雨の日、放課後、紙の森 晴れていたはずの空はあっという間に暗くなり、隙間がなくなり、やがて滴が落ちてきた。見る間にその振り方はポツポツ、からサアサア、そしてドウドウ、へと変わっていく。グラウンドから引き上げてきたのだろう運動部員たちが玄関を賑やかしている。
今にも下校しようとしたタイミングで、外を見ながら途方に暮れる。
「……雨、だな」
「雨ですねー」
ゲリラ豪雨は予測がつかないから厄介だ。俺もリンドウも傘を持ってきてない。いつもの調子で黒い端末を覗き込んだリンドウが、え、と声を上げる。
「電車、雷で止まってるって」
「まじ?しばらく帰れないじゃん」
「……あ、じゃあさ」
スマホから顔を上げて、伺うように提案してきた。
「雨が止むまで図書室で待たね?」
図書室は玄関がある棟の反対側、3階の一番端にあった。出遅れた生徒たちが溜まった廊下を渡り、リンドウの後について階段を登っていく。あまり活字に入り浸るタイプではなかったから、入学後のオリエンテーリングと課外学習程度でしかその場所を訪れたことがなかった。リンドウは結構図書室使う方なんだ?と後ろから問いかけると、彼は
「調べごととかあれば」
と振り返りもせずに答えた。昼休みや放課後の早い時間、教室から彼の姿が消えていることがある。案外読書家なのかもしれない。
図書室の引き戸は大きく開け放されていた。一歩足を踏み入れたとたん、廊下と雰囲気が異なるひやりとした空気が身を包んだ。古びた紙と埃のズンとした香りが漂っている。幾つも並んだ丸い窓は、戸外の激しい雨の様子を映していた。この調子ではまだまだ止まないんだろう、暇潰しの時間は長くなりそうだ。
普段はファッション誌くらいしか読まないけど、せっかくのお誘いだからリンドウに合わせたい。
「ね、リンドウ。俺普段本読まないからさ、お勧めあったら教えてくんない」
「俺も別に詳しくないけど……ジャンルは?」
「なんでも!」
「オーダー雑」
苦笑しながらもリンドウは新刊のコーナーに歩み寄り、汚れのない一冊を取り出して手渡してくれた。タイトルだけは聞いたことがある作品だった。
「これ、この前賞取ってたやつ。まぁ話題作だし面白いんじゃね」
「サンキューリンドウ!読んでみるわ」
中央に置かれた大きな白い机に席を取り、鞄を置いて文庫本を開く。しばらくして、少し大判サイズの図録を2・3冊持ってきたリンドウが向かいの席に座った。
……。
残念ながら、お勧めされた文庫本は俺にはあまり、いや全然合わなかった。なんだか文体が凝り過ぎていて意味が分からない。10ページも読まないうちにお腹一杯になってしまい、大きく伸びをした。物語の世界に戻るのを諦め、文字を追うふりをしつつ上目遣いでリンドウの方を見やる。彼は身動きもせず、じっと紙面を見つめている。時折、本の端を抑えていた指が動いてページをめくる。スマホを見ている時が分かりやすいが、基本的に一度集中し始めると周りが目に入らないところがある。こうして俺が見てても気づかないほどに……
ふと、急に彼が顔を上げた。バッチリ目線が合い、心拍が急に跳ね上がる。しっかり気づかれたし、バレた。彼は小声で問いかけてくる。
『飽きた?』
分かってんじゃん。
『飽きた!』
同じく小声で答えると、リンドウはフッと笑みを浮かべた。片手でページを押さえたまま、空いた方の右手でおいでおいでと手招きされる。周囲の人が捌けてきたのをいいことに、俺は静かにリンドウの隣に席を移した。
『何読んでんの』
『化学の図録。今日の授業でやった辺りの話が載ってる』
そう言って彼は開いたページの右下を指差した。
『素粒子の話してたじゃん?それがこの辺り』
普段使いの化学の教科書よりは美しいカラフルな絵を添えて、原子や中性子や電子やクォークの説明文がちんまりと纏まっていた。
『これ見てて面白い?』
『面白い、てか俺前から図鑑とか読むの好きだったから』
『一緒に見てていい?』
『いいよ』
それからしばらく、隣で一緒に図録を眺めていた。誘われでもしなければ目を通すこともなかったと思うけど、小声でイラストを批評しながら眺めていると、味気ない化学のトピックが鮮やかに感じられる。一人では決して訪れない紙の森でも、リンドウに手を引かれていれば楽しく歩いていける。また誘ってくれないかな、と甘い期待を持ってしまう。
小声でやいやい話をしながら一冊の本を眺めていると、時間が過ぎるのがあっという間だった。化学を読み飛ばして海洋生物や植物の写真本と交換して読み進め、気づけば壁掛け時計の針が1時間分進んでいた。円窓の外は雨が止んでいたが、そのまま夜空の黒に覆われていた。
『リンドウ、雨上がってる』
声をかけると、彼も窓の外を見上げて『本当だ』と同意した。すかさずスマホを開いて、電車はまだ止まってるみたい、とチェックを共有してくれる。
『そのうち戻るでしょ、ゆっくり帰ろ』
『帰るか』
それぞれに本を戻し、図書室を後にした。玄関から外に出ると、そこら中の水溜りが街灯を映してキラキラ光っていた。
街の光を反射してカラフルに光る水溜りを躱して歩こう。二人分の白いスニーカーが泥を被らないように、ゆっくりゆっくり道を辿ろう。そのうちまた行こう、なんて話をしながら。