シブヤ・ディストーション 宮下公園のガード下をくぐり、目の前に見える千鳥足会館を駆け抜ける。坂道を右手にそのまま道玄坂へとさしかかる。勝手知ったるはずの渋谷の風景は至る所で歪められていて、歩くたびに悪酔いのような、平衡感覚が狂っていくような違和感に襲われた。昔家族と行った鏡の迷路のように、入り口も出口も分からないパッチワークの渋谷を延々と歩かされている。
宇田川町に繋がるところでヘッドフォンの少年は足を緩め、片手で怠そうに頭を抑えた。
「……悪い」
「おい、どうした?ネク」
小さく漏らした声を聞きつけたビイトが尋ねる。もどかしそうに前を見つめたままでネクは答えた。
「……気分悪い。ってか頭痛い」
「大丈夫か?」
大丈夫だ、行こう。そう返したものの、ネクの足取りはフラフラとぎこちなかった。ビイトはガシガシと大きく頭を掻き、おいネク、と呼び止める。
「急ぐのは分かるけどよ、具合悪いなら少し休むか?」
「具合が悪いんじゃない……気分が悪いだけで」
「同じだろーが」
「らしくないなビイト。おまえならもっと突っ走るかと思ったのに」
「パートナーに無理させるほど無謀じゃねえっての」
そう言ってネクの襟首を捉え、半ば引きずるようにして道を引き返す。後ろでけばけばしい衣装を身に纏った少女の死神が文句を垂れていたが、ビイトは無視して歩き続けた。幸い、道玄坂には彼らが渋谷の中で最も好むと言ってもいい「らあめんどん」が店を構えていた。
「食ってかねーか?」
「まぁ、悪くないか」
ネクの同意を聞き届けたビイトはガラガラと引き戸を開け、暖簾を潜った。魚貝と鶏ガラの混ざったような匂いが湿気とともに鼻につく。嫌な匂いでは決してない。しかし覚えにあるこの店はもっと分かりやすくて、そして暖かい匂いに満ちていたように思う。
若い男女でほとんど満員のカウンターの向こうでは、見知った親しみやすい顔の男とともに外国人らしき従業員が忙しく鍋をかき回し、麺を取り出している。
「ケンさん!醤油と味噌で!」
張り上げたビイトの声が店内のBGMを割って響き、ラーメンの写真を撮っていた数名の客が鬱陶しげに顔を上げて睨みつけてくる。カウンターの向こうの男 — 土井ケンも、やれやれ、と言った調子で顎をしゃくった。
その先にある券売機は二人の知らないメニューばかりを載せていた。
カウンターに並び、到着した麺を無言で眺める。済んだ黄金色のスープの中に、黒い粉粒を残したままの真っ直ぐな麺が沈んでいた。隣で嬉しげに箸を割った死神が、全粒粉麺なんだってー、おっしゃれー!と一人はしゃいでいた。
「……ビイト」
「ああ。マジで気持ち悪りぃな、ここ」
答えながら、死神と同じく箸を二つに割って麺を啜る。一口目にしてビイトは思い切り顔をしかめた。「……なんだこれ」
「変なラーメンだな」
ネクもふうふうと麺に息を吹きかけ、食んだ。物足りないような塩味ともちゃりとした食感が口の中を満たす。
「ケンさんのラーメンじゃねえ。だろ?」
一口目で箸を置いてしまったまま、ネクはコクリと頷いた。
「……渋谷じゃない、ここは」
「だよな」
「渋谷みたいなのに俺の知ってる場所と違うから……気分悪い」
ネクはぽつぽつと話を続ける。
「千鳥抜けて宇田川町の階段登って、ウォールのとこで何分もグラフィティ見てた。俺にとって渋谷はそれで……だからこの渋谷が俺を馬鹿にしてるみたいで、気分悪い」
「それはなんか……分かるぜ」
珍しく重みのある口調でビイトが同意する。彼にとっての渋谷とは宮下公園のことだった。JRの駅を抜けて薄暗いガードを潜り、浮浪者やダンサーやヤク売りに混じって夜を流す。ダンスミュージックとスケボーとバスケットボールを打つ音、それからアルコールに興じる男性たちの声で夜でも宮下公園はそれなりに賑やかだった。そこにいれば中途半端な自分を一時忘れることができた。宮下公園を降りればガード下、それからトウワレコードに繋がっている。もはや目を閉じても歩けるような道。
目的のない日々で唯一心を許せる友がいるとしたら、それは渋谷の街だった。だから今日のこの街には胸がむかついている。薄暗く、やり場のない日々で唯一救いであったものが自分の記憶を裏切る。馬鹿にされているような気がした。
二人は箸を置いたまま、白く清潔な丼から湯気が立ち上るのをしばらく見ていた。何してんの伸びちゃうよぉ、と呑気な声を上げる死神の少女に応えることもなく、沈黙を分かち合う。堰を切ったのはネクだった。
「……なんかさ、おまえだけだよ。おかしくないの」
「…お?」
「今のこの渋谷で信じられるの、おまえだけだな」
「おー……」
やけに率直な言葉を受け止めきれず、ビイトはボリボリと頭を搔く。彼の認識の中のネクは髪型と同じくツンツンしており、自分を励ますときでさえ呆れたように上から構えた態度を見せていた。今の彼は違う。彼も彼なりに「渋谷」という友を失って心細いのだろう、目を伏せたその面影はいかにも幼く頼りなく見える。力を加えれば折れてしまいそうなその姿はどこか自分の妹と重なるものがあった。
広げた掌でその小さな肩をバシンと叩いてやる。
「心配すんなっ!俺はぜってぇおまえを裏切らねぇし、ずっとここにいるからよ!」
「……あぁ。パートナーだからな」
「ちげーよ。『友達だから』だ」
しっかりと訂正してやる。生温いラーメン屋の空気の向こうで、ネクが小さく頷いた。
「悪い、気遣わせた。……早く脱出しよう、こんな渋谷」
「なんか今日のネク妙に素直ってか……らしくねぇぜ」
悪いことでも起きんじゃねぇのか、とビイトは続ける。そうならないといいけどな、と笑って返したネクの声が店内の緩い空気に溶けて落ちた。