パッシング・スルー→ 哀しみ、という感情が好きじゃない。
頑丈な箱の中に仕舞い込んで、ポップな色のマステで何重にもグルグル巻きにして閉じ込めておいたはずなのに、いつの間にかのそのそと這い出して胸の奥にズンと居座っている。覚えの悪い犬みたいだった。或いは貝殻とその内側の身のようでもある。頑丈なカルシウムでがっちりと外側を覆っていても、抉った中に眠っている本体はグチャグチャと柔らかく、白く、そして無防備だ。
こないだの11月にじいちゃんの家に遊びに行った時、家族で外食に行って生牡蠣を食べた。貝殻の中身はぐちゃりと濡れて纏まりがない。その時ふと思った。
心というモノにもし形があれば、それはきっと貝の中身みたいにグチャっとしている。柔らかく傷つきやすい。そんなに綺麗なものでもない。
「觸澤、そろそろ交代でいい」
画面左側に現れた帆立の握りがゆるゆると流れていく。パタパタ言っていたキーボードの入力音が止んで、握り寿司は箸付かずのまま右端に消えてしまう。
「觸澤!おまえの番!」
「あ……そか」
やや強い催促で我に帰らされる。去年のことを思い出してボーッとしていた。椅子を引いて端末を譲ってくるペアの相手にゴメンゴメンと謝って、ついでに訂正する。
「てかフレットって呼んでってば」
「それ気に入ってんの?」
「じゃなきゃトウサイの方で」
「……フレット。いいから始めろって、おまえまだ終わってないだろ?」
「はいよー」
先に課題を終わらせた彼が遊んでいた “ 寿司打 “ のページを一旦落とし、交代前まで取り組んでいた自分のターミナル画面に戻す。プログラミングの授業はこれで3回目で、今日でif構文を使った分岐の処理までが課題になっていた。情報棟の端末の数と教師の手間の都合上、授業は二人一組で行われる。たまたまペアになった奏竜胆君 (リンドウと読むらしい。以降リンドウ) はこういったパソコンの操作に強いようで、あっという間に指定された文字列を画面に表示させた。
「これ答え教科書に書いてないんだけどぉー」
「答え書いてあったら課題になんないだろ……ほら、お手本」
リンドウが軽くキーボードを引き寄せ画面の一部を書き換えた。ボタンを押すと、味気ない黒画面に”果物の名前を入力してください” の白い指示が現れる。ん、と促されるまま、適当に「りんご」と打ち込めば “りんごは果物です “、「ねこ」と打ち込めば “ねこは果物ではありません” とプログラムは返事する。
「こんなの簡単」
「はー、リンドウすっげ〜」
「家でちょっといじってたしな」
リンドウは少しだけ誇らしそうにパチパチとキーボードを打ち込む。「ちなみに次の課題の分はこれ」
パタパタと再びキーボードが鳴り、画面の文字が書き変わっていく。Runのボタンを押すと「果物の情報を表示します」と文字が現れた。同じように「りんご」と打ち込んでやると、”値段:100円 賞味期限:4月28日” と表示される。
「……ってことで、フレットもすぐできるよ」
はいどうぞと再び押しやられたキーボードに手を乗せて文字列を打ち込み始める。自分はあまり得意ではないが、この時間で提出ができなかった場合はリンドウも居残りの巻き添えになる。彼もそれを気にしているのだろう。「見ててやるから」と微妙な親切を発揮してくれた。
「…print…」
「フレット、括弧抜けてる」
「あー……」
パチパチ、カーソルを少し戻す。宣言した通り彼は俺の入力を逐一チェックしてくれている。
「if……name…in、fruits_names…」
「そうそう」
飴玉1個ぶんくらいの小さな親切。何かが心に引っかかるのを、感じる。
「……elif…name…in、begetable…」
「フレット、タイプミスってる」
彼が指差した先には小文字のbがある。ああゴメン、と再びカーソルを戻す。棘のように小さく温かな違和感が心に残り、追い払わないと、俺は思う。
「ってかホームポジション覚えた方いいと思う」
「ホームポジション?」
「この、エフとジェイのとこ……」
リンドウの白い手がキーボードに寄せられエフの部分を差す。その際に少しだけ手先が触れて、あっゴメンとリンドウは即座に手を引いた。けれど俺的には遅かった。
温かい、手だった。思い出してしまった。あんまり思い出したくはなかった。
“ フレサワくん、どこ調べてた? “
“ んー、東京都のページ “
思い出に浮かんできたのは中学校のパソコン室の光景だった。眩しいほどに白く、大机の上に同じ形をしたパソコンが横並びで整列されている。
あの頃も同じような授業があった。但し今のようにプログラミングではない。もっと初歩的な、ネットリテラシーや調べごとのやり方を習うための「情報」の授業だったはず。ともかく、ドメイン? がしっかりしたページからの情報だけで47都道府県の人口を調べて、図を作るとかの課題が出ていた。ペアになって10分交代で一台の端末を使い、操作してない方は紙に情報をメモしたり図の下書きをしたりする。
