ようこそ! ここは君の家 2(ENN組同軸リバ) 十数年振りのベッドは質の高いもののようだったが、ナワーブは早くも居城の棺桶が恋しくなった。
ナワーブはいつも通り夕暮れ時に起床すると乱れた髪を整えてゲストルームを出た。わざわざ辿らずとも分かる強い吸血鬼の気配は、ノートンではなくイライのものだろう。それを頼りに家の中を進む。
どこにでもあるレンガ造りの家だった。ナワーブは外から見たこの家のことを思い返す。そして改めて自らの足で歩いてみたその中は、牧歌的な見た目を裏切らない程度の平凡さを内包し、ナワーブの居城に比べてしまえば極めてこじんまりとしている。
行き着いた先のドアを開ける。そこは元々分かれていたキッチンとダイニングを強引に繋げたような部屋だった。
中央に置かれたテーブルには、正面に椅子が一脚と左右に二脚ずつ。そしてその正面の席にはイライが腰を掛け、タイル張りの壁に沿って作られたキッチンにはノートンが立っている。
ナワーブは部屋の隅の窓から差し込む夕日が眩しくて目を細めた。
「おはよう。よく眠れたかな?」
イライが朗らかな声で言う。勝手にドアを開けて部屋に入り込んだものの、その顔を見るにまるで気にした様子はない。
ナワーブはちょっと迷って口を噤んだ。確かにゲストルームのベッドは枕もふかふかでマットレスの厚みも十分だった。しかしカーテンを閉め切っていたにもかかわらずぼんやりと差し込む日の光のせいで、今日のナワーブは少々寝不足だった。
「ええ? こんな時間に起きたんですか、この人」
その内にキッチンでコンロに向かっていたノートンがナワーブを見る。その声色は不可解でしかないと言っているようだったが、ナワーブからしてみればそんなことを言われる方が心外だった。
「何もおかしくはないだろう。人間じゃあるまいし」
吸血鬼とは、夜と共に生きる者である。日の光を嫌い──といっても、それを浴びたところで直接命に関わるわけではないのだが──日の入りと共に一日を始める生活スタイルが、ナワーブにとってのスタンダードだ。
そして古来より、吸血鬼の多くはそのようにして生きてきた。
ノートンが目を瞬く。その赤い瞳が少々不躾なくらいナワーブを見る。
「うわあ。この人、"吸血鬼"みたい」
何を言っているんだ。ナワーブはそう思った。
そしてその思いは言葉にするよりも先に顔に出ていたらしい。ナワーブが口を開き掛けたところで、はははとイライが笑う。
「ここは人里も近くてね。日用品の調達に彼らの街へ出ることも多い。だから私達も、もう何年も日の光と共に生活をしているんだ」
その言葉に、ナワーブは僅かに目を見開いた。
人間に混じって生きることを選んだ吸血鬼の中には、日の光と共に生活する者も少なくないと聞く。しかし長らく一人で暮らしていたナワーブが、実際にそうしている者を見るのは初めてだった。
「もちろん君にもそうしろとは言わないよ。ただ、明日だけは昼時に起きてもらえると嬉しいな。君の生活用品の調達をしないといけないからね」
そういえば着の身着のままここへやってきたことを思い出す。ナワーブは少し考えて、それから頷いた。
「じゃあせっかく三人揃ったし、夕食にしようか」
イライが口元に笑みを浮かべる。しかしその目元は相変わらず黒い布で覆われていて、腹の底は知れないままだ。
昨日より疲れの抜けた頭はナワーブに少しの警戒心をもたらした。
伯爵の紹介なら、自分に害をなすようなことはないだろう。ただ、よりにもよって"あの伯爵"の紹介なのである。穏和な口振りをしてはいるが、こいつもまともであるはずがない。
そんなナワーブの視線を遮るかのように横から伸びてきたノートンの腕が、目の前のテーブルにいくつもの料理を手際良く並べていく。
「ええと君は……サベダーさんは、普段は何を食べているんだろうか」
相変わらず笑みを浮かべたままイライが続ける。
「……ナワーブでいい。最近はほとんどぶどう酒だ。昔のように人間を城に招くわけにもいかなくなったからな」
時代の変化というやつである。ナワーブも昔は居城を囲む森に迷い込んだ人間を時折居城に招き、もてなし、その対価として血液を得たものだった。しかし吸血鬼という存在が周知され、人間と正式に和平を結んで以降、今やそれは過去のものとなった。
「へえ、とことんステレオタイプだな」
