後天性女体化の蘭みつ♀ありえない事なんてありえない。
三ツ谷は先ほどから頭の中で反芻している。
今自分の身に起きている事は紛れもなく“ありえない”事なのに、現実に起きている。
ありえない事なんてありえない。
そう思う事で、心の平静さを保とうとした。
病院に行くのは却下だ。前代未聞の症状で、研究材料になったら堪ったものではない。
◇
朝起きた三ツ谷は自分の身体に違和感を覚えた。胸が重い。何かの病気になったのか、確かめるべくベッドから起き上がった。胸が揺れている感覚がして訝しがって視線を下ろすと、パジャマ代わりに着ていたシャツが、胸の部分で盛り上がっていたのだった。
──は?
一瞬まだ夢の続きでも見てるのかと思ったが、頬をつねったら痛い痛い。
恐る恐る服の上から触れると、柔らかい質量が存在感を感じさせながら揺れた。触っている感触と触られている感触に、否応がなくその膨らみが自分の身体の一部だと感じさせられた。そしてそれは、女性の胸だと理解した。
──……嘘だろ?
じかに触って、あるいはシャツを脱いで目視して確認した方がいいかもしれないが、勇気が湧かない。まさかと股に手を当てると、なんと大事なモノがついてなく、普段冷静な三ツ谷も事の重大さに声を張り上げてしまった。どうしていいか分からない。
元東京卍會弍番隊隊長たる者が、こんな事で怯んでどうすると喝を入れたくなる。三ツ谷は女子にモテるが彼女いない歴=年齢で、女性経験皆無だった。女子たちが好む要素を集めたようなイケメンで、その気になれば簡単に童貞卒業できるスペックを持っているものの、女性と軽々しくお付き合いする気はなく、告白されてもやんわりと断っていた。女性に恋愛感情を抱いたことがないのも、彼女がいない原因だ。
女性の裸にも興味はなく、自分でも淡白だなと驚くくらいだ。ある日突然女の身体になって信じられないが、その身体を性的に観察したいと思わないし、例えば親の裸を見るような、生理的に受け付けないものを感じた。
──参ったな。だけどなんとかなるだろう。
ポジティブ思考の三ツ谷は気持ちを切り替えることにした。
不幸中の幸いか、今は夏休みで三ツ谷はひとり暮らしを始めたばかり。それまで知り合いに会わなければいい話。もし学校が始まったら、その時はその時で考える。
いきなり女体化したのだから、いきなり元に戻るという事も十分あり得る気がした。なんと言っても、ありえない事なんてありえないのだから。
とりあえず冷蔵庫の中に食材がないので、買い物に出かけることにする。
サラシは持ってなかった。幸い三ツ谷は将来デザイナーになるべく服飾関係の専門学校に通っていて衣装作りが得意。余っている布を取り出して簡易的なブラジャーを作り、街に繰り出した。
◇
三ツ谷は、注目を浴びる容姿をしていて、いつもは周囲の視線など全く気にならないのに、今は、あられもない格好をして外を歩いているような羞恥と緊張感が押し寄せてきている。
自然と俯いてしまうが、知り合いに会わなければ大丈夫だと心を落ち着かせる。
鏡で顔を確認したら、いつもより多少目が大きくなり、まつ毛の量も増えた気がするものの、あまり変わりなかった。知ってる者が見たら多少違和感を覚えるだろうが、女になったとまでは思わないだろう。ただ、声もいつもより高くなったし、自称170センチの身長は、自称170センチと言えないくらい低くなった…気がする。だから三ツ谷をよく知る者が三ツ谷を見れば、只ならぬ異変に気付いてしまうかもしれない。しかし知らない者が見たら、男のような格好をしている女子にしか見えないだろう。いっそ、女性の服を買って着た方が知り合いに気付かれない気がするものの、服を買うのに抵抗があるし、自分で作ろうという結論に達した。夏休みの課題も片付けられ一石二鳥でもある。スーパーに行く前に布を買おうと、知り合いに会わなそうな駅で降りた。
そのことで、存在すら忘れていたかつての抗争相手に会うことになるとは、その時は思いもしなかった。抗争相手と言っても、三ツ谷は襲撃されて抗争に参加できなかったのだが。
「みーつーやー」
誰かに名前を呼ばれた。
楽しそうに弾んだ男の声。初めは心当たりはないと思って、振り返ってギョっとした。
──灰谷蘭
かつて六本木を拠点としていた灰谷兄弟の兄。その後天竺の四天王になった、喧嘩は強いが武器も使う卑劣な男、というのが三ツ谷の印象だった。今はどこに所属しているのだろうか。
