Emptiness 図書室の奥、カウンター裏にある小さな扉を開けた先には一面の灰色が広がっていた。垂れ込めた曇り空が校舎とその向こうの街の沈んだ色を煙らせている。暖房の効いた屋内から一歩踏み出すだけでちりちりと凍らせるような冷たい空気が肺に染み入る。
通い慣れた白い階段に歩み寄り腰を下ろすと、金属の床の冷たさが制服越しに伝った。季節が夏から秋、そして冬へと歩みを進めるにつれて校庭の人影も減っていった。今やはしゃぎ声は聞こえず、4階の高さを吹き抜ける風の音だけが棟を掠めて鳴っていた。
校庭の端の木々はすっかり葉を落としてしまっている。
何かに嫌気がさして逃げ出したくなるたびにこの場所を訪れている。
成績は悪い方ではない。家庭環境も恵まれていると思うし、父さんも母さんも程よい距離を持って接してくれる。何か病気があるわけでもないし今日もご飯は美味しいと思う。それなのに何かが吹き溜まっていた。閉塞して行き場がなかった。ダラダラと続けているポケコヨやゲームの類の他にこれと言った趣味は持っていないし、子供の頃に習わせてもらったピアノや水泳で才能が見つかることもなかった。鳩みたいに平凡。それが自分で分かっているだけに胸が塞がる。
昨夏の“死神のゲーム”の記憶がふと蘇る。その時自分たちは渋谷という空間の中に閉じ込められ、恵比寿にも中野にも早稲田にも出られないまま同じ道をぐるぐると歩き回っていた。その時は家に帰りたいとか街の外に逃げ出したいとかそれなりに焦がれたもしたが、結局渋谷の中だろうと外に出ようと大して変わらないのかもしれない。
きっと所詮自分はどこへも行けないのだと思う。
手に馴染んだ黒いスマホを立ち上げかけて、やめた。連絡を取りたい相手など特にいないのだ。元・死神の少女がこの世へ戻ってきて以来”スワロウさん”の更新は止まっていたし、以前であれば気分が沈んだ時に見ていた空の写真を眺めるのも気が乗らなかった。
「やっぱここ居たんだ、リンドウ」
背後から届いた聴き慣れた声に、前を見たまま片手を上げて挨拶の代わりにした。秋にカウンター裏の扉の開け方を教えて以降はフレットも暖かい室内からこの場所に向かうようになっていた。彼はいつものように隣に並んで座り込む。
「寒くね?」
「寒いけど別に」
「風邪引くじゃん。寒いの嫌いでしょ」
彼の言う通り、校舎の陰で陽が入らない上に吹きさらしのこの場所にいると手足の先の方から静かに温度が奪われていく。
「……好きではないけど」
それでも学校の中で一人落ち着ける場所を他に知らないので自然と足が向いてしまうのだ。春先から通い慣れたこの裏階段の端でなら、誰の目を気にすることなく空虚や考え事や自己嫌悪に浸ることができた。誰も — 他の図書委員も教師たちも、もはや覚えていないのだろうこの空間を未だに訪れるのは自分たち二人だけだった。忘れ去られたようなこの場所に居れば、不明瞭な未来から身を隠して安心していられた。
「ここで黄昏れてたんだ?」
「まぁそんなとこ」
「ん、もしかして一人の方がいい? 邪魔だったら俺帰るけど」
どーしよっか、とフレットはこちらを覗き込むようにした。頼んだ訳でもないのに、不思議と彼は自分の手持ち無沙汰な時間にふらりと隣に現れる。特にこの場所を訪れる時はいつものように煩く話しかけるでもなくただただ空を眺めていることが多かった。
彼にしては珍しいと思っていたが違和感や嫌悪感という程ではない。
「……帰っても別にいいけど、居てくれると嬉しい……かな」
“どちらでも良い“より少し偏った回答に、フレットは嬉しそうに微笑みを返す。
「おけ、帰りたくなったら声かけて」
そう言って遠くに目線を逸らした彼に合わせ、自分も膝を抱えて同じ方向に目をやった。制服越しに相手に触れている部分だけが外気から守られ、ぼんやりと温度を帯びてくる。自分の方が少し背が低いこともあり吹いてくる風が少し遮られるのも正直有り難い。
「あれ見える?リンちゃん」
「あれ?」
彼が指差す先で黒い雲は途切れ、その隙間から太陽光が細く真っ直ぐに降りてきている。神々しさや幸福感を思わせる軽やかな薄黄色はダークグレーの空を背景にいかにも暖かそうだ。
「天使の梯子、って言うんだってさ」
フレットは人差し指を立て、言葉を覚えたての男児よろしく得意げにしていた。
「おまえその言葉似合わないな」
「えーひっど……」
「どこで聞いた」
「なんかの動画? 光の散乱とかだっけなー」
ふーん、と適当に相槌を返したきり少し黙って二人で光の柱を見つめる。澄んで穏やかだった。そこだけは汚れが祓われたように透き通っていた。 —そんな冬の景色を二人で並んで眺めているのは何となく悪くないように思えた。吸い寄せられるようにその一筋から目を離せないでいると、茶化すような人懐こい声が耳に戯れついてくる。
「なんかさ、俺リンちゃんの考えてること分かっちゃったかも」
フレットがニヤニヤと笑みを向けている。何、と追い掛けると彼は再び視線を遠くの街の上に注いだ。
「キレーだよな」
「うん」
「俺も、リンドウと見れて良かった」
「……そうかよ」
くぐもった声を制服の襟の中に隠すようにする。こちらの気持ちを形にしてくれたような相手の言葉に、じわりと胸の奥が滲みる感覚があった。と同時に内心を覗かれたような面映さに顔が熱くなる。それを見下ろしたフレットは「当たりっぽいね」と機嫌よさげに言って、それから寒いでしょリンちゃんと肩を引き寄せた。どうせこの場所は誰にも見られない。力を抜いて逆らわずに身を任せると、ブレザーの中に籠もった少し高い体温がぎゅっと押し付けられる。
そうして日陰の中で肩を寄せ合いながら天使の梯子が消えていくのをしばらく眺めていた。何もない、あるつまらない冬の一日のことだった。