ぼそりとノートンが言う。ナワーブはその顔を睨むでもなく見たが、勢いよく逸らされる。どうやら昨日の一件で随分と嫌われてしまったらしい。
いつの間にか目の前のテーブルには隙間がないほどたくさんの料理が並べられていた。しかしそれはどれもナワーブにとってあまり馴染みのない人間の食事であった。
「よし、今日は久々にぶどう酒を開けようか! ノートン、セラーから好きなものを持ってきていいよ」
「やった! 高いやつ開けますね!」
頷くイライに、ぱっと顔色を明るくしたノートンが部屋から駆け出す。
「良ければナワーブも座ってくれ。何か食べられるものはあるだろうか」
「普段から食事はこうなのか?」
"こうなのか"とは、人間と同じ食事を取っているのかという意味である。近年伯爵が好き好んで何だかよく分からないものを食べているのは知っていたし、一部の吸血鬼達も食事の様式が変わりつつあることは聞いていた。しかしそれを目の当たりにしたのもまた初めてのことであった。
「そうだね。私も昔は君と同じだったけれど、ここ数十年はずっとこうしている」
イライはどこか遠くを見るような素振りをみせて、それからもう一度ナワーブに顔を向けた。
ナワーブは五人掛けの座席の中から一番近い左側の席へ腰を掛けた。テーブルに並んだ色とりどりの皿に乗った料理は見慣れないものでありながらどこか懐かしい匂いがする。ナワーブは、すんと鼻を鳴らすと、もう随分と遠い昔に人間をもてなすためにキッチンに立った在りし日のことを思い出した。
ばたばたと足音が戻ってきて、部屋の扉が開く。
「高そうなやつ持ってきました」
扉の奥から飛び込むように入ってきたノートンは、両腕を使って三本もぶどう酒のボトルを抱えている。
「いいね。じゃあその右手のやつから開けようか」
イライが席を立つ。ナワーブは椅子に掛けたまま二人がぶどう酒をグラスに注ぐところを見ていた。
供されたグラスを回す。それは上等なものらしく、食前酒にするには少し重めの深い樽香がする。
「じゃあ乾杯」
「乾杯!」
席に着くや否やグラスを掲げたイライにノートンが続く。
ノートンはイライの隣に腰を掛けて機嫌良くグラスを傾けると、香りを楽しむでもなくすぐに中身を空にした。そしてどうやらボトルを手放す気はないらしく、休む暇もなく手酌でグラスにワインを注ぎ足している。
ナワーブは改めてテーブルの上に並ぶ料理を見た。平皿には魚の燻製に肉のローストにプディング、何だかよく分からないパイの包み焼きやサラダ、そしてボウルにはフルーツたっぷりのトライフル。
「たまに私も作るけど、ほとんど毎日朝昼晩とノートンが作ってくれてるんだ。おいしいよ」
イライが見ている。
「この人、全部薄味だから嫌なんですよ。たまに変なもの作るし」
早くも三杯目を注ぐノートンは酒が入っているからか、言葉の割に機嫌が良さそうである。
ナワーブは皿の前に雑多に並ぶカトラリーからスプーンを掴むと、一番当たり障りのなさそうなトライフルを少量掬って口に運んだ。
「ね。案外いけるだろう?」
イライが見ている。
口の中の柔らかいそれを咀嚼する。
砂糖の甘さの中から酸味の強いフルーツの味が舌の上で踊った。
「まあ……思ったよりは、食べられる」
「誰も無理に食べてくれなんて頼んでませんよ」
口の中のものを飲み込んで頷く。そして挟まれた小言に視線を返せばやはり逸らされる。しかしその手は早くも二本目のボトルからコルクを抜いている。
「……うまかったよ」
少し選んで発した言葉に返事はなかった。困ったナワーブは視線でイライに助けを求めたが、イライは気にした様子もなく始終にこにこと口角を上げてこちらを見ていた。
夕食を終えてラウンジに場所を移すと、イライは泥酔してソファーに沈んだノートンにブランケットを掛けた。結局全てのボトルを空け切ってしまったぶどう酒はほとんどノートンの腹に収まったわけだが、イライもいつも以上に陽気な気分になれるくらいにはほろ酔いだった。
ナワーブもイライ達に合わせてごく少量の食事を取って、少しのぶどう酒を飲んでいた。イライにしてみればそれは少な過ぎるくらいではあったのだが、昨日に比べ顔色も良いところを見れば問題はないのだろうと結論付けた。
「上手くやっていけそうで良かった」
イライは心の底からそう思っていた。しかし、この家の新しい住人は、そうは思っていないらしい。
