Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    限界羊小屋

    @sheeple_hut


    略して界羊です

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 68

    限界羊小屋

    ☆quiet follow

    まいにちフレリンチャレンジ

    壁打ち***************
    バケツビリヤニ失敗譚
    ***************

     死神たちがどういった基準でステッカーを貼る店を選んだのかは知る由もない。二人がUGに足を踏み入れた最初の日に昼飯候補に上がった二店 — 麺屋「鈴」とカリーカラージャの2店ともがその選択肢に入っていたのは、ただの偶然かもしれないし、もしかしたら二人の様子を見ていた猫耳フードの死神の気まぐれかもしれない。「ゲーム」が始まる前、二人は昼食候補に少しだけ迷った。ラーメンかカレー、と提案したのはフレットで、二つの店を行き来しながらしばらく悩んだのはリンドウだった。結局その日はフレットの好みに合わせてインドカレーを選択し、揃ってチキンカレーを平らげた重たい胃を抱えたまま知人を探しに駅前に向かった。
     インドカレーの味はRGの記憶とシームレスに繋がっている。
     それが理由か、二人はすぐにこの店に足繁く通うようになった。
     ミッションの中で104や道玄坂に向かうとなった途端、二人の雰囲気がソワソワと浮ついたものとなる。行こうか、行くか、まぁ時間があったらな、としきりに目配せする二人を、後にチームに加入したナギも、ビイトもショウカもネクも呆れたように肩を竦めて見守っていた。
     ナマステと少し低い声に迎えられて店内に足を踏み入れれば、そこには二つの次元から見慣れた光景が広がっている。
     重たい色調の壁紙とガネーシャ神の小像。
     少し調理油が残っててらてら光る長テーブル。
     高台に据え付けられたTV。その画面にはいつも少しぼやけた異国の映画が流れていた。祭りの行列が市場を割るように練り歩き、肌の浅黒い男が拳を構えて見得を切り、色とりどりのサリーを着た女性が画面越しに科を作る。そんな雑然としたエスニックに全身で浸っていると死神ゲームもミッションもつい忘れてしまいそうになる。ランチプレートを平らげて潜り出るスライド扉の外には、また退屈で平和な昼下がりが続いているように錯覚する。
     休憩と称してさんざん通った甲斐もあり、死神ゲームが終わる頃にはすっかりこの店の常連扱いになってしまった。今では店長のアラディブにもしっかり顔を覚えられており、今日のように内輪向けの試作品を試させてもらうこともある。

    「なーリンドウ、あの人先週も出てなかったっけ」
     TVには立派な口髭を持つ大柄の男が映っている。それを指して、今日もスマホ操作に精を出している友人にのんびりと呼びかけた。
    「見てないから分かんないな」
    「見せたじゃん!先週もアクションやってたじゃん」
    「覚えてない」
    「思い出せーッ!」
    「そのヒト、スター俳優。有名どころ」
     見た見てないとじゃれあいを続ける二人の脇にヌッと現れた人影は、店長のアラディブだった。手提げにしているバケツ容器は両手でやっと持てるほどの大きさがある。テーブルの中央に置かれると、どし、と貫禄のある音を立てた。
    「バケツビリヤニ!お待たせした。今皿持ってくるので待って」
    「うわー、聞いてたけどやっぱデカいな…」
    「元々大食いメニューだって言ってたしな……無理ならタッパーに入れてもらおう」
    「んー、行けるとこまで行ってみよーよ」
     配膳された皿に二人で取り分けていく。パラパラとした長米の下から丸のままの茹で卵や骨付きの鶏肉が次々と姿を現す。しかし皿がいっぱいになるほど盛り付けてもバケツの中にはまだ3分の2ほどもビリヤニが残ったままだった。先行きへの一抹の不安を抱えながら「いただきます」と手を合わせる様子を、店の奥からアラディブの二つの瞳が面白そうに見つめていた。
     がおっと大口を開いてフレットが最初の一口を含み、咀嚼し、飲み込む。スパイスの複雑な香りが口の中をいっぱいに満たし、鼻と喉に抜ける。
    「ん〜、んまい」
    「食ってから話せよ」
     そう言ってからリンドウもビリヤニに取りかかった。
     互いの皿の上の山盛りの米が少しずつ減っていく。尽きるたびにバケツの中から次のスクープが取り出され、しばらく黙々と食事の時間が続く。しかし順調だったペースはおかわり3回目から顕著に落ち、やがてピタリと止まった。
     まだバケツの中には3分の1ほどビリヤニが残っている。
    「…フレット、食べる…?」
    「いやー、もういい…かな」
     二人の体は今やホカホカと熱を帯びている。胃が重たく、ずっしりと毛布のような眠気が襲いかかってくる。元々が「30分で食べきったら無料」という趣旨のチャレンジメニューなのだから、二人がかりとはいえ食べ切れないことも十分想定のうちではある。じゃあタッパー貰ってくるわ、と席を立ちかけたフレットの後ろで、ガラリ、と店の戸を開く音がした。
     戸外の夏の光を背負って、黒いコートを纏った長身の男が、まるで睨むように店内を覗き込んでいる。
    「……あ」
    「……あ?」
     呆気にとられたようなリンドウの声を受けてフレットも振り向いた。その途端、ブルーの瞳が跳ねるような光を宿してキラリと揺れた。
    「ミナミモトさんっ!」
    「……ゼプトども」
     二人を避けるようにひらりと向きを変え、踵を返そうとしたミナミモトの背に素早くフレットが抱きつく。
    「ミナミモトさん!ちょうど良かったっす!ビリヤニ余ったんで!食ってきませんか!」
    「鬱陶しい!離れろ!」
    「ミナミモトさんもカレー好きなんすね!」
    「ヘクトパスカルが!」
     アラディブの太い声が店の奥から加勢した。
    「今日もマサラドーサ?」
    「うるせぇ!」
    「すみませんミナミモトさん!」
     未練がましくしがみつくフレットをリンドウが剥がしたことによってようやくミナミモトは解放された。なおも互いにもがき続ける二人を気に求めない様子で、長く伸びた自分のコートの裾を軽く払う。
    「…何の用だ。ゼプトグラム」
    「えっと…その、」
     多すぎて、余しちゃって。よかったら手伝ってくださいませんか。そう言って頭を下げ、上目遣いでじっと見つめる視線に耐えかねたようにミナミモトは顔を逸らした。黙ったままでソファー席にどっかと座り込み、バケツに残ったビリヤニを掬い始める。
    「ミナミモトさん!あざっす」
    「……次は計算して注文しろ」
    「お客さん、オトクしたか。嬉しそうですな」
     店の奥から届くアラディブの揶揄いを「フン」と鼻を鳴らして切り捨て、ミナミモトはぱくぱくとビリヤニを口に運び続ける。二人の少年はテーブルの向かいに腰を落ち着けてその様子を眺めながら、食後の火照る身体をしばらく冷やしていた。

    ***************
    世界の終わりとアイスキャラメルカプチーノ
    ***************

     大気がグラリと揺らぐ。波の中心で頭を抱える親友の周囲で、明るく鮮やかな緑の光が渦のように巻き上がる。初めて見る光景のはずなのにどことなく既視感があった。彼の言葉が正しければ今の俺も何度か”やり直した”後の世界にいるのだから、やり直す前のどこかの次元で同じものを見ていたのかもしれない。目に焼きつく眩い光が去ったのちに残されたのは、ぼんやりと突っ立ったままのリンドウと、じりじり距離を詰めてくる渋谷シンドロームの被害者の皆さん、それからその輪の中央の俺たち。
     いや残されるのかよ!
    「リンドウ!起きて、起きろって!」
     いくら呼び掛けてもリンドウは応えない。ただ焦点の定まらない目で中空を見つめている。
    「ビイト!これどーすんの!?」
    「あぁ!?」
     乱暴に答えたビイトに女子二人も大声で張り合う。
    「おおおおそらく時間戻し案件かと!」
    「てか多分もう戻った後!」
    「よく分かんねぇが…アイツら相手にバトルって訳にもいかねぇ、か」
     じゃあ、逃げんぞ!吠えるように叫んだビイトが勢いよくボードをプッシュして人波みに突っ込む。ゾンビのように首を下げてふらついていた人々もスケボーの勢いに少しだけ怯み、一隅だけの隙間ができた。その隙間目掛けて走る。 — リンドウの手を思いきり掴んで引っ張ったまま。
     無我夢中で走り続けた。チームメンバーに気を配る余裕なんてなかった。ただただ宇田川町を、千鳥足会館前を、センター街を駆け抜けた。消えてしまうはずの時間の中でもがき続けることに何か意味があるのかは分からない。だが意味が無かったとしても襲われて消滅なんて真っ平だし、同じようにリンドウがたかられて消えるところも見たくなかった。意味なんて無くてもいい。終わるまでの僅かの時間だけでも構わない。かつて彼が俺の手を引いて助けてくれたように今度は俺が、リンドウを守る。
     スクランブル交差点を回ったところで忌々しい声がした。スピーカーの音は少し大きすぎて不快に割れていた。
    — ごきげんよう、渋谷の民よ。俺が用意させたパーティは盛り上がっているようだね。
     QFRONTビルから響く大音量が刺激になったのか、引っ張られるままに走っていたリンドウの手に力が籠もった。振り向けば、探るような不審げな目つきでジトッとこちらを睨んでいた。
    「誰あいつ。パーティ…って何だよ」
    「リンドウ!」
    「フレットも何走ってんだ…?空の色もおかしいし」
    「…覚えてない?」
     思い出せ、とリマインドをかけようとしてやめた。それこそ意味がないと思った。俺たちはデスゲームに参加させられていて、リンドウには時間を戻す能力があって、けど今はもう戻された後の時間だから多分そのうちこの世界は消える。そんなことを言って今の彼に何の利益があるだろう。不安がらせてしまうだけだ。
    「えっとどこまで覚えてる?」
    「さっき……道玄坂でラーメン食ったとこまで」
     走りながら考え、考えながら次々にデタラメを口にした。あー、リンドウあの後ちょっと熱中症ぽくなって倒れちゃったんだよな。で、映画の撮影?みたいのやるから俺らも道玄坂から退いてくれって。ていうかエキストラ役やってくれって。それでここまで来てる。相当無理のある言い訳だと自分でも分かっていた。だが意外にもリンドウは「そう、なんだ」と少し息を切らして手を握る力を僅かに強めた。その視線の先には端からゆっくり消えてゆく灰色の空がある。だよな、ワケわかんなくて不安だよな。俺も正直これから何が起こるのか分からないから怖いけど。それでも、少し汗をかいた薄い掌をギュッと握り返した。
     大丈夫。
     まだ消えてない。
     消えるまではせめて、俺がこの温度を守る。行こ、と声をかけて再びペースを早めた。街の所々で吠えている灰色のディジーズノイズが後ろを走るリンドウの目に入らないよう、時々彼を引っ張って誘導しながら。