かつて抗争前に不意打ちでコンクリートブロックで頭をかち割られた。その時背後に感じた不気味な気配は今でも忘れない。不覚だった、地面に倒れて何もできなかったのは屈辱的だった。
もう二度と会う事はないと思っていた相手が、仲の良い知り合いのように話しかけてきたのにはビックリだ。
「三ツ谷ぁ、なんで無視するんだよ?顔を逸らすなよ?」
嫌な予感がして、関わってはいけないと、聞こえないふりをして、来た道を引き返そうとした。しかし、蘭は逃すつもりはないらしい。
「待てよ、冷たすぎない?」
拭いきれない澱んだ執着が全身に纏わりついてくるような不快さを覚えた。
この男は、自分の行いを忘れてしまったのだろうか。
誰ですか?と知らないふりをしようと思うも、いつもより高くなってしまった声を出したくなかった。だけど無視しようにも、蘭は馴れ馴れしく肩を抱いてきた。
運が悪すぎる、よりによって女性になってしまった日に、なんでこんな碌でもない男に絡まれないといけないのだと、心の中で嘆きつつも、三ツ谷は思った。
蘭と会ったのは数えるほどで、自分のことをよく知らないはず。背が男性の時より低くなってしまったことも、声が高くなってしまったことも、元々中性的な顔をしていたものの、より女性的になってしまったことも。それに胸が目立たない服を着ているのもあり、胸があるのに気付いていないようだ。だから無視してしつこくされるより、会話に応じて適当にあしらって別れた方がいい気がしてきた。
「……やあ偶然だね。随分と久しぶりだよね、なんでオレだって気付いたの?」
声を低くするように心掛けて、平静さを装って話しかけた。
「三ツ谷って言ったら銀髪じゃん。目立つよな、その頭」
「──っ!」
まさか銀髪が仇になるとは思わなかった。確かに街ゆく人に銀髪は滅多にいないし、とても目立つに違いなかった。
「……はは、そうか。アンタもあのときと同じおさげで、すぐに分かったよ」
「ふーん、覚えてくれてたんだな」
先程までの馴れ馴れしさはどこへやら、蘭はつまらなそうに呟いた。おさげがトレードマークの端正な顔の男の無表情は、氷のような冷たさを帯びている。
「それにしても三ツ谷って、こんな女みたいな顔してたっけ?髪が伸びて雰囲気が変わったからか?」
先程まですましていたが、ふと興味深そうに背中を曲げて、顔を覗き込んできた。かつて感じた悪寒が背筋を這い上がった。
警鐘が鳴る。
この男は危険だと本能が告げる。
しかし身体が思うように動かず、気づいたら手袋をした手が頬に触れていた。
「なーに、怯えてんの?可愛いな」
人を小馬鹿にしたように、くすくすと軽やかな笑いを浮かべる蘭。
三ツ谷は女になったのがバレたらどうしよう、いや、バレるはずない。と、恐怖から身体が震えそうになるのを必死で抑えた。何か言い返さないとと思うものの、喉は凍りついたように固まり、浅い呼吸だけが喉を行き来するばかりだ。
自分が男のままであれば、このような恐怖を覚えることはなかった。なのに、今はまるで男性恐怖症になってしまったかのように、目の前の男が怖いのだ。
蘭は、三ツ谷が女になったことに気付いた上で、わざと“女みたい”と揶揄った訳ではないだろう。なのに言葉の裏に不穏で冷たい狂気が潜んでる気がしてしまう。
選択を謝ってしまった。蘭と話すべきではなかった。無視するに限る、だったのだろう。
「じゃあ、オレは急いでるから、この辺で」
蘭の言葉に反応するのをやめ、肩を抱く腕を振り解いて離れようとしたが、「まだ話そうよ」と言う蘭に引き寄せられた。
「前から話してみたいと思ってたんだよ」
甘く穏やかな声色で耳元で囁かれてゾクッとした。微笑を浮かべているが、目が笑ってない。優しい口調なのに、有無を言わせないような支配的なものを感じる。
蘭の手が何かを確かめるように徐ろに動き、三ツ谷の瞳が次の瞬間大きく見開かれた。
「っ、何をするっ!」
離れたいのに、力強い腕に囚われてしまっている。
「……やっぱり」
氷のように冷たかった瞳が、欲に塗れた淫らな光を帯びた。そんな淫靡な瞳の中に、怯えた自分が捕まっているのがハッキリと見えた。
「三ツ谷は、女の子になっちゃったんだね」
「〜〜っ!」
薄ら笑いに、戦慄がぞっと全身を駆け巡った。
鼓動は激しさを増すばかりで、なぜバレたのか分からななくて、不安ばかりが積もっていく。
蘭とはあまり会ったことがない上、数年ぶり。僅かな変化を感じたとしても、女性の身体になったとまでは思わないだろう。名探偵なのか、異常なほどの鋭さで見抜かれ、漠然とした不安が押し寄せてくる。かつて容赦なく頭をかち割った男。混沌とした意識の中、卑怯だが許せと微かに聞こえた気がする。それでも彼が卑劣なのには変わりなく、女とバレた今、何をされるか分かったものではない。
