幽霊 渋谷は今日も晴れ模様。ビルの群れに切り取られた痛いほどの青色の上を、強い風に圧された雲が快速で横切っていく。眠くなりそうに真っ白な日差しが燦々と休日の光景を照らしている。短く刈りそろえられた芝生が気持ちよさそうに太陽を満喫していた。人々はテイクアウトのコーヒーを片手に、連れと睦みあって笑っている。
友人はその中を縫って歩いていた。ただ独り、光を拒絶するように画面に目を落としたままで歩いていた。
ミヤシタパークを降り、山手線の高架下を潜る。
グロい、とすら思えなかった。それはもはや人の形を留めていなかった。奇妙なことに俺はその場でリンドウが行手を遮られて遠くに離され、自分の体だったものが車に乗せられていくのを見ていた。リンドウが見なくてよかったと思う。それに見たところで自分と判別できるかどうかすら微妙なラインだった。
ほぼ即だったのだろう、それが起こった次の瞬間には自分はリンドウと並び立っていた。あれ?なんでトラック?なんてリンドウに話しかけてみたが返事はなく、言葉すら失ったように立ち尽くしている。その指の間から先刻渡した赤と黒のバッジが取り落とされ、カラン、と空虚な音を立てる。それは結局拾われることもなくリンドウはその場から退場させられた。
「またあの子のこと見てるんだ、フレット」
「カノンさん」
上の空で歩いていたのを見咎めたのか、後ろから声をかけられる。声の主 — カノンさんは、鈍く光るラメで縁取られた煙色の眼差しでこちらを心配げに見つめていた。
「残念だけど、あまりRGの人に構いすぎちゃダメよ……私たち、死んでるもの」
「それは分かってます……でもアイツまた歩きスマホしてて心配なんです」
「でもずっと守ってあげるわけにはいかないの。私たちもミッションの途中だし」
行こ、と先導されてヒカリエの方面に足を向ける。最後に一度だけ振り向いて彼の姿を視界に収めた。道路の脇に据えられた白い花束をちらりと見ていた。
— ここは”UG”と呼ばれる場所らしい。死んだ人間の意識が再びカラダのようなものにまとまり、消えることもなく漂っている。冥界とも異次元とも聞いたが、個人的には「あの世」がしっくり来る。あの世にはあの世のルールがあるらしく、「死神」の出す「ミッション」をこなしていかなければ本当に消えて無くなってしまうのだとか。それを教えてくれた死神は全身黒づくめで猫のフードを被っていたし、その辺で死神を名乗る者は赤か黒のパーカースタイルだった。死神にも死神のルールがあるようだ。
バッジを手渡されて「戦え」と言われた。何と、どうやって。途方に暮れている中、声をかけてくれた人がいた。どうしたの?キミ一人?—と。大胆にさらけ出された素肌は滑らかに白かった。幽霊だということを差し引いても、白い。胸元のプリントが目についた。ひび割れたハートが哀しげに涙を流している。
茫然と、美しいひとだなぁと思った。
ヴァリーなるチームのリーダーを名乗る彼女は、しばし迷ったが結局俺を仲間に引き入れてくれた。素直そうなコだしきっと仲良くやっていけるよね、みんなにちゃんと挨拶してね、と紹介された仲間たちはどこか柄が悪そうに見えたが、テンプレの挨拶と笑顔を振りまいて頭を下げたら鷹揚にヨロシク、と迎え入れてくれた。
— 初めまして、俺は觸澤桃斎です。トウサイでも良いですけど、もし良かったらフレサワのトーサイでフレットって呼んでください。
あの日からぐるぐると渋谷を歩き回っている。と言うか渋谷から出られないらしい。恵比寿方面に抜けようと試してみたことがあったが、透明な壁のようなモノに逃げ道を塞がれていた。
“ミッションをこなす”ことにも”戦う”ことにも慣れていった。ポイントを稼いでトップになれば願いが叶うらしいことを知った。それを知った時にはほんの少しだけ希望が見えた気がした。生き返ってもう一度会えるだろうか。
ミッションが終わるとなぜか強烈に眠くなって次の日が訪れる。それでも終了時間は日によってまちまちで、運が良ければ6時7時まで起きていられることもあった。空き時間には行くあてもなく渋谷の散策を続けていた。生前を思い出す。連れがいないといまいち楽しくないけれど。
—運が良ければリンドウに会えた。彼もよく、放課後や休日で渋谷を訪れていた。律儀に小さな花束を持ってはスクランブルに向かい、植え込みのあたりにそれを捧げて目を閉じる。それからよく一緒に歩き回った道を一人で辿っている。歩きスマホの癖は悪化しているようだ。よく信号無視で飛び出しそうになるのを見るたび、あの世にいるはずの俺の方が肝を冷やされた。
あまりに危ない時には『しんごう』とインプリントしてやっていた。その度に彼は軽く顔をもたげて道路に目を向け、足を止める。カノンさんには”構いすぎるな”と言われているが、注意してやらないと彼の方も事故に遭ってしまいそうでこちらが怖いのだ。何もしないでいたら彼もまたUGに降りてきてくれるのだろうか。そんなことを思ってしまいそうで、怖い。
次の標的がいるのは宇田川町なのだという。センター街方面に向かおうとスクランブル交差点に差し掛かったところで、ハチ公前に佇む小さな人影が目についた。見知った少年が何をするでもなく人混みを眺めている。意識を集中させて流れの中を辿ると、ぐちゃぐちゃに引き絡まった彼の思考が行き場もなく自らの心を噛んでいた。
— どうして
— あの時、陰に気づいてやれてれば
— フレットを止めてれば
「フレット」
嗜めるような声がして、意識を引き戻された。すぐ隣でカノンさんが寂しげに微笑を浮かべている。
「つらいのも分かるけど……みんな誰かをRGに置いてきたのよ」
「そうっすね……スミマセン」
「ね、だから早く生き返れるように頑張ろ?」
頑張ります、と意気込んで見せる。カノンさんの眼差しがフワリと優しい色を帯びる。踵を返した彼女の行く先を目で追ってから、そっとリンドウの元に駆け寄った。
そんな気にすんなって、しばらくは忘れてフツーに生きてなよ、すぐ戻るから。そう伝えてあげたかった。けれどそんな言葉の断片を伝えたら却って彼は自分を責めるだろう。何をしても救えないのかもしれない — あの時と同じく。それでも声をかけてやりたくて、迷った末に『またね』と送る。その瞬間少年は俯いていた顔を上げ、キョロキョロと辺りを見回した。そして再び目の前の空間に向き直り、何かを失くした子供のような表情をした。左頬にツウ、と涙がきらめき、落ちる。思わずその頬に伸ばした手が暖かいはずのその皮膚をすり抜け、空を掻いた。
その肩を触れない。背中を叩いてやることもできない。ただ言葉をかけてやることしかできないのに、その言葉でもうまく励ましてやることができない。忘れてくれればいいのに、と思った。あの世で身に付けた奇妙な能力のついでに、彼の心の痛みを拭い去ってやれれば良かったのに。
フォローしてやれるだけの時間すら自分には残されていない。静かに涙を流す彼を一人残し、カノンさんの後を追って駆け出した。