融解するオレンジ フルーツナイフの切っ先が小さなブラウンの塊にずくりと沈み、断面から柑橘類だろうオレンジ色が覗いた。細い指が切り分けられた片方を摘んで皿に乗せる。続けて、宝石のように並べられたショコラの一つ一つに薄い手が添えられ、サクサクと順番に二等分されていく。膨らみを帯びた正方形、白い粉砂糖がかかった小さな球、砕いたナッツの凹凸が浮き上がったドーム型。
ビー玉大のチョコレートが次々に切り分けられていくのを、炬燵に頬杖をついたままの姿勢で見守っていた。冷蔵庫に入れておいたため固くなってしまったのだろう、相手の手元には不自然に力が篭っているように見える。注意の言葉を投げかける。念のため。
「フレット、指切るなよ」
手を止めないまま、彼は朗らかに返した。
「だいじょーぶ、リンちゃんじゃないんだし?」
「なんで俺」
「リンドウ不器用そうだからさ」
馬鹿にするなと文句を言いかけたが、切り分け役を申し出た彼に逆らわず包丁を任せたのは自分でもあるし口に出さずにおいた。代わりに白いマグカップの紅茶を啜って湯気を吐き出す。相手も作業を一旦止め、ナイフに付いたペーストを細い指先で拭って口に含んだ。
「うまい?」
「んー」
フレットは顔を綻ばせて同意し、俺の目の前のと同じ白いマグに口をつける。
所謂「高級チョコ」というものに触れるのは15年余りの人生の中で初めてのことである。かつてバレンタインに女子から贈り物を受けたこともなくはないが、あくまで手作りの生チョコやガトーショコラ、あるいは義理で貰う市販のお菓子に留まっていた。勿論有難く受け取ったしその後甘ったるいお付き合いも無いでもなかったのだが、結局全て長続きせず立ち消えになってしまっている。そんなこともあり、この時期のチョコレートにはあまりいい思い出がない。彼に誘われでもしなければ自分で何か買いたいと思うこともなかっただろう。
「こういうお高いやつってさ、美味しーのかな」
フレットの目線は曇りなく磨かれたショーケースに釘付けになっていた。その内側にはピシリと角の立ったリボンで包装された小箱がちょこんと収まっている。
「チョコならあんま変わんないような気がするけど」
「かもねぇ」
入学後からよく休日を共にしていたが、夏以降は放課後も連れ立って過ごすことが多くなった。その日も揃って早めに自習を切り上げ、渋谷駅直通の食品店街に道草を決め込んだ。赤を基調に感じよく装飾された地下空間は甘い匂いに満ち、行き場のない幸福感がフロアのあちこちにフワフワ漂っていた。
「ってかフレット、こう言うの食ったことあるかと思ってた」
仰々しい苗字や時折見せる整った所作からして育ちが良さそうな雰囲気があるし、自分よりは高級な品を食べ慣れているのではないか。そう勝手に想像していたのだが、彼はブンブンと大仰に手を振って否定した。
「いやいやいや!てかこんなの貰い物でもなきゃ食べる機会ないじゃん」
「そうなんだ……でもおまえモテそうだしこういうの貰ったことあるんじゃね?」
恥ずかしそうに苦笑を返される。
「バレンタインにチョコ貰ったことはあるけどこういうのじゃないって」
「そっか、俺も」
そう言って苦笑いを交わし合った。恋愛関係の経験がありそうな相手ではあったが、確かにそれとこれとは別の話だよな、と一人で納得して自分もショーケースに目を落とす。親指より少し大きいくらいのチョコレートが6つで2500円、8つで3000円。この時期にデパートを通り過ぎるたびに価格帯に驚かされていた。コンビニや購買で買ってシェアする市販品とは格が違う、とでも言うように、彼らはガラス戸の中で誇らしげに艶を放っている。
自分には手が届くまい、と言われているようで何となく悔しい。
「…フレット、 食べてみたいとか思う?」
「え?まぁうん、それなりには?」
スマホを取り出ししばらく放置していた渋Payの旧アカウントを立ち上げる。残高の数字はまだ6桁以上残っている。
「興味あるなら買って分けるか」
「いいの?」
「死神ゲームで稼いだ分がまだだいぶ残ってる」
不思議なことに、昨夏に稼いだ電子マネーは ”死神ゲーム” が終わっても消えずに引き継がれた。バッジを売った対価はリーダーである自分が回収して食事に買い物にとやり繰りしていたのだが、ゲームが終わったあとはその資金の処理が有耶無耶になってしまったのだ。ショウカとはしばらく会えなかったし、自分も含めた他メンバーは誰も財布の中身になど頭が回らなかった。結局、殆ど手付かずのまま手元のスマホの中に眠り続けている。
「奢ってくれるんだ」
「奢るってか微妙に俺だけの金でもないし?」
「マジで!リンちゃん素敵!」
「ハイハイ。フレットが選んでいいよ」
彼は餌を前にした犬よろしく目を輝かせていたが、迷った末に8個入りの長方形の箱を指差した。そのままカウンターの奥の店員に注文を告げる。男二人でデパチョコを購入する姿に何かしら訝しいものを感じたのかもしれない、紙袋を手渡す店員の笑顔はぎこちなく引きつっていたが、全力で無視して「ありがとうございます」とだけ挨拶を返した。
「手つけないで俺んちの冷蔵庫に入れといてさ、次リンドウが遊び来たときに分けるってことでどう?」
「ん、おけ」
決まりだな、と差し出された相手の手に、まだ固くガサついているブランドの紙袋を手渡した。
そうしてフレットと文字通りショコラを分け合っている。
