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    20220814 みっつめ ラブもイチャも薄いけど二人でしか作れない関係性は爆盛
    前の二つを読んでないと全然わからないどころか読んでてもわからない気がします
    でも書けて良かったです

    ##長編
    ##全年齢

    この夜が明けたら/二人朝日を見に行こう【この夜が明けたら】
     
     そこに楽園がある。
     役目を終えた鉱山に初めて滑走音が響いた日から約十年。クレイジーロックと新たな名を与えられ改造を施された鉱山では現在も月に数度Sと呼ばれる催しが開かれていた。重低音と共に開いたゲートを押し合いへし合い抜ける者達は年齢も服装も大抵ばらばらだが、どの顔もこれから始まる夜への期待で輝き、そして皆、腕や背、足の下に必ず“それ”を連れている。スケートボード。彼らはスケーターであり彼らを何より興奮させるSとはクレイジーロックを舞台にしたスケートレース。クレイジーロックはスケートを愛する者の楽園だった。
     秘匿された楽園は不特定多数の来訪を嫌う。Sの無い夜はただただ眠り、Sがある夜も既定の時間が来るまでは目覚めようとせず、ゲートを固く閉ざし誰しもを拒む。それが常。正常な状態。
     ならば今夜は異常だろうか。
     ゲート前のライトが全て消えているにも関わらずゲート周辺が完全に闇に包まれていない理由はゲートを抜けた先に続く上り坂にあった。中ほどから頂上までの道をうっすらと照らす光。頂上の更に向こうから漏れ出したそれはなかなかの光量でS開催中並み。だが次予定されているSは数日後。ならばキャップマン達が作業に勤しんでいるのだろうか。可能性は無いこともないだろう。だが決して高くもない。何故か。そうであればありえない光景が今夜のクレイジーロックには在るからだ。
     ゲートが開いている。
     おおよそ五〇cmほど。だが開いていることには変わりなく、更に錠は壊れているのではなく丁寧に外されていた。つまりS外の何者かが侵入を試みた訳ではない。
     この異常事態において、唯一幸運なのは今のところゲートに近寄る者は誰も居ないことだった。このまま朝が来ればこの件は謎の事故として処理され誰からも忘れ去られる。間違いなくそうなっていた筈だ。
     しかし――異常というのは続くものだ。
     地を蹴る音は軽快に。
     ウィールの滑る音は冴え冴えと。
     来る筈の無い客はたった一人、楽園に相応しい音を鳴らして現れた。
     
     ゲート前で一旦止まり改めて隙間を目にしたランガは思わずつぶやいていた。
    「本当に開いてる……」
     軽く手を差し入れてみれば触れる何も変わらない空気。夢では無さそうだと判断しランガは上半身を捻ったまま前へ。一呼吸もしないうちに体はゲートを越えていた。
     記憶の中とは違う誰一人居ない空間を見て回り、ラスト、パークに幾つか用意されたセクション。そのうちひとつに狙いを定めて片足で強く地を蹴る。ゆるいカーブを何度も往復して出来得る限り高く飛んだならまた数往復後ボードを下りた。両足から伝わる地面の感触にそういえばと気付く。今夜初めてSの中で自分の足で立っている。Sの外なら当たり前でSの中でも人の多いところなら当たり前のことなのに何だか落ち着かず、ランガは照明のそばまで走って向かうとどさっと腰を下ろした。息を吸うとあまり澄んでいない空気が肺を満たす。嫌ではない。久しぶりのクレイジーロックだ。何もかも懐かしく、けれど新鮮で面白い。
     ただ気になることがひとつ。ゲートは開けておくから一人で入って来るようにとランガにメッセージを送って来た人は一体どこにいるのだろう。
    「……あ。そうだ」
     スマートフォンを取り出して先日読んだきりのメッセージを表示させる。読み進めていくうちにランガは自分の顔色が悪くなっていくのを感じていた。場所と日にちはすぐ見付けられたのに時間だけ全く見付けられない。数度読み込んでこれは見付からないのではなくてそもそも書いていないのだと理解したランガはしばらく途方に暮れてみたものの、そうしていても仕方ないので切り替えることにした。深呼吸して立ち上がる。ボードと一緒に向かうのはゲートへ戻る道、ではなく。
     
     忠は迷っていた。
     先程入って来た情報を忠の上司であり主人である愛之介その人へ伝えるか伝えないか。伝えるとして果たしてどこまで伝えるべきか。
     本来忠がそれらを迷うことはない。報せる必要すらない些末事はあるとしても主人に報せなくて良い事柄があるだろうか。いや無い。当たり前の答えを、だがしかし、今夜ばかりは受け入れ難かった。内容が内容だ。
    「失礼します」
     急くあまり力の入った手が大きく音をたて扉を閉めたが主人は何も言わなかった。机の縁に軽く腰を掛けディスプレイを眺めるその姿に、背を向けられているのをいいことに忠は目を見張る。この光景は久しぶりだ。以前は毎日のように目にしていたが、ある日を境に頻度が減り、またある日を境に一度も行わなくなった。
    「クレイジーロックのゲートが何者かによって開かれました。現在侵入者一名。気づかれないよう監視中です」
     追い出したと言わなかった時点で主人の指示を仰ぐような何かがあったことは察されているだろう。ぐっと忠は全身に力を入れると、なるべく声を平坦にして言った。
    「侵入者は、スノーです」
     部屋の空気が変化することは無かった。
    「知っている」
     変わらず忠へ背を向けたまま主人は告げた。
    「犯人捜しはしなくていい。ゲートを開かせたのは僕だ」
     そこでようやく忠はディスプレイに流れる映像が今夜の――おそらく現在の――クレイジーロックを撮影したものであることに気付いた。
     ビーフコースのスタート地点に立つ侵入者はギャラリー一人居ない中ボードに飛び乗りしばし滑ったかと思えば旋回、またスタート地点へ。それを繰り返しているようだ。飽きもせず眺め続ける主人の邪魔にならないよう忠は静かに部屋を出た。
     数十分後忠が再び主人の部屋を訪れれば侵入者は打って変わってコースを走り抜けていた。停止して長い設備が雑多に並ぶ廃工場内でも乱れない滑りは熱を感じさせない。忠の記憶の中にあるものとは随分変わっていた。戻ったと表すべきか。
     ボードが装飾されたゴールラインを抜けてすぐ。主人が机から離れた。
    「忠」
    「はい」
    「衣装とスケボー」
     すっくと立ちあがった主人は振り返り。笑顔を見せる。
    「出掛けるぞ」
     こんな時間にと明朝からのスケジュールを思い出し口ごもる忠だがそれが主人の決定である以上従う他無い。今夜の準備ともしもの場合を想定しての明日の準備の一覧を脳内でリストアップする忠を囃し愛之介はディスプレイへ目を向ける。奇しくもディスプレイ内では侵入者がカメラの方をじっと見つめていた。
     人気の少ない通りを闇色の車体は抜けていく。向かう先は例の廃鉱山だ。
     衣装に着替えた主人は髪を梳きながらスマートフォンを見ている。鼻歌をうたい床を鳴らす、その様子は懐かしくもあったがどこか見知らぬ他人を乗せているような不安も忠に感じさせた。
    「急げよ忠。ただでさえ遅刻なんだ。あんまり待たせたら今度こそ愛想をつかされてしまう」
     愛之介のそれが軽口か本気か忠には判別が出来ない。ミラーに映る姿は機嫌が良さそうに見える。だがしかし忠の主人は外見と内心を完璧に切り離せる人間だ。車に乗り込む前から絶やさない笑みがどこまで本心由来のものであるかなど忠にわかるはずも無い。加えて発言があまりにうろんだった。
     愛想をつかす。思い難いことではあるが、主人につかす愛想があるのだろうか。今この時も滑っているのだろうあの少年に。
     Sネーム・スノー。昨年春突如現れ有名プレーヤーを次々下したすえにS内トーナメントで優勝した実力者。Sネームの命名者は不明だがその見目と初戦での目撃証言から名付けられたと思われる。本人変更希望無し。曰く何でもよいのだとか。Sという箱庭には自身の実力を示し名を知らしめることを夢見るプレーヤーが多く居る。その資格を有しながらそういうのは興味ないと言ってのけるスノーはおそらく意図せず異端だった。
     因果なもので、己が二つ名に執着しなかった少年は本当の名前を失うこととなった。今年の半ばほどのことだ。スノーこと本名馳河ランガはある夜のS中、対戦相手を庇い転落。結果一時的な記憶障害に陥った。自分が何者かさえ忘れた少年は唯一名だけ取り戻した状態で、しばらくの時をただのランガとして過ごした。その為に住居など必要なものを名前含め全て与えたのが他ならない後部座席に座る忠の主人、愛之介だ。ランガとは対照的に自分自身で名付けたSネーム――その名も愛抱夢――を堂々主張している愛之介は自分と似て非なるランガが前々からお気に入りで度々アダムである自分のイブにならないかとランガへ誘いを掛けていた。時に拉致を伴うアプローチはなかなか熱烈だったが、その程度の好意、昨年トーナメント決勝で“スノー”が“愛抱夢”にしたことを思えば何ら不思議ではなかった。
    『あなたは誰?』
    『愛抱夢。君の恋人だよ』
    『俺の……アダム、教えて。俺は?』
    『君はランガ。僕の恋人のランガだ』
    『……ランガ……あなたの、こいびと――』
     記憶喪失に乗じて嘘の記憶を植え付けるほど焦がれていたのは忠の想定を超えていたが。
     ランガの住居としてあてがわれたのは以前知名度の低い小島に愛之介が作った別荘で、愛之介は時間を作っては足しげくそこに通っていた。初めこそ抜け殻のようだったランガも徐々に記憶外の自己を取り戻す過程で愛之介に心を開いていった。愛之介が人の心を動かすことに長けていたのもあるだろうが、ランガにとって自身に積極的に関わろうとする人間が愛之介だけだったこと。それにランガが愛之介の嘘を完全に信じていたことが大きいだろう。生活を共にするなかで二人が想いを通じ合わせたのは至極当然のことだった。
     ヘリから降りた愛之介と海辺の家から出て来たランガが互いに歩み寄る様子を忠は幾度も見た。何度かアクシデントを経て雰囲気こそ危ういものを孕ませていたが二人は間違いなく仲睦まじい恋人同士だった。無茶をしていたのがバレて寝かされたとぼやくときも僕と一緒に作ったものが一番美味しく感じるそうだと自慢するときも愛之介はずうっとうっすら笑っていて。長年傍で仕えてきたがあれほど愛之介が幸福そうにしていた日々は他に知らない。
     だから当人たる愛之介からその幸福を壊すような命令を下された時忠は理解が出来なかった。
     ランガの記憶喪失を一時的なものと認めず手練手管を駆使し長引かせた愛之介が、一時記憶を取り戻しかけていたランガが自らそれを放棄するよう仕向けていた愛之介が、ランガの記憶回復について何より警戒していたトリガーに成り得る存在を島に連れて来いと言う。愛之介の考えがわからずまた主人の幸福を破壊する一助にならねばならないことに苦悩しながらも従ってしまった忠がヘリで待機している間、砂浜では何かが起こっていたらしい。詳しくは知らない。だが砂浜を歩く足音に続いて泣き叫ぶ子供の声が聞こえたと思えば数分後先刻島に連れて来たばかりの少年がその地で暮らしていた少年を背負い乗り込んで来たのを見て主人の幸福が壊れたことを忠は悟り、事前の命令通りにヘリを上昇させた。
     真に記憶を取り戻したランガはそのショックから気絶。島での生活中彼の周囲に入院していると思わせるためカモフラージュとして使っていた病院に改めて数日入院したのち全快、日常に戻って行った。それから数か月経った今も問題なく健康に暮らせているようだ。Sには一度も来ていないが、S以外で仲間とスケートする様子は度々カメラに収めている。
     愛之介と、愛之介の部下である忠もまた少しだけ余裕のある日々を何事もなく過ごしている。事によっては一人で自首も考えていたのだが驚くことに犯した行為については殆ど不問、咎められることさえごく僅かだった。強制的に眠らせた状態で頻繁に面会させていたのが功を奏した。結果的に第一発見者となった少年は友人が目を覚ましてから数日間程度連れまわされていたのだと解釈したらしい。病み上がりに負担をかけたことは許せないが今まで面倒を見てきたことを無視も出来ないと怒りながら言ってきたので神妙に謝罪させてもらった。ランガの入院を知っていた他数人にも同様に伝えているようだ。悪いことをしているとは思うが忠には絶対に避けたい未来がある。その為なら他に情けはかけられない。
     ランガを失った愛之介は必死に忘れようとしているふうにも何一つ気にしていないふうにも見えた。どちらも理由はその日からランガとの接触を断ったこと、写真も動画も撮らせはするものの一切見ていないようであることの二つだ。件の別荘にもあれ以降全く向かおうとしない。
     数週前一度疲れ果てた彼にあの子供の動画でも見るかとうっかり提案してしまった際、愛之介はただ「いい」と言った。その時愛之介は何か他に興味をそそるものがあるときの顔をしていて、何だ単にランガに飽きたのかと忠は思っていた、ので今不思議で仕方ない。
     推理する時間などなく到着したクレイジーロック。愛之介が使っただろう彼らはもう居ないか別の仕事に励んでいるらしい。ゲートの隙間を広げるべく車から降りながらバックミラーを見た忠は、やはり、と目を伏せる。スマートフォンを置きゲートの向こうを見据える顔からは笑みも何もかも消え失せていた。
     
     いつまで待てば良いのだろう。とぼとぼ上まで戻って来たランガは壁にもたれて足をふらつかせる。訊くべきだったかな。ちょっと考えてからスマートフォンをしまった。服についた細かいごみを掃ってそれからぐっと伸びをして。息を吐く。まあ滑ろう。と思う。
     ランガにはそれしか出来ない。言葉で伝えることを怠って楽な方に逃げているだけかもしれないけど、たとえ自分の口がすらすら己の想いを言葉に出来てそれで他者との関係がうまくいくようになったとしても大切な事を伝えたいときランガはやっぱりスケートボードを手にするだろう。だって、スケートが好きだ。スケートで心を繋げることが一番好きなのだ。だからこれ以外すべは無い。それ以外なんて。
    「……あ」
     風が吹いた。それでどうしてそう感じたのかはわからない。けど確かに思った。
     来る。
     
