尨犬 「あのこと」が起こって以来、一つだけ変わったことがあった。
俺は犬を飼い始めた。それは結局、ほんの少しの間だったけれど。
1ヶ月ほど経った頃だろうか。いつものように渋谷駅前に花を供え、そのまま電車に乗って自分の家へ向かった。住宅街へ入っていく細い道に、自分一人の影が長く伸びて先を歩いている。魚の焦げる匂いが漂い、母親の手を引く子供のはしゃぎ声が耳に届く。時間が間延びしていくような感覚。このまま帰ったところで課題はすでに終えてしまっているし、連絡を取るような相手もいない。
手持ち無沙汰のまま、いつもは通らない細道に足を踏み入れる。その先には公園があった。配置の悪い植木と入り口の大きなコンクリの門のせいで見通しが悪く、保護者たちからの評判はよろしくない。子供の影は少なく、たまにベンチに老人が腰掛けて煙草をふかしている程度だった。その日はそんな老人の姿すらなく、ただ3羽の雀が砂利をつついていた。
くすんだ木製のベンチに腰掛け、スマホを取り出しアプリを立ち上げる。残念ながら、ポケコヨの世界においてもこの公園には誰もいないようだ。ふぅと息を吐いて空を見上げた俺の耳に、心細げな獣の声が届いた。
わんわん。
目線を下ろす。声がしたあたりには、伸び放題に放置された草むらが広がっていた。わんわん、わんわんと人探しをするように吠え続けている。呼ばれているような気がした。
草むらをかき分けて声の元を探ると、木の根元にリードを結び付けられた尨犬と目が合った。わ、と吠え出そうとしたまま口を開けてこちらを見ている。犬種は分からない。長く垂れた両耳はふわふわとした茶色の毛に覆われており、似ているな、とその面影を想い出させた。顔の真ん中に白い筋があり、胴体と尻尾も純白と栗色の斑で、身体の全てが柔らかな長毛に包まれていた。殆ど汚れがついていない辺り、相当最近まで手入れがされていたらしい。
— おまえ、捨てられたのか。
わんわん。
— 酷い飼い主だな。
わんわんわん。
何かやれないかと探った自分の鞄の中には、食欲が湧かず手付かずとなったサンドイッチが残っていた。ハムチーズサンドの中から薄い肉片を引っ張り出し、目の前に投げてやるとクンクンと匂いを嗅いだのちにペロリと飲み込んでしまった。そうして大きな黒い目で俺を見て、嬉しそうにキャン、と鳴いた。
そっと手を差し出す。馴れた飼い犬だったのだろう、噛みつこうとする様子もなく嬉しげに額を摺り寄せてくる。待ってろ、と言ってコンビニでドッグフードを調達して差し出してやると、尻尾を振りながら全て平らげてしまった。それを見届けてからもう一度頭を撫でて、またなと手を振って別れた。
気付けば1時間ほどが経っており、自分の影も薄暗がりの中に溶けてしまっていた。友達と遊んだ後のように、少しだけ爽やかな気分になっている。できるなら連れて帰って屋根を貸してあげたかった。
家族で住むささやかなマンションがペットNGを定めていなければ、それは叶ったのかもしれない。
俺とその犬の繋がりは続いた。翌朝、少し早く起きて昨日の公園に向かえば尨犬は大人しくそこで伏せていた。コンビニの袋を開けてドッグフードの缶を開け、食器棚から攫ってきた陶の皿に蛇口の水を捻って満たす。尨犬がそれらを空にしている間にコンビニの袋でその辺りを掃除し、口を縛ってゴミ箱に入れておいた。戻ってきた俺を見上げた尨犬はわんわん、と赤い舌を出した。蹲み込んだ俺が手を差し出す前に、身を乗り出して頬のあたりをベロリと舐めた。
— 擽ったいだろ、やめろよ。
わんわん!
— 帰ったら散歩連れてってやるから、待ってろ
くーん?
