停留 雨が降っていた。
雨は嫌いではない。それは街を濡らし、土を濡らし、視界の彩度を少し下げる。世界が煩く感じられる時は、薄暗く染めてくれる雨の存在が少しありがたくも感じられた。しかし隣に座っている友人の細い身体にそれはいかにも寒そうで、早く上がってくれねえか、とビイトは空に小さく文句を言った。そもそもが天気予報を裏切った雨なのだ。約束が違う。
並んで小さな停留所のベンチに腰掛け、雨音の中二人きりで降り込められている。
「...寒くねえか、ネク」
「大丈夫だ」
少しだけ濡れてしまった髪を掻き上げながらネクが返した。
再会してからも、ネクはどこか浮世離れした雰囲気を薄く身に纏っていた。彼に馴染んだはずの渋谷の街を物珍しげに見回し、慣れないスマートフォンで誤字だらけのメッセージを返す。かつて伝説と謳われたはずの青年は、まるで小さな子供のように新しい世界に佇んでいる。
決して誰かへ向けた言葉にはしないものの、全身で彼は問いかけていた。— 俺は、どうすればいい。その姿を見ていると、ビイトは無性に苛立ちを覚えるのだった。ネクに、ではない。彼から世界を奪ったものに、である。それはココかも知れず、ヨシュアかも知れず、もっと漠然とした「運命」 — リンドウが変えようと踠いていた大きな運命、というものかも知れず。しかしビイトにはそれが何なのか定義することができなかったし、怒ったところで詮無きことだというのも十分に分かっていた。
代わりに、彼は戸惑う旧友の手を引いた。
休日になるたびにそれとなく街歩きに誘い、何をするでもなくCDショップを物色したり通い慣れないタピオカ屋に連れ込んだりと、目的のない時間潰しを繰り返す。ネクは断るでもなく、週末のたびにビイトと連れ立って出かけた。渋谷、池袋。下北沢。横浜。
— 横須賀、三浦。
横浜の中華街で大味な中華料理を詰め込み、腹ごなしがてら海辺の公園を散策してからゆっくり電車で帰った先週の日曜日。来週はどこへ連れて行こうか、と思案していたビイトのスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
ネクから誘いが来るのは、RGに帰って以降初めてのことだった。
“ 今日も楽しかった、ありがとう ”
“ 来週、さ。行きたいとこあるんだけど、いいかな “
そうして今日の早い時間、彼らは横須賀で下車した。元々は在日米軍向けの商店街だったのだという路地を物色して回り、ネクはビイトに大きなジャンパーを見繕い、贈った。高いだろ、と慌てるビイトに「いいよ」と鷹揚に返した。
「UGで稼いだPayの残高が結構あるから全然いいんだ。それより、毎週一緒に連れてってもらってるから……俺から、お礼で」
「変な気ィ遣わなくてもいいっての……」
それでも、気持ちだから貰って欲しい、とまで頼まれればビイトは断れなかった。大人しく新品のジャンパーに袖を通し、着たままで次の目的地へ向かったのだった。
「...天気予報、晴れだっつってたのに」
「まぁ、仕方ないよな。屋根あって良かった」
ネクは止まない雨の方をずっと見つめている。プレハブほどの大きさもない小さな停留所の壁越しに、轟々と低い海鳴りの音が響いていた。その様子を脇から見ていたビイトがスマホを取り出し、検索を始める。
「バス来たらもう駅まで帰っちまうか」
「いや...雨が上がったらもう少しいられるだろ?もう少し待っていいか」
「...いいけどよ。体冷えるぜ」
ホラよ、とビイトは自らのスカジャンを脱いで被せるようにネクに押し付ける。いいよ、としばらく逡巡していたが、結局ネクは大人しくそれに袖を通した。先ほど買ったばかりのジャンパーの生地はゴワゴワと硬いが、さっきまで羽織っていたビイトの体温がほっこりと残っている。
前をたぐり寄せるネクの様子を見ていたビイトがぽつりと言った。
「おめぇが着てると余計貧弱に見える」
「容赦ないな」
ネクが苦笑する。
「確かに暖かいけど、ビイトは大丈夫なのか?」
「おう、ネクと違って鍛えてるからな!何ならヘッドフォンも貸すか?少しは足しになるだろ」
「冬じゃないしそこまでじゃないよ」
言い終えてしまってから、あ、とネクは続けた。
「でも曲聴きたいから借りていいか?」
おう、と鷹揚に返したビイトは、首にかけたままにしていたヘッドフォンを外す。やや強い癖のついたネクの髪の上から、ズボンと勢いよく被せて耳を覆った。適当でいいか、と確認しながら胸元の端末を慎重に操作し、小さめの音量で再生する。音楽が始まるとネクは心地よさげに目を瞑った。トントン、と人差し指でリズムを取る音が、停留所の外の雨音に覆われて小さく聞こえる。
「……やっぱおまえヒップホップ好きだよな」
「好きつうか、スケボーのBGMって言ったらヒップホップなんだよ」
「そっか。ビイトらしい」
音楽が二曲目に移り変わったのか、リズムを取るネクの爪先の速度が変わった。ランダム再生で流れたナンバーは先程までと別のアルバムのものを拾ったらしい。
「……この曲、あのゲームの時に教えてもらったやつだよな。最後の週のときに」