胸を触られた…幸い服の上からだけど、密着した状態で何されるか分からなくて、額から嫌な汗が流れた。夏なのにトレーナーを着ていて暑いからではない。
「怖がらないでよ。レイプする訳じゃないし」
して欲しいなら、してあげるけど?と誘惑するような笑みはどこか歪んでいて、揶揄われてるようにしか思えない。もしくは何か悪いことを企んでいるのかもしれない。
「なんで三ツ谷が女になったことに気付いのたか、警戒してる?実は知り合いに同じような症状になった者がいてピンと来たんだよ。オレは解決策を知ってるから協力してやってもいい。三ツ谷は運がいいね」
背後から耳元に甘く囁かれる。蘭に背後を取られた時の恐怖を身体が覚えているようで、その言葉は救いかもしれないのに、三ツ谷は小刻みに震えるばかりだ。想像以上に心に傷を残したのか、蘭を信用できないのだ。
「知りたくないの?オレなら三ツ谷を元に戻せるんだけどな」
「……いいです。帰してください」
「釣れないなぁ。だけどオレは三ツ谷を放っとく事ができないから、特別に教えてやるよ」
結局三ツ谷の気持ちは関係ないようで、蘭は三ツ谷を後ろから逃げれないように抱きしめた。吐息が耳朶を擽り、肩がピクっと跳ねた。
「男とセックスすれば元に戻れるんだよ。不思議だろ、どういう原理なんだろうな。避妊はなしな、男の精液に女になった身体が拒否反応を起こすのか、数時間後に男の姿に戻れるんだよ」
「っ!?」
三ツ谷は衝撃を受けた。信じられないが、同時に蘭に揶揄われていると思った。
都合の良い相手だと性処理する気か、おそらく抱かれても元に戻らない。裸の写真を撮って弱みを握って脅す気か、肉体関係を強要するかもしれない。いや、蘭はそこまでゲスではないだろし、そう思うのはいくらなんでも失礼か。しかしやはり素直に信じられないし、応じるつもりはない。
「三ツ谷、かつてオマエに酷いことした罪を償いわせてくれないか。あの時は卑怯な真似をしてすまなかった」
蘭が唐突に頭をかち割った時のことを謝ってきた。しかし三ツ谷には、言葉を舌先でなぞるだけの軽い謝罪に思えた。
「………。ありがたい申し出だけど、断るよ。離れてくれない?」
蘭は三ツ谷を刺激したくないのか、素直に拘束を解いた。すぐに三ツ谷は1メートルほど距離を取った。
「待って。どうする気だ?友人に頼む気か?後々気まずくなるだろ、オレは無償で協力するし、その場限りで後腐れなくておススメだよ」
余裕だった口調に焦りが見られ、どうやら蘭は本当に三ツ谷が女だと確信しているようで、抱けば戻ると思っているようだ。
三ツ谷の脳裏に3人の男が過ぎった。
柴大寿…聖夜決戦後、意外にも気があって仲良くなった、兄同士で気安い友人。八戒の兄。
柴八戒…腐れ縁で、たまにドン引きするくらい自分を慕ってくれている弟のような存在。
龍宮寺堅…1番古い付き合いの友人、東卍時代背中を追っていて、今でも尊敬している。
彼らなら、もしかすると協力してくれるかもしれない…が、気まずくなりたいし、頼めない。それに、女体化した姿を見せたくない。知られたくない。蘭の言う通り、蘭がベストなのだろう。
蘭に頼みべきか、だが蘭は危険な香りがする。頼んだら、会話した事を後悔したように、再び後悔する事になるかもしれない。今度は取り返しがつかないくらいに。そう警鐘が鳴り響くものの、女として見るのならば、蘭はその場限りの相手としては、充分すぎるほど魅力的に映った。本来ならば、手が届かない相手なのかもしれない。しかしながら、嘘か本当か分からないし、三ツ谷は貞操観念が硬い。お願いします♡なんて言える訳がなかった。
「戸惑ってるのか、三ツ谷は今夏休みだろうし、急ぐ必要はないか。いつでも喜んで協力するから、気が向いたら連絡して」
蘭は警戒する三ツ谷に連絡先を渡すと、またねと言い残し颯爽と帰って行った。
後ろ姿のまま手を振る蘭が、3歳年上とはいえ、妙に大人びて見えた。
呆然としてしまった三ツ谷だが、家に帰り、トイレやお風呂に入った時、絶叫して、固く決意するのだった。
迷ったり悩んでる場合ではない。
セックスしたくないなんて言ってられない。
性急に元に戻してもらわないといけない。
大寿くんか、八戒か、ドラケンか……1番得策な相手だけど気が進まない蘭か。
セックスしたら元に戻る。
真偽は分からないものの、完全に蘭の言葉を信じてしまっている三ツ谷だった。
終