【燃晩】みをつくし あわい紅色の膜が、ふたりを世界から切り取っている。
天幕を降ろすように地へと落ちる雨の音と、四つの踵が青石を叩くちいさな音が響いていた。ひどい雨の日の早朝、いつもは多くのひとで賑わう無常鎮の街道からは、帰路を急ぐふたつの息づかいしか感じられない。
墨燃は、すこし先を歩く楚晩寧の背を静かに追いかけていた。薄い膜越しに見える世界はおぼろげで、輪郭の曖昧なひかりが流れては消えていく。ふたりの間に、特別な言葉はない。ただ照れくささのなかに仕舞いこまれた、いとおしさだけが存在している。なにかから逃れるように前を行く彼は、宿を出てからというもの一度だって墨燃を振り返ることはなかった。あいらしい後頭部がちいさく上下する姿が、視界の端でちらちらと揺れる。たったそれだけのことで墨燃の心臓は早鐘を打ち、その振動に促されるように、甘い蜜が胸の奥底からじわじわと染み出してくる。
手をつなぎたいな、甘い蜜で満ちた墨燃の胸中にそんな思いが過ぎった。
真白な広袖から、均整のとれたしなやかな指先が覗いている。骨は健やかに育った青竹のように伸びており、それを上からつつむ皮膚は陶器のようになめらかだ。昨晩、その白磁がみずからのどの部分に触れていたのかを思い返すだけで、墨燃は尾骶骨の上を紗布で擽られたような甘い痺れを覚えた。手をつなぐだけでは、たりないかもしれない。目の前を行く白い影をすぐにでも懐に閉じ込めてしまいたくなって、無意識のうちに持ち上げられた肘が空を掻いてはぴたりと止まる。
そんなもどかしい動静をいくばくか繰り返し、ほんのすこしの自制心が働いた指先が、楚晩寧の元へそろりそろりと伸びていった。楚晩寧のひだりの小指と、墨燃のみぎの小指が不器用に絡みあう。
「……!」
――びくり、としわくちゃな白衣が隠した両肩がちいさく跳ねた。
色の異なったふたつの指先が結ばれたさまは、まるで飴細工のように繊細でうつくしい。楚晩寧は睫毛の先をちいさくふるわせながら、薄くかたちのよい耳元を紅く染めた。彼はその絡みついた情の糸を振り払うことも、背後に視線を巡らせることもしないまま、白磁の小指で蜜色の小指をきゅっと握りしめる。
「……師尊」
「……」
焦げついた心臓で熱せられた吐息が、墨燃の喉から這いでてきた。どんな懇願をのせた声色なのか、墨燃自身にもよくわかってはいない。低く掠れた声が紡ぐ音の羅列は、呼応する音も得られないまま、あわい紅色の膜に溶けていく。弱々しく力が込められたのはほんの一瞬のことで、楚晩寧はすぐに指先をぱっと離してしまった。離れた指と指の間に、しめりけを帯びた生ぬるい風が通りぬけていく。墨燃の小指のつけ根はじんじんと熱を持ち、まるで細い糸が幾重にも、きつくきつく巻きつけられているような感覚がした。
あいらしい後頭部は、先ほどと変わらずちいさく上下に揺れている。白磁にそっと花をそえた薄紅色を見て、墨燃はあふれだしそうになる愛情を頬の内側で嚙みつぶした。
心地よい沈黙と雨音のなかを進み、ふたりは大きな橋の上までやって来ていた。その深い黒色の橋は、昨晩、墨燃が河灯を流した川の上にかかっている。
墨燃は吸い込まれるように川面へと視線をうつした。滔々と流れていく大河は、果ての海に向かってゆっくりと歩みを進めている。空や街の景色が川面にうつりこみ、慈雨に叩かれてはその姿を白い泡へと変えていった。景色が弾けた泡は、獲物にかぶりつく獣のような水流に飲み込まれていく。大河はすこしずつその水嵩を増やしては流れ続け、終わりなく繰り返される茫漠とした光景は、墨燃の胸中を満たしていた甘い蜜にじわりと苦い汁を落とした。
ふと墨燃の心臓の裏側に、足が竦むような思いがこみ上げてその柔らかな心臓をぎゅっと握った。彼はほとんど無意識のうちに、みぎの小指をきつく握りしめる。水底から這い上がってきた亡者のてのひらが、自分の腕を引っ張っているような気がしたからだ。絡みついた熱を落としてしまわないように、指先が白むほどしっかりと力をこめる。