     数か月ぶり、それも最後の対面で男がした事を思えば場の雰囲気は悪くなかった。至極和やかとはいかずとも一触即発というほどでもない。あくまで男がそう受け取っただけだが。
     差し出した手を近付ていけばランガがごく僅か身体を固くしたので男は手を触れる寸前で止めた。
    「その顔を見るに大分待たせたようだ。時間が記されていないことに気付かず普段のSを目安に来てしまった。そんなところかな」
    「わざとだったんだ」
    「まさか。単なるミスだよ」
     男の目元は仮面に覆われておりランガが気付いているかは定かでないが、会話を始めてから二人の目線はぴたりと合わさり続けている。
    「久々のクレイジーロックはどうだい? 楽しい、けれど少し退屈。合っている?」
    「……」
    「そうだろう。君はもう知っているものね」
     だとしても男は合わないそれを合わせるかの如くランガの顎に五指を添え強引に上を向かせた。
    「聞いたよ。あれからSに来ていないんだって?」
     ランガの肩が僅かに震える。
    「どうして? 皆君を待っている。軽く滑るだけでも喜んでくれると思うけどなあ。しばらく来られていなかったからって気兼ねしなくていい。君に限ってスケートが出来なくなっていたわけでもないだろう?」
     何食わぬ顔で言うと男は五指を強く振った。反動で大きく上を向いたランガの顔を両手で掴む。
    「迷いがあるなら、言ってあげようか」
     ランガの目に映る男は犬歯を光らせ悪辣に笑っていた。
    「“ランガ”。君が愛した男は初めから存在しなかった。そう思ってくれて僕は全く構わない」
     ランガを放った男はビーフコースへ向かう。後を追ってくる気配を確かに感じながら。
     
     そこで待てと言われた忠は廃工場のゴール地点にてPC越しにスタートの瞬間を目撃していた。
     愛之介、目元を仮面で覆い愛抱夢に“成った”男の合図で両者は駆けだし坂を落ちるように下りていく。速い。
     だが、と忠は首を傾げる。
     速いが彼等にしては明らかに遅い。特にスノー。散々待たされて疲労しているだろうがそれにしても精彩を欠いた滑りだ。
     当然愛抱夢と互角に戦えるわけが無く、見る間に開いていった両者の距離が一定で止まる。愛抱夢が加減したのだと理解すると同時に忠はスノーへ若干の失望を感じていた。かつてあれだけの可能性を見せつけていた少年がこれほど落ちぶれていたとは愛抱夢とは異なる、しかし同レベルのスケートの才を持ち、愛抱夢と唯一対峙出来る存在だと思ったからこそ幾度も望みを託したのだ。勝手だとは理解しつつも裏切られたような気になった忠が意気消沈しているとようやっと二人が廃工場へ入ってきた。
     愛抱夢が慣らしと表して良いほど気軽に滑っているのに対し相変わらずスノーは何かが欠けているかのようにぎこちなく下りていく。そのうえ通路を行くにしてもクレーンを行くにしてもやたら端に近付くものだから見ていられない。
     このままだと落ちかねないと忠が思ったその時。スノーが大きくバランスを崩した。あわやそのまま落下かと思われたがどうにか飛んでいたらしく、すんでのところで斜め下の別の通路にスノーは着地する。その危なっかしい動きは忠だけでなく愛之介も思わずの視線も引き付けたようだ。特に愛之介はその後もゴールするまでスノーから目を離さなかった。ただそれは、スノーと同時にゴールする為だったかもしれない。
     膝をつき肩で息をするランガを忠は何とも言えない気分で観察していた。先程のショートカットにしては無茶苦茶な動き、その切欠はランガが落ちかけたことだった。だが。見間違いかもしれない。しかし忠にはあのとき。ランガがわざと。
    「引き分けだね」
     声に忠は顔を上げる。ランガもまた目線だけを愛抱夢へと向けた。二人分の視線を浴びる愛抱夢は息切れ一つしていない。勝敗は誰の目にも明らか。だが愛抱夢は忠へ鋭く言い放った。
    「ゴールは同時だった。そうだろう、審判」
     己の役割を理解した忠は唇を結ぶ。成る程。己がこの場に配置された意味は“それ”か。
    「……はい。ゴールは同時。このビーフは……引き分けです」
    「だそうだ。さてどうしようか。もう一戦――」
     不自然に言葉を切った愛抱夢が小さく笑う。
    「失礼。訊く必要はなかったね」
     ランガの目はたった今実質敗北したことなど忘れたかのように再戦への強い意思で燃えていた。不正など厭う誠実な子供だと思っていたが、実際ただの子供だったのかもしれない。小さな失望を積み重ねる忠とは違い愛抱夢はそんなランガの有り様に負の感情のたぐいは抱いていないように見える。だが、と忠は内心で首を振る。分かった気になってはいけない。それはあくまで忠の主人が外に出そうと思って出しているものだ。感情を隠すこともそれ以外も誰より優れた主人の本心など忠には、誰にも。
     己を戒めていた忠の耳に主人の声が入ってくる。
    「しかし何度したところで、ここでは互いに満足いく決着をつけることは難しいだろう。だからこれは、提案なんだけど……」
     人の心の隙に入り込むような甘い響きが告げた“提案”は底知れない悪意を纏わせていた。
    「場所を変えない?」
     制止しようとした忠を仮面越しの眼光で留めた愛抱夢がランガへ近付く。差し伸べた手は掴まれることなく、しかし立ち上がったランガと共に外へ出て行く様子に、閉口しながらも忠は車へ向かう他無かった。
     
     車で途中まで送られている最中も車から降り歩いてスタート地点へ向かう間も二人は一切言葉を交わさなかった。だがスタート直前。ふと男から見つめたならば、ランガは真っ直ぐに男を見つめ返し言った。
    「あなたが愛していた俺も、もうどこにも居ない」
     強く握られた拳を哀れに思う。いつまでも不器用な子供だ。自分を手酷く扱った相手でも傷付けることに罪悪感を抱くか。
    「知ってるさ。埋葬したのは僕だ」
     あの小島で“おしまい”を迎えたランガ。自らの拠り所とである男を真摯に愛したまぼろしのような少年と今のランガは何もかも違う。男の吹き込んだ嘘を鵜呑みにして昼夜の逆転した生活を送っていたせいで青白かった肌には血色が戻り、月明かりに銀に光っていた髪は人工的なライトに照らされはっきりと水色を主張して、男が選んでいない服や手ずから梳かしてやっていない髪は僅かに煤け、その目には男への盲信が一切感じられない。ここに居るのは紛れもなく誰の所有物でもない馳河ランガだ。
    「彼、一人で寂しそうでね、お友達を作ってあげたいんだ。分かたれた自分自身なんてうってつけだと思わない? もう棺は用意してあるからあとは君に勝って中身を手に入れるだけ」
     君ならきっと良い中身になると男はランガの肩を撫でる。
     現代日本にあるまじき発言だがこれはビーフなのだ。禁止行為一切無し。暴力歓迎。より速い者が勝ち、勝者は敗者にどんな命令でも聞かせることが出来る。単純な、しかしSで最も刺激的な遊戯。加えて二人の前に続くコースは男が原初心を込めて作り上げた楽園にして数多のプレーヤーを呑み込んで来たこの世の地獄だ。一度滑ると決めたならゴール、あるいは落ちるまで。道理は須らく通らない。
    「今夜はコースアウトなんてやめてくれよ? スノー。なんたって僕はこのときを」
     あの小さな家には存在しなかった呼び名でランガを呼び、男は合図代わりのコインを指に乗せた。弾く。
    「ずっと楽しみにしてたんだから、さ」
     落下音もコインそのものも吹き飛ばす暴風。誰しもを遠ざけるような容赦ないスタートダッシュを決めた男が片頬を歪ませる。それでも堪えた方だった。
     すぐ傍らを自らと同等の超加速を果たしたもう一人が顔色ひとつ変えず並走して来るのだ。これが笑わずにいられようか。
     加速ついでに襲い掛かれば紙一重でランガは避ける。だが僅かに服が擦れた感覚があり、男は仮面の下で目を細めた。ああ良くない。まだ始まったばかりだというのに。これから加速するにつれその身は味わい深くなると知っているのに。そんなふうに隙を見せられては付け込みたくなってしまう。
     己の中で蠢き出したものを感じながら男はランガを注視していた。加速用の跳躍のため足がデッキを叩く。はやく。はやくなりたい。速くなって。これの中身が、見たい。
     
     賭けだ。
     ランガは思う。今自分は賭けをしている。
     賭けているのは多分命だった。直前言われたことを真に受けるなら生命そのものだし、暗喩と見なすならそうじゃない、けど大事な物、たとえばデッキに乗せる足とか今まで培ってきた自信とかスケートをしてきた記憶なんかを奪われることと、本当に命を奪われること。その二つに大きな違いはあるだろうか。ある人もいるだろうなとは思う。けどランガにとってはどっちも嫌なことで、似たようなものだった。
     死にたくないし死にながら生きたくもないランガにとって、このビーフはそれだけのものを失う可能性のある大勝負。だというのにランガの心に大きな感情の揺らぎはない。
     だってランガはもうずっと賭けている。
     コーナー。続くカーブの先に障害物ひとつ。避けること自体は楽だけど前でこっちの隙を伺っている相手と同時にさばくのは少し大変そう。前方左に飛ぶのに使えそうな岩、けどこのスピードだと予想飛距離は着地地点ギリギリ。さあどこへ行く。ぱっと思いついた選択肢は三つ。どれを選ぶかで到達までの時間もすべきことの難易度も決まる。簡単ではない問いだった。
     けど、迷わない。
     一瞬で正解を弾き出せるような知識も経験もランガにはまだ足りていない。それでも迷わない。迷えないのだ。スケートはランガを待たない。考えているうちに次のカーブが、直線がランガの前に姿を現す。迷っている暇は無い。だからランガは迷わず決めて後からそれが正解だったとか間違えたとかを知る。
     選ぶ、賭ける、勝負するって、そういうことだ。結果が出る頃には選んだランガはもう過去。スケートをしているときもスケート以外をしているときもいつだって選択はランガを待ってくれない。手札を覗き込みながらランガをせっつく。早く選べ。選んで、自分が選んだ意思に全部賭けろ。
     そうやって背を押されるみたいにランガはひたすら賭けてきた。
     結果は必ずしも望んだ通りでは無かった。
    『……とべたよ』
    『俺は――あなたの本当が知りたかった』
    『嘘にしないで』
     良かったこともある。手に入れられたものも。
    『だからさ』
    『……どうして、ねえ、どうして……!』
     悪かったこともあって、手に入れたくなかったものも、沢山。
     今夜も、今のところは負けないでいられているけどこの先はわからない。待ち受ける未来でランガはコースアウトしているかもしれないし惨めにうずくまっている可能性だってあるだろう。それはここへ来ることを選ばなければ絶対に無かった未来だ。
     けれど来たことを間違いだなんて思わないでランガは賭ける。迷わずに、更なる選択へ身を投じる。
     そうしなければ何も掴めないから。
    『このままで』
    『これでおわりで』
    『もう』
    『いいや』
     ランガの目にはまだあの日の光景が焼き付いている。
     停滞させた世界がどんなふうに崩壊するのか知った。立ち止まって終われるランガはあの日終わりを迎えてしまったから。
     鼓動より早く賭け続けて馳河ランガは先へ行く。
     
     審判の任を解かれなかった忠は夜空の下、目印の側でPCを開いていた。画面に並ぶ大量の映像は全て現在二人が滑るコース内に設置されたカメラに繋がっている。瞬きする間にカメラ前を抜けてしまう影、これを追うために逐一カメラを切り替えていてはキリが無いのだ。
     常軌を逸した速度へ近づいていく影ふたつ。これこそまさしく彼等だと忠はしみじみ感じ入った。
     トーナメントグランドファイナル。あの夜観客を呆然とさせた二人の天才は今夜も見えないほどに高く飛び追いつけないほどに速く滑る。
     先を行くのはやはり愛抱夢だ。気まぐれに速度を落としスノーに道を譲りもするが、すぐにまた前へ出る。先程とは打って変わってスノーも奮戦しているようだが愛抱夢にはあと一歩届かない。先程一瞬見えた顔には明らかに疲労の色が見えた。だが三百六十度から襲い掛かる愛抱夢を躱しつつその先へ行かねばならないスノーに休息するタイミングは無いだろう。このまま抵抗も出来ないまま体力を徐々に削られていけば。想像に僅かな寒気が背を走る。
     忠も知らぬ間に設置されていたカメラは通常のビーフコースに設置してある物に数こそ劣るが画質は変わらない。録画を見返すつもりがあるということだ。他にもこちらのコースの整備や今夜ゲートを開ける為の下準備、それに対戦相手である少年をこちらのコースへ誘った時のあの表情。間違いなく愛抱夢は考えがあって行動している。その“考え”について忠は一つの懸念を抱いていた。
     激戦の末スノーが愛抱夢に競り勝った夜。あれを彼はやり直そうとしているのではないだろうか。
     しかし先程と今の様子では今夜のスノーが愛抱夢の望みに耐えうるとは思えない。あの時の再演を試みたとして、おそらくゴールまで辿り着くことなくこのビーフは終わるだろう。片一方の死という結末で。
     それさえ主人が望んでいるなら忠には止められない。だが彼がランガに嘘を吐いた日、暗がりに倒れ伏した身体を抱きしめ叫び続けていたその痛々しい後ろ姿を覚えている。もしも、自らの意思だとしても。本当に殺してしまったなら。きっと愛抱夢――愛之介もその瞬間に。
    「……どうか」
     どうか、その先に続く言葉が思いつかないまま祈るような気分で画面を見つめる忠の期待に反し愛抱夢とスノーは速度を上げながら動きを似通らせて行く。だが絶望する寸前忠は気付いた。二人が似てきているのではない。スノーが愛抱夢に似せているのだ。しかし、する理由も分からないが出来る理由はそれ以上に分からない。二人のスケートは似れども一致しないものだし、愛抱夢の思考を理解し真似ることは大層難しいことだ。出来るとすれば忠のような愛抱夢のスケートを共に作り上げたものか、あるいは愛抱夢から彼のやり方をそのまま受け継いだ――。
    「…………!」
     思わず口を押さえ忠は背を丸めた。
     一人居る。
     自らのスケートを見失い愛抱夢によって新たなスケートを与えられた者。彼の、彼の記憶をあれば愛抱夢の模倣は叶うだろう。だが『彼』はあの日失われた筈だ。ランガも医者に何度も言っていた、記憶を無くしていたときのことは全て曖昧で何一つ正確には覚えていないと。だがだとするとあの動きに説明が付かない。
    「嘘をついたのか」
     何故。考えるまでも無い。庇ったのだ。事が明るみに出ないようあの島に居た時間を愛之介達の存在ごと封じ込めた。しかしでは何故庇った、記憶が残っているなら感情は。どうなった。
     それは彼の記憶を一度眠らせかけた者達が至って良いものではない、あまりに都合の良い発想かもしれない。だが思い至った瞬間忠は確信し自らの主人の名を叫んでいた。
     彼を殺してはいけない。どうなろうと必ず後悔する。だからどうか。
     叫びは誰にも届くこと無く、暗い夜に混じり、散っていく。
     