    「本当に凄い色の空だな」
     水滴を纏ったカフェオレのガラスコップを前に、リンドウは肘をついて窓の外をぼんやり見つめている。窓の外の空は灰色の部分すら縮まってしまっていた。代わりに、空間ごと消え去った跡の虚無が紙が焦げるようにじわじわと広がってきている。凄い、どころではない。この世の終わりじみていた。実際そうなんだけど。
     あの後ヒカリエ前までなんとか走り通し、店内ならノイズが入ってこないだろうと自動ドアの中に無理やり潜り込んだ。暑い中の全力疾走でそれこそ熱中症になってしまいそうだったから、適当に目についた2階のカフェに自然と足が向かっていた。オーダーなんて考える余裕もなかったから店頭ポップの文字を適当に読み上げた。
     アイスキャラメルカプチーノ。
     リンドウには、いつもよく頼んでるカフェオレ。
     最後に口にするものがそんな他愛ないメニューだと考えると少しシュールだ。嫌いじゃない味なのは嬉しい。キャラメルのじゅわっとした甘味が疲れた体に滲みる。
    「なんかさ、バトロワみたいな映画で、渋谷の命運をかけた戦いーって感じなんだって」
     少し落ち着いた状態でなら、半分くらいは本当の嘘を自然と吐ける。リンドウはカフェオレを一口啜り「ふーん」と気のない返事をした。
    「変な夢…てか俺いつから夢見てたんだろ」
    「ゆ、夢ぇ!?」
     突拍子もない発言にカプチーノを吹き出しそうになった。
    「夢だろ。その辺にペンギンとか歩いてたし」
     頭を抑える。せめて変な物を見せないように、と庇ったつもりが庇い切れていなかったらしい。が、奇妙な現実に混乱するでも無く「夢」の一言で片付けてしまえるのなら自分の心配も杞憂に過ぎなかったのかもしれない。
    「あー、まぁ…夢でもいいっけどさ」
     意気込みが空振りになったように感じて盛大に肩を落とす。そんな俺を見てリンドウは何だよ、とクスクス笑った。
    「夢ね。…うん、悪い夢、見てたのかもな」
    「悪い夢?」
     彼が不思議そうに疑問形で繰り返した、その時窓が大きく鳴った。窓の外の虚無は気づけばもうすぐそこまで迫っている。おそらく、宇田川町もスクランブルももう消えた。ノイズもゲームマスター様もツイスターズの皆も、もう消えた。残っているのは今ここにいる俺たちと、このカフェくらいだ。
     今にも割れそうにガシャガシャ鳴る窓をしばらく見つめたのち、リンドウが視線を戻す。
     「俺には別に悪い夢ってほどもなかったけど…来る途中でレアモンスター捕まえれたし、ラーメンうまかったし。それにフレットとぶらつくの、割と嫌いじゃないし」
    「…え」
     独りで言ってしまってから、リンドウは残ったカフェオレを最後まで飲み干した。コトン、とコップを置いて、少し寂しげな微笑を浮かべて真っ直ぐに俺を見た。
    「これもう多分醒めるんだよな。じゃあな、」
     フレット。俺を呼ぶ声が聞こえたか聞こえないかのうちにガシャリと窓が割れ、嵐のような虚無がリンドウも俺も世界の全ても飲み込んでいく。いや言いっぱなしとかズルイだろ。
     俺もリンドウと遊ぶの結構好きだよ、とか。
     さよなら。いや、またな、やり直した後の世界でも一緒に頑張ろ、とか。言いたいことはいくらでもあったのに、ついでに言えばアイスキャラメルカプチーノもまだ少し残っていたのに。何も伝えられないままで俺の世界は飲み残しのカプチーノと共に灰色に塗れて終わっていった。

    *****************
    春風色の花言葉
    *****************
     週末ごとに何となく彼と連み、街を適当に見て歩く。そんな習慣が既に1年近く続いたことになる。じりじりと居座り続けた寒波も一旦緩み、ショーウィンドウの中には軽そうな素材の明るいワンピースが増えてきていた。3月3日を待つ街角をぶらぶら歩いていると、所々で小さな雛人形や桃の花を模した折り紙飾りが目に入る。
    「やっぱ同じグリーンでもさ、カーキとかよりは明るめの方が映えるしいいよな〜」
     隣で春物をチェックしている友人の声に、ふと思い出す。自分が「竜胆」の名を持つのと同じく、彼もまた桃の花を名前に纏っている。そしてそれがどんな花なのか、自分はよく知らない。自分にとって桃とは風邪の日に出される缶詰であり、夏になれば切って出される薄赤色の果実であり、夏頃に増えるチョコレート菓子のフレーバーでしかなかった。
     その場でスマホを取り出し、桃の花の画像をWeb百科で検索した。ふっくらとした花弁の形も、透き通るような儚さも、桜の花によく似ていた。但し桜より色が濃く、たっぷりと陽光を纏った艶やかさも併せ持っていた。人の暮らしに馴染みのある植物であるだけに、画面をスワイプするに従って説明文がいくらでも現れる。果実と品種、故事、花言葉。
     流し見しながら少しだけ考えた。
     彼の名として、この花は相応しいだろうか。
     華のある雰囲気はよく似合っているかもしれない。どんな意図でその名が付けられたのかは知らないけれど。そんなとめどない思考を続けていると頬にぷいっと感触があった。反射的に振り向いたことで一層頬の形が歪められる。犯人の方をジトリと睨むと相手は呆れたような表情で指摘してきた。
    「だーかーらーさ、リンちゃん、歩きスマホはやめなって」
     てかなに見てたの。そう言って覗き込んだフレットが「あれ」と意外そうに目を丸くする。
    「桃の花?だよなソレ」
    「知ってたんだ」
    「まーね、自分の名前に入ってるし。リンドウ見たことある?」
    「実物はない」
    「そっか」
     フレットは懐かしむように中空を見つめた。
    「俺んとこは昔は家族で見に行ったりしてたわ。ほら、俺の名前が名前だし」
    「ふーん……おまえの名前、ソレ由来だったりすんの?」
     問いかけると、相手は「ん」と軽い相槌を返した。
    「桃の花ってさ、昔は魔除けの力があるって信じられてたんだって。それで俺に悪いことが起こらないで、無事に育つように付けたって。じいちゃんが言ってた」
    「結構重いってか古風な響きだけど……嫌いじゃないって言ってたっけ」
    「だね〜、何だかんだちゃんと無事に育ったわけだし、まぁ守られてる?んじゃね」
    「守られてる、か」
     正直なところ、彼が守られているとはとても思えない。別の世界の話だとは言え、彼は一度死に、一度心を蝕まれ、一度消えた。それが受け入れられずに何度も時間をやり直したのだ。— それを知らせたことはないし、これからも知らせるつもりはないけれど。
    「そうかも?一回UG行って死んだ扱いになったのに戻ってこれてるし」
    「それは俺らが頑張ったからっしょ」
     そう口にしてヘラヘラ笑っていた。それから不意に表情を寂しげに曇らせる。
    「……ま、悪いことは起こったけどさ。アイツもだし、カノンさんも消えちゃったし。なんか俺の大切な人っていなくなっちゃうんだよねぇ」
     でも多分そんなもんなのかもな。生きてれば避けられないことだってあるし。大切な人と別れなきゃいけないことだって、これからもあるんだろうし。嫌だけど仕方ないのかな。そう続ける声は耳慣れない愁いに染まり切っていた。思わず向き直った彼の顔は夕暮れの斜めの光で黄昏色に翳っていた。
    「そんなこと言うなよ」
     彼の独白を断ち切るように告げる。俯きがちだった顔がこちらに向き直り、目線が交わる。
    「俺はいなくならないから」
    「なに、リンドウ。ジカジョーじゃん」
     自分が”大切”だと思っているの。そう言外に茶化す言葉が本心でなく、自分を守るための彼の悪癖から出たものだと知っていたから流さずに受け止める。
    「別にそう思うならそれでもいい」
     案の定彼は困ったような顔でこちらを見つめた後、あー、と気まずそうに頭を掻いた。
    「嘘、ゴメン。ありがと……リンドウは、居なくならないでくれる?」
     冴えない表情にほのかな笑みを貼り付けて、彼は右手の小指を立て、差し出す。「わかった」と答えて自分の指を重ねると、子供っぽい仕草で何度か手を振ったのちに「指切った」と勢いよく手が離された。約束だからな、と楽しげに宣言する、その含み笑いにはどこか仄暗いものが含まれていた。先ほどWeb辞典で目にした桃の花の花言葉が頭を過ぎる。
     — 私は貴方の虜。きっとその言葉の通りになるのだろう。
     “居なくならない”。彼が望む限り俺は傍に居続ける。
     しばらく彼から逃れることはできないのだろうし、別にそうしたいとも思っていない。
     光を撒き散らすように眩しい桃花の陰でもう少し春風を受けていられれば、俺もそれでそれなりに幸せなのだから。