墨燃は、楚晩寧から与えられた河灯を胸に抱いた時のことを思い返した。あわいあかりを川面に浮かべ、やさしいひかりが水中を照らしだした瞬間、かつての自分を水底に見た気がした。底の泥濘が舞い上がり、川面は薄く濁っている。その濁った水の膜を隔て、夢と現実がどうにもつながっているような感覚に襲われた。温度のない瞳をした、白く血色を失った自分がこちらに手を伸ばしている。
「――どうした?」
いつの間にか歩みを止めていたのだろう。不意に響かなくなった背後の足音に、どこかさみしさを覚えた楚晩寧はおもむろに声をかけた。低くここちよい声が墨燃の鼓膜を叩き、彼は泡が弾けたようにはっと顔を上げる。視線の先、真白な影が首をかしげて彼を見ていた。その表情はどうにも気まずそうで、鳳眼のなかに浮かぶ深い褐色はかすかにゆらめいている。
「……いえ、なんでもないです」
しかしその瞳は、まっすぐに彼の黒い影を映していた。瞳のなかに映りこむ自身を見とめただけで、墨燃は泣きだしてしまいそうなほどの安堵を覚える。蜜色の健康的な肌は、水底からこちらを見つめかえす彼とはまったく異なっている。この数年間でよく見慣れた、不安げな表情をした自分そのものだった。
墨燃はもう一度「なんでもないです、本当に」と舌先で言葉を遊ばせてから、情けなく眉をさげて微笑んだ。小指をぎゅうと握りしめたまま、彼は楚晩寧に追いつくために一歩を踏みだす。彼と楚晩寧の間には、楚晩寧がほんのすこし声を張らなければならないくらいの距離があった。しかし、あわい紅色の膜は寸分の狂いもなく、吹きつける風雨をさえぎるように白の上空を覆っている。
「……遅くなると、変に思われてしまうから」
「はい、ごめんなさい」
ひとつひとつ、足裏が地を踏んでいることを確認するように、墨燃は楚晩寧との距離を詰めた。楚晩寧は近づいてくる彼をじっと見つめ、最後に顎を上げて、自分の目線よりもすこし高い位置にあるおおらかで端正な顔を視界に捉えた。ぱち、と視線が交差して、うつくしい顔容に照れくさそうな皺が寄る。戸惑いが瞳のなかにゆらめき、それでもじわじわと花開いていくえくぼを眺めていた。楚晩寧は瞳を細めたあと、ふいと顔を背けて「行くぞ」とちいさくつぶやいた。
ひどい土砂降りにもかかわらず、周囲は不思議と明るい。先ほどと同じように耳元を紅くした彼は、墨燃の前を黙々と歩いている。ひかりを反射する真白な姿が、墨燃の瞳の奥をじりじりと灼いた。うるんだ眼窩に浮かぶ濃紫のまんなか、漆黒の瞳孔が、ひどく眩しそうにきゅっと絞られる。
――きっと今も、あの河灯は海に向かって泳いでいるのだろう。
どうか沈まないで、墨燃は心のなかでそう祈った。あわいひかりが冷たい水に飲み込まれずに済むのなら、この身体も魂もいくらだって傷ついていいと思った。
滔々と流れていく大河は、その全てを抱きしめて海を目指して旅をする。ひとも、時間も、思いすら、水面で花火のように弾けては水底に引きずり込まれ、大きな力で押し流されていってしまう。立ち止まることも出来ないまま旅を続ける、あまたの見知らぬ命のように。一度沈んでしまったものは、自分ひとりでは追いかけることだって出来やしない。墨燃は、痛いほどよくそれを知っていた。
昨晩、彼の思いをのせて見送ったひかりは、地府に向かったあの日の自分に重なって見えた。心細さをひた隠しにしながら、心臓にいちばん近いところに抱えこんだ灯火の、あわく胸に染みこむあたたかさを彼に思い起こさせた。きっとこれから、あの河灯はいくつかの激しい流れを越え、岩片や流木にぶつかり、無数の支流と待ち合わせをしてはまた流れていくのだろう。幾度となくそれを繰り返し、何度も沈みそうになりながら、やがて、慈雨に薄められた川底の水を伴って広い場所へと辿りつく。
そしていつか、朝陽が照らす果てのない水平線を、眺めることが出来たらいい。
墨燃はそう思いながら、真白な影を静かに追いかけた。
了