Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    yowailobster

    ☆quiet follow Send AirSkeb request
    POIPOI 175

    yowailobster

    ☆quiet follow

    20220128 全然付き合いそうにない二人と時々霊 多量の解釈違いが含まれています

    見る人によっては必要以上に情け容赦がなく見えるかもしれないけど私はこれを読んでみたかったので書きました まあこのあとスノードロップ見て全部終わってしまったが…たすけてー

    ##明るい
    ##全年齢

    亡霊はそこに居る「亡霊退治をしよう」
     半分ほど下がった後部座席の窓から告げられた言葉はランガにとって、そして俺にとってまったくの不意打ちだった。
     たまらず固まったランガが車内へと引きずり込まれる。弾みでシートへ腰かけたなら今夜の空と同じ光ひとつ無い闇色の車体が動き出し、俺達はあっさりと攫われていた。
     何もかもの速度に追いつけなかったようだ。ランガはぼうっと座ったままで、先程取られた腕を隣に座る男の手の内から逃そうとさえしない。それを良いことに好き勝手服越しに擦り撫でていた手が袖を捲りだしたのでいよいよ傍観するのもまずかろうと強引に顔を向かせたならようやく青い目が自らの剥き出しの腕を、そしてそれを掴む男を認識する。
     男は悪びれず「寒くて」と言ってのけた。季節はもうじき秋、車内には軽い芳香に混じり人工的な空気の匂いが混じっている。寒いと言うならまずこれを止めるべきだろう。
     あまりにおざなりな嘘だがしかしランガはそうかと頷くだけだった。信じ難い。勿論どちらも、だ。
    「それで愛抱……夢……?」
     首を傾げランガは隣の男に少々不躾な視線を浴びせる。月も上りきったこんな時間にランガを呼び出したメッセージ。その終わりには確かに愛抱夢と名が記されていた筈だ。だが今ランガの眼前に居る男は真っ赤な衣装はおろかトレードマークの仮面すら付けていない。仕立ての良いスーツと人当たりの良い笑みは男の性根を覆い隠しておりやや鈍いところのあるランガが男を“そう”だと判別出来るのは不思議だが、探れば事情あって一度行動を共にしたことがあるらしい。その際と同じように呼ぶべきかと尋ねたランガへ男はさらりと否定を返す。
    「知られてしまった以上小細工もね。君の好きなように呼んでくれ」
    「じゃあ愛抱夢、何をするって?」
    「亡霊退治だよ」
     亡霊、と相手の言葉を繰り返しランガは口角を下げる。顔の渋さは男の言葉があまりに荒唐無稽でついていけていないから、それだけでも無いだろう。気持ちは分かる。男の言葉を聞いた瞬間俺も思った。退治ならもうしたじゃあないかと。
     そう。つい数週前の夏の盛り、俺達はしたのだ。いわゆる幽霊退治というやつを。
     
     以前に比べ風通しが良くなったSだが出入りする人間の質はさほど変わらないようだ。彼等は少々のスリルと非日常、そしてそれらを共有する仲間を求めている。分かりやすく流行りものが好きで馬鹿騒ぎが好き。噂にも敏感。そんな彼等がこの時期一番の話題を逃すわけもなく毎年夏になるとSには一度以上その類の噂が流れる。やれ鉱山で事故死した男だのかつて山中で首を吊った女だのとバリエーションは豊富だ。盛り上がれば時には目撃証言が出たりもするがこちらは大概相手にされない。注目を集めたいが故の虚言であることが瞭然だから。
     しかし今年の夏は少々事情が違った。
     ――スノーが幽霊を見た。
     新たな超常現象の目撃者は、Sへ現れてから注目の的であり続けるルーキーだったのだ。
    「これ以上目立つ必要のない君だから皆も信じられた訳だ。あのスノーが言うならばと」
    「俺幽霊とは言ってないんだけど」
     眉を寄せスノーことランガは不満がるが滑る最中光る物体を見た、人の姿をしていた、そのような言い方をすれば勘違いして受け取る輩が出るのも当然だろう。幽霊かと強く尋ねられた際も面倒だったのか否定せず相槌で誤魔化していたし。発言に罪は無いが曲解され広まったのは発言者の怠慢だ。一方で同情の余地もおおいにある。刺激を求める連中には話を真面目に聞く気など最初から無かっただろうし、仮にランガが訂正するため努力をしたとして実を結ばなかった可能性が高い。
     懐疑的だったプレーヤー勢は勿論現実主義者、スノーに反感を抱く者など少なからず存在していた幽霊否定派さえ数週も経たず居なくなった。投下された新たな燃料により燃え上がった炎に焼き払われたのだ。
    「確かに言って無かったね。けれど君以外はアレをそう定義したから」
     立て続けに現れた目撃者達、彼等は皆スノーが見たものを自分も見たと叫んだ。
     一人で滑っていると横に発光する人間のようなものが出現する。すぐに消え、跡も残さない。あれは幽霊に違いない。
    「彼らが見たものが霊なら大本の君が見たのも霊、とまあ無理やりではあるが理屈らしきものが通ってしまった」
     恐ろしい程無理やりだがプレーヤー達が欲したのは論理ではなく狂える熱だったという事だろう。
     こうしてたちまちSを支配した幽霊の噂は廃鉱山内どころかSNSを通じボードなど持たない層にまで若干広まりなんと不法な侵入を試みる者も出たのだとか。S内の空気は無意味に緊張に満ちていた。ランガは変わらず滑りたがったが、スノーと滑れば幽霊が出る、そんな噂を聞きつけた連中に囲まれビーフはおろか満足いく練習も出来ておらずストレスか時々頭を押さえたり身体が重いとこぼしていた。とある店に呼び出されたのはそんな時だったか。
     店内には片手程の見覚えのあるプレーヤーが集められていた。彼等を集めた店主でも無いのに当然の顔で中心に居る男は口を開くなり「どうにかしなければね」と。驚くと同時にひどく嫌な気持ちになったものだ。何度か間近で見て自覚したが俺は男に敵愾心のようなものを抱えているらしい。奇抜な衣装センスは多少理解できるだけに輪をかけて奇抜な行動には本能的な拒否感を覚える。なにより男を見ているだけで頭の内に不快な激情がふつふつと湧いてくる。どこから来ているのかいまいち定かでない苛立ちは今も変わらない。