    ****************
    保護者は語る
    ****************
    注:桃竜+尾竜+音竜+竜紫

    *觸澤桃斎*
     初見だとしっかりした感じに見えるかもしんないけど、実は全然優柔不断。クールとかじゃ全然ない。
     昼メシのメニュー決めらんないでいつまでもウンウン迷ってたりするし、結構一緒に遊びに行ってるけどどこ行くとか基本俺が決めてるし。リンドウどっか行きたいとこない?って聞いてみても、その度に「別に」ってはぐらかされてる。たまにはリンちゃんのリクエストに付き合ってみたいんだけどって強めに言ったこともあるんだけど、「フレットの行きたいとこでいい」って一言で終了。そのくせ週末が近づくと「日曜どうする?」とか声かけてきたりライン送ってきたりする。だから結局、毎回流れで渋谷集合で服見る会になることが多い。俺は別にいいしリンドウもそれで不満ないっぽいけど、いつか別の街にでも誘ってみっかな。
     これに限らず、誰かに頼るとか人任せが好きだろうなーってのはゲームの中でも感じていた。
     俺だけじゃなくてビイトさんとかネクさんに対してもそうだったし。死神ゲームの最初の頃もずっとスマホで「スワロウさん」に助言を貰ってたらしいし。それから、いっつも「アナザーさん」の格言を引いては目をキラキラさせてた。後で本人に会うことができたけど、浮ついた言葉ばっかで全然具体的なこと言わないから最初から胡散臭いなーって感じた。なんでリンドウがあんなに夢中になっているのかサッパリ分からない。むしろ、顔も見たこともない相手をそこまで無邪気に信頼しちゃうあたりは何だか危なっかしかった。案の定その悪い予感は後で的中してしまうんだけど。
     モトイさんも言ってたけど変なとこでピュアなんだよな。だからちょっと心配になる。
     また誰かに騙されて傷ついたら可哀想だし、とりあえずは傍から見守ることにしている。
     ついでに言えば、一緒にぶらついてても歩きスマホばっかだからいちいち俺が引っ張ってあげてる。隣に俺がいれば誘導してやれるし人にぶつかるだけならまだマシなんだけど、いつか車に轢かれたりしないか心配。せめて内側歩きなよって言ってもすーぐフラっと車道側に寄ってっちゃうし。 
     まぁだから、一緒にいるときは俺が保護者みたいになってると思う。色んな意味で。



    *尾藤大輔之丞*
     そもそも一回アイツを助けたのがきっかけだった。
     カラオケ野郎に絡まれてヤバそうだったからつい庇っちまった。悪い癖だ。助けられる、俺でも力になってやれるって思うと変に安心して、それで勝手に身体が動いちまう。その後アイツらは俺の顔をバッチリ覚えてたみたいで、ネクと勘違いした挙句俺のことを探しまわったらしい。2日後は俺の方が助けられる羽目になった。それから、一緒に行動するようになった。
     アイツは……まぁ、分かりやすいよな。
     声かけても堅苦しい敬語混じりで微妙に距離がある感じだったし、暇さえあればスマホいじって何か見てたし。フレットみたいにすぐダチになれるタイプじゃないんだと思う。そういうところは昔のネクにちょっと似てたかもな。なーんか壁があんだよ。
     でもやっぱネクとは違う。
     二手に分かれようとかどこそこの謎解きを先にしようとか、そういう決めをする時リンドウは決まって俺の方をチラチラ見ていた。いいですよねビイトさん、って目線だけでそう言ってた。分かるぜ。俺はゲーム経験者だし死神でもあったし、ヤツらの罠にハマらないようにするにはどう動けばいいかってのもある程度は検討がつく。パワーも体力もある。だから経験者頼りってのは理解はできる。それにしても、俺はリーダーのリンドウの判断をサポートするってつもりでいたから、判断を伺うようにジッと見られるとちょっと気まずかった。
     でも正直に言っちまうと、俺はリンドウのそういうとこ嫌いじゃねぇ。
     ネクよりは扱いやすい。3年前のゲームの時、それから一度死んだあの日も、ネクはいつも冷静に状況を見極めて自分の足で走っていた。折れそうな細い身体にシキのことやヨシュアのこと、渋谷の運命をきっちり背負っていた。支えてやりたかったけど、ネクにはその隙が無いような気がした。もちろんパートナーとしてのサポートはしたけど、たまに見せる切羽詰まったような表情を楽にしてやることは結局できないままだった。……その存在を守ってやることも、あの時はできなかった。
     だから、リンドウが頼るような目で俺を見てると安心する。
     助けてやれるから。守ってやれるから。
     

    *桜庭音操*
     ビイトから聞いた。俺を探してたんだって。
     3年前の件で俺は「レジェンド」って呼ばれてて、強力なサイキックの使い手ということになっていたらしい。リンドウたちはミナミモトがチームから抜けて戦力ダウンになったから、代わりになる強い奴をチームに入れたかったらしい。それを説明してくれたフレットは「人任せだよなー」って不満そうに口を尖らせていた。でも、俺はそうは思わない。むしろしっかりしてると思う。力不足の状態でリーダーとして存在を預けられて、 しっかり三人で生き残ろうって考えたら一番自然な案だと思う。三年前の、あの頃の俺だったらそういう判断はしないだろう。ルールが異なるとはいえ、足手まといだ時間の無駄だと何かしら理由をつけて、必要最低限 — 自分と、せいぜいはパートナーが何とか生き延びられるよう策を練るのが精一杯だったはずだ。
     もちろん、リンドウが未熟なのは否定しない。サイキックの力はまだまだ弱いし、いざとなると時間を戻す能力に頼ってしまうところがあった。それでもちゃんと仲間のために動いてるのは分かる。
     例えばフレット。あいつはともかくバトル中に調子に乗るから、後ろから襲われそうになっても全然気づかないことが多い。そんな時、よくリンドウは間一髪飛んできて攻撃を受け止め、声をかけたり切り返したりしてフレットが体勢を立て直す時間を稼いでやっていた。相棒、と呼ぶ彼のことをよく見ている証拠だ。
     あいつらはいいコンビだと思う。見ていて微笑ましくなる。
     ツイスターズに会ったばかりの頃は人と会うこと自体が久しぶりだったから、彼らの軽々しいやり取りが耳に心地よかった。渋谷の賑やかさの中に、人と人との繋がりの網の中に、戻って来れた実感が湧いて嬉しかった。同時に彼らが少しだけ眩しかった。3年と少し前の俺は誰かと背中を預けあうなんてできなかっただろうから。
     俺がこの渋谷に戻るきっかけを作ってくれたのが彼らだというなら。
     そして俺のサイキックが十分な力を持っているというのなら。
     彼らを守ってやりたいと、思った。




    *桜音紫陽花*
     最初はポケコヨのフレンド。ひと昔前ならネット友達とか言ったのかな。
     死神の仕事も慣れてきたし、特に毎週やることは変わらないから退屈だった。そういう時、なんとなくアプリ開いて遊んでヒマ潰ししてたの。あの頃はまだサ開したばっかだったから、ともかくフレンド増やしてれば報酬で石貰えたんだよね。
     で、ついでに貰ったガチャ何度か回してたらレアキャラがダブっちゃって。フレンド掲示板で交換募集かけたら「交換お願いします!」ってすぐに書き込みがあった。アカウント名は「リンリン」、アイコンは緑色のドラゴン。リンリン。なんかカワイーじゃんって思って、一番乗りだったしそのままトレードして、そのままイベントの話とか集めたキャラの情報交換とかした。
     それからちょっと雑談した。少しお互いの話をして、それからリンリンのお悩み相談みたいな流れになった。ペースを落として、少しテンションが低い長めの文章がぽつぽつ送られてきた。
    > 1週間前に考査が終わっていま国数英返ったんだけど
    > あんまり点数良くなくて親に怒られてる
    > ゲームとかやってる暇あんの?って
     多分、画面越しの相手は中学生なんだろーなって思った。それも1年生。なんだか弟の相談を聞いているみたいな感じがした。「終わったことは終わったことです、切り替えて次の試験に向けて頑張りましょう」って送ったら「ありがとうスワロウさん」って返事が返ってきた。素直。
     そんなやり取りがあってから、私たちはアプリ越しで”フレンド”の関係を続けた。たまにリンリンの悩み事を聞いたりしてた。
     実際に会ったのはそれから3年も経った後。それもUGで。
     会ったばっかの頃はむすっと睨まれるばっかだった。険悪。まぁ死神と参加者って立場もあるし仕方ないかなって諦めてたけど、2週間後には行き場がなくなった私をツイスターズに拾ってくれたし、アヤノのことで私が踏み切れない時もずっと話を聞いて安心させてくれた。それから、久しぶりの生身に慣れなくてフラフラしてた私をちゃんと見つけ出してくれたし、今でもRGに馴染めない私に色々教えてくれる。弟みたいに可愛がってたリンドウにあれこれ助けて貰ったの、複雑だったけど—やっぱり凄く、嬉しかった。
     それでも未だにリンドウはSNSでふざけて「あのさスワロウさん」なんて呼びかけてきたりする。そういうときは私も「どうしましたリンリン」って一瞬だけ、スワロウさんのふりをして相談に乗ってあげてる。もうリンドウは自分で決められるって知ってるけど、アドバイスはあってもいいと思ってるから。”スワロウさん”と話すときだけ、リンドウは中学生みたいに素直で可愛いリンリンに戻ってる。
     だからお互い様って言うか、リンドウが私の保護者みたいになる時もあるし、私がリンドウの保護者みたいになる時もある。3年前の関係を考えると何だかこそばゆい感じだけど、ま、こーゆーのも悪くないかもね。


