鳳凰は微睡む急に影が落ちた。
頭上に何かがあるのが分かる。自分を押し潰すに足る重い何かが。多分、もう間に合わない、助からない。それを理解したフレットの脳は早くも16年分の走馬灯を上映し始めた。脳内をいくつもの思い出が巡る。家族と行った海外旅行、初めて自分で選んだ服、中学時代に親友と登校した風景。それなりに楽しい人生だったかな、などと諦め混じりの思いでそれをただ見つめていた。
脈絡のない追想の最後に浮かんだのは、ついさっきまで共に真昼の渋谷を歩いていた親友 — リンドウの姿。
流行のバッジを二人分手に入れて、一緒にカレーを食べてスクランブル交差点に戻って。そしてその後、SF映画の撮影会かフラッシュモブのようなイベントに巻き込まれて、それで……。
「フレット!」
耳馴染みのある声が鋭く自分の名を呼ぶ。次の瞬間、横殴りのような衝撃とともにガシリと掴まれる硬い感触があり、そのまままるで宙に浮くように自分の身体は影の下から強い力で押し出された。直後、ゴシャ、というような潰れた音を立てて白いトラックが横倒しに落ちるのが視界の隅に見えた。
「…間に合った」
あのトラック事故から間一髪助けてくれたのはリンドウらしい。しかし。
「さ、サンキューリンドウ…でも、それ…」
異様な姿をしていた。背中からは層をなす巨大な翼が生え、腰からは何本もの銀の尾が放射状に広がる。鉤のように鋭い突起が連なった尾羽の先端は、七色の光を放つ宝玉で眩しく彩られていた。フレットを抱きかかえた格好のまま苦もなく高度を上げ、見事な翼をはためかせて渋谷上空を飛び続ける。
「コスプレ?」
「コスプレじゃないけど」
変わらぬ低い調子でリンドウは答える。眼下では灰色の街の光景が流れ続けている。なるほど、彼の翼は偽物などではないのだろうと、フレットは一人自分を納得させた。
「うん、だよな。飛んでるもんな」
「とりあえずまだバトルになってないとこで下ろすから」
「お、おう…?」
“バトル”の意味も理解できぬまま、理解することを諦めたフレットはひとまずの同意を返した。
クイと顎で示された先は白とピンクの塗装が目を引く104ビル、その屋上。
宣言通り翼を畳むようにしながら緩やかに下降し、ストンと軽い音を立てて着地する。さすがに腕が疲れたのだろう、フレットを地面に落ち着けたリンドウは確かめるように両腕を軽く振った。
「ゴメン、俺重かった?」
「いや、別に大丈夫」
それにしても不思議な姿をしている。見慣れたパーカーとコートのどこから翼と尾羽を出しているのか不思議に思っていたのだが、紋様のような形のそれは身体とは少し分離しているらしい。
「改めて、それ何?」
「…チート的な?」
リンドウは片手で軽く頬を掻いて答えた。
「えっと……詳しく説明すると長いんだけど、俺たちは死神ゲームに巻き込まれて、それで俺はリスタートの能力を手に入れて……」
「死神?リスタート?ちょ、リンドウ、何言って……」
「あーもう!」
焦ったそうにリンドウは頭を振る。
「色々あって命がけのゲームに巻き込まれたんだけど、俺が「時間を戻す」能力を持ってたから大体なんとかなった」
「時間を戻す?それってチート強くね?」
「だからチートなんだって…その能力で大体なんとかなったけど、この時間のおまえだけは助けられなかったから。だから迎えに来た」
うーん、と唸りながら話を整理していたフレットだが、やがて理解することを完全に諦めてしまった。要約すれば大事なのは2点だけだ。
自分は死ぬところだった。それをリンドウが救ってくれた。
「…なんだか良くわかんないけど、助けてくれたんだ。ありがと、リンドウ」
「どういたしまして」
「それにしても……なんか、可愛いな。その羽」
「か、可愛い!?」
弾かれたようにリンドウはギクリと身を強張らせた。広がった羽が一瞬で縮こまる。感情表現の乏しい彼にしては珍しいほど急速に頬が赤らんでいく。顎まで引き揚げた黒いマスクの辺りに右手を遣りながら気まずそうにボソリと口にした。
「あんま見るなよ…恥ずかしい」
「えー。別にいいじゃん。ふわふわで可愛いな〜」
そのまま思い切り抱きついた。大きな翼ごと両手で束ねるようにして抱え、軽く撫でるとリンドウの喉からクックッと鳥の地声のような笑い声が漏れた。
「ちょ、フレット…くすぐったい」
「あったけ〜」
紋様のような翼は案外柔らかく、ふわりと擽るようで指ざわりが良かった。外套の下にも人間のものではない羽毛のごわついた感触があり、抱き締めるともふりと掌が沈み込んで心地よい。モフモフだー、と夢中で暖かな翼を撫で続けるフレットは、まだ気付いていない。
長く伸びた巨大な尾羽が全身を包み込むように広げられていることに。
親友の口元が嬉しげに吊り上がったことに。
もう離さないから、と小さく呟いたその独白に。
「『継続』だァ!」
「おまえも飽きないな」
「ガッハハ!まぁな!」