    「同感だがそれこそお前の仕事だろ。何で俺達に言う」
    「協力したいかと思って」
     男の言葉に店主は苦々しく顔を歪めていた。営業時間外のようだったが、だとしても溜まり場のように扱われればあのような面持ちになっても致し方ないだろう。多少殊勝な態度を見せるべきだっただろう男から飛び出した脈絡のない問いかけに店主の顔が更に歪んだのは言うまでもない。
    「君達は霊の出し方を知っている?」
     出す。出るではなく。集まった一人からの疑問に男は笑みで答え「霊は出すものだ」と返し。
    「例えばこんなふうに」
     言うなり照明が全て消えた。困惑しながらも一同は暗い店内に唯一確認出来る光へ続々視線を向け、揃って目撃したことだろう。閉じられていたカーテンにくっきりと浮かび上がった人影を。
     叫び声も聞こえたが全員は騙せなかったようで、すぐ取られたカーテンの向こう。
    「……なに?」
     もうカーテン内から出て良いのかと首を捻るランガへ指示した男は近づくと労うように肩へ手を置き、一同へ分かったかと。何が分かるか他人の店で勝手するなと店内はブーイングばかりだったが中には律儀に男へ答える者も居た。
    「成程。真偽はともかくお前の見解は把握した。で、どうする気だ?」
    「どうするも何も最初から言っている通り」
     男のゆったり足を組み替える所作には腹立たしい程の余裕があった。自分の誘いに全員が乗ると疑いなく確信していなければああは出来まい。
    「しようじゃないか幽霊退治。派手に楽しく、仲良くね?」
     仲良くと聞いた瞬間ほぼ全員が若干嫌そうなにしたのを男はどう受け取ったのか、実に楽しげに片頬を上げていた。
     派手にとは言ったが男が告げた作戦の始まりは至って地味だった。しかし誰もそれを指摘するどころか作戦自体に直接反発さえしなかったのは単に面倒だったからと思われる。
     Sへ来る人間の多くが子供か大人になりきれないガキだ。だからか多数存在する派閥、そのトップ連中は巻き起こる騒ぎに積極的に関わろうとはしていなかった。だがある日を境にじわじわと信じる素振りを見せ始める。するとまあ当然ますます炎は燃え広がり熱狂は加速し幽霊の出現情報は増え続け、そしてついに幽霊は自ら存在を主張し始めた。
     幽霊によってコース外へ落とされかけたと傷を見せ叫ぶ者にS内が騒然となる中、俺含めた数人は大変面白くない顔をしていた筈だ。男の思惑通りにことが進んでしまった。これで次の作戦へ移行しなければならなくなる。
     作戦の要はこの幽霊騒ぎの発端たるプレーヤー。つまりランガだった。
     明らかな危険度に最後まで案じられていたもののランガは受け入れた時から変わりない表情で来たるSを迎え、対戦相手と共にビーフコースへと向かった。けが人の影響と慕う者からの指示により大幅に減ったギャラリーは久方ぶりのビーフに喜びつつもどこかそわそわと集中しきれていない様子だった。この時のSにて最も望まれていたのは類まれなるスケートでは無い。不在の出現だ。
     応えるようにそれは中盤にて現れた。
     滑るランガの背後から近付く発光体。件の幽霊が再びランガの前へ姿を現したのだ。しかも一体や二対では無い。総数は優に片手を超えていた。
     幽霊は集団でランガを囲いそのまま輪を狭め落とそうとしたが転落寸前のコースだろうとランガは容易く走り抜け伸ばされる手足も躱し続けた。躍起になる幽霊達と彼等の猛攻を対戦相手の隠れたアシストもあったとはいえ涼しい顔でかいくぐるランガ。どちらがより不可思議な存在としてギャラリーに見えたかなど愚問だろう。
     果たして幽霊達はランガの目の違和感に気付いていたか。青は決して怯えてなど、それどころか幽霊の出現に戸惑ってすらいなかった。知っていたからだ。ランガは幽霊が出現すると事前に聞かされていた。誰に。勿論。
    「やあ君達。楽しそうだね」
     突如現れた男に驚く暇など幽霊達には無かった。現れたのは男一人だけでは無かったのだ。
    「ビーフと言うには多過ぎだな」
    「何人か減らすかあ?」
     品に欠けた笑い声と共に多少加減された爆風が起きたなら幽霊の何人かが転倒した。
    「こらシャドウ!こっち寄こすなよ!」
     飛び越えられた拍子に幽霊の纏っていた布がめくれ上がった。大きく吹いた風に攫われ布は光りながら飛ばされていき、残った中身は逃げようとしていたが間に合わなかった。早々止まったランガの対戦相手によって捕獲される姿はモニターに大写しにされていたことだろう。
     状況を理解出来ず幽霊達は慌てふためいていた。ミスを繰り返し一体ずつ地に倒れて行く彼等からならば脱出は容易い。
    「ランガ、大丈夫か」
    「うん。でも思ってたより多かった」
     ミスでも無いのに転げかける相手を他所にランガは幽霊達へ目を向け「こんなに居たのか」と呟いた。その間にも光は消えていき、最後の一体もいよいよボードから足を離したなら男はおそらくカメラ位置だろうそこへ顔を動かすと一言。
    「君達も楽しめただろう?」
     モニター越しにギャラリーへ問いかける背後で何人かが速度を上げた。それから数秒もせずカメラは彼等を追いかけるよう切り替わり、運営側へと戻って行ったランガの対戦相手の下大変盛り上げられていたのだと後から聞いた。そうしてこの夜のビーフは幽霊との一戦では無く夏前から始まっていた運営の企みとしてギャラリー達の心に刻まれたのだ。男の作戦通りに。
     残ったランガ含む数人を背に回し集めた幽霊達へ男は声を発した。
    「首謀者は誰かな?責める気は無い。名乗り出て」
     一体の幽霊が立ち上がり前へ出てくると「そう」と男は手を出し即座に幽霊から布を剥ぎ取った。容赦が無い。布の中身も俺達とそう歳も変わらなく見える顔を驚きに引きつらせていた。その腕には例の傷跡がうっすらと。
    「だと思った。子供でなくちゃこんな大それた真似は出来ないよね」