     ちかちかと。ひゅんひゅんと。さっきから視界の隅にちらほら生まれては飛んでいく光。これが何だか知っていた。愛抱夢を追いかけていると見えるそれは抵抗しないで一緒に滑っているとよくわからないところに連れて行ってくれる。真っ暗でいて色とりどりの光が流れるそこは居るだけで頭がすっきりして、何だかひどくぼうっともする変な場所だ。そこに居る間すごく集中しているからだと言う人も居れば、それが許される世界なのだと言う人も居た。どちらにしてもランガはそこに近付いているらしい。
     愛抱夢も見えているのかもしれない。少し前から攻撃を止め速度だけを求めるような滑り方に変えている。直線的でいてトリッキーな軌跡を寸分違わず追えているのは記憶の中の愛抱夢の動きともう一人、似た滑りをするプレーヤーの動きを参考にしているからだ。
    『それ』が残っていると気付いたのは退院して数日経った夜我慢できずにパークへ行った時だった。いつも通り滑っている筈なのに体が覚えている動作と一年以上見てきた景色がどうしても合わない。試しに目を閉じてみたら転んだ。それで答えが出せた。
     仰向けになったランガの目に見えたのは良く晴れた夜空と欠けた月、今上り損ねたクォーター。それと助けを求めるように空へ伸びた自分の手だった。
     そうか、と何だかとても納得した。今の自分の中には転んだ時誰かに助けてもらっていた知らない自分が存在しているのだ。認識した瞬間堰を切ったように詳細な記憶が溢れだしたのには驚いたけれど、あれで良かったのだろうとランガは思っている。困惑し続けるよりは居るとわかっていた方がずっと使い分けもし易い。慌てていた時一人だったから思い出せないことにしようと決めたのを誰からも察知されなかったのも良かった。
     それからは、ひどいことをした。
     愛抱夢からメッセージが届くまでの数か月。少しでも愛抱夢に気付かれないようにとSにも行かないで詳細は隠して助力をお願いした仲間達と何をしていたか。誰に尋ねられてもひどいことだとランガは答えるだろう。薄情極まりないひどい行為を己にした。滑る。ランガらしくないと感じる部分を指摘してもらう。“もとにもどす”。既にそれらの記憶を異物として見ていなかったランガは着実に馴染んでいく滑りに喜び、身体を引きちぎられるような痛みに苦しみ、丁寧に時間をかけて記憶を無くす前のランガへ戻って行った。己が大切にしていたものが無くなる悲しみは知っていた。だから沢山謝りながら沈めた。やめなかった。わかっていたから。
     こうしなきゃいけない。
     だって『愛抱夢に似せたスケート』では、愛抱夢のスケートを超えることは出来ない。
     ランガはメッセージが送られてくるよりずっと早く愛抱夢と滑る日が来ると予想していた。だからそのために出来ることは全部しなければならなかった。
     肌を引きつらせるような風。二人の速度は上昇し続けている。このままだと二人はじきにあの場所に行くだろう。けれどこのまま、という訳にはランガはいかなかった。愛抱夢に引きずられるようにしてそこに行った回数は一応三回。どれも抜け出せたのは偶然だった。ゾーンの最中は自分がどんな体勢で滑っているかさえ把握しづらくなる。愛抱夢の姿も、見えなくなるだろう。
     ここまで愛抱夢についてこられたのはまだ表層に残っていた最後の記憶が何とか残っていた他の記憶を引き上げたおかげだ。もしかすると最後の最後の練習でもこれを消せなかったのは愛抱夢と滑るには自分が必要になると思ったいつかのランガがここに居るランガのために守っていたのかもしれない。けれどランガはこのまま『これ』を使い続ける訳にもいかない。
     練習中は勘程度だったけど今夜滑りながらとても実感した。
     このランガは愛抱夢に勝つ気が無い。
     勝ってもいい、けど勝たなくてもいいのだ。ほどほどに張り合えればいい。速度が出て楽しさが味わえれば満足できる。大事なのは隣に居るのが愛抱夢だってことだから。
     わからなくもない。ランガもこの人と滑れるならいいと思える相手はいるし、勝ち負けなんてどうでもいいことで楽しむことの方がずっと大事だと言われたら、そうかもしれない、と答えるだろう。
     けどこれはSだから。楽しいことは速いことで。愛抱夢はすごく速くて。
     Sで愛抱夢に勝つってことは――一番速いってことだ。
     そこだけは譲れない。
     だから。
     ランガは心の中で唱える。自分が今望むこと。その為に必要な意思は何か。想像して、言葉にする。
     ランガ自身の心を動かすために。
     ――もっと速く。
     さよならを言った。
     ――もっと。
     今日ここで滑るために、あの島で滑り学んできた様々なことを。馳河ランガのスケートのために『ランガ』のスケートを。ひとつずつ無かったことにした。
     それでも消しきれなかった、過去の――あるいは今ここに居るランガ自身が――消したくないと願った最後の一つ。
     ――速くなれる。もっと。そこに行く。行ってみせる。
     あの日何より夢のように思えた、空からあなたの元へ降った瞬間を。スケートは楽しいのだと思わせてくれた、あの拙い、けど『俺』がうまれてはじめて自分でやってみたいと思って成功させたトリックを。
     愛抱夢。
     愛之介。
     あなたがどんな顔で見てくれたか、なんてささやかな記憶も。
     全部一緒に抱きしめて。この胸の内で燃えている熱の真ん中にくべたなら。
    「――もっと……!」
     この身は――果てに届く。
     
     背後のランガがその雰囲気を変化させた。静かで、物悲しい。瞬時に気付いてしまった己を男は残念がり、それから見る間に迫って来たランガが己を追い抜かすことをただ許した。
     一瞬二人の視線が交わる。ランガの瞳は懐かしい光に溢れていた。一秒未満の邂逅ながらその光は男を貫き彼方まで飛ぶ。残酷で美しかった。
     男は驚かない。ランガがスケートに関する記憶を失っていなかったこともそれを足枷と感じた結果どうすることを選んだかもわかっている。だがどうして、とも、ひどい、とも思わない。
     選択肢がある。選択する時間は短い方が良い。その為に何をすべきか。選別だ。最初から選択肢を減らしておけば時間は短くなる。選択する為の選別と聞けば手間のようだがそれは選別をも自ら考えて行おうとするからだ。選別は無意識下で行うもの。無意識のうちに選別を終わらせ残ったものを意識的に選択すればいい。それには経験や知識もだが何より勘が要る。多分こうなるだろうと思ったそれを現実にしてしまう天性または磨かれたシックスセンス。馳河ランガにあってごく僅か『ランガ』に欠けていた何かのうちの一つ。男による贈り物で埋めていたそれはしかし欠落だ、『本体』ごと切り離してしまうのも一つの手だろう。何も驚くことではない。
     ――だって。
     ――僕もそうする。
     ランガと滑るのに邪魔な記憶があるとしてそれがあると自分のしたいように出来ないなら。捨ててやる。この闇夜を進み続ける為に必要なものはきっとそれではないと男は前を行くランガを見ながら思う。
     君が見つけたそれこそ間違いなく必要なものだ。
     視界に走る無数の光線。異常を訴える脳を無視し、躊躇うことなく男は迫りくる暗闇へ飛び込んだ。
     
     入った。極限の集中状態、ゾーン。たった今そこに彼らが入ったと忠は確信していた。ゾーンに入った経験はなく外から見極める術を身に着けている訳でも無いが見て分かるほど速度一点に特化されたスケート、緩やかなカーブを曲がる最中正解を知っているかのように両者が一瞬全く同じ角度に傾いたことは確信するには十分な。
     二人が破滅へ進み出したことを否定すべくPCを掴み必死に目を凝らす忠、しかしその目の前で次々悪い予感を実現するような証拠が生まれていく。腕が。足が。体が。軌跡が。両者のそれが次々合致する。至高の域に達した者達が誰よりも速く滑れるよう最適化され優れたかたちを作り上げていく、その光景を忠は知っていた。それがどれほど希少な現象かも。整備されているとはいえ片面崖のコースで行うにはあまりに危険であることも。
     たらたらと汗が落ちていく。
     二人でゾーンに入ったならば両者の動作が似るのは自然なことだろう。だが彼らの動作はほぼ同一になるとは言えても全く同一になるとは決して言えない。何故なら全く同一のフィジカル、技術、天賦の才を持つ人間はこの世に二人存在しないからだ。だから同じ状態になり同じ指示に従えども両者には僅かな差が生じる。特に一方がもう一方を引き上げるようにして入った場合は顕著だ。連れて来た側、つまり実力がある側であり現実で先を行く側の方が動きは早くなる。思考と肉体を切り離されるゾーンにおいて一瞬でも相手を先んじられるアドバンテージは計り知れない。そのまま競う前提でゾーンに入るなら必ず先を行かなければならないのだ。
     モニター越しの異常な光景をあれはゾーンなのだと他者が言った際忠は主人がイブと名付けた彼の輩を探し始めてからランガと出会うまでの数年間時折目にしてきた奇妙な現象もまたその一部だったことを知った。資格あるプレーヤーを見付けては選ばれし者のみの世界に行こうと勧誘していた愛抱夢は稀に彼等にゾーンの片鱗を体験させていたらしい。中には本来まだそこに辿り着けないプレーヤーも居ただろうが、だとしても強制的に覚醒させ引きずり込む。その力量が愛抱夢にはあった。スノーとの対戦時も招いたのは愛抱夢だったと後々聞いた。愛抱夢は今までずっと“そちら側”だったのだ。
     だから今忠の目が捉えたのはあり得るはずのない差だった。
    「これは……愛抱夢の方が僅かに……いやまさか、そんな……」
     まばたきを繰り返し忠は狼狽える。愛抱夢と数多の才能を見続け、そして自らもまた類まれなるスケートの才を持っているからこそ一プレーヤーとしてその気付きから目を背けることが出来ない。
     信じられなかろうと見えるものが全てだった。
     二人はゾーンに入っている。
     入れさせたのだ。スノーが、愛抱夢を。
     
     流れる光は眩しいのに、世界を暗く感じる理由をランガはどこまでも広がる闇に見た。
     相変わらずさみしい場所だ。耐えられないだろう、永遠に居なければならないなら。
    「――は! ははは! あはははハははははッッ!!」
     一人だったなら。
     じっとりと重い足をのたのた動かし身体を反転させれば、跳ね回る四肢に出迎えられた。
    「なんだい君! 出来るようになっていたなら教えてくれよ! そしたら目一杯褒めてあげたのにっ! ははっあははは!」
     愛抱夢が回る。現実でも回っているのだろうか。すぐさま違うとランガは断定した。ランガの体に回った感覚はかすかにも無い。なら愛抱夢が回る筈もない。今夜この世界に誰より早く辿り着いたのはランガ、先導者はランガだ。ごくごく僅かだとしてもあらゆる動作はランガが先。愛抱夢が、あと。だというのに。
    「思いついたのはいつ?」
    「考えてはいた。決めたのは、今」
    「じゃあぶっつけ本番か。出来る確証は?」
    「無い。でも」
    「“出来ると思った”! いいねえ、君らしく実に不遜だ!」
     大きく口を開いて笑い大袈裟に叫んで感情をあらわにしている愛抱夢。記憶の断片内の彼はともかくSでランガが出会った彼は勝利へのこだわりを強く主張していたし誰かに縛られることを嫌っているようだった。けれど今愛抱夢は腕をさすりうっとりとランガに連れて行かれた世界に酔いしれている。矛盾している筈の様子に、なんでだろうか、全然と言って良いほど違和感を覚えないのは。
    「ああ……やっぱり君だぁ……君だけが僕の世界を手にできる……そうだろう? ランガくん……」
     うれしそう。当たり前か、とランガは息を吸う。何故なら愛抱夢は。
    「僕の元へは、君しか――」
    「愛抱夢」
     ゾーンの中に入るより解けないよう意識しながら話す方が余程気を遣う。ランガと対峙する愛抱夢はさほど堪えていないようだけど。向き不向きがあるのだろう。どちらかといえば好き嫌いか。この男はおそらく閉じた世界で唯一言葉を交わせる相手を望んでいる。ランガとは正反対だ。
     もう一度息を吸えば残り香のようなそれがほんの少しランガに問うことを躊躇わせた。けれどそれ以上に今ここに居るランガが真実を確かめたいと思っていた。
    「あなたの望んだ通りになったね」
     しんと世界に響く静寂。暗がりでは伏せられた顔の表情はおろか凹凸さえ視認できない。だからランガが見られたのは顔をあげた愛抱夢が浮かべた笑みだけだった。
     構えていたのに心臓を揺さぶる衝撃はとてつもなくてランガは必死で自分に言い聞かせた。前を向け。見ることを止めるな。今何か一つでも諦めれば現実のランガがどうなるかわからない。
     何よりこれからだ。
     勝った暁には過去の己全てを超えられるかもしれない、ランガの今夜最大にしておそらく最後の大勝負はこれから始まるのだ。
     
     ランガの記憶が戻る数日前のこと。とある島に建つ家の小さな部屋で一人の男が宝を見つけた。とは言ってもそれは男以外にとってはたいして価値もない代物だっただろう。宝とは小さなSDカードだった。入っていたのはとある場所を一台のカメラで撮った映像。編集されていない数時間分の映像中、人が通ったのは僅か一瞬。その一瞬を男は何度も再生し、そして――。
     