犬が喉を鳴らす。その姿にひらひら手を振って見せてから、足を返して公園の出口に向かった。キャイン、と切なげに一つだけ鳴き声が投げかけられる。後ろ髪を引かれる思いだったが、あまりダラダラしていると本当に遅刻してしまう。
その日は小学生よろしく、授業中ずっと捨て犬のことを考えていた。下校時間になるなり飛び急ぐようにして例の公園に向かい、朝以来となる草むらをかき分ける。尨犬はお座りで俺を待っていた。目を合わせるとぱたぱたと尻尾を降って、わおん、と吠えた。
ずっと木に繋がれたままだったリードをほどき、行こう、と一言声をかけるだけで犬は実に嬉しそうに走り出した。半ば引っ張られるように小径を出て大通りに飛び出し、公園をぐるりと大回りに取り囲む1時間程度の散歩に付き合わされる羽目になった。育ちが良かったのだろう、横断歩道に突き当たると青でも赤でも一旦立ち止まり、律儀に俺の方を向いて走り出していいか伺っている。行こう、と俺が足を進めるのを見るなり、再び弾丸のように駆け出してリードを強く強く引っ張った。
平日が過ぎてゆき、休日が訪れても、朝と夕方に尨犬の元を訪れるのをやめなかった。
いつまでも犬、と呼び続ける訳にはいかない。一瞬だけ頭に口馴染んだ横文字の綽名が過ぎったが、あまりに失礼なので頭を振って思考から追い払った。そしていつも彼を待っていた場所を思い出した。— あの犬に倣って呼ぼうか。
そうして俺はその尨犬をハチと呼ぶようになった。捨てられる前に何と呼ばれていたのかは分からないが、何度かハチ、ハチと呼びかけるうちに名前に反応するようになってくれた。朝になればコンビニでドッグフードを買ってハチに与え、帰りにはリードを解いて1時間程度一緒に散歩した。漫画雑誌のサブスクを解約し、弁当のない日は学食の代わりに菓子パンで済ませる羽目になったが、それでもそれなりに少し楽しい毎日だった。
日々の終わりは唐突に訪れた。
朝の天気予報は一日中晴れ、と言っていたが、下校の路に着く頃には空の端に黒っぽい雲が現れていた。家の最寄り駅に着く頃にはそれが空の大部分を覆うほどになっていた。むっと湿気を帯びた空気が肺を満たす。そのうち雨が降るかもしれない、少しだけ散歩に出してやって、傘を据付けて帰ろうと思って公園を訪れる。いつものようにリードを外してやると、尨犬は久しぶりの雨の匂いに興奮したようにキャンキャン跳ねた。
— 雨が降りそうだから、今日は30分くらいで帰ろうな。
くぅーん。
俺の独り言を理解しているかのように、尨犬は不満げに長い鳴き声を漏らす。いつもと変わらない元気さでリードを引っ張り、通い慣れた道を駆け抜ける。雨が降りそうだからショートカットして帰ろう、と何度も手綱を引っ張ったのに、尨犬は全く気づく様子もなくいつもの道を辿りたがった。
交差点に差し掛かる。
赤信号の手前で、犬はぴたりと立ち止まってお座りのポーズを取った。この調子ではいつも通り1時間コースなんだろうな、そう思ったときのことだった。
ごく近くで大きな音と、光が落ちてきた。ゴロゴロ、ピシャリ。獣が唸るような低い音に続く、目も眩むような閃光。 — そして、握り返せないほど突然に強くリードを引かれる感覚。
— あ、おい!
キャイン!
本当に一瞬の出来事だった。支えきれずに手から離れていく手綱。その端を引きずるようにして、尨犬が赤信号の横断歩道に駆け出していく。その斑の背に大きな影が落ちる。突然の飛び出しに対応しきれなかったトラックのクラクションが断末魔のように響いた。
最期は鳴き声もあげなかった。あっけない終わりだった。
そんなところまで真似しなくてよかったのに。
こうして、綺麗で懐こくて頭の悪い尨犬は、再び俺の前で赤い血液の塊となってこの世を去った。