「せっかくだし全部の味試してみたいじゃん!」と主張した彼によって砂糖菓子のようなボンボンは全て几帳面に二等分され、二つの小皿に綺麗に並べられていた。
いただきます、と手を合わせる。真っ白な粉で化粧したトリュフの半片を小さな金のフォークで突き刺し口に含むと、外側の粉砂糖が雪のようにほろりと溶けて少し冷たい食感を残した。舌を刺すような甘味を温くなった紅茶で中和する。
「はー、やっぱ美味しーねリンドウ」
「うまいはうまいけど値段相応かは分かんないな」
「んー、繊細?ってのかな、手がかかってる感じする」
そうかな、と確かめるようにホワイトチョコレートをフォークで捉えて口に運ぶ。中に詰められたキャラメルは重たい食感だったが、ライムらしき酸味が後味を爽やかなものにしていた。確かに手がこんでいる、多分。3000円に値するのかどうかは分からないけれど。
次の一粒にフォークを伸ばしかけて、その内部のクリーム色めいた褐色に手を止めた。コーヒーのようにもピーナツクリームのようにも見えて得体が知れない。
「これなんだろ」
「えっと…ナッツ系?」
放り出されていた外箱に手を伸ばしたフレットが説明書きを読み上げた。「カカオ、キャラメル、オレンジ、ヘーゼルナッツ…うん、多分コレだわ」
「……じゃあいいかな」
差し出しかけたフォークを引っ込める。食べ慣れないもの、オーソドックスでないものはあまり好きではなかった。勇気を出して口をつけて万一嫌いな味だったら…と考えると腰が引けてしまうので、普段から新メニューや流行のスイーツなどはあまり口にしない。家族もあまり食に関して先進的な方ではないので、普段の食卓にのぼるのもごく一般的なメニューに留まっている。
「あれ、食べないの?リンドウ」
「…いい。フレットにあげる」
「何でよ、もったいないじゃん」
むー、と唇を尖らせている。
「食べたことないから俺はいい」
「そう言うなって!マズかったら口直しすればいいし、チャレンジチャレンジ」
彼は見かねたように皿の上の塊にフォークを突き刺し、はいあーん、とこちらに差し出した。いいって、と一度渋ってみたものの怯むことなく、目を逸らさないままフォークの先端を差し向けてくる。気圧されるようにして大人しくチョコレートの欠片を齧りとって口の中で溶かした。少しクルミに似た味がまったりと広がって喉の奥に落ちる。濃い。しかし苦すぎるとか香りが強すぎると言ったこともない。……美味しい、かもしれない。
「不味くはない」
「でしょ!食べれるもの増えたじゃん、よかったね」
機嫌よさそうに言われると良かったような気にされてしまう。いつものことながら、丸め込まれているようで何となく悔しい。
定番メニューを頼みがちな自分と異なり、フレットは流行りや限定モノに積極的に手を出す方だった。それだけなら勝手にすれば良いが、彼は頼んでもいないのに自分の注文から少しだけ切り分けては「美味しいから食べてみ」などと強引にこちらの皿に乗せてきたりする。そうしてニヤニヤ笑いを浮かべながら、恐る恐る手を伸ばす俺の様子を見ている。ずんだ団子もパニプリも鰹節が乗ったビリヤニも、彼に押し付けられなければ一生食べずに済ましてしまったかも知れない。…基本的に全て、食べなくてもこの先の人生に全く差し支えない気はするが。
そういうの良いから、と断ってみたこともある。しかし「せっかく美味しいもの食べるんだからカンドウを分かち合いたいじゃん」などと恥ずかしい台詞を堂々と口にするものだから、以降は黙って一口分の分け前を受け取ることにしていた。そうまで言われて否定するのは流石に気が引ける。
「リンドウ、オレンジ好きでしょ」
彼の呼びかけが思考を断ち切り、慌てて返事を返す。
「あ、うん」
「それ俺のぶんも食っていいよ」
フレットが指差した先には橙色の塊を包む三角のショコラがあった。先ほど読み上げられたリストから考えれば、多分オレンジ。
「フレット、もしかして嫌いだった?」
「いや?ただリンドウが好きならあげても良いかなーって」
それから「どーぞ」と皿をこちらに押し出し、いつものように観察モードに入ってしまった。食べてみたいと言い出したのはそちらなのだから妙な遠慮をせず食べてしまえば良いのに。溶けるような夕陽色の断面が、食べられるのを待っているかのようにつやつやと照り光っている。
「半分でいい」
「あ、甘いの飽きたカンジ?」
「じゃなくて……その。せっかく美味しいもの食べるんだし……」
流石に恥ずかしくなって全部は口にできず誤魔化したが、それでも十分に伝わったらしい。フレットは一瞬惚けたような顔をして、それからしたり顔で後を継いだ。
「カンドウを分かち合う」
「……それ」
「リンドウに言われるのなんか新鮮だな〜」
「いいから」
ほら、と手元の橙色を摘み上げてやる。嬉しそうに開けられた口がぱくんと欠片を咥えた。雛鳥に餌をあげているような感じでちょっと楽しいかもしれない。しばらくしてからその喉がクッと動いた。夕陽色のチョコレートが奥に落ち、熱で溶かされていくのを少し想像する。
「美味しー。食べさせてくれたからかも」
「言ってろよ」
「リンドウもはい、あーん」
答える間も無く残りの半分がこちらの口元にずいっと突き出され、瑞々しいシトラスの香りが鼻先を擽った。オレンジの匂い。じんわり甘く懐かしく、そしてストンと落ち着ける匂いだといつも思う。少し骨張った指先から半分だけのショコラを咥え取る。
夢見るような柔らかい甘みと共に、舌を刺す軽い苦味が長く口に残った。