鹿柄の黒いTシャツを羽織った男が甲高い笑い声を上げた。今週もゲームの戦況は全く変わらない。トップチームは「ルーイン」、その望みは「ゲームの継続」 — これが既に20週も繰り返されている。新しいチームが入ってくることも今あるチームが解散になったりすることもなく、ただただこの茶番を繰り返し、繰り返し、繰り返す。
同じことを考えているのだろう細躯の死神が眼鏡に手を遣り、静かに溜息をついた。
「緊張感がないと盛り上がらんだろう。敗者にペナルティでもつけたらどうだ」
「あン?俺はこの「継続」だけで十分楽しいンだがな」
「消滅ルールでも復活させたら少しは尻に火もつくだろう」
「ゲーム続けらンなくなる方がつまんねぇよ」
「…まぁ俺は現状維持でも構わんが」
それきり、かつてヒシマと名乗った眼鏡死神はパチンと指を鳴らしてゲームに一旦のピリオドを打った。しかしすぐに次週が始まり、そしてまた何事もなく終わることを、この場にいる全員が熟知している。
「…なぁリンドウ、何してんだろね俺たち」
ふわ、と欠伸をしながらフレットが尋ねる。既に3ヶ月強も学校へ行けていない。死んだ覚えもないのに「死神ゲーム」なるあの世の行事に巻き込まれ、生きているはずの友人や家族とは連絡も取れず、おまけに区切られた渋谷のエリアの外に出ることすら叶わない。生き返りたければこのゲームで高ポイントを得点しなければならないらしく、毎週毎週サイキックバトルや人探しや謎解きでのポイント稼ぎに明け暮れている。それでも、卒業権が得られるのだという「トップ」には程遠い。
「このままじゃ生き返れないじゃん?」
「さぁ…でも別にどうでもいいだろ。すぐ消える訳でもないし」
「どうでも…」
一瞬返答に詰まった。死神ゲームに明け暮れる日々にそこまで強烈な不満があるとは言えない。学校を休んでいることは確かに後ろめたいが、それ以外は普通に食事も睡眠も取れるしファッションも楽しめる。お金に苦労することもない。
何より、いつもリンドウと一緒に過ごせる。
互いに閉ざされた渋谷にいるのだから離れてしまうこともないし、ミッションを共にこなしていると助け合っている実感があって嬉しかった。何なら空き時間で渋谷をぶらついていても構わない。”生前”のように。
正直、幸せだとすら感じていた。別に一生勝てないと決まった訳でもないのだし。
「って、良くない良くない!このままじゃ家帰れないって!」
ブンブンと頭を振って膠着した思いを払う。大仰な友人の動作に、リンドウはぼんやりと頭を上げて目を合わせた。
「家…おまえの家、中野エリアだっけ」
「そうだけど?」
「帰りたいか?」
温度の籠もらない問いかけに「そりゃまぁ当たり前」と返すと、リンドウは遠い目をして空の方を見つめた。その目線にあるのは渋谷の向こう側 — 霞む風景が見えるだけで今は行けない、東京の街の西端の辺り。
「次はそこにするか」
「次?そこ?」
「何でもない」
そう言ってリンドウは顔を上げる。この頃は風もすっかり涼しくなり、エメラルドグリーンを焼けるような日差しに輝かせていた木々もちらほらと葉を落とし始めている。早くも日は傾き始め、空は薄いオレンジと藍色に徐々に染まってきていた。その空に白い鳥が二羽、三羽、飛んでいくのが見えた。微かな舌打ちに続けて、苛立たしそうな呟きが聞こえる。
「…しつっこいな…」
「何が?」
尚も空の中央、白い鳥が飛んで行った辺りをじっと睨んでいたが、ふいにフレットの方を向き直った。困ったような、しかし彼には珍しい一際優しい笑顔で、答える。
「何でもないよ」
* * *
渋谷崩壊の一件から3ヶ月が経過。
新宿に続く隣接エリアの理由なき浄化については上層部も疑問に思ったようだ。エリア調査業務であれば幹部クラスの死神、あるいはコンポーザーが代理人を立てて実施するのが一般的であるが、生憎どちらも消滅済みのため天使である私が直接調査を行っている。
かつての新宿同様、現在の渋谷は次元間の境界を完全に失い、瓦礫と粉塵と行き場のないソウルが漂うばかりである。多様なイマジネーションがぶつかり合う豊かな場は喪われ、CATの活動拠点や創作活動の跡も今や残されていない。ただの空間と堕したエリアの中心に極彩色の巨鳥が静かに佇んでいる。
渋谷の命運を握る戦いの後、鳳凰ノイズはバッジごと代理人を取り込んだ。構成波動の中にかつての代理人の「淀み」と同一のものが強く観察されるのはそのためであろう。戦闘の直後に鳳凰は再度リスタートを発動した。それによって生じた歪みが渋谷崩壊の決定打となったわけだが、一体どの時点へ立ち戻ったのだろうか。私には知る由もない。
鳳凰は崩壊した渋谷エリア中央付近に舞い戻り、以降安静を保っている。刺激しない程度に性質を調べているが、このところ波動の抵抗が少し大きくなっているように感じる。これだけ強大なノイズが暴れもせずに眠ってくれているのは僥倖としか言いようがない。しかしこれも単なる小康状態にすぎないのかもしれない。万一目覚めれば地球規模の災厄となりかねない。
対処を急がねばなるまい。