    **************
    冬の海は遊泳禁止で
    **************
    「ゴメンなー、こんな時間に呼んで」
    「それは別にいいんだけど寒い」
     肌を噛む冷気と暗闇の中、互いの息の白が歩道灯に照らされて白くぼやけて見えた。タートルネックの上に分厚いコートを羽織り、首元をマフラーで塞いでいても寒いものは寒い。軽装気味のフレットも今日ばかりはニットの帽子で体温を守っている。
    「さび〜ね…あ、ちょっと待ってて」
     おい、と声をかける間も無くフレットが赤い自販機目がけて走っていく。普段であればスマホを取り出すところだが、ポケットの手の熱が惜しくてただ彼が缶ジュースを買う姿を見つめ続けていた。仕舞い込んだスマホの画面には2時間前のやり取りがまだ眠っているはず。
    >リンちゃん!海見に行かね
    >>なにいきなり
    >海に叫ぶやつやりたい
    >今日俺フラれちゃって
    >バカヤローって叫んでスッキリしたい!
    ギャ、と叫ぶワニのスタンプ。
    >あでも今日寒いしダメなら全然おけ
     画面の向こうで机に突っ伏している相手の情けない顔が頭に浮かぶ。前にもフラれたと言って俺に泣きついてきたことがあった。傷心だよリンドウ、と泣き真似をして見せる彼を引っ張って宇田川町の奥を訪れ、彼の分までフルーツパフェを頼んでやった。彼は複雑な表情でくし切りにされた柿を一つずつ口に運び、短く終わったお付き合いについて俺にダラダラと話してきた。それを、聞いていた。
    >>またか
    >>いいよヒマだし
    >まじで!ありがと!
    >新橋前でいい
    >>おけ
     そのまま急いで着込み、8時には戻ると親に告げて新橋に向かった。駅で彼と落ち合い、臨海モノレールに乗って埠頭のある公園で降りた。律儀にこうして付き合ってやるのは、痛いほど軽々しい振る舞いを崩さない彼を一人にするのが心配だったからでもあるし、気遣いを口実に彼の記憶に居座ってやろうと思ったからでもある。あとヒマだし。
    「お待たせ〜、ミルクティーで良かった?」
    「ん、ありがと」
     小走りで戻ってきたフレットから缶を受け取り両手で包む。手袋越しに人工的な温もりがじわりと滲んでくる。ちっぽけな贈り物が冷えないよう大事に啜りながら、二人で埠頭岸壁の方まで歩いていく。
    「付き合ってくれてありがと。リンちゃんやさしーね」
    「これもし風邪引いたらフレットのせいな」
    「そん時は俺もレンタイセキニンで風邪引こっか」
    「どうやってだよ」
     俺は笑う。バカは風邪を引かない。
    「んー、頑張って薄着して、外でボーッとしてるとか?」
    「要らないよ…ほら、この辺でいいんじゃね?」
     視界が開けて、目の前には黒い、黒い海が広がっていた。遮るもののない海風がまともに吹き付け、ニット帽の下から垂れた彼のもみあげが風に嬲られていた。バカヤロー、なんて叫ぶにはちょうどいい。この寒さも、嘆くように吹く冬の風も、誰もいないがらんどうの埠頭公園も。それなのにフレットは「あー」と逃げるように言って頭の後ろに手をやった。
    「…なんかバカヤローって感じのテンションじゃなくなったかも」
    「は?」
    「リンちゃんと歩いてたらなんか落ち着いたってか…ホッコリしちゃった」
    「おまえ人呼んどいてそれかよ…」
    「あ、でも叫ぶのはちゃんとやるって」
     よぉし、とフレットは準備体操よろしくトントン跳ねた。それから手袋をした手でメガホンの形を作り、少し腰を落として構える。息を吸う。喉がクッと動く。
    「リンちゃんだいすきーーーーー!」
    「は!!!???」
     腰が抜けるかと思った。息を吐き終えたフレットがニッと笑う。慌ててそのヘラヘラした笑顔を睨みつけた。
    「おい!!大声で変なこと言うな!」
    「いーじゃん。別におまえが”リンちゃん”って誰も知らないし」
    「だとしても恥ずかしい!」
    「リンドウもなんか叫んでいーよ」
    「要らない!」
     抗議をものともせずフレットは第二声を海に放り投げる。
    「リンちゃんはーーーー、やさしーーーー!」
    「うるっさい!」
    「カッコいいーーーーー!」
     こちらを見ないままで彼は叫び続ける。自分に向けられることのない言葉が、勝手に海に放り投げられ、捨てられる。隣で聞かされる方の気にもなってほしい。彼の我が儘に付き合ってやる振りをして、苦い失恋と冬の海の寒さと共に彼の記憶の中に居場所をもらいたいと思った。高校生の日々の一幕に自分の姿を書き残しておこうと思っていた。それだけだったはずなのに、そんな思惑は案の定外れ、彼と向かい合って同じ苦みを食わされる羽目になる。
     風が鼻の奥に滲みた。そして無性に腹が立ってきた。海鳴りに向かって、吠える。
    「バーカーヤーローーーーー」
    「いい声じゃん、リンドウ」
     冬の海色の瞳を輝かせてフレットが称賛する声を聞きながら、腹の底にまだ残る空気を搾り続けた。せめてこの声が彼の鼓膜に掻き傷を残すように。ずっと遠くの未来で、凍るようにひりつく冬のある夜を思い出すように。

    ************
    どこ吹く風の音
    ************
     不思議な二人組だった。聞き飽きたボサ・ノヴァが流れる「バーガーヒーロー」の気怠い空気の中、二人並んだソファ席から殆ど一人分の喋り声が延々と続いている。
    「皆して襲ってくるのコワイよな〜、幽川舎とか大人しめなタイプ?って思ってたら全然そんなことないし」
    「そうだな」
    「てかさっき助けてくれてありがとな〜、後ろ見えてなかったからさ」
    「別に」
    「まじ助かったわ、次もよろしくなリンちゃん!」
    「ん」
     面倒臭そうに答えた少年はポテトを一本摘み、咥えた。そしてぽくぽくと咀嚼しながら再び手元の黒いスマートフォンの操作に戻る。その背を茶髪メッシュの少年がわざとらしくバンバンと叩く。
     先ほどからこんな場面が続いていた。一言、多くて二言の返事を返すばかりの少年を相手に、茶髪は飽きもせず延々と喋り続けている。ナギは大きな丸眼鏡の奥から二人の様子をずっと観察していた。
     不均等。いやはっきり言って異様。
     出会った日からずっとこの調子だ。今では流石に慣れたものの、限定バッジを縁にチームに引き入れられたばかりの頃は、この著しく非対称的な会話を少し不気味にさえ感じた。休憩時間になればリーダーはひたすらスマホを弄っているし、言外の拒絶のようにも見えるリーダーの態度を意にも介さず茶髪は話しかけ続ける。聞き上手と話し上手のタイプであればいい関係を築けるのも理解できる。だが目の前の二人がその型に当てはまるとは到底思えなかった。片や、聞く気がない。片や話して分かってもらう気がない。そう見える。目の保養になっていた推し似の青年はあいにくこの場を外しており、気まずい三人組で取り残されてしまった。
     特大バーガーをもぐもぐ噛みながら二人の様子を観察していると、視線に気づいたのかフッと茶髪がこちらに目を向けた。慌てて眼鏡を引き上げ思考を隠す。
     実はあの陽キャもどきはあまり得意ではない。リーダーの方も付き合いにくいタイプに見えるが、少なくとも彼は気まずくならない程度の距離をとって接してくれるから合わせやすい。問題は茶髪の方である。こちらが離れようとしても勝手に寄ってきて話を振ってくるくせに、軽薄な言葉からは本心が全く伺えないから、性質が悪い。
    「ナギセーン、今俺の方見たっしょ」
     ほら話を振ってきた。
    「見てませんが」
    「何か付いてた?」
    「知りません。というか別に見てません」
    「絶対見てたね」
     そして無駄にしつこい。既に奴はテーブルに肘をついてこちらに向き直ってしまった。放っておいてくださいますか。
     眼鏡に置いた手で顔を覆ったまま、嫌味を言って意を削いでやったつもりだった。
    「……相手にされてないようでしたな」
    「リンドウのこと?」
     言葉は返さないままに頷く。茶髪は意外そうに目を丸くし、それからニヤリと目を細めて妙に含みのある笑みをこぼした。
    「リンドウは別にそれでいーの」
     リーダーはチラリとだけ顔をあげた。短い会話を交わす二人を一瞬だけ見遣り、再びつまらなさそうにスマホの画面に目を落とした。
     不可解な関係。まぁ、バッジの恩返しができてトモナミ様の傍にいられるのであればどうでもいいこと。そう心の中で結論づけて、ナギもスマホの画面に推しの画像を浮かび上がらせ、視線を下げる。
     