     久方ぶりの異空間を愛抱夢は堪能していた。
    「望んだ通りと言えるほど全て見通せてはいなかったよ。精々こうなればいいなくらい」
     言葉を探すふりでランガの押し殺された息づかいを聞く。先程の声もよく響いていて良かった。ここは静かだから。わめく邪魔者も居ない。風に巻かれる砂も寄せる波も。何もない世界に居るのは二人だけだ。
    「説明も無しに彼と引き合わせたのは良くなかった。ただあれは僕としても苦渋の決断だったんだ。生きながらえさせるためとはいえ、最初と違ってあの頃の君はもう記憶を欲していなかったから……」
     元々説明する気などなかった。あの家で暮らしていた記憶の無いランガは間違いなく記憶の回復を拒んだだろう。元の己を拒絶する彼に無理やりに思い出させようとしてもしものことがあってはいけない、不意打ちくらいが丁度良かったのだ。
    「信じて。僕が君にひどいことをするわけがない。こんなに愛しているのに」
     愛抱夢は己が今どのような表情をしているのか知っている。目は細く口は弧を描いた笑み、およそ善人のそれとは呼べない。言葉にそぐわぬそれを修正するべきだと分かりながら何も出来ない。止められないのだ。あるがままの己をさらけ出し狂喜に身を委ねることが。
     ランガは何も言わず愛抱夢を見続けている。かつて愛抱夢をたどたどしく呼んだランガ、あるいは別の名で呼んだランガなら素直に怒ったかもしれない。彼らは愛抱夢を信頼していた。騙されていることに最期まで気付かなかった。そんな彼らを愛抱夢は。
    「……うん。君を愛していた」
     あれは幸福な時間だった。会えて嬉しいと共に想える、それだけで良いとただ一度感じた。そんなふうに想わせてくれたランガが望むならいなくなるまで傍に、いなくなるときは愛抱夢の心全てをその手に握らせ、いなくなってからも愛抱夢が贈った愛抱夢の心と一緒に眠る彼を大切にし続け、半死人のまま余生を過ごす。そんな生も悪くないかもしれないと思っていた。
    「でも見てしまったんだよ」
     短く編集したうえでスマートフォンに移した動画を愛抱夢は今日この日まで何千回も見返した。時にスローに、拡大させて、目が痛くなるまで。だから目を閉じるだけで簡単にその仔細を呼び起こせる。
     愛抱夢が自ら記憶を改ざんしてまで隠していたSDカード内の映像はランガが記憶を失った日、彼が転落したコーナーに最も近いカメラが捉えた一部始終そのものだった。愛抱夢はその映像と対戦相手の証言からランガは相手を庇いそのまま落下したと判断したと報告されていたにも関わらず映像を実際に見るのは実のところその日が初めてだった。むしろそこで初めて事故以来転落の瞬間を一度も見ようとしなかった己に気付いたほどだ。そこまで固く事故関連の記憶を封じていた理由は映像の中に全て見つかった。
     コーナー。ギャラリーが居ることも殆どないそこは急なカーブが続いており流れに沿い過ぎず軽い調子で下りてしまうくらいが良い箇所だがランガの対戦相手は少々気が張っていたのだろう。愚直にカーブをなぞっていたと思えば二つ越えたところで集中が切れたかそもそも技量が足りていなかったか。右カーブを曲がり切れなかった対戦相手のボードはガードの壊れた箇所へ進みコースを飛び出そうとする。そこに割り込んだのがランガだった。対戦相手の左側にその身を素早く潜り込ませたランガは対戦相手に強く身体を当て右、コース内へ突き飛ばした。だがそれは対戦相手の居た場所へ代わってランガが収まったのと同じこと。すぐさまその身に闇夜が迫る。
     正直言って愛抱夢はその時点で映像を停止したうえでそもそも映像自体見なかったことにしたくてたまらなかった。何故こんなものをわざわざ、暴きたくなるような仕掛けまでして自分自身に見せる。ランガと違い愛抱夢の記憶改ざんはあくまで紛い物。愛抱夢がその映像を見たという記憶は初めから存在しない。ただ見る前から何かしらに勘付き見ぬふりと促しを同時に行った代物、間違いなく見る意味はある。とはいえランガがその辺の雑魚を庇い転落する瞬間など見れば様々な感情で心が乱れに乱れそうなので本当に見たくなかったが。ランガについて知らないことがあると自覚してしまった以上それをなくすために愛抱夢は再生し続ける他なかった。
     だが結果として。愛抱夢はそれを見て正解だったのだろう。あるいはSDカードそのものをスロットに入れる前に破壊してしまうべきだったか。まあ未知の映像に湧いた好奇心に負けた時点で知って死ぬか知って生きるか。愛抱夢に残された道はおそらくそれだけだったのだ。
     勢いも良くランガが飛び出す。明るいコースから彼は一瞬で落ちていった。ランガにぶつかられた拍子に転んだランガの対戦相手のみを映し、続くカーブでは電灯がばちばちと。無残な光景。他人を救うために自らをあっさりと差し出した、優しく愚かな少年の。
     ――違う。
     気が付くと愛抱夢は思っていた。違う。そうではない。何が違いそうでないのか言語化には遠かったが、確かに何かが違っていて確かにそうではなかった。
     再生したままだった映像を数十秒戻す。ランガが落ちるその瞬間に。
     コースの端に進む雑魚。すんでのところで食い止めるランガ。雑魚を救けた彼はそのまま飛び出し落ちていく。
     違う。もう一度。
     コースアウトギリギリに潜るランガ。雑魚を突き飛ばしたせいで左に傾いた上半身がふらっと戻り。
     違う。
     もう一度。
     コースの端を進む雑魚を救ける。傾いた体をどうにか立て直しそのまま直進する。その身はぶれない。速度はゆるまない。それをただ咄嗟のことに身体が動かなかったのだと解釈しようと思えば出来るだろう。
     だが愛抱夢には見えた。空へ飛び出す寸前ですらボードから離れようとしない二本の足が僅かに緊張する瞬間を。
     準備だ。
     瞬時に理解出来た。
     落ちるのではない。飛ぶためにランガは準備をしている。
     脳内で作ったビーフコースに印をつける。ランガがコースアウトしかけていたのはここのコーナー。見つかった地点は確かこの辺りだ。二つの点は大きく離れている。ただ落ちただけではこうはならない。おそらくは――ここだ。この、見つかった地点より更に離れた道こそランガが本当に到達したかった地点。では何故こうなったかと考えたとき愛抱夢の脳裏によぎったのはランガが落ちたコーナーと発見場所二対一ほどの地点、かつコーナーと道の中間そこに有る筈の禿げた大木だった。あれなら使えないことも無いと愛抱夢が思うのだ、ランガがそれを活路にしない筈が無い。
     つまりこうだ。コースアウトの勢いを利用し跳躍。途中にある大木を滑り落ち太い枝を使って角度調節からの再びの跳躍。目標地点へ着地。これこそおそらくランガが描いていた理想。計画が狂ったのは大木の幹から枝に移った時点だろう。例のビーフが行われた日の周辺は強風を伴う激しい雨が続いていた。木自体もかなり古い。滑るか落ちるか、とにかくそこでアクシデントが起こりランガは目標地点へ辿り着くことなく木から落下。滑るように見つかった地点に落ちそこで力尽きた。
     後日調べさせたところ件の大木にてどのカメラからも死角になる箇所の枝が根元から折れているのが見付かった。太く丈夫そうに見えて中が腐っていたらしい。
     しかしこの時はあくまで推測の域を出ていなかったのだが、愛抱夢は今己が考えたこれこそまさしく正解であると確信していた。
     ランガは他人を救けコースアウトした。
     そこまでは良い。
     だが彼はそのためにあの場所で気を失っていたのではない。
     前人未踏のショートカットコースを試し、失敗した結果あの場所に落ちたのだ。
     考えれば特に違和感もない話だ。ランガと、その他プレーヤーもちらほらだが過去コースアウトを利用したショートカットを行っている。キャップマン達もこの不可解だらけの事故の原因を調べるにあたりまずそれから検討するべきではないかと思うが、そこは落ちたプレーヤーが他ならない“スノー”だったせいだろう。キャップマン達はともかく彼らを統率する忠はあの夜主人である愛之介がランガによって憑き物を落とされ、まあ救われた、と言ってもいい、そうされたのを目撃した。そんな彼がまた人を救けたのだ。自然に点と点を繋げてしまったキャップマンが居たとして責められまい。
     また一方で愛抱夢はキャップマンの誤認であると確定することも避けた。まず己が間違っていて彼らの見解通りランガは庇っているだけ。かつ場所は偶然の可能性がある。あまりにも現実的では無さすぎるが。
     他にもこの真実をキャップマン達は既に把握しておりそのうえで愛抱夢に伏せた者が居た可能性。誰か。一人しか居ない。忠が、愛抱夢であり愛之介である男の忠実な犬が事実を隠蔽した。偶然説に比べればありえない話ではなかった。むしろそれが合っているとしても愛抱夢は特に驚かない。己がSDカードに映像を残した理由も隠蔽に気付いたと気付かれたくなかったからであれば理屈が通る。絶対に見たくないが見るべきだとわかっていたので捨てることも出来ず封じていた、でも充分己らしくはあるのでどちらが正しいとは思わないが。
     他人を救って自分を失った非業の少年と、途中までは他人のためだったとはいえ自分を失った直接的原因は彼自身にある自業自得の少年。醜い話だがどちらの方がより“良い”かは一目瞭然。どちらとも受け取れる光景のうちひとつ愛する者へ伝えるとしたら、付け加えてその愛する者が少年の優しさに惹かれていると公言しているなら誰だろうと前者を選ぶだろう。
     そういうものだ。普通なら。君は誰かを救けたんだ立派な君らしい優しい君らしい。そう思った人間が真実を知ったならどうする。幻滅するだろう。呆れるだろう。失望するだろう。そんな人だと思わなかった。僕を救ってくれたのも優しさからではなかったのか。救けてくれたから好きだった。救けてくれないなら。そんな手のひら返しをしたっておかしくない。そういうものだ。おそらく世界はそういうものなのだ――ただ一人を除いて。
     愛抱夢は震えていた。
     誰も知らない道へ挑むランガを見ながら震え続けていた。
     見れば見るほどランガがそうする必要は無い事が分かる。対戦相手を突き飛ばしたのちボードを落下地点から僅かにずらしガードレール代わりに置かれた石などにぶつけさせれば彼はその場で転倒する程度で済んだだろう。
     それを選ばなかった理由だけは、きっと愛抱夢にしかわからない。わからなければ良い。心底から願った。それは自分達しか持てないものだ。
     転倒したらタイムロスになる。叩き付ければボードに異常が起こるかもしれない。そしたら戦略を考え直さなければならなくなる。ロスだ。弾き飛ばされたら拾いに行くのもロスだ。
     そんなふうに細かなロスを重ねて。対戦相手から引き離されたらどうする。
     突き飛ばした、コース内に戻したのだ。だったら滑っているだろう。今こうしている間にも相手はコースを進み自分と差を付けているかもしれない。それなのに止まる? 出来る訳ない。まだ負けたくない。まだ遅くなりたくない。まだ滑っていたい! だったら、だったら。今ここで飛ぶ以外の道などあるものか――!
     他人を救う気持ちは愛抱夢にはわからない。だが、救うことも、自身が滑り続けることも、勝利も、速さも。望んだものを何一つ諦められない。その気持ちだけは他の誰よりもわかる。
     ランガに救いを見た。彼を人より聖なるものと呼んだ。
     だが聖人とはかけ離れたランガ。極限状態に姿を現した強欲な獣を前にして。同じ獣としてこの心は打ち震える程の歓喜を得たのだ。
    「……見ちゃったらさぁ……我慢なんて出来る訳無いんだよ……」
     これが欲しい。
     これと滑りたい。
     このランガと愛し合いたい。
    「僕はもう、たまらなくなってしまった……♡」
     愛抱夢はすっかり映像の中のランガに恋焦がれてしまったのだ。
    「けど僕ではどうしても君を作れない。だから、ああ、しかたないな、って」
     しかたない、とランガがうつろに呟くのに愛抱夢は頷く。
     からっぽになったなかみに愛抱夢が手ずから心を注ぎ込んだランガでは映像の中のランガを再現することは叶わないと愛抱夢は試す前から気付いていた。もしもまたなかみを全て出し新たに詰め直しても出来上がるのはきっと失敗作だっただろう。
     愛抱夢と好き合っているランガでは愛抱夢が一方的に恋したランガのスケートを滑れない。だが愛抱夢は己を好きにならないランガを作れない。一番確実な方法は映像内のランガにそのまま戻すこと。だからあれはしかたないことだったのだ。
    「性分かな。望んだなら手に入れずにはいられないんだ。僕は僕の欲しい物が欲しい。何があっても。誰を犠牲にしても」
     何の話をしているかわかっているだろうランガはしかし実に淡々と愛抱夢へ尋ねた。
    「望んだものは手に入りそう?」
     力強く愛抱夢は肯定する。
     訊いたって良い。海の見える家で自分を待ち続ける一人の少年、彼を愛した幾多の日々へ。このままでいられたならと願っていた己自身に。どうだ。まだ言うか。これでもまだ言えるのか。お前の望みは停滞だと。
     ああ。否。否だ。あんなもの。胸を温めてくれるやさしい幸福なんか。そう。あんなもので、なんか、だ。
    「それじゃあ、愛抱夢」
     今のこの状況だって。
    「満足できた?」
    「――いいや」
     愛抱夢は予感していた。この暗く眩しい世界は己が欲したものではない。絶対に先がある。なくてはならない。
    「まだ。まだだ。こんなものでは終われない」
     本来震えもしない筈の空気がざわめいている。何かの予兆に違いないが愛抱夢にはそれが何であるかわからない。この己の救いたる王国で愛抱夢にわからないことがある。以前ならば激昂していただろうことが今は不思議と悪くない。ランガが居るからだ。ここに居るランガこそが愛抱夢の、どうしようもない飢えを満たしてくれるかもしれないただ一人だから。
    「僕等は先へ行く」
     何故己がこれから起こることをそのように表すかもわからないまま導かれるように、しかし恐れる事無く愛抱夢は言葉を紡いだ。
    「今こそ新たな扉を開こう、僕と――ランガくん、“君”とで!」
    「わかった」
     身を翻すまでの一瞬ランガが愛抱夢を見つめる。その瞳が放つ強い光は決意であり、未知への高揚だ。
    「ついてきて。愛抱夢」
    「……ああ行くよ。どこまでも、君と共に行ってみせるさ。それこそが僕の望みだ。僕は」
     声が聞こえた。
     何処にも居ない声は愛抱夢でない誰かを呼んでいた。その甘く優しい響きは、たとえ幻聴だとしてもきっと一生忘れられない。
    『愛之介』
    「そのために僕は、『君』を捨てたんだ……!」
     愛抱夢へ背を向けたランガが低い前傾姿勢をとった。空気抵抗を最小限に抑えるため知覚外で二人がとっている筈の姿勢をゾーン内でする意味などないと知りながら愛抱夢はランガに倣う。すると闇を行く七色が捻じ曲がり。
     鏡が割れるような音が聞こえたなら、落雷の如き衝撃が身をすり抜けて魂だけを襲った。
     一瞬白くなった視界がたちまち戻れば闇は既に無く。広がるのは逃げ場なく月に照らされた夜。ゾーンを捨てたか。思う愛抱夢に直感は違うと告げるがここは間違いなく先程まで自分達が居たコースだ。ランガは一体何をしたのだろうか。それにこの肌がざわつくような感覚は一体。
     あの世界からまたも強制的に連れ出された愛抱夢はそうされたにしては不快感が無いことに当惑しながら――飛んでいた。
    「……!?」
     意図しない飛翔に感じた戸惑いを怒涛の爽快感が消し飛ばす。続けて地面を目にした瞬間愛抱夢は何も考えず足を動かしていた。回転させたボードは地面に着く寸前丁度足を乗せやすい位置に。飛び乗り、何となしに決めた道は他に比べ僅かに傾斜が大きかったようで、前を滑っていたランガとの距離は先程飛ぶ前と同じまで縮まっている。己に何が起きているか愛抱夢が把握し驚愕する間もその身は跳躍や飛翔、壁から柱までを行き交いすることを繰り返し、そしてその後必ず“それをせず滑り続けていたら到達できた場所”に辿り着いていた。
     衣服を撫で後ろへ抜けていく風を一つも逃さないほどと豪語できるほど肌が捉えている。一寸先の地面の僅かな凹凸を。体に、ボードに、今使えるものがどれだけ残っているかわかりそれを適切に使うべく動けるこの感覚を愛抱夢は知っていた。これは――。
     
