協力、共同作業、共犯……ともかく君の意思を尊重したいと思う」
君が僕の言うことを何でも聞きたいと願ってくれたら早いけれどそんなの君では無いしね、と愛抱夢はグラスを傾け、氷がカラカラと。
「だからあくまでお願い、のつもりだったが……まあ聞いてくれるなら甘えてしまおうかな。ランガくん」
「はい」
「来月の中頃この近くで花火大会があるのは知っている?」
「うん。暦とMIYAと行く」
「そう」
カラカラ、カラカラ。カラン。
「それ、僕と行って」
あの日といえば間違いなくあの日に違いない。だが。
「…………信じたって言うの、あれ」
愛抱夢は唇をにんまりと、笑みの形に。
「僕が何かしら愉快な事を思い付いていると理解したうえで君は詳細も聞かずに頷いたんだ。それを信頼と呼ばずに何と呼ぼうか」
「油断」
いくら身構えても結局緩んだ心と身体では限界がある。勝てると思ったのも良くなかった。
「今度は内容聞いてから答える」
「良いね。今度があるのは素晴らしい」
忘れてはいけない。この男はスケートだけでなく口も恐ろしいほど強いのだ。
「君だってなかなかだと思うけど。粘りに粘るものだから結局途中からまで譲ってしまった」
わざとらしく悲しげな声がうなじにまとわりつく。
「いいよ、いいよと言ってくれたのにね。あれは嘘?」
「嘘じゃない」
もし誰とも予定が入っていなければ、もしくは愛抱夢との予定が先に入っていれば、そちらを優先したと思う。けれど暦とMIYAとの約束は数ヶ月前からやんわり決まっていた事だ。三人ともすごく楽しみにしていた。その筈だ。
けれど自分は今こうして二人と離れこの男の願うまま傍に居る。
「嘘でないなら、本当は?」
じわりとかいた汗が気持ち悪い。
「君はどうしたかったの。ねえランガくん」
質問の意味さえ分からないのに何か答えなくてはいけない気がした。顔を見る。口を開く。ただ思い付いたまま言葉を放とうとして。
――どん、と。
鼓膜が。
思わず見上げた空に散る光は、花火だろうと思うのだけれど。
「ちがう」
形が、ただ円に広がるだけではない。粒が列になり線を生み出している。出来上がる形もずっと色々だ。猫、キャンディ、UFO。空にネオンカラーの絵が浮かぶさまは子供のころ遊んだスクラッチアートを思い出す。
「形がちがう。愛抱夢、ほら。形が、色も…………あ、」
くすり、笑い声が耳に入ればさっと全身が冷え、そして首から上がみるみる熱く。
「楽しかった?」
「……うん」
「ならもっと見ていていいよ」
ますます温度が上がっていくようだ。花火に向ける為押し上げるように顎に触れた手はしばらくの間そのままで、離れた後も顔の火照りが消えてくれない。
落ち着かない心臓を整える気にもならず速い心音もそのまま見ていれば、あっさりと花火が途絶えた。
終わりかと尋ねるといいやと愛抱夢が指差した先、空はもやもやと白く濁っている。
「風が煙を流すまでしばしの休憩だ。僕らも休もうか?」
「ううん。待ってる」
待っていれば始まるならいくらでも待つ。言うと愛抱夢が唇を何か言いたげに擦り合わせた。
「駄目?」
「駄目ではないけど……余程気に入ったのだな、と」
首筋をかき彼は表情を一部崩す。
「やはり最初からにすべきだったな」
「しないよ」
「君はそう言うだろうが、それでも」
僕はそうするべきだった。
小さな呟きはざわめきに飲み込まれた。
「見たかったんだ」
「何を」
愛抱夢本人がそれを望んでいるかのように、彼が落とした言葉は皆くしゃくしゃにかき消されていく。きっと聞こえているのは自分だけ。いいや、意識し続けなければ自分さえ、この声を掬えなくなってしまうのだろう。
「表情を」
「どんな」
「初めて花火を直接目にした瞬間の、驚きや興奮がない交ぜになった、君を」
「そんなの見たい?」
「見たいよ」