    「でさー、トモナミ様メインで進めてたんだけどレベル足りなくなっちゃって」
    「うん」
    「ちょうど今イベントもない時期だし?石全然足りね」
    「そっか」
    「課金するってほどでもないしなー…」
    「それは俺も同じ」
     少し向こうのテーブルでは、噛み合っているのかいないのかよく分からない会話が進行している。デジャヴがした。
     ”死神ゲーム”が終わって以降、コミュニケーションの鍛錬と称して觸澤桃斎にレガストを叩き込んできた。その中で彼が少しずつ変わろうとしているのを、ナギも感じてはいた。彼の「ありがとう」や「ごめん」には以前にない重みが感じられるようになったしゲームの出来事をモデルとしてではあるが「嬉しい」「悲しい」といった直截的な感情を口にするようになってきた。
     —が、どうやら彼ら二人の間の関係はあまり変化していないらしい。
    久しぶりにツイスターズで集まろう、俺ら二人は先にバーガーヒーロー着いてるからみんな後で合流して、と言われていた。混み始めた午前11時のバーガーショップに足を踏み入れ、二人の姿を席の中に探してみればこの有様である。相変わらずリンドウはスマホに釘付け、それを物ともせずにフレットがベラベラと語り続けている。
     今日もまた、気づくのはフレットの方だった。キョロキョロと辺りを見回し、目が合った途端に目を輝かせて「あ、ナギセーン!こっちこっち」と大きく手を振ってきた。招かれるに従ってナギがテーブルの向かいに腰をかける。
    「お待たせしました。皆様はまだですかな」
    「んー。ビイトとネクはあと10分くらい、ショウカちゃんはもうちょっとかかるって」
    「そうですか」
     早く着きすぎたかもしれない。今更二人を相手に気まずいという感慨を抱きはしないものの、もうしばらく待つのならばゆっくり出発しても良かっただろうか。手持ち無沙汰に、ずっと心に靄を張っていた疑問を再び口に出してみる。
    「……桃斎殿は、その…お気になさらないので?」
    「へ?何が?」
     何も言わずに傍のリンドウを示すと、フレットはいつかの再現のように一瞬硬直し、それから花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
    「リンちゃんはさ、これでいーんだって」
    「……まぁ、本人が良いなら良いのですが」
     呆れたナギがふぅ、と小さく息を吐くと、ふとリンドウが顔を上げた。焦茶の瞳には少しだけ愉しそうな色が宿っていた。
    「…だ、そうなんで」
    「……はぁ」
     ナギは目線を外し、ずり落ちかけた眼鏡を直すフリをする。きっとテーブルの向こうでは二人の少年が交わっているのかいないのか分からない笑みを浮かべているのだろう。自分には理解できないが、まぁお互いに了承しているなら口を出す筋ではない。要するに。
     ……お熱い、とでも言えばいいのだろうか。


    ******************
    忘れたなんて言わせない
    ******************

     すみません。俺に何か用事ですか。そう尋ねると、俺を覗き込んでいた同い年くらいであろう少年はショックを受けたように目を見開いた。どうしちゃったのリンドウ、と勝手にこちらの名前を呼んでくるが、忘れるもなにもそもそも面識ないし、知らないし。改めて突き放してやると彼は肩を落としてくるりと振り返り、後ろに控える黒服の男と眼鏡の少女と話を始めた。心配そうに交わされるやり取りの中で、ノイズに襲われて、とか、今日のミッションが、と聞き慣れない単語が飛び交っている。一体何なんだ。ていうか誰。
     そもそも遡る記憶全体が曖昧にぼやけていた。奏竜胆、自分の名前。スクランブル交差点、自分が後ろ手をついて座っている場所。では何故ここにいるのか、どうやってここに来たのか、目の前の3人組は一体何者なのか。分からない。
     妙にガンガンする頭を片手で抑えて立ち上がったのと、黒服がギロリとこちらを向いたのは同時だった。猫科の動物を思わせる金の瞳に真っ直ぐに捉えられると思わず背筋が伸びる。スッとその目線が少年の方へ逸れ、口元が動いた。
     — やれ。おまえならできるだろう、ゼプトグラム
     少年は「あ、そうだった!」と嬉しそうにポンと手を打ち、改めてこちらに向き直る。口元を薄く引き上げて笑みを浮かべてはいるが、蒼い瞳は波濤のように冷え切っていた。蛇が睨むように射竦める眼差しが真っ直ぐにこちらに向いている。引き寄せられたかのように、目を離せなくなる。
    「俺のこと忘れちゃったんだー、リンドウの薄情者」
     茶化したような言いぶりだがその声は先ほどよりも低く、面白がっているようでも、憤りを含んでいるようでもあった。独特の緊張感をもって耳に纏わり付き、消えてくれない。
    「すぐ思い出させてあげる」
     何を、問う前に相手が右手を開いた。案外に大きな掌が陽光を遮り、陰が落ちて視界が仄かに暗くなる。「 — リマインド!」
     大声が響いた途端、頭の中に奔流のような記憶の連なりが流れ込んできた。
    「觸澤と渋谷行ってくる」、そう伝えると母さんはついでの買い物をふんわりと命じてきた。約束の相手には勝手に待ち合わせ場所を変更され、俺の分と称して赤黒のバッジを放り渡された。それからその相手と昼食を共にしたこと。それから —
    「っフレット!」
     急に喉元につかえた空気を吐き出せば、それは口馴染んだ相手の綽名の響きになった。それを聞いた途端にフレットは目を輝かせ、コートの上から腕を回して勢いよく抱きついてきた。コートに含まれていた空気が押し出され、ばふっとくぐもった音を立てる。そうだ完全に思い出した。この空騒ぎ。軽薄なハイテンション。
    「っしゃ成功!」
    「ひっつくな!」
     ぐいぐいと腕に力を込めて何とか拘束を解いたが、フレットはまだ未練がましく手首の辺りを掴んでいた。
    「も〜マジ怖かったわ…リンちゃんに忘れられちゃったかと思った」
     ヘラヘラ笑っている相手に「ごめん」と軽い謝罪を返す。さっきのおまえの方がよっぽど怖かったんですけど。……とは、言わないでおく。彼の様子は先ほどの鋭さを感じさせない、明るくちゃらついたものに戻り切っていた。
    「なーどんな感じで俺のこと思い出した?」
    「どんなって…フツーに思い出したけど」
     適当に流してやるとフレットは「えー」と口を尖らせた。
    「フツーって何よ!」
     俺のことどう思ってんのか気になるんですけどー、と言ってむくれている彼を「ハイハイ」とあしらう。こうして変わらず目の前で騒いでいる。あの日に潰え、失われかけた親友が。そのことへのどうしようもない安堵もじわりと胸を浸していたが、それはまだ言わないでおくことにした。


    *******************
    追想ディスタンス
    *******************
    “連絡とって協力しよう”
     シンプルなトーク画面には自分の投稿と、その5秒後に送られてきた返事が映っている。
    “OKOKOK”
     勢いよくフリックする相手の姿を思い浮かべて軽く笑った。それから一覧に戻り新しい通知をチェックしたが、先ほど連絡したカノンもモトイも何の音沙汰も返していない。諦めて近くの壁に背を預け、体育座りで腰を下ろした。照明の落ち切ったO-EASTの空気は静かに重く、埃と音響機材の匂いが漂っていた。
     ここにいて自分にできることはあるだろうか。
     メンバーのヒントを待って与えられた謎を解く。他のリーダーから返信がきたら協力を持ちかける。—そう、当面は自分から動けず、膝を抱えて状況が動くのを待っているだけだ。先ほどやり取りを交わした彼の方はきっと今ごろ必死でUGを駆けているだろう。しばらく彼との間につかえていた軋轢を払えたと思った矢先、今度は物理的に引き離される。もどかしい。焦れったい。本当は共にバトルに臨み、調子に乗る割には肝が小さい彼の前に立ってやれればよかったのに。

     そのうちに瞳が温い闇に慣れ、自分のいる大部屋の眺めがぼんやり浮かび上がってきた。広い空間は低い段差を境にステージと客席に分けられ、無骨なアンプやライトは客席から見えない隅にひとまとめにされている。
     ふと、思い出した。見覚えがある。一度だけ、似たようなライブハウスを訪れたことがあった。それはこの名高いハコなどではなくて、もっとささやかな場所だったけれど。

    「リンドウ今週末ヒマ?これ一緒に行かね」
    「ライブ?」
    「そう。ま、インディーズばっかだし嫌なら別にいいけど」
     このゲームに巻き込まれる前、二人で遊びに出るようになって少し経った頃。夏休みの前。まだ暑い陽の名残りが差し込む放課後の教室で、彼は音楽イベントのチケットを差し出して誘いかけた。手伝いをしている友達から余ったチケットを押しつけられた、と苦笑いを浮かべていた。
    「俺…こういうの行ったことない」
    「お、じゃあライブ初体験?」
    「うん。楽しいのかな、こういうイベントって」
    「俺は割と好きだけど…ま、お試しってことで!」
    「お試し、ね」
     良いとも悪いとも言話ないままで曖昧に頷いてやると、よっしゃ決まり、と拳を突き上げ声を弾ませていた。誘った彼の方がずっと嬉しそうだった。
     お定まりの渋谷から5駅ぶん外れた街外れに集合し、ちっぽけなライブハウスまではさらに10分ほど歩いた。「リンドウこれね」と手渡されたプラカップのコーラを片手に狭いステージに足を踏み入れると、そこは既にハウリング混じりの荒いギターとドラムの咆哮、熱狂する喚き声で満ちていた。音が頭を締め付けてくる感覚に勝手に肩がじり上がる。それでも辛うじて聞き分けられるメロディーを追い、リズムを捉えようと努めた。その間、フレットはずっと隣で楽しそうに頭を揺らしていた。
     コーラをちびちび舐めながらしばらく音圧に耐えていたが、やがて音に負けた頭がガンガンと痛みはじめた。軽く片手で揉んで痛みを和らげる。
    「大丈夫?リンドウ」
    いつの間にか隣の相手が気遣わしげにこちらを覗き込んでいた。
    「大丈夫。音デカくてちょっと頭痛くなっただけ」
    「そっか…再入場できるし外の空気吸ってこっか」
    「いやおまえは聞いてたいだろ、一人で行ってくる」
     そう言ったリンドウの肩に労るようにそっと手が乗せられ、引かれる。
    「いーよ、別に俺もそんな真面目に聴いてないし」
     まだシャウトが盛り上がっているステージをこっそりと後にし、となりの公園のベンチに腰を落ち着けて少し火照りを冷やした。その頃には既に空が暗み始めていた。フレットがスマホを立ち上げ、小さなボリュームでパンクのナンバーを流す。そのメロディーは先ほど聞いたものとよく似ていた。
    「コピー元これなんだけどさ、あんま似せられてなかったな」
    「やたらうるさかった」
     正直な感想を述べると相手はへらっと困ったような笑みを浮かべた。
    「ま、そだね」
     そうして音楽を流したまま黙って夕風を浴びていた。いつもそういう系聞いてるのか。洋楽とか好きなんだ。そんな風に尋ねようかとも思ったけど、気持ち良さげに聴き入っているから邪魔しないでおいた。別に知ったところでどうなるものでもない。
     何も問いかけないまま、彼の心など知らないままで、自らも小さな音の流れに身を委ねる。


