空白 図書室のカウンター裏には小さな扉があり、外階段に続いている。と言っても外から図書室に入る用事などもなく、そもそもいつも施錠されているため使われることはほとんどない。そのため、校庭に降りる階段はところどころ白いペンキが剥げ、赤錆が覗いていた。
降り口の踊り場の淵に腰掛け、校庭で粒のような人の群れが行ったり来たりするのを眺め下ろす。
この場所にいると全てから逃げていられているような、気がする。教室にいて自分の机で本を読んだり、たまに話しかけてくる友人たちに笑って返す時間も決して嫌いではない。嫌いと言うほどではないが、特段好きな訳でもない。放っておいて欲しい、と思うときは正直あった。面倒だから構わないで欲しい。といって教室の中でそんな不貞腐れた淀みを放つ訳にも行かない。よく言われる「空気」でいい。それで構わないから、存在感のない空気になりたかった。
そういう時はこの場所にふらりと立ち寄る。図書委員の立ち位置を利用して非番のカウンターを早めに潜り、こっそりと裏口に回って扉を開ける。踊り場に出てしまえば誰も訪れず、誰の気にもされず、ただ風を浴びながら本を読んだりスマホを弄ったりしていることができた。ちっぽけな4階の空間がまるで自分のための小さな世界のようにも感じられた。
その日もそこで文庫本を開いていた。梅雨が去ろうとしている7月の光と風が頬を撫でてゆく。眼下の校庭は光るような新緑に縁取られていた。賑やかな声が聞こえてくる。その声に混じってカンカン、と寂れた階段を登ってくる音がしてリンドウは肩を強張らせた。
誰か来る。
不都合だ。教師でも、友達でも。何と言おう、すぐに図書室に逃げ帰ろうか。急いで戻る物音でバレるだろうか。迷っているうちに、3階から上がってきていた足音が一つ下の踊り場までたどり着いてしまった。近づいてくる。
フロアの下からひょっこりと現れたのは友人の顔。このところ何となく共に時間を過ごすようになっていたクラスメイト — フレットだった。
「おぉ? リンドウ?」
「……フレット」
よっす、と片手を挙げて答える。とりあえずは安心した。教師ではない。少し話しただけのクラスメイト、という程度よりは話せる。
「……えっと、何してた?」
「読書」
「ここで?」
「悪いか?」
いや別に。そう言ってフレットはクッと首を傾け、立ち去りかねたように腕を組んだまま黙って立っていた。二人の間を風が吹き抜ける。フレットの柔らかそうな茶髪がふわふわと揺れる。
「フレットは何でここに」
「いやー、なんつーか? コドクに浸りたいなーって感じで?」
軽やかな空気を身に纏わせたまま、カラカラとフレットは話し続ける。
「どっかないかなって探してたら階段あってちょうど良さそうだったから登ってみた」
「おまえでもそういう時あるんだな……」
「ま、あんまないけどね」
立ちっぱなしでこちらを見ているフレットに、リンドウは自分の腰の隣辺りのフロアをトントンと叩いた。
「……座れば?」
「いいの?」
「俺の場所ってわけでもないし」
「……じゃ、お言葉に甘えて」
近づいてきたフレットの影が落ち、自分より少し背の高い少年の気配が隣に腰掛けた。
「……一人になりたいなら俺、どっか行ってるか?」
「いやいーよ! ってかこのままここ居させてくんない?」
「ずっと本読んでていいなら」
フレットはにっこりと笑みを返す。
「全然おけ、俺黙ってるし静かにしてるから」
そう、と告げて再び文庫本に目を落とす。昨日に図書室から借りてきたばかりの小説の中で、主人公は探し物のヒントを求めて札幌の街を歩き回っていた。その物語を読み進めている間、フレットは本当に大人しくただただ同じ風を浴びていた。普段の騒がしい彼を知る者からすれば意外なほどに、押し黙ったままで。
30ページほど読み進めたリンドウはパタリ、と本を閉じて目を擦る。終わったんだ、と声をかける友人にああと応えて向き直る。
「コドクには浸れました?」
「うんもうバッチリ! な、たまにここ使っていい?」
「いいってか俺の場所じゃないってば」
そう返すと、フレットはサンキューな、と頬を緩めた。
「俺もたまにここ使ってるけど、言ってくれたら場所開ける」
彼は一拍置いてから、落ち着いた声で答えを返した。
「……俺はリンドウがいなくてもいいけど、いてもいいかな」
「今日みたいな感じなら俺も別に気になんない」
休み時間の終わりが近いのか、先ほどよりも階下の声は小さくなっている。リンドウはゆっくりと腰をあげた。ずっと金属板の上に座っていた尻のあたりが少し痛い。
「そろそろ教室戻った方いい」
「あ、そう?」
「俺図書委員だからこっち締めて帰る」
「おけ。それじゃまたね」
フレットもスッと立ち上がりリンドウに向けて大きく手を振った。それから踵を返し、再びカンカンと駆け足の音を軽やかに響かせながら階段を勢いよく降りていく。
しばらく彼が降りていく音を聞いたのち、リンドウは図書室裏の小さな扉に手をかける。少しだけ手馴染んだドアノブを回して、軋みを立てないようにこっそりと、図書室の埃っぽい空気の中に滑り込んでいった。