慎重に耳を傾ける。沢山の音と人にそれを無くされてしまうのは、もったいないと思ったから。
「君がはじめて見せるものは、表情でも、感情でも記憶に残したい。僕にはその権利がある」
「権利って」
「見せるべきだ」
「べきって」
「だって不公平じゃないか。僕ばかり見せて」
「あなたが、俺に?」
だって、なんて彼がなかなか使わないような子供っぽい言い回しも気になったけれど、それより引っ掛かる言葉があった。
はじめて。そんな物見せられた記憶はない。
「見せたよ。散々ね」
「いつ……」
「君には分からない。きっとこれからも。思い出すのは僕ばかりだ」
横顔は空へ。
「急に消えたり現れたり、生意気言うかと思えば手なんか差しのべて来て。あんまり目まぐるしく変わるものだから追い縋るので精一杯。取り繕えもしなかった」
もやが晴れていくなか一つだけぽつりと光るものがある。多分、星だ。
「うるさいし、鬱陶しいし。見下ろしてくるし。それなのに泣けるくらい美しくて。いつか去ってしまうくせに、きっと一生心をとらえたまま離してくれないのだろう。仕方ないと思う僕自身ごと嫌になるね」
「……何の話?」
「君の話」
そうなのか。あの日愛抱夢から聞いた花火についての話とよく似ているから、てっきりそちらかと。
「似たようなものだよ。花火も、君も」
「……はあ」
「僕もあれが欲しい。僕以外の誰も知らない君……僕だけの……」
散らばるカラフルな光を追うふりをして隣の横顔をそっと盗み見る。軽く結ばれた唇から鼻筋、その上のラインがどおんと響く度くっきり照らされるのは。
「きれいだ」
「そうだね」
愛抱夢の周りはいつも騒がしい。風であったり、機械であったりをパレードのように引き連れて現れる、彼は賑やかな人だ。けれど時々驚くほど静かになって、そういうときは顔も違って見える。少し緊張してしまうほど、うっかり感想をそのまま口に出してしまうほど。ちょうど今みたいに。
バレなくて良かった。
「……愛抱夢はさ、こういうの、よく見るの」
「ん?まあ人並みには」
「……そっか。残念」
はじめてじゃないのか、と言うと愛抱夢がこちらを見た。向いた顔はぽかんと口を開けている。
「なに」
「……いや君、それは」
「――居た、おーいお前らー」
知っている声が一人分。
人をひょいひょい避け近づいてきた顔はむらなく真っ赤で、楽しんでいるのが一目で分かる。何よりだ。
「暦」
「なに。戻ってきてしまったの?」
「ランガ」
Tシャツから伸びた両腕は片方をこちらの手首。
もう片方を――珍しい。
「それと……愛抱夢も、来いよ」
流石に予想外すぎて避けられなかったようだ。歩き出す暦に引きずられ、愛抱夢は一歩目を踏み出す。
「どうした?」
「お前とはぐれた後着いたとこがめちゃくちゃ良い席で。次ので最後らしいから、一回お前らにも見せときたいなって、二人で話してさ」
「……ありがと。ほんとごめん」
「何で謝んの。ギリギリ間に合うから良いって」
そういう意味ではないのだ。ああ胸がチクチク痛い。つい愛抱夢の方を見たけど彼は彼で忙しそうでこちらを見てすらいなかった。ひたすら渋い顔で暦と話している。
「……やってくれたな」
「お前も、とは思ってなかったろ」
機嫌が良いのか、視線を流した暦はししっと笑った。
「ランガだけ連れてくのもな、ほら、今日は花火大会だし?MIYAー、作戦成功!」
「おつかれー」
「……作戦とは」
「気にすんなって」
はいはいと暦に腰を押されたとき上から、ひゅうと。
始まる。
叫んだ誰かへ答えるように夜空が花を咲かせた。ひとつ、ふたつ。それに重ねてみっつよっつ、更に沢山。
「うわ、わ」
多い。
「ラストはやっぱ物量ー!わははっ、さいこー!」
「叫びながらこっち来るな!」
花火で頭が一杯になっているのだろう。MIYAの待つ方へほとんど走るように暦は行ってしまった。支えを失った手が落ち、代わって大きな手にするりと捕らえられる。