     思い出に浸っていた頭を持ち上げ、スマホにあの日のバンドの名前を入力して動画サイトから再生してみた。これも聞き覚えのある曲がスピーカーから漏れ、O-EASTのホールに軽く反響する。あの日フレットと聞いていた曲。今もどこかを走っているだろう彼の心の中にもあるのだろう、同じ旋律。ピコ、と明るい通知音に釣られてメッセージアプリを開けば、思い浮かべた相手から早くも連絡が届いていた。
    “タワレコ!”
     命令を待つ犬のような相手の顔が思い浮かんで少し笑えた。簡単なメッセージにヒントだけの返信を打ち込んで素早く投げ返す。「頑張れ」とか「今週はごめん」とかも伝えたかったが、心に思うだけに留めた。代わりに膝を抱えたまま、アプリの画面をスクロールして、あの世やこの世で交わした幾つものやり取りをただ目で追った。

     RGに帰ったら、その時は改めて尋ねてみようと思う。
     — フレット、ああいう曲好きなんだ?

    *********************************
    明日も君とあの場所で
    *********************************
     毎週のように渋谷で服を見たり買い食いしたりしたけど、別に池袋でもシモキタでも、交通費を気にしないなら横浜とかでも全然良かった。虚しくなりがちな週末の1日をリンドウと一緒に過ごせるならどこでも。
     毎週土曜の授業終わりか夜のラインで「明日ヒマ?」と声をかけては街歩きに誘った。渋谷でいい、と問えば断られなかった。指定した理由は特にない。お互い家から一本だし、渋谷ならブランドも揃っててチェックしやすいってくらい。リンドウもどこ行きたいとか伝えてくることはなかったし、毎週付き合わせても特に不満を言わないのでそのうち意識しなくなってしまった。そんな、あってないような理由でこの街を拠点に定め、二人でセンター街やらキャストやら原宿をぶらついては代わり映えのしない週末を潰していた。
     死神ゲームが始まるまでは。
     ゲームを終えた今となっては妙な愛着というか感慨が湧いてしまった感もある。スキャンやらリマインドやらの変なチカラはもう使えないけど、今でも分かる。無表情で行き交う人々がそれぞれに自分だけの思考を抱いていることを。同じ街を舞台に、今なお消滅を賭けたゲームを続けている次元が存在することを。そんなざわつきに惹きつけられるような気がして、この不思議な街を何となく離れられなくなってしまった。肩を並べて歩いているとたまにココさんやカリヤさんやウヅキさんを見かけることすらあって、UGも変わりないっぽいな、と二人で苦笑いを交わした。神出鬼没のミナミモトさんだけはあれ以来見かけていない。今頃どこにいるのやら。

     それが当たり前になっていたから、強いて連絡しようという意識はだんだん薄くなっていた。その週の夜。部屋の時計の針が10時を回る頃。半分も埋まっていない課題のペーパーから顔を上げ伸びをしたタイミングでアプリの通知がピコンと鳴った。
    — フレット、明日空いてる?
     言われて初めて気がついた。すっかりいつものパターンのつもりでいたが、そういえば教室でもその後も連絡を取っていなかった。慌てて両手でスマホを握りしめて文字を打ち込んでいく。
    — ごめん忘れてたわ!10時ハチ公前でいい?
    — いいけど遅れんなよ
     即レスが帰ってきて明日の予定を埋めた。既読がついてしばらく経ってから、リンドウから約束くれたの初めてだったっけ、なんて思い至る。勝手に口元がニヤついて、フワフワした気分のままベッドに仰向けになって天井と向き合った。簡単な連絡一本きり、それで十分。残りは明日に持ち越して、服を見ながら、クレープを頬張りながら、公園で空を見上げながら話せば良いわけで。
     そうして明日もまた、あの騒がしい街で彼と同じ時間を分かち合う。

    *********************
    なれ果てデッドリーロマンス
    *********************
     びちゃびちゃと肉が削がれていく。気弱そうな青年が着ていた菱形模様のニットは中央で大きく破け、繊維にべったり血がついて固まり始めていた。剥がしたら痛そう。縦に大きく開いた傷口に頭を下ろして貪っているのは俺の相棒、ツイスターズのリーダー、つまり今朝までまともだった元リーダー(現ゾンビ)である。
     
     毎朝の定時連絡に続け、気取った笑みと共に告げられたのは「熱波のようにゲームの温度を上げてくれるプレゼント」のご用意だった。言われた瞬間から嫌な予感はしてた。でも用意された「プレゼント」は俺らの予想を遥かに上回って悪趣味なものだった。
     疾病ノイズ。
     攻撃を喰らった箇所から神経が侵食され、恐ろしい勢いで全身に回って、1時間ほどで頭に届く。そうなるともはや言葉も喋れず敵味方の区別もつかず、餌を求めて見境なく周囲に襲いかかり始めるのだ。おまけに伝染性。まさにゾンビ。「あの世」でそんなんアリかよって思ったけど実際あるんだから仕方ない。
     お昼頃に再び配信が届いた。ゲームマスターは「プレゼントは気に入ってくれただろうか」といつもの焚き付けと共に、やや引きつった笑顔で「実はアレは試作品でね、俺も性質が全て分かっているわけではないんだ」などと口走っていた。俺らで実験しないで頼むから。
     午後には増え過ぎてもはやミッションどころではなかった。こうなるともう猫も杓子も参加者も死神も関係なく飛んで走って逃げ惑った。その中で、情けなくもコケて追いつかれた俺を庇うようにリンドウがゾンビに切りかかって、そして。
     噛まれた。
     バトルが終わった後、彼はしつこいほどに「離れろ」と解散を命じた。出来るわけない。置いていけるわけがない。ナギさんとミナミマタさんには一旦別行動をしてもらったけど、俺はずっとその場に残っていた。リンドウはしばらく泣きそうな顔で、どっか行け、頼むから、と拒絶し続けていたが、そのうち目がどろりと濁ってきて言葉数少なになってしまった。
     30分ほどそうしてじっとしゃがみ込んでいたが、彼は不意にスッと立ち上がって何処かへ歩き出そうとした。
    「...リンドウさーん?」
    「…がー、あーっ」
     理性の消えた瞳でこちらをぼんやりと捉えた。がぱりと口を開けて向かってこようとする彼の顎のマスクを掴んで引き上げてやると、違和感があるのかしばらく不審そうに口許をモゴモゴさせていた。その隙に急いで考える。えーと。食べないでって伝えるにはどうすればいいかな。イメージイメージ。急拵えで犬の口輪を頭に描いてリマインドに載せると、分かってくれたのかリンドウは一瞬目を眇めたのちに大人しくなった。
     そうして再びフラフラ歩き出した彼と距離を置いてそろそろとついて行った。
     ゾンビの動きは基本的にのろいし、それは彼も例外ではないので基本獲物は捕まらなかった。腹が減ったのだろう、哀れっぽく虚空を掻きながらガーガー鳴いていた。
     彼の足がふと止まったところで倒れていたのはフウヤさんだった。既に幾人ものゾンビに纏わりつかれ喰われていた。リンちゃん腹が減ってるっぽいし、フウヤさんには悪いけどどっちにしてももう助からない感じだし。仕方がない。そう言い訳して、周りのゾンビたちをサイキックで蹴散らしてやった。
     辺りが掃けるとリンドウはのろのろとその身体の近くにしゃがみ込み「食事」を始めた。腹が満たされて気分がいいのか、少しだけ嬉しそうに見えてホッとする。するけど光景自体は気持ち悪いのですぐ目を逸らした。視界の端にショウカちゃんがいて、化け物を見る目でこちらを凝視していた。
     実際化け物なんだからしょうがない。