     概ね賛同できた。子供のフリをした大人と違い、子供は叶わない夢を見る生き物だ。幽霊達も見たのだろう。Sが自分達だけの遊び場になる夢を。
     全員の布を剥がされた姿を見た訳では無いので明言は出来ないが彼等の中身その幾つかに俺達は見覚えがあったのではないだろうか。おそらく幽霊を見たと証言した者達の多くがその中に居た。目撃情報は細部まで一致していた。何の事は無い。彼等が口裏を合わせ見ていないものを一斉に見たことにしたから。そして思惑通り人が減り始めると彼等は仕上げにランガを落とし幽霊の存在を確固たるものにしようとしたのだ。
     これは推測だが男が彼等を子供だと看破したのは悪意に反した無邪気さと詰めの甘さ、それ以上に彼らがあまりに無知だったからだろう。この地が何を孕んできたか知っていれば彼等は自分達の行おうとしている事がいかに無駄であるか理解し始める前に止められていた筈だ。一度でも本物のビーフを、勝利のために傷付けあうプレーヤー、もっとやれと野次るギャラリーを見られていたなら。Sは愚か者の集う無法地帯。言わば悪人の飼育箱だ。当然それを作った男が善人である筈も無い。
    「何人落ちようがSは無くさせない。例えば君達が死んでも」
     男が少しだけ身を下げ囁いた声は眼前の幽霊以外には聞こえないよう調整されていた。聞かせたくない相手が背後あたりに居たのだろう。
     幽霊から身を離すと男は打って変わって朗々と声を響かせた。これはランガ達にも一言一句漏れる事無く聞こえていたが、全員そのうえで耳を疑ったに違いない。発言は俺にも信じられないものだった。
    「あげようか」
     Sが欲しいならあげると、男はそう言ったのだ。
     幽霊達そして背後のプレーヤー達があ然とする中男は続けた。
    「僕等と遊んで勝てたら、だけど。勿論挑戦するだろう?」
     首謀者だけあって度胸は合ったようで問いかけられた幽霊は怯みながらも頷いた。だがそれこそ罠だった。彼は男にそそのかされ自分だけでなく幽霊らの前に垂れ下がった蜘蛛の糸まで切ったのだ。
    「それじゃあほら、早く逃げなよ。君達がそうしなければ僕等も始められない」
     暗に提案された『遊び』に幽霊の顔がさっと青ざめた。数分前そうされたのと同じ。彼等が逃げ男達が追いかける。だが先程彼等は為す術もなく追い詰められたばかりであり。
    「更なる自由を求める気持ちは分かる。だがそう簡単に乗っ取らせてやるわけにも行かない、ここは僕も気に入っているからね。せめて彼等くらいには勝ってくれなければ二度とこの地を踏ませる気になれそうにもないんだ。だからまあ、頑張って?」
     つまり捕まれば追放。だが捕まらない可能性は限りなく零。誘いに乗った時点で降伏のカードも切れなくなってしまった幽霊達が泣きっ面で動き出すのを見送った後、男は何も聞かされていなかった背後の彼等へと振り返り。
    「ねえ……大人気なく行っても良いかな?」
     それはもう呆れたものだ。今の今まで違う気だったのかと。
     結局幽霊達の殆どを男は一人で捕らえ全員の名と顔を確認し多少立場を理解させてから解放した。それから幽霊の目撃証言は瞬く間に減り、一部信じていた者も打って変わって幽霊の存在を否定し出したトップ連中に巻かれるように思想を変え、こうして幽霊騒ぎは大半のプレーヤーが真相も知らないまましかし確かに派手に解決したのだった。
     さて幽霊話には大抵少しぞくっとするような蛇足があるものだ。例に漏れず今回も後始末中にこんな会話が。
     ――あれ?
     ――ランガ、どうしたよ。
     ――ううん。なんでもないんだけど……変だなって……。
     幽霊達を見回しランガはぽつりと。
     ――いない。
     その意味を察したまあ周囲は泣くやら叫ぶやら問い詰めるやら。これら全ての中心にありながらランガはひたすら倒れ伏す幽霊の中に自分が見た一体と似た顔すら存在しないことに悩んでいた。
     流石にこちらはS内に広まる事は無かった。よくある顛末だがだからこそ真実味が増す。全員まともに滑れずうんざりしていたところだった、これ以上の騒動は避けたかったのだろう。
    「……愛抱夢。この道」
    「ああ」
     俺達を乗せた車は廃鉱山へと向かっているようだ。真夜中とはいえ休日でも無い今日は閉まっている筈だがそこはこの男が何かしたのだろう。
    「あちらに行った方が話が早そうだからね。霊も出てきやすい」
    「どういうこと?幽霊はもう」
    「居ないよ。噂も消した。だが」
     ランガの言葉を遮り男はこちらへ鋭い目を向けた。
    「まだ残っている。僕等があの夜見逃した亡霊が」
     発された圧に、意識は無いだろうが押し負けたランガが一度口をつぐむ。しかし数呼吸もすれば落ち着きを取り戻し当たり前に話を再開していた。なかなかの神経の太さだがこれくらいでないと横の男とは付き合えまい。
    「その、さっきから愛抱夢が言ってる」
    「亡霊?」
    「それ。それって幽霊とは違うの」
    「さてね、違うと言う学者も居るし違わないと言う市井の者も居る。勿論その逆も」
    「……愛抱夢は?」
    「僕?」
    「うん。あなたがどう思うのか聞きたい」
    「へえ、僕に興味を持ってくれるんだ?」
     揶揄いに動じずランガは頷く。
    「知らないと話もちゃんと聞けないから」
     男が少しだけ眉をやわらかく下げた。動作は些細でランガに何か伝えられるとは思えない。ならばそれはごく一部だとしても男の本心、その現れだったのだろう。
    「どうでもいいかな。僕の邪魔をしなければ。あとはまあ、君の邪魔もね」
     髪を整えるようにランガの顔に触れた手はそのまま男の頬へ添った。
    「けれど一応の区分は知っているよ。幽霊も亡霊もこの世を漂う死者。だが一方は人を害さず、もう一方は人に害を為す。今夜僕等が会うのは」
    「会うのは?」
     わざとらしく言葉を区切った男へランガが身を寄せる。答えず男は笑みを深め、ランガは更に身を乗り出し、そんな二人に俺は呆れていた。情報を勿体ぶり相手を煽る、いやらしいやり方は雑談でまで使うべきでは無い。しかも動機が不純すぎる。見ていられないと祈れば何かしらには届いたのかより二人が近づく前に車が停まった。車外へ出た男を追いかけるランガと共に俺も降りる。