「行こうか」
「いいの?」
「これで君を攫うだろ。そうしたら僕の負けが決まる。まったく本当に良い作戦だ」
カラフルだった空はいつの間にかくっきりと二色に分かれている。真っ黒と白。夜と光。
「たーまやー!」
「か、かーぎやー!」
ずっとはしゃぎっぱなしの相棒の影響か、MIYAまで口をいっぱいに開いて叫び出した。二人ともすっかり熱中している。これならここまで近くても聞こえなそうだ。
「愛抱夢」
「ん?」
「やっぱり俺、こういう、嘘つくとかは苦手。ずきずきする」
「うん」
「もう多分できないと思う。ごめんなさい」
「……うん」
驚きもしない愛抱夢は、自分がこんなふうに弱音を吐くことも分かっていたのかもしれない。
「でも」
本当は、と聞かれた。ただ思うことをそのまま言っていいなら暦とMIYAと花火を見たかった。けれどお願いされたらどうしても答えたくなってしまった。どこかで分かっていたのだ。自分にはこういうのはまだ早い、うまくは行かないだろう、と。
それなのに止めようと少しも思えなかった。だって。
「それでも、あなたと悪いことがしたかったよ」
こっちだって本当の本当だったのだと、うまく言葉にできないのがもどかしい。どうにか伝えたくて手を強く握る。体温しか感じられなかった。
「分かる?」
「分かるさ。聞けて良かった」
「優しいな」
「そんなこと。君のそれが本当なら僕のこれも本当だとも。その言葉だけで十分満足できているし、その一方で……」
「で?」
「今すぐ君を連れ去りたかったりもする。ふふ」
ひっきりなしに広がる花火は重なり大きくてきれいなものしかもう目立たないけれど、それでも見られたものではない、いびつなそれらだって無くなるわけではないのだと愛抱夢は言う。
「欲望も嘘も、悪事だってたまには許されるさ。言い訳が欲しいなら僕が居る。君の愛を振りかざし叫んでくれよ、彼らのように」
たまや、かぎや。色んな所から届く声はどれも大きく無理矢理気味で隣の人すら気にしていないだろう。乱暴とさえ感じるのに、聞いた瞬間楽しいんだなと分かるのは。
「不思議だね」
「ああ。愛しくてたまらない」
入れ替わるように開いていた花火が消えた。奇跡みたいに黒いままの空へ、ひゅる、ひゅるひゅる、と数えきれない線が同時に流れ出す。
「終幕だ。一番きれいだから、集中して」
「わかった」
なかほどまで辿り着いた線達がふっと見えなくなると、次の瞬間。
「……!」
空全体が光を放っている。弾けていること以外何も確認できない。
あまりの衝撃に息さえ忘れてぼんやりしていると、何かが視界に入ってきた。それが愛抱夢だと気付く間も無く。
「――――――」
強く鳴り響いているのは花火の音だ。心臓じゃなく脈でもなく、動かない頭が爆発したわけでもない。
顔が離れた。何か言いたいのに唇が動かない、無理もない、今メチャクチャになったばかりだ。
「……心配しないでいい。誰も気付いていない、皆夢中だったから」
いや確かにそれも心配だけど、今はそういうことが言いたいのではなく。
おかしい。噛まないって言ってたじゃん。
「驚きが度を越すとそんな顔になるのか……あはは、かわいいね……」
余韻で静まる人達のなか今から何か始まるみたいに騒ぐ自分達は間違いなく浮いていた。集まりつつある視線に巻き込まれた暦とMIYAが何かすごい表情で見てくるのに心のなかで謝る。
「ねえランガくん、あの日君に“お願い”したとき。あのときから僕は、ずっと――」
笑い声につられてほんの少し見上げた先。愛抱夢は嬉しそうだ。
困ってしまう。
「君にこうしようと思っていたって言ったら、信じてくれる?」
信じるよと言えばますます笑う。照らされてさえいないそれが今夜見た何よりきれいに見える時点で、もう仕方ないなあと思うしか。