福に呼ばれて春が来る 年末年始の怒涛の地獄を拉致した少年を吸う事でどうにか突破したのも早一か月前のこと。旧暦では春も近い今日この頃、日中ならば多少温かみを感じる日が入るようになった室内と匹敵する程度には主人のまとう雰囲気も物柔らかだ。目が回るような移動続きの日々から解放されたとはいえ多忙には変わりないが、だからこそ少々の差を噛み締めているのだろう。こんな風に数か月前手に入れた待ち合わせ場所もとい仕事場に来る事さえあの頃は考えられなかった。それとおそらく隣に設置してある存在の効果も大きい。設置。主人に聞かれれば仕置きは免れないだろうし当たり前に人間へ向けるべき言葉でも無いが不思議とこの少年には相応しく思える。どうやら自分は内心で少年のことを花や鑑賞物のような主人の心を慰めるものとしてカテゴライズしているらしい。
存在するだけで彼を喜ばせられる幸福に気付いているのかどうか、相変わらず拘束されようが車へ投げられようが全く動じていなかった少年は今も時折相手をされる間の時間宙など見て過ごしている。掛けている椅子が主人の隣で少年が待てるようわざわざ用意された品である事になど気付いていないに違いなかった。
悪い人間では無い。ただ子供だ。それも自分と、ある程度主人も縁が無かったであろう子供であることを許された子供。素直で他者を疑わない純真は厄介で相いれないと感じる。一方でさほど憎らしくはないのはそこそこ利用しやすいからだろう。たとえばその好奇心は運んできたトレイに乗った物をすぐさま捉える。
「それは?」
少年が声を発したなら主人の手が一瞬止まった。瞬く間に動き出したそれが数分もせず再度完全に止まる図は想像に難くない。あらゆる誘惑に負けることの無い主人が適度にそして自主的に休憩をとる姿は少年から受けられる一番の恩恵だ。
きりの良いところまで終わらせるつもりだろう主人の指示に従う片手間休憩の準備を済ます。食事用のテーブルへ並べるのは一応の時間を示す物と方位磁石。そして軽食、今回は主人の要望で和食だった。
興味深げにこちらを、正確にはテーブルを見る少年はしかし椅子から立ち上がろうとはせず代わりにちらちらと横へ目線を動かしていた。やがて手を止めた主人がそちらへ顔を向けるまで続いていた行動は少年なりの義理立てだったらしい。向いた顔と視線が合ったなら少年は「お疲れ様です」と告げた。何処かの誰かを真似ているのが明らかなたどたどしい口調だったとしても響きが纏う温さは悪くない。微笑みを返され一転「あれ」とこちらへ指をさしそわそわと爪先を揺らしはじめたのはやや頂けなかったがそんな少年の様子に他ならない主人が喜んでいるようなので黙認するべきだろう。
テーブルセットまでの距離たった十数歩さえ歩幅を合わせ近づいて来る二人の視線が大量かつ様々な種類並べた軽食へと向かう。軽、と呼ぶにはややずっしりとした巻き寿司達の中でも最も存在感があるのは勿論テーブルの半分ほどに乗る一本だ。一般的な物より太さは控えめにしたといえこの長さは中々目を引く。
彼自身の命令とはいえ実際に見るとまた違ったのだろう、僅かに見せた困惑をしかし主人は即座に消し傍らの戸惑いを隠さない少年へ身を寄せた。
「どうかなランガくん。折角君がこの日に来られるならと用意させてみたんだけど、気に入ってくれた?」
問いかけに答えは無い。すわ問題発生かと思いきや。
「これは……」
テーブルをぐるりと見回した後傍らへ向いた顔は未だ戸惑いながらもほんのりと正の感情を滲ませている。
「よくわからないけど……すごい……!」
「そうだろうそうだろう……!特別仕様だからね。存分に味わうと良い」
「俺ももらっていいの」
「俺も?いいや。君が食べるのさ。早速始めようか」
