【燃晩】恐怖!黒パーカーの怪異「……晩寧?」
あと十数分で日付が変わろうとしている時分、アルバイトを終えてようやく帰宅した墨燃を出迎えたのは、しん、とした静寂に満ちた室内だった。普段であれば帰ってきた墨燃に抱き上げられることを、玄関の前でそわそわと待っている白い彼の姿がない。「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を大切にする白猫は、ねむっていても窓ガラス越しに虫を追いかけていても、墨燃を見送りそして出迎えることを欠かさないというのに。
「晩寧! わんに……あれ?」
急激に心臓が冷えていくのを感じて、墨燃は大きな声で晩寧を呼んだ。しかし次の瞬間、はたと瞳を瞬かせる。今日の朝、家を出る前にベッドの上へと放っておいた黒いパーカーが不自然に蠢いていたからだ。それはまるで意志を持ったようにひとりでに動き出し、さらには激しく暴れまわっているように見える。黒いパーカーが縦横無尽にびよんびよんと伸び縮みしている怪奇現象に唖然としていると、その裾から白くしなやかな尻尾が覗いているのが見えた。
「……! 晩寧?」
墨燃は目をまるくして急いでベッドまで駆け寄った。おかしなことになってはいるが、晩寧がちゃんと部屋のなかにいたことにほっと胸を撫で下ろす。どうやら白い彼は墨燃の置いていったパーカーのなかにもぐりこんでいたようだ。
「ま、待って! 今とってあげるから」
暴れまわる黒い塊に手を伸ばす。墨燃の指先が触れた瞬間、その塊はぴたりと動きを止めた。一拍も置かないうちに「なぅん……」とどこか気落ちしたような掠れた声が聞こえてきて、墨燃は驚きを表現したまま固まっていた表情をようやくゆるめた。
自分の帰宅に気がついて慌てて飛び起きたときに、うっかり絡まってしまったのだろう。晩寧は警戒心が強く賢い猫であるが、稀にこういったおかしなことをする。そんな一面が、墨燃にとってはかわいらしくて仕方がない。
「急いで起きようとしてくれたの? ……あっ晩寧、そっちじゃないって」
絡まっていたパーカーが墨燃によってゆるめられ、身動きが取れるようになったのか晩寧がごそごそと動き出した。襟もしくは裾から出て来てほしいという墨燃の思いとは裏腹に、晩寧は袖口に向かってずんずんと突き進んでいく。そっちじゃ出られないよと声をかけようにもすでに遅く、晩寧はその小さな顔をひょこりと袖口から出した。
「……ぶふ、い、芋虫みたいになってるよ?」
晩寧は狭い袖口につぶされた顔を顰めながら、なおん、とひとつ強く鳴いた。まるで怒りながら「おかえり!」と言っているようだ。墨燃は堪えられそうもない笑みを頬の内側で必死に噛み潰しながら、やわらかく答えた。
「ただいま、晩寧」
了