     待っていた男の手にはボードがあった。いつ見ても禍々しい。怨念をこもらすにも程があるだろう。俺にとっては見ているだけで気分の悪くなる代物だがランガには効かないどころか逆らしい。腕の中にあるボードを抱き締めランガは瞳を僅かに輝かせる。もう一言放たれたならその瞳が更なる光を纏うことは明白だった。それを逃す男でも無く、二人の間で交わされる短い誘いと答え。いそいそとランガが男へ走り寄る。そもそも今夜の誘いに乗ったのもこれを期待していたからだ。故にすっかり気分が良くなってしまったようでしばらくランガはもう一人の進むままただ合わせていたが。
    「……愛抱夢?」
     流石に気づきだしたらしい。俺はとうに気付いていた。この先に行こうとも勝手知ったる通常のコースは存在しない。何故かと問いかけようとしたランガだが、察したかのようなタイミングで男がそれを遮った。
    「ランガくん。君はオカルト的なものをどれくらい信じている?」
     歩みを止めず、ランガの回答を待ちもせずに男は語る。
    「僕は全て心から信じることは出来ない。だが夢があるとは思うよ。異界。呪い。有り得ざる誰か――」
     暗闇に響ききったそれらが消えた後「……とかね」と付け足され語りは終わったが、男が迷った末止めた言葉を何故だか俺は理解出来た。そしてそれ含め男が並べ立てた言葉は皆同じイメージに収束することも。瞼の裏にてちかちかと現れる風景。そこは男が追い求めたであろう到達点だ。それなのに、なんて奴だろう。オカルトと言い切り夢があるの一言で片付けるのか。それらを求めるあまり己がこの地で何を繰り返したか、今隣を歩いているランガに何をしたか忘れた訳では無かろうに。
     考えると心に生じる波。ざわざわとうるさいそれの向こうで会話は未だ続いている。
    「後はやはり霊か。居ると思う?」
    「居ないんじゃない、普通に」
    「普通。ふふ、確かにね。居る時点で霊は異常だ」
     ランガはともかく男は自分がここへ何をしに来たと言ったのか忘れたのだろうか。
    「巷に溢れるオカルトの中でも霊は定番で人気もある。だが彼らが真実この世に居ると信じる者はそう多くは無い」
    「異常だから」
    「そう、そして僕達が知っているから。死んだ人間は蘇らないと」
     鳴っていた靴音のうち片方が止まる。男が数歩先を行くまでランガは考え込んでいたが、また歩み出すと同時に小さくうんとだけ言った。直接その口から聞いた訳では無いが、どうやらランガには亡くなった父親との邂逅の記憶があるようだ。だが幻影やそれこそ幸福な夢のようなものであると解釈しているらしい。心の奥底で幼心が抱く疑問。もし父が真に蘇れるのなら何故母のもとには現れないのか。その答えが存在しない限りランガは完璧な蘇りを信じられないのかもしれない。
    「もしも霊が人間そのものだとして」
     取り出したコインを男が指ではじく。
    「肉体が無い以上彼等は魂のみで生きる他無い。子供向けの話になるが魂の重みは3もしくは21g、この硬貨より軽い。一円玉なら3または21枚分。どう思う?」
    「昼代にはならない」
    「その通り。仮に居たとしても彼等は君の一食すら満たせないちっぽけな存在だ。運良くこの世に這い出たとして、誰かに見つかるまでに消えるだろうね」
     コインは空中で回転し再び男の手の内へ。
    「そんなもののせいで君が苦しむなんて馬鹿馬鹿しいと思わない?」
    「……俺?」
    「ランガくん。とびきりのオカルト話をしようか。君が見た霊について」
     ランガが息を飲みボードを強く握った。表情は大きく変わりこそしないものの明らかに顔全体に力が入っている。
    「あれは霊じゃない。俺が何か見て、それを皆が霊って呼んだだけ」
     散々言われた言葉を繰り返すランガへ「いいや」と男は笑いかけた。
    「君が見たのは紛れもなく本物だよ。僕には分かる」
     根拠を示さない発言にランガの眉がぐっと寄る。思い出すのは後始末中爆弾発言をしてからのことだ。発光体の見た目についてかなり細部まで説明させられたのも嫌な記憶だが、年の近い仲間に冗談半分で目などの心配をされたのも気分が良くなかったらしい。苛立ちが脳を回しランガは次々反論を投げた。既に見つかった幽霊騒ぎの犯人。説明してから日をまたぎ数日幽霊を探していたそうな大人達の見つからなかったという証言。話されたばかりの幽霊の存在する難易度の高さ。それら全てを男はうんうんと頷きながら聞き、ランガが話し終えるや否や「それはそうと君が見た霊についてなんだが」と言い始め俺とランガを盛大に脱力させた。
    「本物だが真なる死者では無いその正体を明かす前に。彼等のような霊がどうすれば生まれるのか、そこから語るべきだろう」
    「霊を……生む?」
     ランガの脳に先日男が仕掛けた悪戯の一部始終がリフレインする。あの時男は霊を出すと言い実際に偽物の霊を出して見せた。ついランガの思考は飛躍し俺が止める間もなく「生めるの」と訊く。
    「まさか」
     一蹴し男は足を止めた。合わせランガが止まれば俺も足を止める他無い。
     軽く上げられた腿が勢い良く下ろされ、男の足裏から喧しい高音が鳴った。
    「僕じゃない。生むのはこの地だ」
     響く音を追うように顔を動かしたランガの目に見慣れない、しかし見覚えのある景色が入ってくる。今度ばかりは俺も驚いていた。俺達は二人揃ってコースの中どころかスタート地点にまで連れて来られていた事に気付いていなかったらしい。以前と違い今夜は月が出ておらず暗いのもあるだろうが何より目の前の男の言葉に終始惑わされていたせいだ。
    「残留思念。聞いたことがあるかな?あらゆる場には存在した人間の想いが残っている、そんな考えだ。心霊スポットに居るだけで怖くなるのは以前そこで恐怖した人間の残留思念に影響されてしまったからという風に」
    「本当?」
    「ふふ、さてね。だがもしそんなものが在るならここにはさぞかし多くの思念が残っていることだろう。あちらと違って少々血生臭い場所だったから」
