倦ねるは君の青「いいよ……なに、その顔」
自覚はある。おそらく今、己はこのうえなく奇妙に表情を崩しているに違いない。
自分自身良く分からないのだ。喜ぶべきか、悲しむべきか。目の前の少年の肯定をどう受け止めるべきか。
「嫌?」
「嫌ではないし止めないが……準備とか必要ないの」
「準備」繰り返したランガは指で自身の唇をもにもに触り「微妙」と答えた。そういう意味ではない。
一応渡したリップクリームを躊躇うことなく唇に当てる、横を向いたそれは常と変わらず真顔だ。
「随分落ち着いているね」
「そうかも」
「慣れている……わけではないだろうに。それとも実は経験豊富だったりする?」
「そこそこ」
間違いなく家族相手を含めている。
妙に気を削がれてしまったこちらを置き去りにするように、肩に回していた腕からランガが抜けた。一人覚悟を決めてしまったらしい。
身を回し、軽く顔をあげ、目で訴える。
いつでも構わない、来い。
いっそ勇ましさすら感じる、甘い雰囲気の一欠片も存在しない圧。恋人へ、それもこれから初めてキスするタイミングで向けるものとは思えなかった。
記念日そのものはともかく、それを持ち出してランガから何かを得るのは好きだ。出会って一年話して何ヵ月付き合い出して何日目。切っ掛けにしてあれこれねだる。叶うかどうかは自分次第だが、拒否されない程度のラインを狙うのは難しい事でもない。
ただこちらが加減しているとはいえ、いつも素直な恋人はこれまた素直に頷くものだから、少々別の反応も欲しくなった。例えば、照れるであるとか。
なのでまあ持ちかけてみたわけだ。キスでもしないかと。そんなふうに。
結果がこれだ。腿をとんとんと打つ催促にまだかと言いたげな数センチ下からの視線。完全にこちら待ちというか受け身であることに不満はないが謎の余裕には内心たじろいでいた、伝わっていないと良い。
こちらをじっと見つめる瞳は、開けた空にもその下の海にも見える。表も裏もないどころかそもそも見せようとする意識を持っていないような明快さ。ただそこにあり、どこまでも深い。良く言えばミステリアス。しかし彼の内面をよくよく知った身として見解を述べるなら――何も考えていないのでは。これに尽きる。そもそも今自分にしてみないかと誘われるまで行為全般への興味をランガが抱いていたとは思えない。手を繋ぐ、抱きしめる等の身体接触は嫌いでないようだが純朴な少年の中身はいまだ未知。つい考えてしまう。キスしたところでしたなあくらいの感情しか抱かないのでは。美味い不味いの食レポ程度なら耐えられるが、面白いことでは無かったと落胆されなどしたら少し辛いかもしれない。
悪い未来の想像はこの辺りで止めておこう。想定より素直に喜べない状況になってしまったが、待たせるのも趣味ではない。
顔を近づけても瞳は揺れすらしない。こちらだけ目を閉じては逃げるようだ、半ば意地で視線を合わせたまま唇を重ねた。
ランガのそれからは薬っぽい匂いがする。さっきやけにしっかりと塗っていたせいだろう。しかし一応その分潤いやわらかくなっている筈の唇は――不思議と、固いような。
疑問に答えを出す暇なくすぐに唇は離れた。
そっと身体を押してきたのはまだ子供の名残を感じさせる手。ある程度こちらと離れた後力尽きたようにそれらは下がり、ランガはほっと息をつく。
普段と何ら変わらない穏やかな表情が今何故か無性に気になる。
一度ではよく分からなかったからもう一度。理由になるだろうか。ならないかもしれないので尋ねはせず再び唇を合わせた。ぴくりと反応する身体を寄せ、迷いがあるのか弱々しくしか押し返してこない手を絡め。様子をうかがううちに気づく。感じた固さの原因は表面ではなく唇そのものにあった、内に巻き込むほどぎゅっと引き結ばれたそれの。
よく分かったところで解放する。
顔を真っ赤に染めたランガは震える唇から吐息をもらした。情欲からではない。もっと簡単で、至極幼い理由だ。
「息を止めていた?」
訊けばこくこくと頷く顔がなんとも愛おしく。つい近付けた顔が――はし、と何かにぶつかった。
名を呼ぶ。ランガくん。手のひらに阻まれくぐもってはいるが確かに届いている筈の声にも応じず、子供はひたすらこちらを見上げている。
すっかり色も冷めた頬。通常よりほんの僅か大きく開かれた目。呆けたような、気の抜けたようなそれは、おそらくランガの驚きの表情だった。
瞳に嫌悪の色がないこと。相変わらずその気になればはね除けられる程度の力でしか抵抗されないこと。諸々考慮し、落ち着くのを待ってからなるたけ柔和にランガへ声を掛けた。
「手を退かしてくれる?」
「なんで?」
「君にキスできない」
「もうした」
「何回だって良いだろう?……減るものじゃないし」
悪戯心で仕掛けた罠は面白いほど容易く獲物を捕らえた。数秒間を置き、ランガが呟く。
「減る」
笑ってしまいそうだ。
「そう。減るんだ?」
「減る……気がする。たぶん」
「分かった。それならせめて抱きしめてもいいかな」
返事の代わりに手を下ろしたランガは、大分平静を取り戻したように見えた。だが裏腹に広げた両手へすとんと入ってきた身体は熱い。
ちぐはぐなそれを彼はどう感じ取っているのだろうか。今はまだ淡く、けれどもしハッキリ感情ごと把握出来るようになったならその時はもう少し別の顔を見せてくれる筈だ。戸惑うばかりのこれとは違う、照れ混じりの色づいた表情を、本当に。
くすくすと笑う声。自分の声だ。ああいけない、耐えられなかった。不満げな顔に釈明をしなくては。
「違うよ、嗤ったわけじゃない。ただ青いなあと」
「青?」
「分からないか」
そんなことさえたまらず、深く抱きしめる。このまま身の内にしまいこめそうだと思い違うほど幼い心。体躯に似合わないそれは未成熟で、何故己が揺れたかも知らない。
キスひとつで緊張するような馬鹿らしさも、それなのに強く拒否しない、しなくとも許されると思う愛から来る甘えも。こんなふうに抱きしめられれば尚更逃げ道が無くなってしまうことだって。
「つまり可愛いってこと」
ふうんと理解出来たのかどうか掴めない返事の後少年は目を閉じた 。そのあどけない表情に免じ今日はここまでとしておこう。
彼は感謝するべきだ。今すぐ何もかもを教えてしまいたい、だがこのままゆっくり染めるのも捨てがたい。そうして自分を苦悩させる、自らの青いいたいけさに。