俺はその頃親友だった男友達とペアを組んでいた。彼もPCの操作が上手かった。俺も検索とかマウス操作とかは一応出来るけど、その先の表計算ソフトや図表ソフトとなると格段に作業が遅くなる。だから実際に図を起こしたり調べごとをするのは彼に任せ、自分は紙に情報を纏めることが多かった。課題は課題だから俺も最低限くらいは端末に触れる必要があったけど。
“ フレサワそれさ、東京都よりは全国の方がいんじゃね? “
“ 全国?ってどこ見れば分かんだろ “
“ セイフ?ナイカク?とか? “
そう言って彼はキーボードを引き寄せ、国の統計ページを画面に表した。
“ これっぽくね? “
“ これっぽい!やっぱスジがいいってか、アタマいいよねぇ “
“ だって早く終わらせて帰りたいからね ”
彼はにっこりと笑う。
“ フレサワも居残り嫌だろ? “
“ そりゃね〜。てか今日部活ないから一緒に帰れる? “
“ いいよ……あ、 “
俺の書いたメモに目を落とした彼が呟く。なに?と問いかけると、彼はフッと笑って紙上の書き込みにそっと触れる。
“ ここ、メモ間違ってる “
“ あー悪い “
そのとき彼の指先が俺の手に少し触れた。温かい手だった。あっワリ、と彼は急いで手を引いた。
— 中学3年のことだった。情報の授業は2学期の後半まであったけど、彼とペアを組んでいられたのは2学期の初めの方までになってしまった。学期の途中で彼はいなくなって、代わりに先生とペアを組む羽目になった。おかげで課題提出が遅れることはなかったけど親友とやってた時ほど楽しくなくて、俺はずっと黙りこくって中学の情報を終えた。
リンドウは違う、死んでしまった彼とは違うと自分の中で整理をつけていた。つもりだった。
それでも時折重ねてしまう。しっかり区別しているつもりではある。彼よりもずっとふてぶてしい表情をしている。重ねてしまわないようにあの頃とは違う名前で呼ばせている。それなのに、施錠しきれなかった胸の辺りからぐじゅぐじゅと滲みるような感情が溢れてつんと鼻先に抜けた。だから哀しみという感情はキライだ。勝手なタイミングで勝手に湧いて出てきて、制御できずに皆に迷惑をかけるから。
キライだった。
ぱたりと滴が机に落ちる。ざらざらした白い机の表面に一滴ぶんの涙の滴が少し広がり、小さな小さなドーム状になる。目線を下げていたリンドウがこちらを向いて不思議そうな表情をした。
「フレット?」
「……っ、ゴメン」
少し声が揺らいだ。これは完全に俺のせいで、リンドウが何かしたわけじゃなくて……って言いたかったけど、言うほどに止まらなくなってしまいそうな気がした。震え声になってしまうような気がした。そうして黙りこくったままでいると、キーボードに乗せられていたリンドウの右手が持ち上げられた。
人差し指だけが真っ直ぐに立った状態のまま、自らの目の下にそっと当てる。それから何も言わないままでグシグシと雑に拭う動作をした。促されるように自分も合わせて涙を指の背で払うと、彼はふっと表情を和らげる。
彼の人差し指が机の上の滴をさっと拭う。再び、キーボードの上に白い両手が構えられる。
「っと、こんな感じで……盛り上がってるとこに、人差し指置く」
「…… ”ホームポジション” ?」
「そう。いつも置く場所決めてると割と感覚で動けるようになるから」
「それ、慣れじゃん」
「だから慣れるんだって」
やってみ、と言われるままFとJの出っ張りの上に人差し指を乗せる。それからEがここ、Iがここと意外に丁寧な指導が続いて、さっきのリンドウと全く同じ構えがキーボードの上に再現される。適当に打っている時とスピード的には大差なかったが、2つのキーの上の小点は確かに指先の目印としては分かりやすい。……ような気がした。
ホームポジションの恩恵があったかどうかは不明だが、俺も何とか時間内にプログラムを完成させることができた。
「あの、リンドウ」
声をかける。授業終わり、教科書を片付けて席を立とうとするリンドウが動きを止める。
「うん?」
「えっと……」
呼びかけてしまってから、相応しい言葉がいまいち見つからないことに気づいた。
「ゴメン?ありがとう?」
「何が?」
心底不思議そうな、というか不審そうな表情でリンドウは問いかけてくる。” 変なとこ見せてゴメン” であり、”流してくれてありがとう” なのだけど、言葉にしてしまう方が不自然な気がする。少し迷って結局俺も何も言わないことにした。というか、具体的に何を感謝するものでもないのかもしれない。
「……課題、リンドウのお陰でちゃんと終わった」
「あー、全然いいよ。俺も居残りやだったし」
「次もお世話になるかも」
「かもってか多分そうだろ」
「じゃあ次もヨロシク?」
「敬語でどうぞ」
「ヨロシクお願いします!」
大袈裟にぴしりと敬礼をして見せた俺に、リンドウはふはっと小さく笑って「いいよ」と言った。それから白く細い指で見えないキーボードをパタパタと打つふりをする。
「フレットも寿司打やれば?タイピング早くなるから」
そう言ったリンドウに「練習しとく」と返して、俺も空中のキーボードに両手を構えて見せた。