     二人分の視線を受けながら男はくつくつと笑う。いけしゃあしゃあと。お前もその一部、もっと言えば血を流させた側だったくせに。
    「一度淀めば多少放置しても穢れは落ち辛い。あるいは土地と相性が良かったのかもしれないが、何にせよ消滅しない程度には生き延びられていた訳だ。全く……」
     突如鋭利な赤を向けられたランガが身じろぐ。何をしているのだか。説明を怠るから怯えられるのだ。
     言ってやれば良い。見ているのは君では無いと。
    「……あの時だな?」
     ざわざわと世界が鳴っている。あの夜と同じだ。
     久方ぶりの来訪者に多くが驚き、そして気付いた。
     アレが来た。
     俺達の憎き男が現れた。
     数年掛け混ざり合った思念は一斉に蜂起し男を乱そうとしたが、しかしやはり生者は特別だ、男は場の誰とも比べ物にならないほどの強い感情で逆に場を荒らし続け、そしてあの一瞬。男から放たれた負の感情はこの地の全てを巻き込み思念達はばらばらに散らされた。思念の大半は男へのよどんだ意思こそあれど真には停滞を望んでいる。彼等は急ぎ元居た場へ戻った。だがそこからあぶれた者達も確かに存在していたのだ。
    「ゾーンから抜けようと僕も彼もしばらくは無防備なままだっただろう。侵入は容易かった筈だ。僕でなく彼を選んだのは……おそらくだがあの時の僕等の魂はよく似ていた。つまり間違えたんだ。姿については考えるまでも無い。この地に残る最も強く見苦しい思念と言うならばお前以外ありえないのだから」
     世界は鳴り止まず俺を揺らす。余波に耐えられなかったようで膝から崩れ落ちかけるランガの身を受け止め、男は迷いなくこちらを見た。
    「ランガくん。君が見たのは亡霊だ。この地に捨てられ漂うだけで終わる筈だった過去の亡霊。何故そんなものが君に見え、君以外には見えなかったのか」
     言葉に被さるように男の名が小さく呼ばれた。苦しげにしながらも男の手を取りランガは立ち上がる。こちらからも男の目を、眼差しだけで痛みを感じるような赤を見つめてランガは問うた。瞬間彼の身体から俺が引き剝がされる。
    「……ああそうだ。君だからだ。思念はしぶといが存在としては魂より余程薄い。君相手でなければ自分の姿さえ見せられない程に」
     もう一度と考える隙も無く何か強い力に引き寄せられた。
     坂を下るように向かわされた一点には既に泥沼のような思念の集合体が。彼等は皆いつか見た真白い仮面に群がっている。いつ頃置いたのか、用意周到なことだ。
     思わず見上げたなら狙っていたかのように男が勝ち誇った笑みを浮かべた。
    「亡霊は君に憑いていた!」
     何を分かり切ったことを堂々と。過去形なのがまた苛立たせてくれる。
     辿り着いた俺を待ちかねた思念達が包んだ。この意識を閉じ込め俺の骨が、俺の肉が出来上がっていく。今までもそうだった。こうして集まり形をとることで俺達は生き延びてきた。互いに自分が誰だったかも薄らがせ。それは俺も例外ではなく。だから悔しいが僅かでも己を確立した状態で再びこの身をとれることには多少感謝しなくも無い。
    「……愛抱夢」
     だが少々残念ではある。彼の内側はひどく居心地が良かったから。
    「あの人だ……俺が見た、幽霊……」
     
     
     ええと一体どういうことだろう。身体がぞわぞわしたかと思ったらとてもすっきりして最近悩んでいた重さも無く。そして結構先。坂の途中にさっきまで居なかった筈の人が立っている。かなり珍しい人じゃないだろうか。フードを深く被って下を向いて、それと薄くだけど光っている。
    「あ、愛抱夢……あれって……」
    「大丈夫。僕から離れないで」
     言われなくても身体は既に彼の方へ勝手に寄っていた。
    「まさか本当に幽霊が居たなんて」
    「亡霊だよ」
    「どっちも同じだ」
    「さっきあんなに説明したのに……」
     泣き真似には悪いけど今日これまでの記憶全てもう何処にも無い。本物が出たショックでどこかへ飛んでしまった。
     思わず見上げた先には楽しそうな笑顔。しかもこちらが見ていると気付いた途端愛抱夢は片目まで閉じてみせる。あまりに余裕過ぎる、まるで何か考えがあるような。
     予想を裏付けるように自信たっぷりに愛抱夢が言う。
    「任せてくれ。アレとは少々縁があってね、扱い方は心得ているとも」
    「おお……」
     頼もしい。下がっていてと霊へ一歩踏み出す愛抱夢、その背中がいつもより広く感じられる。そういえば彼は変だけど味方ならとても心強い人だったっけ。理解出来ない状況だけど彼に任せておけば大丈夫なのでは――。
    「おいそこの半人前」
    「……ん?」
    「お前だそこの餓鬼。いつまでも下ばかり見て前を見られないのかお前は」
    「え、あの」
    「視界を狭め見ないふりをしても現実はお前から目を逸らさないぞ。憐れむ者も救いの手も来ない。そうしている限りお前は何処へも行けないままだ」
    「あだ……」
    「まだ動かないつもりか?ちっぽけな世界で孤高を気取るのは余程気分が良いらしいな。本当に欲しい物など何一つ手に入れられていないというのに」
    「……愛抱夢!」
    「何?」
     愛抱夢がこちらへ向けた顔は至って普通で、ひどいことを言った後にはとても見えない。だから自分が過剰に反応しているのかもしれないけど。
    「よく分からないけど言い過ぎだ!あの人……人……?」
     霊って人呼びで良いのだろうか。そもそも動く感情があるかどうか。遠くて表情も分からないし。けれどぼんやりと立つ姿から自分が受け取った印象が間違っているとも思わなかった。
    「あの人も傷ついてる!」
    「ああ。傷つけようと思ったからね」
    「は……?」
    「君からそう見えたのなら成功で良いだろう。向こうも反応しているようだし」
     言葉が途切れ数秒、愛抱夢が短く呟く。
    「来るよ」
     途端体の周囲を凍るように冷たい風が吹き抜けた。たちまち風は去っていったけれど背筋どころか心臓まで走った震えが全然治まってくれない。空気も何だか変だ。ざわざわとやけにうるさい中心は紛れもなくあの霊だろう。
