アスファルトの上に漂う陽炎と
「過去最高」を繰り返すニュースのキャスターが熱中症にならないように注意を呼びかけていた。
静かな音楽の流れる涼しい店内には、客の姿は少ない。
革靴が歩き回る音が響き、きっちりとアイロンのかけられた美しいスーツだけが
汗まみれになりながら表の通りを歩く人々を達観しているように見えた。
オーダーメイド製作が売りのこの店で、吊るしのスーツを買う客は少ない。ましてやこの季節だと余計にだろう。
物作りがしたい欲求のみを燻らせながらも、夏用シャツや爽やかな色合いのネクタイをダンボールの中に眠らせておく訳にはいかず
通りに面したディスプレイゾーンに並べている時だった。
ふとこちらを見る視線に気づき顔を上げる。
暑いガラス越しに見る街は、眩しい
夏の日差しが爛々と地面を焦す中に、1人誰かが店の前に立っていた。
整った顔が、驚きで徐々に目が見開かれていく
滲んだ汗の粒がするりと落ちていくのが、なぜかスローモーションのように見える。
身長は高く、それに見合った体格に白い清潔感のあるシャツが映えていて
世間一般にいう「男前」はまさにこの顔のことを言うのだろう
それほどまでに、綺麗に整った顔が、分厚いガラス越しにこちらをただただ見ていた。
しばらくお互い何も言えずに見つめ合ったあと
はっと我に帰ったのか、男はそのまま店内に入ってきた
涼しげなドアベルの音が響き、それと同時に
「シキ」
そう自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
それはひどく懐かしいような、知っているような初めて聞いたような
不思議と心地よく、真っ直ぐ自分の元に届いた。
胸の奥が急に苦しくなり、声が詰まって答えられない
代わりに不思議そうな顔で「いらっしゃいませ」と答えた同僚が
革靴を鳴らしこちらに歩み寄って、軽く自分の肩を小突く
はっと我に帰り、なぜか泣き出したいような嬉しいような不思議な感覚に戸惑いながら
「いらっしゃいませ」と笑えば
名前も知らない相手は、一瞬酷く傷ついたような表情を浮かべ
それを疑問に思う間も無く、にこりと人当たりの良い笑みをこちらに向けた
「急にすまない、こんな時期だが……仕事用に新しいスーツを新調したくてな!!」
「そ、うなのですね!ではお時間が大丈夫でしたら、こちらで説明いたしますが」
この仕事に就いてから、何度も繰り返した台詞と共に、応接スペースに促すが、彼は軽く首を振って持っていた鞄を少し漁りはじめた。
「店内に入っておきながら申し訳ないが、今日は少し時間が取れなくてな。また改めて来させて頂きたい」
名前と共に丁寧に差し出された名刺を受け取る。名刺に書かれた文字を頭の中で何度も反芻する
その間に、パニカと名乗った彼は、他の店員に礼儀正しく会釈をしながらも
もう一度、真っ直ぐこちらを見てにこりを笑ってみせた。
「次、来るときに色々具体的な事は相談させてもらおうと思うが……」
その笑みに、心臓が高鳴る音が聞こえた。
締め付けられるような、むず痒いような感覚に戸惑いながらも、こちらを見るその視線から、目が逸らせない
「君に、俺のスーツを作ってもらいたい」
低く穏やかな声に、ゾワリとつま先から頭の先まで電流が駆け巡る
何か返事をする前に、背を向けあっという間に店を出て
人混みに紛れ消えていく彼をいつまでも目で追い、惚ける
「誰だ?あの人」
成り行きを見守っていた同僚が、訝しげな目でこちらを見る
「わかんない」
そう返すが、ずっと胸のどこかに引っかかっていたものがポロリと涙になって溢れる
「わからない……」
なんでか、今すぐ彼を追いかけて走り出したい気持ちに駆られる
けれども脳裏で流れる、一瞬見せた彼の傷ついたような表情に
涙が止まるどころか、ますます溢れて止まらなかった。
同僚の慌てふためく声を聞きながらも、去っていった彼の名前を頭の中で繰り返し繰り返し呼び続けた。
わからないけど、知っている
それは、とある夏の日の話だった。