それでもイライが笑ってみせれば、ナワーブは更に怪訝な顔をする。どうやら彼は気付いていないようだが、恐らく彼は彼自身が思っているよりも思ったことが顔に出やすい性質らしい。
薪を焚べた暖炉からは、ぱちぱちと炎の弾ける音がする。
「なあ」
暖炉横の一人掛けのソファーで急に口を開いたナワーブが、膝の上で指を組みながらイライを見る。
「何かな」
「どうしてこんなところに二人で住んでいるのか、聞いてもいいだろうか」
ナワーブが疑問に思うのも無理はない。イライはそう思った。
イライは由緒ある吸血鬼の家系に産まれた、いわゆる"普通の吸血鬼"である。イライは吸血鬼としての地位も能力も高い部類ではあったが、その地位や能力というものは基本的に血統に依存する。だからそれは当たり前であったし、何ら不思議なことではなかった。
一方のノートンは、吸血鬼の間で"流浪者"だなんて呼ばれる部類の流れ者だ。彼らはほとんどの場合、自分の出自もよく分からず、必死に日々を凌いで生きている。そういった者達は基本的に地位も能力も低く、より強い吸血鬼に捕食されてしまうことすらある。
高位の吸血鬼の中には、そんな流浪者を召使いとして使役する者もいる。そしてごく稀に存在する高い能力を持った流浪者を、自らの血族として迎え入れることもある。
ただイライにとってのノートンは、前者にはみえないだろう。そしてノートンの能力は、イライが血族として欲するには、吸血鬼であれば誰が見ても分かるほど不十分だった。
イライはどこから説明したものかと考えて首を捻った。
その内に窓の外から、微かに鳥の羽ばたく音が近付いてくる。
「まず、そうだな。私達は二人ではなく三人だ」
イライは窓辺に向かうと、台形に突き出した出窓に身を乗り出して下開きのガラス戸を押し上げた。
「お帰り」
そこに羽ばたきの音と共に舞い込んだのは、イライの友人であり血族でもある梟だ。イライは肩に止まった彼女が嘴に加えた封筒を受け取ると、その頭を撫でて暖炉の横の止まり木へと下ろした。
「配達ありがとう。彼はナワーブ。昨日からこの家に暮らすことになったよ」
彼女はナワーブを見ると短く鳴いた。
どうやら彼女にも異存はないらしく、イライは胸を撫で下ろす。それからイライは受け取った封筒を胸元にしまい込むと、もう一度ナワーブへと向き直った。
「話せば長くなるが、元々この家は私の大切な友人に譲り受けたものでね。それからずっと彼女と二人で暮らしていたんだが……ここ、私と彼女だけで暮らすには少し広過ぎるだろう?」
「それで流れ者を拾うとは、随分とお優しいんだな」
「いや、それについては事故というか……」
イライはノートンとの出会いを思い返すと、続きを言葉にするのは憚られて頬を掻いた。
「ある雨上がりの日に家の周りの森を散歩していたら、目に見えて弱っている彼が転がっていて……放っておいても死んでしまうだろうからと持ち帰って洗ってみたら……こう……愛着が湧いてしまったというか……あはは」
吸血鬼は血縁を大切にする。だから血族の危機にはほとんどの場合手を差し伸べるが、同族というだけで仲間意識を持つということはまずないというのが一般的である。
「……思っていた以上にお前らが行き当たりばったりなのはよく分かった」
ナワーブが何とも言えない顔をする。
「分かってもらえて嬉しいよ」
イライが笑えば、ナワーブが呆れたように息を吐く。
イライは暖炉に薪を足すと、ナワーブの向かいのソファーに腰を掛けた。
「ナワーブはどうしてここへ? 伯爵に言われて、というのは分かるが、君にも家があっただろう?」
それは純粋な疑問だった。人間と対立していた以前であれば、吸血鬼狩りで城に火を放たれるだなんて恐ろしいことも考えられたが、近年においては吸血鬼が家を追われる事情など、考える方が難しいのだ。
しかしイライは、そこでナワーブの表情が険しくなるのを見る。
「すまない。言いたくないことは言わなくていいんだ。では、どうしてあんなところに倒れていたんだい?」
昨日ナワーブは、イライの聞くところによると玄関の前で倒れていたらしい。
「吸血鬼は、招かれていない家には入れない」
ナワーブが言う。
その声色は真剣そのものだった。
「……なるほど」
イライは頷いた。
──なるほど。これは呪いだ。