    「これ怒らせたんじゃない!?扱い方分かってるってさっき」
    「分かっているさ。こいつにはコレが一番効く。誰かのやり口を真似るようで癪だが」
    「誰かって誰の……あれっ……?」
     数秒ぼうっとしていたなら腕からボードが消えていた。見ればボードは何故か愛抱夢の手に、そしてまた不思議な事に地面へそうっと置かれている。
    「何してるの?」
    「良いから良いから。はい乗って」
     答えになっていなかったけれど乗せられてしまった。背後から固定されては降りられもしない。何をしたいのともう一回訊こうか迷ううちに耳へ誰かの息を大きく吸う音が。
    「こちらを見ろ。僕はお前の望みを知っている」
     身体がびりびりと震えるような力強い声は霊にも届いたらしい。フードを被った頭がゆるく持ち上がる。遠いからかフード下の顔はまだ暗く見えないままだ。けれど今あの霊の方は自分達だけを見ていると理解出来たその瞬間、愛抱夢が再び声を張り上げた。
    「イブ。それがお前の求めた運命の名だ。そして――」
    「え?」
     背中。強く、押され。
     勢いに身体が坂を下り始める。このままだとあと十秒もせずあの霊の前に行ってしまうのだけれど。どうしよう。
    「あだ」
     少しだけ見た後方、彼がニッと笑ったのが分かった。
     首の後ろが汗をかく。愛抱夢が楽しそうなとき巻き込まれた自分が楽しめるか、確率は大体半分くらいだ。残りの半分は楽しくない訳ではないけれどとても振り回される。そしてこの感じだと今夜は――。
    「紹介しよう。彼がイブだ!」
    「愛抱夢――ッ!?」
     嘘は駄目だろ。
    「信じられないか?だがすぐにでもお前は理解するさ!さあランガくん見せてやれ!」
     愛抱夢の声がとても弾んでいる。こうなってはもう諦めるしかないけど、でも。
    「ああひとつだけ――抜かさないように気を付けてあげて」
     分かる。これは“無い”。
    「いやあのごめんなさい違うんです俺は――」
     顔から体まで嫌な空気に当たりながら懸命にした弁明はどこまで伝わっただろうか。分からないけれど愛抱夢がひどい煽りをして即霊は滑り始めていた。ますます強くなる風がフードをばさばさと膨らましている。こちらは光る背中が見えているけれど、あの様子だと向こうはこちらが見えていないかもしれない。そうであって欲しい。
     少し後を追ってみた感じ、霊のスケートはだいぶ危なっかしいもののようだ。守るべき身体が無いせいか怪我や転落を気にする様子もなく荒々しく切り込んでいく。やっぱり見えていないらしくこちらへの対抗心も感じられない。伝わってくるのはただ速く、誰も追いつけないところへ行きたいという強い意思。苛烈なそれに添うようにこの速度では有り得ない程強い風が襲い掛かってくる。触れた痛みから脳へ届く拒絶。無理やり止められかけたのはこれで三度目。彼と滑ることを許さないみたいに、今夜は空気全部が障害だ。そして何より彼から伝わる意思に身体が軋む。
     けれど怖くはない。
     知っている、気がする。
     これと同じでけれどこれよりずっと恐ろしい痛み。より磨かれてきれいになった、完成に近づいた姿を。
     行く手にある障害物を霊は使わないようだ。何故だろう。使いそうに見えたのだけれど。
     それに、使った方がきっと楽しいのに。そう思った。勿体ないなと。
     だからこちらだけ行かせてもらった。
     世界が自分を置き去りに落ちて行く。後から下りつつ見れば霊がこちらへ顔をあげていた。目が合ったように思ったそのときふわりと霊のフードが外れる。露わになった顔に気を取られた一瞬。霊は強引に身体を回し遠くへ。残念、これで追いつけると思ったのだけれど離されてしまった。無事下りられたので少しだけ息を吐き体勢を整える。まあいいや。またやれば。
     霊は前方へ顔を全て戻さずまだこちらを見ていた。被り直されないフードが落ち、見えたままの顔は改めて向き合ってもやっぱり似ているように思える。
     奇妙だ。意思は変わらず突き刺さってくるのに、いくら顔を見ようとも今霊がどんな感情を抱いているかは全く分からない。別に霊にも表情はある。むしろ豊かだ。だからこそ豊か過ぎてどれが正解で本心なのか自分には判別できなかった。何とか理解出来るのは良い感情はたいしてないことくらい、これは目が示してくれるので分かりやすい。
     煮えたぎるようなそれに見られると火傷したみたく心の中がひりひり痛む。けれどやっぱり怖くはないのだ。それだってもっとひどいものを自分は向けられたことがあるから。
     思えば身体がうずうず。口も何か言いたがっている。なら言うべきだ。
     今までもあの夜もそうして。まあ色々大変なことにはなったけれど。
     話さなければよかったと後悔したことは一度も無い。
     
     
     ランガ。彼があの男とこの地を滑ったことはよく知っていたし会話も聞いていたがまさか本当にイブだったとは。散々見させてもらった記憶内にイブである自覚がまるで存在しなかったのであれは何かの手違いだったのだと解釈していた。思念達もだが誰より俺がこの真実に狼狽えている。何故ならランガが真実イブだったとして、では彼があの男と出会ったならその先に何があるのか。俺達は目撃したから知っている。それは美しく、優しい世界。断じて俺が夢見ていた張り裂けるような終末ではない。
     下りてきたランガが俺を見ている。青い目に見つめられることを多くの思念が拒否していた。ある者は嫉妬ある者は嫌悪感。そして俺は原始的な欲求から。
     この数か月ランガのスケートを見続けた。そして今こうして目の前で跳ぶ姿を見た。材料を十分与えられた俺の心は既に結論を出している。彼が。だがそれを認めてしまえば俺は――。
     惑う俺に思念達が怒り始めるなか。声が。
     ランガが俺へ呼びかけたのだ。
    「滑ろう。二人で」
     短い言葉だった。その全てが理解出来なかった。