目配せに、方位磁針と照らし合わせ椅子の向きを整える。事態を飲みこめていないように見える少年を座らせた主人は次に彼の手へ例の巻き寿司の端を、そしてもう一方を自身の手に取った。そのまま向かいへ置いた椅子に掛け恵方から少年へ話しかける。
「縁起物だし引きずらせるのもね、と言う訳で支えてあげよう」
支えようと重みでほんの少し曲がっている巻き寿司は人ひとりに食べさせるには少々長すぎるだろう。
「さあどうぞ。召し上がれ?」
しかし当然のように主人は促し、また少年もあっさりと巻き寿司の端を咥えた。特に驚きはない。一人は一人でもこの少年は特別な人間に向かい合って座る事を許された一人なのだ。尋常でない点もあって然るべきである。
しかしそうやって異常へ構えようと、彼等のような存在は時に未知の方向からこちらを打ち抜いて来もすることは忘れていた。
巻き寿司を咥えた途端青い目に小さく光が走る。止める気も起こさせない早業で一口分を噛み千切ると慌てたように少年は頬を動かし、ごくりと喉を鳴らす頃には頬に赤みを。そして瞳いっぱいに輝きを散らして。
「……おいしい!」
頭を抱えるべきか迷った。これは頭をよぎった想像をまさかと一蹴し連れてくる間に説明もしなかった己の失態だ。合わせる顔が無い。だが目を逸らす事も出来ず主人の様子を窺ったなら彼の表情に鼓動が一瞬速く、そしてすっと治まっていく。
「良かった。慣れていないだろうから少し心配していたんだ。だがその顔なら問題無さそうだ」
「問題なんて。すごくおいしい……本当に……」
「気に入ったならもっと食べて」
「俺だけで?こんなにおいしいの一人占めするなんて悪い。愛抱夢も一緒に食べようよ」
「嬉しいけどこれは君用だから。一緒には食べ終わってから別のでしようね」
若干の食い違いこそ感じるが会話はいたって和やかだ。分かったと頬張る少年と見守る主人、そのどちらが横顔を照る日と変わらない温かさで染めている。
少年が作法に詳しくない事を主人は気付いていたのかもしれない。だからやり直しがきくよう予めあの一本以外にも多数控えを用意させたのではないだろうか。だがそれなら何故事前に説明しなかったのか。分からないが分からなくとも今主人がどんな心地で居るかは分かる。少しゆるんだ表情に抱いて良い感情など祝福一択だ。
思い出すのは先月の本年数度目の初詣。予定の隙間に半ばねじこませた約束に向かう主人の顔は今年詣でた中では一番、もしかすると今までそうして来たどのときよりも楽しげだった。神秘的な存在を求める反面誰より現実を理解していた筈の背中が真摯に神へ祈る。その理由はおそらく隣で同じようにする少年にあったのだろう。
順調に食べ進められていく巻き寿司。基本の物でも充分長さがあるのはそのまま長く縁が続くようにとの願いが込められているかららしい。数百年程度のどこから出てきたのかも不明瞭な話だがそれならばと作られたのがあの非常に長い一本である。曰く、二人の縁が長く続くようにとの事だ。長ければ長い程縁も長く続くとあってはまるで子供の理屈だが内心ですら異論は無かった。相手も子供なのだし、何より己の主人がそれを本気で信じている訳でも無いからだ。そうでなければ合間合間に会話を挟みのんびりと食させなどしない。
ただ、信じるふりをしてささやかに願う。良い所取りが当たり前の欲張りな子供の真似を、かつてそれを放棄させられた彼から誰が再び奪えるだろうか。唯一その権利があろう対象もあの様子である。
ぬくぬくと伝わってくるのは日光か暖房かはたまた静かにはしゃぐ二人の高揚か。今もうっかりするとつられてしまいそうなそれはこれから一層強まっていくに違いない。何せ季節はもうじきに春。来たるは新たな感情に浮かれるあまりほんのり心も蕩ける日々だ。