    「がー」
     首都高高架下の手すりにもたれかかってこの後のことを考えていた。ストリームの方を見ていたリンドウが突然、何かに反応する。
    「ん、どったのリンドウ」
    「ぉとい…さん」
     やっと何かを伝えてくれたと思ったら、あれか。視線の先にはカタカタとPCを打ち込んでいる青スーツの姿。リンドウ、妙に執心している。まぁ図体デカいし食いではありそーだよね。フウヤさん結構痩せてたし。
    「ぁざー、さん」
    「…モトイさんが食べたいんだ?」
    「うーっがー」
     手すりから身を乗りださんばかりにして虚空に手を伸ばしていた。危ないから腹を抱いて引き剥がし、やや重い足取りでストリームに向かうエスカレーターを降りた。仕方がない。どの道お腹が空いたら誰かは犠牲になるんだろうし。それがたまたまあの人になるってだけで。
     PCに何か打ち込んでいるモトイさんに気づかれないよう、そっと射程範囲に忍び寄る。際どいところでモトイさんは気配に気づいてハッと顔を上げた。でも、手遅れ。手に持ったバインドのバッジに念を込め、縛る有刺鉄線のイメージを強く心に描いた。次の瞬間、刺付きの鎖が空間を勢いよく裂き、抉り、そして恰幅のいい身体へと到達して巻きつき締め付けた。
    「くっ!畜生!」
     バインドされてなおジタバタと往生際の悪いモトイさんを横目にリンドウに声をかける。
    「ほい、捕まえたよー」
    「がー…」
     リンドウは一瞬嬉しそうに俺と目を合わせた。お礼だったら嬉しい。ごめんねモトイさん、リンドウお腹空いてるみたいだし。どうしてもモトイさんがいいっぽいんで。悪いんだけど今日の夕食になってください。スンマセン。
    「リンドウ君、う、ウェイト……」
    「あー?」
    「そうだ、協力しよう、僕の代わりに…」
     代わりに誰か連れてくる、って言うつもりだったのかもしれない。でもゾンビにその交渉はちょっと難し過ぎると思う。案の定リンドウは少しきょとんとしただけで全く意に介さず「がーあーっ」と喉笛に噛み付いた。滅茶苦茶血が出てた。やっぱり見たくなかったので、その後はしばらく辺りを見回して安全確保がてら気を逸らしていた。
    「…ぇっと」
     リンドウの声に意識を引き戻される。
    「え?」
    「ふ、ぇ、っと」
     辿々しい声で、けど確かに彼は発音した。目線を戻すと彼が一旦口を止め、血塗れの顔をもたげて俺をじっと見ていた。食べる、と聞いているようにも見える。せっかく聞いてくれたとこだけど、流石に生肉はちょっと。別にUG来てからそんなにお腹減ったって感じもないし。悪いけど俺はいーわ、と目の前で手を振って見せると何かに納得したように再び顔を下げて食事に戻ってしまった。
     俺は考える。今はいいけど、そのうち食べるもの見つからなくなったらどうしよう。彼らは何故かオニギリやお菓子の類には目もくれず、ともかく動く人の肉を欲しがる。そのうちまた誰かしら捕まえて来なきゃいけない。というか最悪俺でもいい。成り行きでここまで頑張って生きてきたけど、カノンさんとも死神たちとも連絡取れないし。正直怖いし、疲れたし。
     夢中で貪っているリンドウの後ろから声を掛ける。
    「なぁリンドウ、俺のこと食べていーよって言ったら食べてくれる?」
     俺の声に反応したのか彼はゆっくりと振り向き、正気の籠もらない目でぼんやりと俺の方を見てから血で赤黒く染まった口をだらしなく開いた。
    「う…がー」
     聞いてはいたようだけど理解できていないのかも。
    「へへっ、かわいーねリンちゃん」
    「…ぃ…」
     犬か子供みたいで可愛いって思ったのは本当。話せないのだけがちょっと寂しい。

     結論から言えば翌日に俺は噛まれた。1時間後には彼と同じ状態になった。これは俺が気をつけていれば防げたことで、大人しく寝てるっぽいから安全だろうと思って近くにいたのが間違いだったのだ。
     けれど、ゾンビになったことで何かしら不幸せになっただろうかと考えれば特にそんな気はしてない。喋れなくても「お腹が空いた」とか「疲れた」は分かるし、お腹が空いたならご飯を探せばいいのだ。今から考えれば、生前は何をあんなに話すことがあっただろうか。
     喋れなくて困ったことは特にないけれど、お互い走れないしサイキックも使えないので獲物を捕まえるのは難しくなった。モトイさんの時みたいに俺だけでもサイキックが使えればだいぶマシになったんだと思う。そこだけは不便で、やっぱり俺は噛まれるべきじゃなかったのかもしれない。うん、俺のミス。ごめんって、だからそんな睨まないでリンドウ。
    「がーあー」
    「うぁー」
    「ここにいたの」
     涼しく凛とした声が響く。彼女の予感、それだけで胸が騒いでときめいた。期待に駆られて振り向いた視界にはやはり憧れの女性がいて、クールな眼差しをこちらに向けていた。カノンさんカノンさん。えーっと何か言わなきゃ。何だっけ。
    「うーっあー」
     カノンさんは憐れむような目で俺を見る。
    「ごめんね、リンちゃん、フレット。今楽にしてあげる」
    「うぁー?」
     彼女の掌の中で何かが光った。それが何かのサイキックだと思い当たる頃には、頭上に大きな影が落ちて太陽を遮っていた。その瞬間。雷に打たれたように、一瞬だけリンドウの身体が強張った、ように見えた。素早く(※ゾンビ基準)リンドウが振り向き、切羽詰まった(※ゾンビ基準)目で俺に手を伸ばしかけている。意識に残っているのはそこまで。せめて手を触れたかったけれどそれも叶わなかった。
     最後に目にしたのが、俺を助けようと必死で手を伸ばすカッコいいリンドウの姿で、そこだけは良かったかな、なんて思って。

    *******
    蓼と青虫
    *******
     滴が浮くほどみずみずしいレタスのサラダ、青カビチーズをベースにしたソース。
     汗をかくほど冷やしてパセリを散らしたビシソワーズ。
     肉厚なローストビーフ、付け合わせにはニンジンのグラッセ。スミヲに作らせたメニューはどれもこれもボリュームがあって、味が濃く、ずっしり腹に溜まる。あのミッションではツイスターズの簡単な料理に負けてしまったものの、今回こそは無駄にするまい。

     昨日のゲーム終わり、スクリーンに映されたピュアハート特製フルコースを物欲しげに見上げていたリンドウの様子に悪巧みが浮かんだ。
     —陥れてやろう、と。
     妙に自分に懐いている少年は、誘いを受けると「いいんですか」と目を輝かせて見えない尻尾をぶんぶん振り回していた。あの調子では罠だなんて思いもつかず、呑気に食卓を共にしようとのこのこやってくるだろう。モトイはニンマリと目を細める。
     テーブルを埋め尽くす豪勢な手料理を前にした彼の後ろで、コンコン、と小さな音が響いた。”カモ”の訪れに高鳴る鼓動を隠さず、ステップを踏むかのように軽やかな足取りでモトイは扉を開いた。そして次の瞬間顔をしかめかける。
     遠慮がちに肩をすぼめる「ツイスターズ」リーダー、奏竜胆の姿がそこにあった。そしてついでにもう一人。
    「おはようございます、モトイさん」
    「おはよ〜ございます!」
    「…グッモーニン、リンドウ君。と、えーっと…」
    「フレサワトーサイって言います!フレットって呼んでください」
     無駄に元気よく片手を上げている。呼ばないしおまえは呼んでない。
    「すみません、邪魔になるからって言ったんですけど、一人だと心配だからって…ツイスターズの皆もそう言うんで断りきれなくて…」
    「リーダーに何かあったら良くないんでサポートに来ちゃいました」
     そいつは申し訳なさそうにモゴモゴ言い訳するリーダーに被せるように口を挟んだ。舌打ちを口の奥で噛み殺す。要するに護衛であり邪魔者。来ちゃいました、じゃない。
    「アハハ、何かって何かな」
    「分かんないですけど万一に備えてっすねー」
     カラカラと笑う少年に深い考えがあるようにはとても見えなかった。万一、などと言ったのもおそらくは単なる偶然。しかし内心を見透かされたようでどうも気に食わない。もしもの事態に備えてスミヲ君には多めに作らせておいたのだが、どうも正解だったらしい。コホン、と咳払いで胸のむかつきを追い出して笑顔を作る。
    「そんなに警戒しないでよ、とって食うわけじゃないんだからさ」
     これは僕からのウェルカムパーティー、失礼、歓迎会みたいなものだよ。新チームが入ってきた時はいつも開いてたんだけど、ほら、君たちの場合は少人数だし僕らも把握がディレイ、遅れてしまってね。適当なその場しのぎを口にしながら彼ら二人をテーブルに案内し、自分が座る予定だった椅子を差し出す。まぁいいや、俺は立食ってことで。
     彼らが席にかける背後でグラスの中に”それ”を振り入れて烏龍茶を注いだ。青い顆粒と茶葉の褐色が混じり合い、何とも言えない不気味な色合いの液体が生まれる。
    「はい、君たちにはこれ」
     リーダーの方は大人しげにコップを手に取ったが、またしても腰巾着が邪魔を仕掛けた。
    「待ってリンドウ…何か色ヘンじゃない?」
     ギリ、と奥歯が鳴る。笑顔を引きつらせてモトイは答える。
    「駅近くのショップで買ったマロウブルーのハーブティーなんだけど、ちょっと特徴的な色だよね」
    「んー……」
     あからさまにコップに鼻を近づけ、ふんふんと香りを吸い込んでいる。
    「リンドウ……ちょっと待ってて。俺先飲んでみるわ」
    「あ、おい…」
     ゴクリ。喉が動く。一口分の液体が胃の中に落ちる。じわり、背中の裏に冷たい汗を感じる。…が、結局彼は腑に落ちないような声でそっと報告した。
    「大丈夫…っぽい」
    「フレット心配し過ぎ……すみません、モトイさん」
    「ううん、ノープロブレム。ライバルチームだし心配で当たり前だね」
     胸を撫でおろす。ああ馬鹿でよかった。自分もグラスを手に取り、テーブルの上の炭酸水をとくとくと注ぎ込んだ。大仰に持ち上げ、宣言する。
    「それじゃあ、昨日の君たちの勝利と今日のお互いの健闘を祈って…チアーズ!」
    「カンパーイ!」
     三人でカシャンとグラス合わせる。申し訳程度の炭酸を口の中で弾けさせながら上目で伺うと、少年たちは素直に”ハーブティー”で喉を潤わせていた。続けて勢いよく料理を口に運び始める、その様子を見ていたモトイはいっそう口元を吊り上げる。
     案の定、5分後にカトラリーが落ちる空虚な音がカランと部屋の中に響いた。
     続いて少年たちがテーブルに倒れ伏す重たい物音。
     それを聞いてしまうと、見守っていたモトイはようやくテーブルに歩み寄る。
    「グッナイ、リンドウ君、フレット君。また明日」
     少し想定外もあったが、当初プランから大きく変更はない。グラスに残った炭酸水を一気に飲み干す。本当はワインでも空けたいところだけど、まぁそれはミッションが終わった後のお楽しみにしよう。上機嫌でテーブルの隅に置きっぱなしにしていたスマートフォンを手に取り、連絡用のアプリを開く。
    —上手くいったよ。今日はツイスターズは動けないはずだから、スミヲ君たちは二手に分かれてヴァリーの妨害とターゲット探しに専念してほしい—