     誘われた。それだけだ。だがどうにも分からない。何故この局面でランガは俺を誘ったのだろう。もう俺達は既に滑っている。
    「ううん」
     ああ分からない。ランガ。何故お前は。
    「まだだ。俺達はもっと」
     笑うんだ。
    「・・・・って思える!」
     瞬間身体のうちで何かが膨れ上がり。俺は俺でなくなった。
     
     気付けば真っ暗だった。走る光も見つからない以上本物の暗闇なのだろう。何も見えない、だがそれで良いと思う。後ろに誰も居ないのを見なくて済む。
     身体が重い。これ程速く動けているのに。きっと邪魔だからだ。俺を縛るもの。俺を逃さないもの。こんなものがあるから俺は俺の望むように飛べない。
     闇の中に何か見えた。遠くぼやけているがあれはおそらくゴールだ。あれまで行けば俺はまた。
     また。
     嫌だ。ゴールしたくない。だってあれを抜けたら逃げられなくなる。現実が俺に追いつき、そして。
    「その度お前は知った。追って来る者は居ない。俺はまた一人になったのだと」
     誰かがゴールの側に立っている。知っている。お前だ。
     どんなに遠かろうが声も顔もはっきりと分かる。何故なら俺はお前の何もかもが嫌いだからだ。俺を縛る者。俺を逃さない者。お前が居るせいで誰も彼もが俺を許してくれない。俺はただ遠くに行きたくて。もう一人、同じ気持ちの誰かの手を引いて、逃がしてやりたかっただけだったのに。
    「正しいふりなどやめろ。どんな言葉で飾ろうとお前のそれは独りよがりの我儘だ。それに求めているのもお前だけだろ?イブなんて」
     顎をあげ男がせせら笑う。その先の言葉をも俺は理解していた。だからこそ許せない。
     イブは居る。必ず俺は会うのだ。
    「そして共に行く、と?」
     俺が肯定したなら男は不自然な程表情を変えた。一瞬前まであった嘲りも消えひたすら和らいだそれが示す感情を理解しながら必死に俺達が否定する。そんなものを男から受け取るのは御免だった。だが俺達の意志を男が汲み取るなど今まで一度も無かった機会が今訪れるわけもなく俺達は浴びた。
    「ああ。分かるよ」
     彼の、同調を。
    「欲しかったな。それがあれば生きていけると無根拠に信じていた。だからお前は彼を受け入れられないのだろう。いずれ来ると信じていなければ生きていけないから――」
     憎らしい目はさみしいものでも見るかのように細められている。
    「哀れなやつ」
     お前に何が分かる。俺を置いて楽になったお前に。
    「置いていけるものか。お前が勝手に死んだんだ。先に諦めたのはお前だ。僕は諦めなかった。だからまだ“ここ”に居られる」
     男の手が真っ直ぐに伸びる。指先が示すのは俺の背後。
    「見てみろ」
     後ろを?何故。そんな無駄なことする筈が無い。そう皆が思っているのに何故か示されるまま俺は振り向き。
     暗闇のすぐ向こう側に俺を追う者の姿を見つけた。
    「そんな姿になってもお前は彼を撒けなかった。それが全てだろうが――ランガくん!気を付ける必要は無くなった、ここを抜けたら全力で行け!」
     呼びかけにランガは頷いたようだが、彼等は何を考えているのだろうか。ゴールはもう目前だ。ここから覆ることなど。
    「いいや、少なくともお前が思うよりはあるさ」
     もう一度男がランガを呼ぶ。途端ランガが目を閉じ、男がサングラスを。そして。
     白光が身を焼いた。
     衝撃に思念達が身体から剝がれていく。残ったものも道の先に点々と続くライトを見る限り長くはもたないだろう。やられた。まんまと男との会話に気を取られ遥か頭上で用意されていたライトに一切気付いていなかった。しかもあのゴールの目印、形だけらしくみせただけのがらくたではないだろうか。
     サングラスを外した男は先程の甘さなど微塵も無く白い目でこちらを見た。
    「こんな雑な造りで騙されるとは、お前本当に“そう”なのか?」
     ああ。同じようなやり口に二度も騙されてはもう言い訳も無い。すっかり頭に血が上っていたらしい。多くの思念がこの周辺まで滑ったことなど無かったとしても、暗闇が目を曇らせたとしても、それがどうしたと言うのだ。
     言い訳も他人のせいにもしたくは無い。俺は他の誰でもなく俺なのだから。
    「……まあそれで少しは軽くなっただろう。彼と滑るならもっと気合いを入れろ、折角のイブだぞ」
    「違う」
     確かに声が先程より近い。これからは迂闊な動きは許されなさそうだ。
     感覚を研ぎ澄ませようとすれば偽物の呼吸が深くなる。無い筈の心臓が高鳴り、世界が開け沢山の可能性が視界を輝かせた。頭の中はどこを使って行こうかどうしたら速く滑れるかとそればかりでようやく至近距離まで近づいた男のことを考える余裕もない。もしあったとしても即座に別のことで潰していたに違いなかった。
     横を通り抜けたそのとき、聞き慣れた声が命じた。
    「・・・・」
     へえ。お前もそれを言うのか。
     
     勢いの付きすぎたボードを止める仕草は自分のものと思えない程乱暴だった。隣で同じようにしたランガがこちらへ顔を傾ける。頬だけでなく顔全てがうっすら赤く染め息も荒げながら彼はいっぱいに息を吸い――背後から現れた手に口を塞がれ、声らしき何かを発した。
    「悪いけど君の言葉は魅力的すぎるからね、下手に未練が生まれても困るんだ」
     ランガの口を塞いだままこちらへ向く男には俺を気遣うつもりは無いらしい。その魅力的な言葉とやらを聞かせなかった謝罪は無く代わって問いかけてくる。
    「どうだ。気分は。……最低だろ?」
     答えさせる気も無かったようだ。自信ありげに口の端を吊り上げる男の横でランガは驚いているが。ああ、正解だ。
     なんて清々しいのだろう。もう少し自制心が効かなければ涙さえ流しているかもしれない。この解放感を求めていた。夢に見ていた全てがこの一夜にあった。
     だからこそ最低な気分にもなる。
     俺が俺である限りこれには二度と届かない。だがもう知らなかった頃にも戻りたくない。