「あぁ、3年前か……鉄仮面探してた時だよな」
3週目のゲームマスターとなった鉄仮面 — 虎西が姿を消して以降、目を覚ましてから意識を失うまでの僅かな時間を彼ら二人は必死の探索に費やした。エリア毎どころではない、それこそショップの棚と棚の間まで、虱潰しに。トワレコのフロア地図を塗り潰すように探し回る中で、ヒップホップコーナーの側に訪れたビイトの足が不意に遅くなった。
— どうした、ビイト
— ああいや……このグループ好きでよ、そういや新盤出てたんだ、って……
その時は「早くゲームを終わらせてRGで買うんだ」と結論づけて先を急いだが、ネクもそのジャケットを何となく忘れずにいた。曇り空、ニューヨークらしき摩天楼、何より手前のコンクリート壁一面に描かれたグラフィティがネクには慕わしく思われた。CATではないがなかなか惹かれるものがある。
RGへ戻ってからすぐに購入し、愛用のプレーヤーに落とし込んだ。
「……懐かしい。新宿でよく聴いてたよ」
目を瞑ったまま、ネクはヘッドフォンから伝わる言葉の流れに身を任せている。うっとりと聴き入るようなその表情に何となく違和感を覚え、ビイトは問いかける。
「それ、そんなウットリ聴くような曲か?意味分かんのか?」
「英語だろ?ビイトこそ分かるのかよ」
「和訳付いてるから分かんだよ」
歌詞ペーパーに付いている単語は決して、聞き惚れるタイプの美しいものではなかった。マザファッカー、サノバビッチ、ホーリーシット。口を開けば下品な罵倒で、メロディーラインも伴奏もゴツゴツとした無骨なものが多い。そこがビイトの好むところではあったのだが、ヒップホップに恍惚とする、という感覚は彼にはない。聴き入る音楽ではなく、叩きつける音なのである。
「俺は全部分かったわけじゃないけど。何回も聴いてたら何となく、単語レベルは分かったかな」
「頭いいな、ネク」
「おまえよりはな」
クスクスとネクは小さく笑う。バカにすんな、と応えようとしたビイトだが結局言わせておいた。英語の歌詞が読めないと言外に言ったのは自分のほうだ。
「……全部分かったわけじゃないけど、何かに怒ってるんだってことは分かるよ。どうしようもない理不尽さとかに。新宿にも最初はヘッドフォン付けてったから、よくこれ聴いてた。……俺の代わりに怒ってくれてるみたいで、少し落ち着けた」
雨音の中、ネクの言葉がぽつぽつと湿って落ちる。
「ネクは怒りたかったのか?」
「そりゃ、最初は特に何で俺がこんなことって思ったよ。理不尽だって思った。そんな時……これ聴いてると、ビイトが俺の代わりに怒ってくれてるみたいで、なんか嬉しかった。何で俺がって、ふざけんなって、……全部全部クソだって言ってくれるような気がした」
「……怒りたけりゃ、怒ればよかったじゃねーか」
「怒ってもどうにもならないよ」
そう言ったきり、ネクは黙り込んで英語の群れに意識を集中させる。直截的で無骨な言葉の群れが、バツバツと屋根を打つ大粒の雨の音と不思議に調和する。再び目を瞑ったネクの小さな肩に、ビイトはそっと大きな掌を置いた。
「今だって、怒りたきゃ怒ればいいんだ。……ネクが怒れねぇなら、俺が代わりに言ってやる。ふざけんな、クソが、って」
ネクはゆっくりと目を開き、ビイトを見つめた。
「ありがとう。俺はもう怒るって感じでもないけど……そう言ってもらえると、楽になる気がするよ」
ネクが目を細める。どこか虚ろさを感じさせる表情だった。渋谷に帰って以降、彼が激しい怒りや慟哭を見せたところを見たことがない。ビイトとの再会の際や、彼の大切な人 — シキの姿を見た際に浮かべた晴れやかな表情は心からの喜びであるように見えた。だが、その反対側に本来あるべき負の感情 — 怒り、悲しみ、恐怖と言ったマイナスの側面はごっそりと剥げ落ち。その欠損は曖昧な笑顔で不自然に掛け接ぎされていた。
複雑な表情で見つめるビイトに、ネクは言葉を続ける。
「でもそれだけじゃなくてさ。俺、今もビイトにすごく助けられてる。毎週いろいろ付き合わせて悪いな」
「それは俺が行きたいってだけだしいいんだよ」
「そっか」
ネクは少し身体に余るジャンパーの両胸の辺りを掴み、再び自らを抱きしめるように引き寄せた。
「今もさ、上着もヘッドフォンも、ビイトの好きな音楽も……こうしてるとビイトがすぐ近くに思えて、嬉しいんだ。もう一人じゃないんだって感じられる」
そう言って、心地良さそうにヒップホップに耳を傾けている。ビイトは肩に置いたままの手で、細い身体を自分の方へ引き寄せた。
「一人じゃねぇよ。もうRGに居る、皆が居るし……俺もいつでも側にいてやる」
「……うん」
もう少しこのままで居たい、と言うように、ネクはくたりとビイトに身体を預けていた。掌から熱が伝わる。すぐ傍にあるこの温度が、またほんの僅かな隙にフッと消えてしまいそうで怖くなる。感触を確かめるように掌に力を入れ、華奢な肩を少しだけ圧した。もう二度と離してしまわないように、しっかり繋ぎ止めておきたかった。
雨はまだ止む気配がない。
バス停の小さな小屋の中に二人並び、湿っぽい空気に包まれながら雨音の中降り込められている。