     ほんの一握りの人間だけが見られる極地。その在り様は様々だ。光が見えた。何も見えなくなった。全てを理解出来た。何もわからないまま答えだけ導き出せるようになった。これほどまでにばらつきが出るのは何故か。彼ら一人一人が別の人間だからだ。言ってしまえばゾーンとは過度の集中状態に陥った本人が作り出す必勝のイメージである。己が最も結果を出せる状況を無意識の己自身が用意するのだ。止まって見えた方が当てられるだろうから時を止める。そんなふうに。
     己が望むイメージが明確であればあるほどゾーンは鮮明になり周囲の他者すら巻き込める程の力を得る。愛抱夢のゾーンはその典型例だ。他者への伝達能力にたけた者がシンプルで強固な望みを得た結果強制的に相手にイメージを共有することさえ可能にさせたのだろう。
     愛抱夢と出会った当初ランガにはゾーンについての知識などなく、明確にその場所の在り方を想像出来ている愛抱夢主動でゾーンに入ったのだからイメージがそちらよりに固定されるのは当然のことだった。だが今ランガはあの異空間の名を知り正体を知っている。ならば、と考えるのはあらゆる手を使い勝利を目指す者の発想として何らおかしいことではない。実際に行えるとなれば、恐るべき才能ではあるが。
     以前より片鱗はあったのだ。目を奪われるような才と透き通る研ぎ澄まされた意思で他者に有り得ざるものをランガは見せてきた。あとはそれらを自らの意思で振りかぶれるか。この土壇場でランガは振りかぶった。
     ランガが目指したもの。“出来る”と信じ、“行く”と決めた彼が賭けに勝ち掴んだ輝き。それは誰一人成し得なかった放業。愛抱夢に追従するでも愛抱夢を模倣するでもない。新たなゾーン状態の創造だった。
     
     眼前。小さな障害。追突すれば危険だが依然上がり続ける速度で轢くように突っ込めば軽い衝撃で済むだろう。あるいはほんの僅かボードをずらし避けるでもいいかもしれない。しかし愛抱夢はそのどちらでもなく大きく壁の方へ進路を逸らしていた。一周。重力を無視して壁を回り戻る。間違いなく無駄な動き、当然速度にも影響は出たが――愛抱夢はそれを気にも留めず崖目掛け跳躍。前方崖側に突き出た岩を経由し短距離ショートカットを決め一瞬のうちに開いた距離を詰めた。それが可能だと理解していたから必要のない迂回に踏み切れた。
     研ぎ澄まされた感覚が鋭敏に世界を感じ取っている。取るに足らない欲をこらえることなく速さを追う道が幾多も示され常に選択を迫られる。速くなるだけで満たされるな。楽しみながら速くもなれ。吸う大気の中に混じる我儘な命令を己が発するならともかくもう一人が発するのは意外に感じる。本人はもう少しやわらかく言っているのにイメージが勝手に補強しているのかもしれない。彼だけならきっとこんな感じだ。手を差し伸べて。滑ろうよ、と。行ってみたいなら行ってみよう。試したいなら試してみよう。きっと一番それを望んでいるのは彼自身なのだろう。ランガは四方八方を飛び回り世界を手に入れるには小さな体で宙を支配している。
     己の、他者の諦めたくない心を掬い取り背中を押す。共に滑ることを前提としたゾーン。その真骨頂は意識を保ち続けたままだからこそ相手を捉えながら滑れることにおそらくある。増幅させられた感覚は時に相手の感情をも読み取る。愛抱夢はそれを精神世界での対話として変換したがランガはおそらく現実世界での共有としたうえで更に範囲を感覚にまで広げたのだろう。増幅された感覚の共有は感覚機能の拡張にも等しい。人間一人では超えられない限界を二人分で悠々超える、このゾーンはそんな可能性を秘めてはいるが、しかし。今のところ高みを目指すというよりは目の前の興味深いものにひたすら跳びつくように愛抱夢もランガもなってしまっている。人選だろうなと愛抱夢はまた以前から少し気になっていた壊れかけの岩をボードごと蹴りつける。頂点から割れた。
     ランガが一人でここまで辿り着いたことには驚いてもゾーン自体には愛抱夢は驚いていない。以前似たようなことは考えた。周囲が見えれば戦法は広がる、自分であれば望み次第そのようにカスタマイズ出来るだろうと確信さえしていたにも関わらず実行に移さなかったのは広げなくとも充分愛抱夢のスケートが完成されていたから。そして愛抱夢自身が望む気がなかったからだ。
     暗く孤独な世界は愛抱夢にとってシェルターだった。現実や自身と競えないプレーヤー達は見えなくなり、同時に彼等が愛抱夢をどのように見ているかもわからなくなる。体を毛布で覆ってからようやく声を殺し泣けるように、外には誰も居ない、誰にも自分は見られていない、この中のことは皆知らない、だからあるがままの自分でいてもいいと錯覚出来る場所を愛抱夢は手放せなかった。
     今愛抱夢の目には乾いた地面が、寒々しい空が見えている。望むものを追い求めるほどに遠くなる全てがありありと映っている。もしここが通常のビーフコースだったなら沿道のギャラリー一人一人の表情さえ見えただろう。自分達と違う生き物を見る目に、思わず抱いた弱ささえ増幅された感覚は見ないふりをさせないに違いない。到達した者への褒美にしてはなんて優しくないゾーンだ。
     くそ、と声に出してしまったか内心のみに留められたか。定かではないが本心から呟き愛抱夢は奥歯をぎりりと噛み締めた。熱くなった息が口の中にこもる。早鐘の如く打ち続ける心臓が、駆け抜ける光速の彩色を瞬きもせず見つめる瞳が、訴えている。
     これは――面白い!
     心底から悔しくてたまらない。己は何故今夜迄これに挑戦しなかったのかと地団駄を踏みたいほどだ。
     見えていて触れられる、感じられる世界は、それらを放棄して孤独に浸れる場所よりずっと苦痛だ。けれど胸躍るような高揚は隔たれた空間の中に居るより何倍もリアルな質感を以て愛抱夢を昂らせる。どちらの方が楽か。明瞭だ。どちらの方が楽しいか。それもまた、明瞭だ。
     そもそも、だ。何を恐れることがある。痛みは愛であるとそう言って来たのは愛抱夢自身ではないか。なにより楽をして最高のスケートが出来るなら苦労はしない。当たり前の話であるそれを忘れていたのは、まあしょうがないことだと愛抱夢は開き直る。何分長いことそれを思い出させてくれるような相手が現れなかったものだから。
     見つめていた背がすっと壁側へ寄ったのをこれ幸いと愛抱夢は生まれた空白へ身を滑らせた。抜きつ抜かれつ横並びを保つ。けれど相手の様子をうかがったりスピードを合わせようとはしない。ランガも当たり前にそれらをしてこない。そのことが愛抱夢にどれだけの対抗意識と誤魔化せないほど大きな喜びを与えるか知らないだろうランガは、けれど愛抱夢の隣をずっと滑り続けている。それを喜ぶあまり愛抱夢はランガの周囲をくるくると回りながら進む。ランガも、表情こそ変わらないものの稀に愛抱夢の尾を捕まえるかの如き動きで追いかける真似をしたかと思うと反転し真正面からすれ違おうとしてきたりするので、乗り気ではあるらしかった。追ったり追われたりたまに真っ直ぐ滑ったりしながら愛抱夢は笑う。ランガは笑わない。それをほんの少し愛抱夢は悲しく思う。記憶の無い頃のランガなら愛抱夢を見て笑いでもしてくれただろう。けれど彼はここには来られない。愛抱夢とのスケートしか望まないランガと、愛抱夢を含めた沢山のプレーヤー達と滑りたいランガでは形作る世界はきっと違う。愛抱夢の世界はたった一人のイブに向け開いていたのにランガの世界は数多に向いている。資格さえあれば誰でも簡単に受け入れてしまうに違いない。ただここでランガとこうしていられるのは愛抱夢くらいだからきっと呼ばれたのは愛抱夢がはじめてだ。そう思うだけで愛抱夢は嬉しくなれる。このランガにもまだ愛抱夢に贈ってくれるはじめてがある。嬉しいのに。思ってしまう。さっき全てを忘れたランガはもうあんなふうにはしてくれないだろう。記憶の無いランガとはこんなふうに居られなかっただろう。
     ずっとわかっていたことを今再び思い知り、それから少しだけどうしようもないことを思ってしまった愛抱夢にランガが目を向ける。
     こんなもの気付かれたくない。無かったことにしてしまおう。
     そう思って愛抱夢はランガを賞賛すべく口を動かし「 」――結果己が発した言葉に息を止めた。
     止まらないまばたきに明滅する視界。胸が素早く上下に動き浅い呼吸を繰り返す。鼓膜の奥に鼓動を感じながら己を疑う。今何を言った。何故僕は彼を褒めるでも感謝するでもなく、子供のような声音で、聞こえるかどうかの声量で、――ごめんね、なんて。
     仮説を立てようと働かせた脳の内情は燦燦たるもので混乱の中に酩酊中のような心地好さがそこはかとなく充満していた。これか、と愛抱夢は眉間に深く皺を作る。己の望みを叶えるために愛抱夢は捨てるべきものを全て捨てた。そこには当然愛抱夢自身の感情さえ含まれる。何も構いやしない。望みの為だ。だが望みが叶った今、ランガの切り札を前にほんの一瞬愛抱夢の心は完璧なまでに満たされてしまった。幸福感は感情を押さえ込む蓋を包み、蓋はもうそこに留まる理由など無く、あっさり流され感情を溢れださせたのだろう。
     わかったとしてどうにもならなかった。溢れ広がるばかりのそれらに急かされるように愛抱夢はまた口を動かす。肌越しに心臓へ触れてきた手の弱弱しさを思い出しながら。いつか壁越しにしか告げられなかった想いを口にしてしまう。
    「全部をもらえなくて、あげられなくてごめん。でも」
     今のランガに懺悔したところで何にもならないと知りながら。今のランガならあの頃出来なかった公平な裁きを今度こそ愛抱夢へ下せると期待していたのかもしれない。愛抱夢を支えにしなければ生きていけなかったあのランガには見せられなかった他人の決断に口を出し駄々をこねる、情けない己を。今であれば見せられると思ってしまったのかもしれない。ともかくもう愛抱夢は真実の永遠を手に入れながら手放した、そのあっけない理由を。言ってしまった。
    「死んでほしくなかったんだ。だって僕は、君が」
     けれどそこまでだ。君が。そこまでで止めて愛抱夢は唇を噛む。先に言う資格が己にあるだろうか。悩んでいたなら突如愛抱夢のボードが大きく揺れた。突如互いのボードが擦れるほど寄せてきたランガは愛抱夢の足を払って己のボードへ乗るよう促しその身をも愛抱夢へと寄せる。このコース、この速度で行うのは心中未遂に等しいそれを拒絶する間もなく愛抱夢は殆ど意識しないまま体を動かしランガへ寄り添った。腕を腰へ回し、もう片手の指を絡めて繋ぎ。目を見開く。その体勢は、わすれがたい思い出の。
    「いいよ」
     前髪も触れそうな距離。ランガは確かに愛抱夢の目を見て、言った。
    「忘れないでいてくれてありがとう」
     愛抱夢が言葉を失っているうちに手をほどき腕の中から抜けたランガがボードをも離したなら一息に加速し、前へ。前へ。数秒で立て直し愛抱夢はすぐにその後を追う。直前の違和感について問おうと叫びかけたが、しかし、ランガが岩壁から岩壁へ飛び移るのを目にした瞬間愛抱夢は己の中の何かがあっさり切り替わるのを感じていた。叫ぶことも止め、ランガを目指さなくなったボードで心くすぐるカーブを描く岩を登り上がり天井を回っていく。着地寸前でわざと不必要に力を加えれば派手に跳ねたボードが掃い忘れの破片を越えた。
     速度に拘りつつも次々自由な道筋を作りながら、愛抱夢は溜息を吐きたい気分になる。
     これだから愛抱夢は己が内にあるものを言葉にして良いのか考えてしまうのだ。
     心の蓋はどこかへ消えて、まだ彼のことはこんなに想っている、考えている、その筈なのに同じくらい、もしくはそれよりも。愛抱夢の心はスケートにとらわれている。
     いつか世界の破滅を夢見ていた頃。恋をしていた。果ても先も無い無価値な恋だった。けれどその幻想が待っていると思えば少しだけ力強く未来へ足を進められた。その時が来れば世界は変わる。たった一人さえ手に入れれば己は永遠に満たされる。子供の発想だ。けれど、子供だったのだ。子供だったから子供のように夢を見た。都合の良い光る輪郭を抱きしめ福音が鳴るまで闇夜を耐えた。
     輪郭がほどけ本物と出会う日は愛抱夢の予想に反し前触れもファンファーレもなく訪れた。
     見付け、見付けたから求め、求めたから狂い、狂いが冷め“いなかった”と知り、知って苦しみ、苦しんで、苦しんで、諦めかけて――手を、とられた。とられて、ゴールして。思った。
     彼がいい。
     肯定してくれなくても、思い通りでなくとも、これから先一度だって同じ気持ちを抱いてくれずとも、彼を選んだのは間違いだったといつか自分自身が深く後悔することになったとしても。もう一度この手をとられるならそれは彼であってほしい。
     納得出来ない不条理な思考。それこそ対象が空想でなくなった証なのだと悟った日。強く風の吹くなか。愛抱夢の本物の恋ははじまった。
     始まったはいいがこれが思っていたものの何百倍も厄介だった。それでもいいとは言ってみたものの出来ることなら同じ気持ちになりたいのは当然のこと。ところがランガときたら愛抱夢がいくらアプローチしようとどこ吹く風、どうにかこぎ着けた告白間近で記憶は失うわ好きになってくれたかと思えばその瞬間回復するわ取り戻したら懸命すぎるあまり死に急ぐわで愛抱夢を常に振り回す。ランガと出会ってから本当の恋は全然楽しくないと愛抱夢は知った。けれどやめられなかった。好きだったから。
     ああ、と愛抱夢は目を細める。心の中だけだとしても、とうとう言葉にしてしまった。
     そうだ。好きだった。それだけだ。馳河ランガもただのランガも、愛抱夢以外に大切なものがあるかないか以外彼らが変わらなかったように。どちらで呼ばれようと己がランガへ抱く感情は姿こそ違えどもいつも同じ色を帯びて輝いていた。この手だけで終わって欲しいくらい世界で一番大切で、本当の願いなんて決めつけでランガ自身の意思を無視してでも、彼に生きていて欲しかった。
     それほど強い焦がれでも愛抱夢は胸を張って言葉に出来ない。せめてこのビーフが終わるまで、ランガが愛抱夢から離れられるまで蓋をしておくつもりだった感情。これが己の真実だと愛抱夢には到底思えないのだ。生きていて欲しかったのは好きだったからだともし言ったならその時己の口は笑っているだろう。嘘つきの形をしているだろう。
     ランガには知られたくない話だが、ただランガのことを好きなら愛抱夢はきっとランガの記憶を蘇らせなどしなかった。そうしたらもうランガは愛抱夢の事を好きでなくなってしまう。それはリスクだ。日常に戻った彼の周囲には大切な人たちがいてその目は二度と愛抱夢だけを見てはくれないかもしれない。そんなことになったらきっと思う。やっぱりこの手で殺しておけば良かったなと。
     そういうものじゃないのか、と愛抱夢はおおげさに首をかしげてみる。けれどそういうものでないこともわかっていた。世界からあぶれたのはきっと己だ。相手を思いやることより好き合っていられる方が大事で、それらさえ軽率に捨てられるほど大事にしたいものがある。世界が教えてくれる正しい人間の愛からも、生まれた環境によって培われた歪んだ愛からも、遠く離れたところでようやっと深く息をする。そういういきもの。どの人とも違うなら、それはきっと人ではないのだろう。
     だって好きで、好きになってもらえてあんなに嬉しかったのに。愛抱夢はここまで一度も止めようと思えなかった。ランガからどうしてと叫ばれていた時でさえ後悔なんてしなかった。悩んだ末に籠を開けそっと蝶を逃がす、切ない決意をした健気な己に没入する裏でその蝶が毒を強め愛抱夢へ向け鱗粉を撒けば良いと思っていた。日常へ戻ったランガの映像をなるべく断つ代わりに十数秒の映像を見続けることで飢えを強め、今夜この時が来るのを心待ちにしていたのは他の誰でもなく愛抱夢であり、今この時を心底楽しんでいるのも、また。
     遊びを交えながらも全力で追いかけている筈なのに何故だかランガの隣まで戻れないのはきっと愛抱夢が言いたいからで言いたくないからだ。全部の己を知られていて、今この時瞬間も愛抱夢の内心の酷薄さを感じ取っているだろうランガに今再びこの言葉を言うことは恐い。けれど。愛抱夢は考える。それはこのまま距離が開いていく以上に恐ろしいことか。ああ。うん。それは。考えなくたって。
    「――ランガくん!」
     呼んだ瞬間、観念するみたく身体に力が入ったのを感じ愛抱夢は笑った。これで良い。傷付けるより、傷付くより、置いて行かれる方がずっと恐ろしい。だから一瞬視界がうっすらにじんだのは気のせいだ。見る間に風に飛ばされたからもう証拠もない。思いきり、人だったら言えないような、ひどいことを言ってしまえる。
    「君が好きだった」
     君のようになりたかった。優しくてあたたかい、嘘で塗り固めた世界でなくともランガに好きだと言ってもらえるような自分になりたかった。
     そんなふうに思っている今この瞬間さえ、あの島でランガに犯させた過ちと愛抱夢が犯した罪がランガに今二人の居る世界を作るに至らせたのなら、罪を犯して良かったと愛抱夢は心の底から言うだろう。言えてしまうのだ。ひとでなし、だから。
     けれど、ランガに与えたもの。奪ったもの。それら全てを君が好きだったからだと言うことは出来ないけれど。望まれても何もかもは捨てられない。捧げられない。愛抱夢も愛之介も君だけのために生きられない。君にはそうさせたのに。この手は己ばかりを守ってしまうけど。
     けれど。
    「出会ってから今まで。君が僕を好きじゃなくても、好きでも。ずっと同じだった。何も変わらない。変わってくれない」
     この気持ちはずっと本物だった。
    「君が好きだ。僕は、君が好きなんだ……!」
     それなのに。どうして。愛抱夢のいびつなうつわはランガの情が、心が欲しいと、愛して欲しいと渇望し続けているのに。映像のランガが空へ飛び出した瞬間。いつより強く激しく叫んでしまったのだろう。
     目の前に答えがあった。
     情より欲しかった熱。心より欲しかった魂。多くの人が生涯求めるだろう至高の愛よりも、愛抱夢とランガでだけしか手に入らない、ただひとつの夢幻が。
     それらを目の前に、鐘の音を聞いて。
     やはり愛抱夢はまた思ってしまうのだ。
     ああ。これがあると知って。どうして死ぬように生きられようか。
     己の目元が痛ましく、口元が嬉しげに歪んでいくのを愛抱夢は感じていたが、どちらも嘘ではないそれらはランガと真正面から向き合った瞬間霧散していた。ひとりでに小さく動く口。声にも出来なかった問いかけが聞こえたかのようにランガがゆっくりと唇の端をあげていく。その間も彼の目から流れた涙はばら色の頬をつたっていた。
     