     どうすれば良いか分からない俺の方へ男が一歩踏み出した。
    「やはりお前は未熟だ。何もかも足りていない」
     二歩目が踏み出されると同時に「だが」と強く声が放たれる。
    「いずれは得る。つまらない現実を、お前の目に映る世界を少しだけ改変する力を。そして――」
     三歩目。しかし道行きは横へ。男の後ろからこっそりついて来ていたもう一人が俺達の前に現れる。その手を取り男は叫んだ。
    「彼が来る。僕達を眠らせ、もう一度叩き起こす!」
     晴れ晴れとした顔はそれを体験した者としての優越感を隠しもしない。
    「羨ましいか?」
     目が語っていた。羨ましくてたまらないだろうと。
     浸っている男には悪いが、それならばもう知っている。
     あの夜。いつも通り暗がりでじっと朝が来るのを待つだけだった。ひどく濁った空気の中で死にたくないから生きるだけだった。男に散らされた時も早く楽になりたいと、それだけの筈だったのに。
     光が目の前を横切った。淡いのに眩しくて、冷たいのに温かい。不可思議で、だからか気になり追いかけて、気づけばその内側に居た。彼に自覚が無く成り行きとはいえども、光の中で記憶と感情を分け与えられ少しずつ俺は俺を取り戻していったのだ。たとえばそれは、いつか部屋に射し込む日の光で目を覚ましたときのように。
     だからそこまで羨ましくはない。だが。
    「だったら早くこちらへ来い。そこは」
     さみしいだろ、と男は言い、けれど到底足りないとばかりに首を振る。目を閉じ一度深く息を吸い、それだけの準備を経て浮かべた表情は実にこの男らしくなかった。少なくとも俺はそんな顔一度もしたことが無い。
    「楽しくないそうだ」
     苦笑に似ていた。しかし幸福そうでもあった。横の彼には気づかれないだろうが照れも多く混じっている。恥ずかしいのは受け売りか隣の子供に感銘を受けたこと自体か。どちらか俺は知っていた。それを言うことに男がどれ程勇気を出したかも、いかにあの夜の記憶を大事にしているかも手に取るように分かる。代わって抜けていくのはこの数か月ランガから分けられていたもののようだ。どうやら俺は男のその顔を見た瞬間に観念してしまったらしい。
     なんだお前、そうなのか。
     あの夜何もかもを覆されこれ程望んでいたものも手に入れられなかった男が、今それでも俺の知らない顔を見せる。慣れない感情の扱いに困っている姿は愉快だ。そして救いだった。
     男はもう近づいて来ない。後は俺から動かなければならないのだろう。
     死ぬのが恐かった。けれど望みが無くなっても生が終わらない方がもっと恐ろしかった。だがお前が終わりの先に続く日々を新たな望みと共に過ごし、時にはそんな顔も出来るのならば、その近くに俺は居てみたい。だって楽しそうだと思うから。
     良いだろうか。楽しいとか楽しくないとかそんな下らない事で決めても。
    「良いさ」
     夢を見ていろと男が言う。ああそうだな。お前と違って俺は未だ名実ともに子供だし。
     
     あれ程騒がしかったのが嘘のようにしんと静まり返ったS。今夜二人だけの客は片方の男の手を、正確には手が持つ仮面を見つめていた。
    「そういえば付けていなかった。いつ頃取ってやったの?」
    「取ってないよ。最初から無かった」
    「へえ。アレも僕だったということかな。しかし最後の最後まで性格がねじくれていたのは一体……ここの影響か……?」
     目で追えない程の早業で仮面をしまい愛抱夢はランガの肩へ手を置くと様々な事柄を問うた。疲労以外は身体から精神までどこにも異常が無いと確認した後ほんのりと全身の力を抜く。
    「僕が出ると事態が悪化する可能性が高かったからとはいえ君にはかなり負担をかけてしまった。これから数日様子を見て何かあれば連絡してくれ、出来る限り駆けつける」
    「わかった。……これで終わり?」
    「ああ。少なくともアレはもう出て来ない。主軸になれるような強い思念など他には無いだろうし亡霊退治は終了したと見て良いだろう。お疲れ様」
    「そっか。あの人も居ないんだ……」
     呟きに愛抱夢がすかさず反応を示したのに遅れてランガも気付いたようだったが、少々遅すぎた。もう愛抱夢の手は完全に彼の肩を鷲掴み問いかけの体勢に入っている。
    「……君。勿体ないと思って無いか」
    「……別に」
    「いいや思っているね。何故だランガくん、僕とのビーフの方がより強く愛を感じられると思うんだが……!?」
    「比べるものじゃないような……」
     肩を揺さぶられながらランガはしぱしぱと瞬きする。どうやら疲労から来る眠気に襲われているらしい。こぼす言葉も寝言のようだ。
    「でもそうなのかも……?あの人のスケート、愛抱夢のに似てた気がするし……」
    「似……って君、まさか……」
    「……あ」
     ランガの両手が無遠慮に愛抱夢の頬を掴んだ。ひっそりと愛抱夢が固まったのも気付かずランガはふにゃりと笑い。
    「顔も似てるよね」
     いつまで黙りこくっているつもりか、とここぞとばかりに返させてもらう。もうじき消える意識だろうと案じる程に男の前途は多難だ。俺からの贈り物もうまく機能するかどうか。
     贈り物と言っても渡したのはランガへだ。記憶なり感情なりを没収される際に俺の方からも問題無さそうな部分をほんの僅か流しておいた。感情の機微などは難しいだろうから直感を磨くような形で、ほんの少しランガが己の想いに気づきやすくなるように。
     ただそれはあくまで彼が彼自身の想いに敏くなるだけ。他者がいくら彼に何か抱こうが関係ないし彼に想い自体が無ければ始まる物も始まらない――と言う訳だから精々頑張ってもらおうじゃないか。俺は草葉の陰で、では無いな。死にはしない。前より居心地は良くないが慣れ親しんだこの部屋で幸福な夢でも見ていることだろう。いつか叩き起こされるまで。
     ではさようなら、未来の俺。お前の過去にて吉報を待つ。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works