櫻の下にはいずれ死体が眠る 夜の帳が下り、朝焼けの舞台が幕を閉じてから百余年。陽光という栄養素を得られなくなった植物はなすすべ無く枯れ果て、現在見られるものは日陰で生き延びることのできる一部の種と、人工の太陽光浴びて作られる極僅かなもののみとなってしまった。世界中で勃発した食糧問題解決の為、人工太陽光照明はそのすべてを食物栽培の為に使われている。
世界が昼を喪ってから生まれたロナルドは、なので植物というものを見る機会がほとんど無かった。枯れても痩せてもいない、太い幹と張り出した枝まで漲るような生命力を持った自然の木など、少なくともここでしか見たことがない。この魔都新横浜の中央に座す、常夜神社の櫻の大樹しか。陽の光もなく常に気温も低いこの世界で、この櫻だけはなぜか枯れることなく、しかも一年中咲いていて舞い散る花弁は尽きることはない。常夜神社の地下に埋まっている「なにか」の力を吸っているとも言われているが、真相は文字通り闇の中である。
疲労にずっしりと重たい体を引きずって長い長い階段を上る。頭上には常闇を貫いて櫻の大樹がそびえ立ち、その花は月の光を受けて淡く発光しているようにも見える。地面には終わりなく舞い散る花弁が降り積もり、まるで絨毯のようだ。ふかふかとした感触をブーツの裏に感じながら櫻の樹の下までたどり着いたロナルドは、太い幹に背を預けて座り込んだ。ふぅ、と細く息を吐いて帽子を脱ぎ傍らに置く。厚く積もった花弁のおかげで土に汚れることもない。この下には一体なにがいるのだろう、と指先で地を撫ぜた。
「こんなところでなく屋根のあるところで休みたまえよ」
ぞろり、胸から這い出した塵がロナルドを囲うように漂う。重たい腕を伸ばして指先で塵に触れると、答えるように、慈しむ様に塵が指先にまとわりついた。
「ここは吸血鬼がでねぇから、下手に屋根があるより気が休まるんだよ」
神域の為か、それとも櫻の魔力か地の底にいる「なにか」の力か、常夜神社に吸血鬼は少ない。ここにいる吸血鬼は自身の胸に埋まったこの心臓だけだ。遊ぶように塵を突いてかき混ぜていると、逃げた塵がたしなめるように頬を撫でた。
「桜の下には死体が埋まってるっていうよな」
「君はそんななりの割に文学に明るいね」
嫌味たらしい吸血鬼の煽りに羽虫を叩くように無言でばしりと塵を叩いて返答すると、一度ざらりと崩れた塵が怒りを表すようにぐるぐると忙しなく周囲をまわって抗議する。動きが愉快で思わず笑えば、満足したのかまたゆるりと漂い始めた。
「実際に読んだことはねぇよ。実物の本なんて貴重品だったし」
生きるだけで手いっぱいの世界では、娯楽や文化の優先順位はどんどんと下がっていく。それでもロナルドはわずかに残った文書や新聞を読むのが好きだった。文字を教えたのも、わからない言葉を説明してくれたのも、今は遠く離れた兄だった。
「お誂え向きじゃねぇか、櫻の木の下に心臓のない動く死人と吸血鬼」
「君は死人じゃない」
固い声が遮るようにいらえるのがおかしくて、ロナルドは思わず吹き出した。笑った拍子に体の節々が痛む。どうせ死体になったのならば、痛覚も疲労も感じなくなれば便利だったのに。一度そう零したら、胸の中の吸血鬼がかつてないほどに怒って大変だった。
「全部終わってお前にこの心臓を返したら」
胸元に手を当てれば、ヒトではあり得ないゆっくりとした心音が掌を叩く。塵は沈黙を貫いているが、不満げにゆらゆらと揺れている。アテレコするなら「しょうもないことを言うのだろうが、一応聞くだけ聞いてやろうではないか」といったところか。砂粒の蠢きだけで考えていることが分かるほどには、共にいる。その関係を、運命共同体とこいつは呼んだ。
「遺った体はこの櫻の下に埋めておいてくれよ」
相棒と呼んでも良い。運命共同体だって、本当は嬉しい。多くのものを喪ったこの戦いで、孤独じゃないのはお前がいるからだ。でも、それもいつか終わりが来る。昼を取り戻し、人間も吸血鬼も平和に暮らせるようになったら。ロナルドは心臓のない正しい死体に戻らねばならない。その時にひとりぼっちになるのは寂しいから、せめて常夜を知る櫻に寄り添うことを赦されたかった。
「神社の境内ど真ん中に死体を埋める馬鹿がいるかね。それが許されるのは神だけだ」
私は君を神にする気はさらさら無いよ、と呟くとまたぞろりと集まった塵が枯れ枝のような手のひらを形作り、ロナルドの鼻をきゅっと抓む。そのまま流れるように唇に触れた。頑是無い子供を慰めるような仕草でも、それは確かに口づけだった。
「子供はもう寝たまえ」
「子供じゃねぇわ。……2時間で起こせ」
冷たい風から、舞い散る花弁から守るように塵が広がる。やはり花吹雪なんかよりこちらの方が安心するな、と思いながら、ロナルドは束の間目を閉じた。まだ土の下には行けないのだ。