     今日も賭けは勝ったり負けたりだ。一番難しくて一番気合いを入れて臨んだ二人が沢山わくわく出来るような仕掛けは上手く行ったけど他はまだまだ。自分ではない他者と関わっているのだからそれくらいは覚悟のうえでも、目の前の顔を見ると胸が痛む。さっきのあれはだめだった。滑る前にきちんと伝えることで今の勝負に集中出来るような気遣いを相手がしたのに倣ってランガも記憶の不在を表明したというのに、この局面でつい手を差し伸べてしまった。余計なことを考えさせてしまった。
     ひどい、と痛む胸が言う。そのわずらわしさにランガは目をすがめる。
     記憶って大変だ。
     スケートは簡単だった。愛抱夢と居た頃のスケートもそれはそれで好きになれそうだったけどやっぱり己が一年以上かけて手にした宝物が大事だったし愛抱夢と滑るにはそちらの方が良いと感じたからあっさり上書きに励めた。けどスケート以外はそうもいかなかった。愛抱夢と暮らした日々でランガが手にした記憶や感情はそれまで知らなかったものばかりで、元の生活に戻っても似たものに出会うこともあちらが良いと思うこともなくて。忘れられずに覚えたままだ。
     ある日。
     うまれてはじめて恋をした。
     その人はランガではない誰か、ランガがどうしても知ることの出来ないたったひとりが好きだった。だからずるいことをして好きになってもらった。
     それは沢山のよろこびをランガの世界に教えてくれた輝き。忘れようとしても忘れられない、心臓に埋め込まれた宝石。
     ――それから。
     恋をしていた。その人はランガのことが好きだった。まごうことなく今度こそ本当に二人は好きどうしだった。互いに苦しんでいたとしても。苦しみながら手を伸ばすことだけやめられなかった。おしまいがあんなに悲しかったことを含めて、忘れられる筈も無い痛み。いつまでたっても痕にならないかさぶた。
     どちらもお別れ出来そうにない。だったら連れて行こうとごく自然に決断していた。元々記憶の中の己の行動には、あくまでスケート以外だけど、そこまで違和感もなかった。前例がなかったことが多分良かったのだと思う。俺ならこうするが無い分へえ俺ってそうするんだという感じで。呑み込みやすかった。
     まるで見てもらいたいみたく次々浮かび上がってくる記憶の全てに目を通した。みにくく変貌していく己は興味深かったしこの条件なら確かにこうするかもしれないと頷いたりもする一方で、一部については今まで歩んできた人生の無いランガならではの感情だと感じていた。暦と出会っていない、父さんを亡くしていない、あの夜を知らないランガで無ければあんな選択はしない。自分の一切を誰かに背負わせたりはしない。もう居ない人を求め続けるつらさを知っているのに他人にそんなこと求めない。最初から途中でリタイアする前提でビーフに挑んだりしない。
     けど、少しだけうらやましいかもしれなかった。
     なんでだろうと思っていた。今わかった。目の前に居る彼の気持ちを聞いて全部理解してしまった。ランガがもう己の一部と感じている記憶のランガに深い傷を付けた愛抱夢。そんなに好きだと想っている彼自身を裏切るような行いをした愛抱夢に、何も思えない理由をランガはきっと最初から知っていた。感情こそが答えだった。ここに至るまでのランガ全てが。
     彼を見据え口を開く。呼んだ名がどちらだったか何故だかランガにはわからなかった。けれどかまわない。どちらだとしても同じように言えるだろう。
    「あなたのこと好きだったよ」
     本当に好きで、いとしくて、ずっとそばにいてほしくて。あのやさしい行き止まりで一緒に眠っていたかった。
     いつか笑っていて欲しいと言われた時、伝えることは出来なかったけどわかるなあと思っていたのだ。笑顔が好きというよりそれが一番わかりやすい証明だから。幸福でいてほしかった。幸福なあなたを出来たらずっと隣で見ていたかった。
     ここは痛みばかりで、今のランガはあなたにそんな顔ばかりさせる。くるしそうだ。逃がしてあげたい。こんなにも二人を傷付ける、勝っても負けても何の意味も無いもない不毛な場所から。今からでもきっと遅くない。その手をとってもう一度全部なかったことにしよう。きっと戻れる。夢のような日々に。海鳴りの傍らに。あなたと笑いあうだけで満たされる、ただのランガに。
     幻想を前に。
     馳河ランガは選択する。
     泣きながら、拒みながら、それでも捨てられなかったものを握りしめて。己が心を裂いてでも、もっとも後悔の無い道へ。確かに足は踏み出された。
    「幸せだった」
     ごめんなさい。
     嘘じゃない。好きだったんだよ。
    「――けど、今の方がずっと楽しいんだ。なんでかな。ねえ……!?」
     
     ランガの慟哭に震撼する空気。その一部が末端に触れるなか、愛抱夢は至極静かに、しかし真理に至ったかのような興奮を得ていた。開いたままの口から溜息が漏れる。ああ。ああ。
     己を傷付けた。他人を傷つけた。沢山己を責めて、どうしてと嘆いた。
     そんなにしても変われなかった己はまごうことなくひとでなしで、けれどそれでよかった。このときが来る。それだけで。
     たった一日。夜と朝の境。人生においてまたたき程度にも満たないこの瞬間のために。美しき愛も醜い欲も全て捨てていいと、それ以外は全て消えたって構わないと強く強く望んだのは。
    「ランガくん」
     僕であり、君だった。
     彼が居るこの夜。己の人生を数年前突如彩り始めた喜劇。そのクライマックスに、愛抱夢は快哉を叫ぶ。
    「僕達は――ひとでなしだ!」
     こんなことを嬉しく思うのだからきっと一生すくわれない。
     だからなんだ。
     
     僅かにあった雲も完全に消え去り満ちていると呼ぶにはいささか不完全な月が全貌を現す。漂う心優しき静寂は数分もせず破壊されるだろうと忠は画面を見ながら予測していた。カメラの隣に立ち深く呼吸しながらその時を待つ。映像で彼らの位置を把握する顔に汗は無い。もう忠の心は先程のような疑いを抱いていなかった。
     一心同体の如き滑りは突如なりを潜め始まったのは全く別のスケートだった。気まぐれかつ奔放にコースを駆け抜けていく彼らは野生動物かサーカスの団員のよう。めくるめく世界を前に忠は心底安堵した。この先一生何とも比べられない筈だったあの夜のスケート。あれ相手でもこれならば勝るとも劣らない。ならば大丈夫だ。主人は必ずこのまま来る。そしてもう一人も、必ず。
     ただこれから起こることに一切の不安が無いと言えば嘘になる。主に勝敗についてだ。主人の勝利を疑っている訳では決してないが相手は何分あのスノーだ、万が一ということも。
     画面を見る。コースも終盤だからか彼らは速さ一点のみに力を注いでいるようだが窮屈そうには見えない。先程あんなにのびのびと滑っていたときと同じ、いやそれ以上だ。一度強く鳴った心臓を押さえるように忠は胸元を掴んだ。まさか、と息を飲む。今己は彼らが来るのを楽しみだと思い、この勝負を最後まで見届けたいと望んだのか。
     戸惑いながらふらりと首を動かすや否や忠は鋭く顔をコース側へ向けていた。聞こえた。見えた。来る。背を伸ばし出していた己に苦笑する。忠でここまでうずくならただスケートを好きだと臆面もなく言える者達にはさぞたまらないことだろう。
     そして目の前を風が吹いた。
     それが彼らであると気付きながら目で追うことも出来なかった忠が慌てて顔を動かせば彼らは少し先でブレーキを掛けようとしていた。本来ゆっくりと速度を落とし停止させれば良いボードを無理やり止めたせいかどちらも前に少し倒れつつ難なく片足を地面に乗せる。
     小刻みに動いていた肩がそれぞれ一度大きく動き、殆ど同時に二人分のはあっと息を吸う音が聞こえたなら。
    「僕!」
    「俺!」
     さっと目を合わせた両者がぐるんと忠の方に振り向く。
    「「スネーク!」」
    「は、はい!」
     たった今の自己主張が勝者はどちらかについてであり審判である己に託されたのだと気付いた忠はひとまず先程二人がゴールを越えた瞬間を拡大表示させたが作業中こうも思っていた。彼らが確信出来なかったのなら、それは――。
    「…………」
     嫌な予感は的中したが、じいっと見てくる二人をいつまでも待たせておくわけにはいかない。先程のような不正審判は望まれていないだろう。あくまで誠実に事実を伝えなければ。だがしかし、これを告げる役目はなかなかに重くないだろうか。
    「結果が出ました」
     見られているだけで体が縮みそうな圧の中忠は先程と似たような言葉を今度は正直な気持ちで告げた。せめてこれが守ってくれまいかと拡大表示させたままのPCを掲げる準備をしながら。その努力は報われなかったが無碍にもされもせず、幾分呼吸の落ち着いた二人が引き合うように互いを見る。
    「引き分けだってさ」
    「そんなことあるんだ」
    「ね」
     一瞬ぴりっと張りつめた空気、だが彼らは次の瞬間みるみる忠の知る彼ららしい、良くも悪くも感情の読みにくい顔つきに戻り。
    「じゃあ行こうか」
    「うん」
     踵を返した二人が一歩目を踏み出す前に引き留めたのは実に賢明な判断だっただろう。車を出すと忠が言わなければ二人はそんな手段すら忘れ来た道を走ってでもスタート地点を目指していた筈だ。それから忠は何度も何度も二人が滑り出す瞬間とゴールラインを越える瞬間を見て、同じ回数だけ車のエンジンをかけた。黒い空に濃紺が混じりきわが群青に滲み出しても彼らは結果が引き分けである限り“もう一回”をやめない。だが確実に疲労は積み重なっているようで数回前から通常のビーフコースに移っている。重たげな体をがくつかせるように体勢を変える、スケートが出来ていることさえ不思議な今の彼らならば忠は悠々追い抜けるだろう。試す気には決してならないが。おおらかでユーモラスな彼らにもまた見ていたいと思う美しさがあった。
     忠がそう思った瞬間のことだった。
     道の端すれすれを周り愛抱夢を追い越していたスノー。その足元が崩れた。
     ぐらりと傾く身体へ向け愛抱夢が手を伸ばす。
     けれど手は、あとほんの僅か届かず。
     救われなかった少年は。
     
     ゆっくりと進む世界で。
     音が聞こえた。
     道端とリールの擦れあう音。靴底がデッキへ叩き付けられる音。跳躍に巻き上げられた小石が飛び散る音。着地したボードの上で確かめるようにたたらを踏む音が、とん、とん、と鼓動に似た速度で愛抱夢の世界に響く。目は確かにランガが落ちかけてからあっさりコースに復帰してくるまでを捉えきっていた。したこと自体はせいぜい中級者レベルのスライドの応用だ。だが今の速度と反射で行うとなると、それこそ初めから自分が落ちる前提であらゆる落ち方に対処する練習をしておかなければ。そこまで考えてから愛抱夢は得心し今週中に数か月分溜まった映像を確認することに決めた。
     時間を伝えていなかったにしても早すぎるとは思っていた。練習も熱心すぎると。愛抱夢とのビーフだというのに体力を無暗に削るような真似は気に入らなかったが。あれはそうか。馴染ませていたのか。記憶だけでなく体にもクレイジーロックの環境を思い出させる必要があった。あの日のような事態に無意識にでも対応するための最後の仕上げ。愛抱夢がそうであったようにランガも初めからこちらではない方のコースで勝負するつもりだっただろう。あちらなら今のような手は使えない。つまりだ。無駄になる確率の高い練習をあの精度まで高めたのか。喉奥で愛抱夢は笑う。まったく。君はどれだけの可能性において勝つつもりで。
     見られていることに気付いていないようでランガは先へと進み始める。まだ伸ばしたままだった手を愛抱夢は下ろし、だが一気に近づくともう一度。今度は掴むように伸ばした手でランガを強引に振り向かせ。ランガの目が己を視認するよりも早くその身を抱き寄せた愛抱夢は、それから。
     ――まばたきほどの時間を経て唇を離す。あちこち汚れた顔は赤らんでいるように見えないこともないが、残念ながらそれは息が上がっている影響だろう。強いて言うなら少しだけ目が丸いかもしれない。
    「僕も君もあまり持たなそうだ。今夜はこれで最後にしよう」
     わかった、と喉に詰まらせながら言うランガ。彼の身に愛抱夢はまだ触れたままでいる。気を抜けば手は震えその場に崩れ落ちそうなほど体も限界に近いのに、ランガが離れようとしてもさせない自信が今の愛抱夢にはあった。
     救おうとして伸ばした手は結局一つも届かなかった。けれど、抱きしめてキスしたいと思って伸ばした手はこんなにも容易くランガに届くのだ。
     前に顔を向けながら時折愛抱夢の方を伺い見るランガ。今の出来事の真意を確かめようか迷っているみたく揺らいでいた目が再びぐっと顔を近づけるなりぎょっと瞳孔を縮めるのについ愛抱夢はくすくすと笑う。「なに」とランガが困ったように片眉を下げた。
    「何だろうね」
     救いたかった。救えたら、そういう正しい人の愛し方が出来たならやり直せるかもしれないと思っていた。
     けれどそうではないのだ。また気付かされた。また、教えられてしまった。
     ランガに愛抱夢は救えても愛抱夢にランガは救えない。きっとこれからも、ずっと。ランガが愛抱夢に救って欲しいと思っていないから。ランガは誰に救われなくても己を救える。落ちても、失っても、再び全て取り戻して愛抱夢の元に来る。それはランガにとっての愛抱夢が奇跡を起こして己を救うかみさまではなく共に滑る相手だからだろう。
     さみしいことだと思う。
     出会えたのが彼でよかったとも思う。
    「本当何なんだろう。僕のこれって何なのかな」
    「さっき自分で言ってなかった?」
     愛抱夢が首を傾け誤魔化していると、ランガが軽く身体を振った。確かにここを抜ければ廃工場はもう目と鼻の先。このままではまた引き分けになりかねない。
     手が離れていく。互いを傍に感じながら己さえわからなくなる速度に至る寸前。どちらか一人が問いかけた。
    「ひとでなしは恋をすると思う?」
    「するよ」
     問われた言葉に込めた意味の半分も理解していないだろうもう一人はけれどすぐさま、更にはっきりと。
    「きっとする」
     根拠も何も無い言葉に一人は笑った。
     残り数分。互いに体力は残り僅か。何度も続けたせいでコースは荒れ気味。どれだけ本気で滑ろうとしたところで満足の行く出来にはならないだろう。けれどもう一人が諦めないなら、いやそれ以前に諦める気にはなれないので、一人は最後の力を振り絞る。
     異常なコース。異常な速度。異常なプレーヤー。
    「うん。僕もそれが良い」
     尋常でない夜の終幕はありきたりな願いで始まった。
     
     今夜だけで数年分の劇的なシーンを見た気がする。これが己で良かったと忠は息を吐いた。ギャラリーが居たなら大事だ。これと同じだけの夜を用意することは容易くない。
     工場内に入って来た二人は全く別々の道からゴール付近を目指すつもりのようだ。時に近付き時に遠ざかり彼らは競いながら、二人で何かを作り上げようとしているように見えた。通路の手すりから手すりへとランガの眼前を越え飛ぶ愛抱夢。真下に愛抱夢が来るなりクレーンから自ら落ちるランガ。宙を行くスノーの到達地点を愛抱夢は掻きまわしてから飛んだ。そしてスノーも、掻きまわされ良き発射台となったそこから矢のように飛び。
     ――二人のボードがグラフィティを越えた。
     そしてそのまま。
    「!?」
     開き放しの出入り口から飛び出す後ろ姿。続けて鳴るそこそこ大きな音。慌てて駆けだした忠が目にしたのは散乱する無傷の道と、何故か一切無傷の二人だった。ふら、と倒れかけた二人は一旦膝をついたものの数秒もせず背中から倒れ込み地面に寝そべる。最早荒く呼吸することも無くぴくりとも動かないまま数分が経過し寝てしまったかと忠が疑うなか、小さな声が。
    「……結局参考にしただけで、君は僕が教えたようには滑らなかったね……あれだったら今頃勝てていたかもしれないのに……」
    「…………」
    「……ああ。うん。そうだね。そんなことはありえない。君でなければいけなかった……」
     愛抱夢がだらりと身体を転がす。
    「……ねえ。本当は記憶、どれくらい残っているの?」
    「……たぶん全部」
     ランガが手で周囲を掃い、肘をつくべく曲げていく。
    「でもよくわからない。俺のなかにちゃんとあるんだろうけど、ほら、大事な思い出でも全部細かく思い出して把握してってできないだろ」
    「君との記憶なら僕は全て思い返せる」
    「愛抱夢は手際良いから。俺がそれやったら一日終わる」
     ゆっくりと彼らは身を起こし、どうにか座って、前を向いた。
     太陽に淵を彩られながらまじわるのは深き青と鮮やかな赤。青が赤を包んでいるようにも赤が青を取り込んでいるようにも見える光景は夜明け前と夕方訪れる自然が生んだ奇跡。確かマジックアワーと呼ぶのだったか。
    「これ見ると今でもたまに眠くなる」
     きゅうっと目を細めてランガが言う。理由に思い至った忠は若干の罪悪感に胸を痛めたが、主人はそんなこともなくただ微笑みながらランガを見つめていた。
    「それで……目を開けたら、あなたに会えるといいなって思ってたよ」
     愛抱夢を見るランガの目もまたただひとつの感情しか宿していなかった。
    「愛抱夢、俺」
    「待って」
     急な制止に忠とおそらくランガが戸惑うなか、愛抱夢が告げる。
    「僕が言う」
     ぽかんと呆けていたランガはみるみる怪訝な顔になり身を乗り出したが、瞬間近付いてきた愛抱夢に開きかけの口を覆われていた。地面に転がしたランガの足をも封じ込めた愛抱夢は余裕げに「ランガくん。僕の」しかし言葉途中で主人の口から出る筈もない謎の音声が聞こえたと思えば続けてランガの小さな叫び声が聞こえた。離れたランガの手を確保した主人は絶対に妨げられないようにしてからそれを言う方針に切り替えたらしい。ランガが手出し出来ないように彼の身体を全体重でしっかり抑えつけている。なかなかに見ていられない状態だ。四肢を完全に掌握したうえで愛抱夢は再度、しかしランガもそれだけは認められないとばかりに唯一動く顔を近づけると。記憶が残っているというのはどうやら本当のようだ。ぷはあ、と後頭部を再び地につける様子には動揺一つない。
    「……仕方ない。日を改めて再戦としよう」
     ギャラリーが居なくて本当に良かった。後々この部分の映像だけは何が何でも削除しなければ。
     二人に言われるかもしれないと一応表示させておいた画面。映っているのは今のレースの結果であり全く予想通りの画像だった。解析させたところで間違いなく結果は揺るがないだろう。
     もしかすると彼らは互いに心の奥底でこうなるよう願っており無意識に調整していたのではと忠は仮定を立ててみたもののすぐに違うなと否定した。
    「いいよ。今度は俺が勝ってあなたに見てもらう」
    「違うね。僕が勝ち、君を手に入れるのさ」
     きっと全力で戦った末の、この結果だったのだ。
     昇る日の眩しさに二人が僅かに目を細めている。それに気付いた忠もまた目を細めた。
     夜が終わる。
     朝が来る。
     
     
    【二人朝日を見に行こう】
     
     ランガを手に入れてからもSには証拠づくりを兼ねて度々顔を出していたがランガが戻ってからは一度も来ていなかった。その状態で数週告知も無しにクレイジーロックごと封鎖したのはそれなりに横暴な所業だっただろう。こんなに人の集まる場所に留まれば誰かしら勇気ある者に絡まれるかもと思っていたのだが今のところ一切そういう輩は来ない。隣のやたら気の付く男が何かした可能性が高い。事前に根回しとか。ああやりそう。
    「なんだ気遣われて気に食わないって顔しやがって。何も知らない奴らに質問攻めにされた方が良かったか?」
    「何も知らない、ね」
     ばつの悪そうな顔は演技と思えない程自然だ。気付かれないなどと思っていない癖に茶番に付き合う白々しさは嫌いではないが僕が見せているもの以上を見られていやしないかと気になって落ち着かない。せめてもう一人が居れば会話の主導権も握りやすいのだが。
    「まあ軽い重い問わず良いことばっかしてきたわけでもない奴らだからなあ、お前に何か思おうものなら全部自分に返って来ちまう。放っておくしかないってだけだろ。あとはアレだ。お前の機嫌を損ねたらここが無くなる!」
    「そんなことはしない。精々出入り禁止くらい」
     ジョーが声量を上げるのに合わせて僕も少々大声で表明すれば刺さっていた視線が幾つか逸れた。ろくでなしばかり集めた成果がこんなところに。ランガを手に入れておくための仕掛けが結果的に事情を知る者らからの情状酌量を生んだように何から何がはじまるかはわからないものだ。だからこそないものねだりが止められないのだけど、まあ中には本当に羽を付けておりてきてくれる例も居るから止めたくなるまでは止めなくてもいいのだろう。
    「俺らは普通に依怙贔屓だけど。お前の友達だから」
    「“かつての”をつけろ」
    「そんなこと言うなら連れて来ようかな~……俺よかよっぽど譲らんと思うが、お前がいいなら……」
     出来ないだろうと思いながら溜息を吐いた。目の前で喧嘩を始められるのも鬱陶しいが二人分で詰め寄られればその比ではない。押し負けるなど考えたくもない。
    「君達に付き合わされる皆が可哀そうだ。彼らみたいな凡人は、悪人を罰したくてしかたない善人気取りばかりだろうに」
    「お前すぐ人を雑に分類して自分が属さない方を見下すの悪い癖だぞ」
    「説教?」
    「いいや。お節介」
     どちらでも変わらないように思えることを言って、通り際や隠れてこちらを見るプレーヤーらへジョーが目を向ける。
    「確かにこいつらはお前の言う善人気取りばかりかもしれないが、その善人気取りにだってお前が何しても許す奴は多分居る。お前が好きでヒーローでいてほしいやつとか、根っからの善人はいないってお前が思っているように根っからの悪人はいないって思っていて更生を望むやつとか」
    「勝手だな。それに愚かだし弱い」
    「ここに来る奴らなんて皆どこかしら勝手で愚かで弱いもんだ。だからここ来て、滑って、お前らが滑ってるの見て声上げてたまーにああなりたいとかあれに勝ちたいとか馬鹿でかい夢を見る。わかるよな? 愛抱夢。お前の好きな愛ってやつだよ」
     仮面を着けていて良かった。目元だけならいくら渋くしても問題無い。
     そんなものが愛であるものかと切り捨てたいが、しかし荒唐無稽な夢を抱く気持ちはわからなくもない。ひとならばひとでなしになりたいだろう。ひとでなしがほんの少し彼らを羨むように。
    「わかった。だが一つ訂正したい。根本からの、どうしようもない悪人は存在する」
    「例えば?」
    「僕」
     この不可思議そうな顔も演技だろう。まさか本気である筈が無い。今のは何らおかしいところのない発言だった筈だ。
    「何だその反応は。僕は君達悪人の王様だよ、そうでなくとも生粋の極悪人だ」
    「お前は違うだろ。悪人にしては」
    「さみしがり」
     ジョーの声に被さった言葉、そのやわらかな声音とそれに相応しい声の主には思いあたる節がある。声の聞こえた先、つまり真横をぱっと見ればやはりそこに居たのはランガだった。いつの間に隣まで来ていたらしい。表情には出さず、気づけなかったことをひどく悔やむ。気にされてはいないようだが素直に喜べない。彼にならちょっとくらい気にされても良いのだが。むしろ軽く怒ったり拗ねたりしてくれても全然まったく構わないのだが。例の勝敗が決まるまではおあずけか、そうなのか。
    「準備できたって。行くんだろ。俺も行くから、一緒に行こう」
    「ああ、ありがとう」
     ランガを連れ悠々去るつもりで身を翻した瞬間、それを待っていたかのようにその場三人以外には聞こえないだろう小声でジョーが問うた。
    「ランガ。さっき何だって?」
    「だから愛抱夢は悪い人にしてはさみしがりだって」
     素直にランガが答えれば、ほらばれてる、とジョーは笑い。
    「そうだな。極悪人にしてはこいつはちょっと」
     最後まで言われる前にランガの肩を掴み全力で厄介な旧友から離れた。そのまま向かったのはステージ。既に待っていた大勢の観客は譲った道の真ん中を通って行く僕ら二人に随分な目線を送ってくる。これら全てに応えなければならないと思うと億劫に感じる一方でここに居る全員楽しませてやろうと思えばやる気が湧いてくるのは何故だろう。することは同じなのに。
     今夜も僕は僕のステージに立つ。横にはランガ。下には大勢の愚か者。悪くない気分だ。負ける気など、当然しない。
     
     ステージのライトが切り替わって下に居る人達が一斉にこっちへ視線を向ける。数が多いからなかなかに痛い。俺よりもずっと沢山の人から見られているだろう愛抱夢はすごいな、全く堪えていないみたいだ。いつもの調子で久しぶりだねなんて話しているうちに場の雰囲気は少しずつやわらいでいったけど、ここ数か月はイレギュラーな事態が多く説明不足で皆を混乱させたと愛抱夢が言った途端皆の視線がばっと俺に集中したのは急だったのもあってかなり心臓に悪かった。愛抱夢がほんの少しこっちに身を寄せて視線を肩代わりしてくれなければ変な顔してたかも。助かったとは思っていて、けどよくないなとも思っている。今日は愛抱夢を頼るために隣に居るんじゃないから。
     謝りたい。数日前車内で愛抱夢はそう言っていた。
    「僕からの釈明、あるいは謝罪を一言、望んでいる者も居るだろう」
     そっと手を伸ばす。皆に見られているなかでそうされることを愛抱夢が好まないとわかっていたけど。大丈夫。俺がいる。そう伝えたくて。
     手は指先を少しだけ掠らせて、でも結局何も掴めず、それどころか俺の方が愛抱夢に腰を掴まれていた。
    「そこでだ」
     突然背後から強い光を感じた。何とかふりかえれば、輝くモニターには見慣れた文字が。
    「集団レース、もしくは変則ビーフかな? 呼び名なんて何でも構わないから好きに呼んで。ともかく僕はこうすることに決めた」
     高く上がった足が床を思い切り踏みつける。余韻がたあんたあんと響くなか言葉を待っているみたいに静まり返った皆に愛抱夢はにっこり笑って言った。
    「――勝負しよう、君達。ルールは簡単。どんな手を使ってでも一番速くゴールした者が勝ち。勝てば負けた者に何でも言うことを聞かせられる。勿論僕と彼も参加するよ」
     彼、で激しく引き寄せられたので多分俺のことなんだろうけど。おかしいな。聞いてない。
     ざわつきに乗じてこそこそと愛抱夢を呼ぶ。ちらりとこっちを見た彼に謝るのはどうしたのかと訊いた。微笑まれた。大体察した。
     皆はまだざわついている。やる気の人もそうでない人も居るみたいだ。見知った顔はでない人の方がすごく多くてその周りも大体一緒。出来ないとかビーフの前に謝れとか声も来るけど。それら皆聞こえないみたいに愛抱夢はまだ笑っていた。
    「うーん、反応が悪い……皆あまり興味が無いのかな……? ……ああ、そうか」
     なるほどと言うみたく首を数度小さく振るとすごく明るい声を出す。
    「僕に勝つ自信がないんだ?」
     空気が凍った。今度こそ完全に全員無言。愛抱夢だけが揚々と喋り続けている。
    「どうしたの君達? 言って良いんだよ。自分は遅くて愛抱夢様相手だと勝負にならないから参加できませんってさあ」
    「ヴァ―――ッッッ! もう我慢出来ねえ! ぶっ倒す!!」
    「こら暦! あんな挑発乗ったら向こうの思うつぼでしょ。あとちょっとであの愛抱夢を謝らせられるんだからここは慎重に……」
    「流石MIYAくんは賢いね。勝負から逃げる理由作りがうまいうまい。ご褒美に撫でてあげようか?」
    「何してんの暦、あとシャドウも! 行くよ! 今日こそあの思い上がったオジサンに引退表明させてやる!」
     いつもより広いスタート地点に走り出した三人につられるように次々皆が走っていく。俺も愛抱夢に持っていかれもとい連れて行かれて気が付いたらあっという間に大勢の人がスタートしていた。
    「……悪い」
    「さみしがりの悪い人も居るんだよ。覚えておくといい」
     何故か皆から譲られた先頭を二人で進む。後ろは結構ぎゅうぎゅうのようで怒鳴り声やらが沢山聞こえた。段々時間が経つにつれ聞こえなくなったけど。多分転んだ。
    「そういえばランガくん、例の日取りなんだけどいつがいい?」
    「いつでも。……あ。ちがう。バイト入ってる日は難しい」
    「君が思っている時間帯にはしないかな……」
    「愛抱夢が忙しいのは?」
    「うーん。一年中?」
    「そっか。じゃあ来年だね」
    「来年も忙しい。再来年も、その次も」
    「……」
    「……嘘。嘘じゃないけど嘘だから。今月か来月中にはどうにかするから待ってて」
    「忙しいなら無理しなくても」
    「全く無理じゃない。あれは僕と君にとって何より大事なことを決めるための時間だ。無理なわけが無い」
    「なにより?」
    「なにより!」
    「……まあなによりか……」
     少しだけ愛抱夢に近付く。皆に気付かれないように、今の会話の続きを話しているみたいにして。
    「本当に危なくない?」
    「大丈夫。僕を信じて」
     信じたいとは思う。でも信じた結果色々あったからなあ。
     具体的に思い浮かべていると愛抱夢がひょいと顔をのぞいて来た。
    「僕は嘘もつくし悪いやつだけど、これに関しては出来る限り努力した。君に信じて欲しかったから」
     知っている。あなたはずっとそういう人だ。
    「それに中盤以降のコースは大勢で滑るには向いていない。この辺りで半分ほどリタイアさせておかないと確実に大勢怪我人が出るよ。いいの?」
     こういう人でもあるから信じにくいのだけど。
    「わかった」
    「信じてくれた?」
    「あんまり。でも、信じて欲しいって気持ちは信じるよ」
     充分、と呟いてゆっくりと愛抱夢が俺の前に出た。ぐいぐい引っ張られながらひとり息を整える。後ろの皆も無事に引き付けられているみたいだ。風が頬を撫でる。結構な速度が出ているんだけど時間をかけて少しずつ上げたから気付かれていないらしい。これなら出来るかもしれない。
     目標のコーナーが近付いてきた。目配せに口を開き合図を呟く。
    「……いっ……せえ、の」
     せ。
     ばちり。世界が音をたてて、視界いっぱいを光が駆け抜けていった。ほんの一瞬で終わってしまったそれの余韻がまだ視界で光っているのを見て成功したんだと思う。よかった。ただちょっと計算違いだ。皆を繋げられるかと思ったら俺に皆が繋がったみたいで、結構、しんど、い――。
    「ランガくんっ!」
     崩れ落ちる前に抱きあげられた身体がたちまちに二回転した。倒れそうだったから助けたわけではないらしい愛抱夢は俺の回転に不向きな顔色が見えているかも怪しい。すっごく楽しそうで、すっごく周りを見る気がなさそうだ。
    「できたね、愛抱夢」
    「ああ本当に。こんなにも呆気なく出来てしまった! すごいね、僕らって!」
     ぎゅっと抱きしめたり回ったり、踊ったりを繰り返して真っ直ぐな道さえジグザグに愛抱夢は下りていく。滑っている時間を引き延ばしたいみたいだ。めずらしい。
     俺が繋げた世界を愛抱夢が皆に見せる。二人で協力して“これ”に皆を招こうと提案された時は無茶だと思った。何かあったら危ないし。けどこのためにクレイジーロックの工事をしているとか理論上これでいけるとか聞かされるうちにいつのまにか一回くらいやってみようかなという気分になっていた。「君と一緒に滑れる相手が思わぬところから見つかるかも」と言われて興味が湧いた訳ではなく。
    「……実は絶対出来ると思ってたんだ」
     なんで、と訊いたなら両脇を持たれてかつがれた。ゆさぶりながら回りつつ笑っている。せわしない。
    「君が傍に居て、僕を信じてくれるなら、僕は何だって出来る気がするから! 君もそうだろう? ふふ、嬉しい!」
     答える前に喜ばないでほしいと言えば「どうして?」と本当に不思議そうに言うので答えてから喜んで欲しいと言ってみる。苦しいほど抱きしめられたうえ回転速度が増した。難しいな。思いを伝えるのって。
    「それなら僕らきっとどんなことも出来るね」
     この顔が見られたから今日はいいか。頑張った甲斐あった。
    「ねえランガくん、信じられる? 僕ら二人でいればなんにでもなれて、どこへだって行けるんだよ」
     それはいつか色んなことを話してくれたときのような本当になればいいのになって願っている人の声で、ああ信じて無いんだなあと思ったからただ楽しみだねと返したなら、愛抱夢は笑って手を離した。右回転と左回転でほどよく調子が整ってきた体がすとんとボードに下りる。背後から音。見ればやっぱり知っている人達だった。
    「まあ君達は残るよね」
     あのやわらかい壁は何でさっき見せられたものは何か説明しろとすごく当たり前のことを言ってくる皆に愛抱夢は振り向く。大きく腕を広げるとうやうやしく頭を下げた。それから心底楽しげに笑って。
    「ようこそ、僕等の世界へ!」
     ととんと足を鳴らし、何故か俺の両手を握ると、
    「とはいえ一瞬だけだけど。君達にこれ以上は勿体ない、ではさようなら」
     言うなり身を低くとって駆け出した。本来ならすぐ対応出来るだろう皆がみるみる遠ざかる。思わず見つめれば愛抱夢はわざとらしく肩をすくめた。確かに隙を突くのはルール違反ではないけどさっきの言い方はどうかと思う、興味を持ってくれていたかもしれないのに。
     じっと合わせていると加速の影響で軽く愛抱夢の動きが乱れた。その隙に手を離して距離をとる。
    「さっきの。俺が勝っても有効だよね」
    「勿論。彼らじゃ僕には追いつけない。代わりに勝って謝らせてみたらどう? 良い子のランガくん!」
     飛び出した愛抱夢は大きく勘違いをしているみたいだ。
     まず俺は良い子ではないと思う。悪い人のたくらみに手を貸すどころか一緒に頑張ったならそれはもう悪い人だ。
     それに勝ったとして謝らせるつもりもない。謝罪は他の人の望みだろう。代わりに叶えるなんて考え、その人達が出来ないと決めつけているようで好きじゃない。大体まだ誰も負けていないじゃないか。誰も勝ってないんだから。
     けれど、どちらも訂正しようとは思わなかった。
     俺は良い子ではないけど、愛抱夢からそう見えているなら否定はしない。けど俺は、今の俺はだいぶ悪いなあと思う。それでこの勝負を仕掛けた愛抱夢は悪い人だし皆が参加できるようにしたいのだと語っていた愛抱夢は良い人だと思う。たぶんどっちかではないのだ。彼は俺達をひとでなしだと言った。それでもいい。けど、そこで終わらせるのは違う気がする。なんにでもなれるしどこへだっていこう。あなたが言ったように、俺達は何かだと主張したりしなかったり、そういうことだって出来るのだ。
     そして。
     謝らせるつもりは無いけど望むことはそこそこある。
     言って欲しい。あの日叫んでくれてから愛抱夢は一度もあれを言ってくれていない。難しい言葉を理解するのも嫌いじゃないけどわかりやすいとぽっと心が温まる感じがして良い。また聞きたい。君が好きだって、愛抱夢に言ってもらいたい。
     もしくは練習に付き合って欲しい。さっき愛抱夢と繋がった瞬間閃いたあれ、あれを形に出来たならきっともっとワクワクするようなスケートが出来る。そう確信している自分がなんだかおかしくてちょっと笑ってしまった。頑張って頑張って沢山のものを支払ってようやく果てに届いたと思ったらまたこれだ。ああ。俺全然なんにも知らない。今追い越した人のことも多分またすぐにわからなくなるだろう。頑張らなきゃなあ。あ、追い越された。手ごわい。
     先頭もこんな時間も多分思ったより早く過ぎていく。だからやっぱり頑張るのだ。どうせいつか終わりが来る、そんなふうに怯えて今を頑張れなくなるのはさみしいことだから。
     飛びながら上を向く。満月と目が合った。
     そうだ。あれがいい。いつかと思っているうちに言えなくなってしまったお願い。もう言ってもいいだろう。記憶は戻ったのだから。
     まだあの家に絵本は置いてあるだろうか。もしあったら膝に広げて、冷たくした瓶で乾杯したあと、ずっと考えていたんだよって伝えてみよう。
     ああ、想像だけで楽しいことばかりだ。
     どれかひとつ叶えるには勝たなければいけない。でも勝つって思っても勝てないから。滑ろう。今日も一番楽しく滑っていれば、楽しい日々もあとから付いてくる。
     もうすぐ半分。そこと、あと廃工場前にも何か仕掛けたって言ってたっけ。一体何だろう。流石に内容までは教えてくれなかった。でもこれから俺は沢山自分の心臓が鳴り響くのを聞く、ような気がする。なんとなく。
     また抜かれた。置いていかれないようにしなきゃいけないなんて広い世界は大変だ。でも、うん。楽しい。だから――行こう。
     滑りきったも愛し終えたも、言うにはまだまだ足りてないから。
     不確定な未来をそれでも願って。身体全部に力を籠めた。
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