    「…きろ」
     頭上から響く不機嫌そうな声。リンドウはひとつ、身動ぎをする。それでも起き上がりはせず、胃の芯に居残るような眠気に甘えて再び意識を沈ませようとした。
     次にかけられた声は数段音量を上げていた。まるで拡声器を通したように。
    「起きろッ!ゼプト共!」
    「うわっ!」
     鼓膜が破けそうなほどに増幅された声に、頭を殴られたような衝撃を受けて飛び起きた。同じタイミングで起きたのだろう、隣ではフレットがピアスの上から両耳を押さえていた。見上げれば銃口のようにこちらを向いたメガホンの口。耳の奥に残る痛みが、思考にかかった霧を徐々に追いやっていく。
     昨日の料理ミッションの後、モトイさんに朝食に誘われたこと。
     フレットと二人で会場に向かったこと。乾杯して、ピュアハート特製の豪勢な料理を楽しんだこと。それから。
     それから…?
    「ってそうだミナミマタさん!今日のミッションは!?」
    「とっくに終わってますが」
     少し離れたところで呆れたようにナギが溢した。「もう3時半です」
    「へ…ウソ…?」
    「RNS見てください」
     素っ気ない指示に従ってフレットがスマホを開き、恐る恐るリンドウもその画面を覗き込む。通知は10分前に届いていた。[標的討伐チーム:ピュアハート トップチーム:ルーイン]
    「モトイさんのチームだ…」
    「これやっぱ俺ら騙されてたんじゃね?」
    「そうと決まったわけじゃないだろ」
    「いや何でそこ疑わないのよ」
    「モトイさんは…そういうのじゃないと思う」
     項垂れて目線を下げ、しかし彼はあくまで自説を曲げない。「なーんかリンドウ、モトイさん関連妙に拘るよね」
    「別にいいだろ…アナザーさん、憧れだったし」
    「ま、いいけどさ」
     早々に説得を諦めたフレットは両手を頭の後ろに回して虚空を見上げた。
    「リンドウも物好きだよな〜」
     実りのない問答を繰り返す二人を、ナギは丸眼鏡の奥からこっそり見つめていた。
     ……あなたも大概では。
     と、そう思いはしたが、結局口にしないままだった。

    **************
    関係進展アンダンテ
    **************

     カーテンレールにはハンガーがかけられ、薄手のジャケットやストールが静かに冷房を受けていた。部屋の中は全体的に無彩色のトーンでまとめられており、落ち着いた印象を与えると同時にどこか無機質で寂しい感じもあった。やや厚いカーテンが光を遮って部屋は軽く翳っている。ときどきは冷房を受けてカーテンが重たげに揺れる。外を車が通る音が近づき、やがて離れていく。
     相手の家に足を運ぶのは今日が初めてのことだ。
    「お待たせリンドウ」
     リビングから戻ってきたフレットがお盆を置き、体育座りで腰掛けていた隣に並んで腰を落とした。ほい、と差し出しながらこちらを見て、くしゃりと苦笑を浮かべる。
    「リンちゃん、そんな縮こまんないで」
     緑茶で満たされたコップは早くも涼しげな水滴を纏っており、リンドウの掌をしっかりと濡らした。一口啜る。直前まで冷やされていたのだろう冷たい液体が喉を爽やかに伝い、炎天下を歩いて火照った身体にゆっくり滲みてゆく。休まった息を吐いてもう一度、見知らぬ部屋をきょろきょろと見回した。
    「…おまえの部屋こんななんだ」
    「こんなって何、割とフツーじゃね?」
     そうかもしれない。収納付きのベッドとクローゼット、勉強机、その上に積み重ねられた大判の雑誌。他に目立った特徴はない。しかし、部屋に呼ばれる程度の関係を多く持たないので「普通」と言われても今ひとつ基準が分からない。素直にそう答えるとフレットはカラリと笑った。
    「リンドウの部屋だってこんなもんじゃない?」
    「そう…かな」
     確かに広さは自分の部屋とそう変わらない。自分は結構几帳面だと自負しているが相手もそこそこのようで、男子高校生にしては片付いている方に感じられる。そんな部分は似ていると言えなくもないが、どうも他人の生活を覗き見しているようでソワソワ落ち着かなかった。リンドウは頭を搔く。
    「人ん家来るの慣れないから分かんね…」
    「じゃあ今から慣れて」
     そう言うとフレットはおもむろに立ち上がり、テーブルの上に立てかけられていたタブレットを手に取って、二人の間に置いて操作を始めた。
    「ここ俺が次に狙ってるとこなんだけど、8月に渋谷に新しく出店するみたいでさ—」

     しばらくの間、彼のファッション談義に付き合い、あるいは動画サイトの新着動画を眺め、それも飽きればスマホゲームに興じたり引き続きタブレット画面を操作して過ごしていた。コップの緑茶は一度底をつき、フレットがリビングに戻って、緑茶とともに母が勧めたのだという和菓子をお盆に載せて帰ってきた。それを摘んで、またしばらくの没頭。
     バタン。二人の間を満たしていた沈黙を破って、玄関のドアが閉まる音が遠く響いた。それを聴いたフレットは、ふぅ、と息を吐いて場の雰囲気に一区切りをつけた。それからニッと笑ってリンドウを見る。
    「なーリンドウ、母さん出かけたっぽいんだけどさ」
    「……何」
     何かを企んでいるんだろうな、というのは弾むような声色で分かった。目を合わせると面倒なのでそのまま召喚獣図鑑を流し見していたが、顔を上げる気がないと察したのだろう相手は急にずりっと身体を引き寄せてきた。至近距離から小声でそっと投げかけられる。
    「ちゅーしていい?」
     突然耳元に吐息がかかる。電流を受けたように全身が勝手にびくりと跳ねた。慌てて向き直ると相手は悪びれもせずニコニコしていた。
    「そんな怖がんなくても」
    「おまえが変な言い方してくるからだろ」
    「ゴメンって」
     いきなりのことで顔が火照っているのが自分でも分かるので、改めて相手と向き直るのが気が引けた。どうせ全部見られてるんだろうけど。地面に仰向けに寝かせたスマホを気にする振りをして、横を向いたままで尋ねる。
    「…今?すんの?」
    「よければ?ってか俺の家来る時点でそういうの考えなかったんだ」
    「……いつか、とは思ってたけど」
     ぼそり、とリンドウは応える。確かにいつかとは思っていた。そしてそれはもっとずっと後のことだと勝手に考えていた。
     想いを伝えあい特別な関係を結びはしたが、正直なところ告白した後も今までの親友関係と地続きの付き合い方を保っていた。相変わらず週末ごとに街に出かけては服を見たり食事を共にする。一応、一緒に映画を観たり、夜少し遅くまで時間を過ごすようになったのは変化と言えるかもしれない。その程度の至極健全なお付き合い。だから、こうして家に招かれるのも友達の延長線上かそれ以上の含みを持つものか分からなかった。分からないまま、いつものようにぼんやりと、誘われるままに彼の家を訪れたのだった。
    「……今すぐとは思ってなかった」
    「今だとダメ?」 
     言い訳を即座に拾って返される。ちらりと相手の方を見やれば、身を乗り出すようにしてまじまじとこちらを見つめていた。瞳を潤ませて餌をねだる犬の目で懇願されると断る気も失せてしまう。—どのみち断るほど嫌というわけではないのだ。きっかけがないだけで。勇気がないだけで。
     一つ呼吸を整えてから、答える。
    「分かった」
     取り戻せない言葉が静かな部屋に響いて消えた。
     その間、フレットはぴたりと止まって余韻を聞いていた。それから再び笑みを浮かべた。ふにゃりと、解けたような笑顔。貼り付けた外面としてではなく、芯からの感情が零れたように顔を緩ませて。
     右手が伸ばされて頬に触れる。
     温度と、掌にまで伝わる鼓動が肌を介して伝わる。親指だけがゆるやかに動いて頬を撫でた。「…いいんだ?」
    「うん…遅くなったかもしれないけど、俺も好き、だから」
     もっとふさわしい言い方があるのかもしれないけれど、月並みな言葉しか思い浮かんでこなかった。それでも十分だったのかもしれない。相手の目にはとろりと優しい色が浮かんでいた。軽く引き寄せられるに従って小さく身を寄せた。
     柔らかく、暖かな感触が触れる。跳ねた前髪の下の額のあたりに、熱く火照ったままの右頬に、鼻の頭に。それから唇に。壊れ物を扱うようにそっと触れて、そして離れてはまた寄せられる。その度にぼわぼわと浮かされるような気持ちが胸の奥から湧き出る。身体の芯に少しだけ残った震えまで伝わってしまいそうで気恥ずかしかった。それが去ってしまうと、腰に細い腕がきゅっと回され抱き竦められていた。
    「…フレット?」
    「俺、ずっと待ってた」
     肩の辺りに顔を埋めたままで彼は独白する。
    「リンドウを焦らせたくなかったから待ってたけど…ずっと、こうしたかった」
    「ち、ちょっと」
     パーカーの内側にまで手が差し込まれかけ、隙間から部屋の寒気がスッと入り込んできた。慌てて相手の胸に軽く手を置くと、押されるに従って案外素直に身を起こしていた。
    「ごめん…イヤだった?」
     声を小さくして問いかける彼は少し寂しそうにも見えた。傷つけないように急いで否定する。
    「イヤじゃない!…んだけど」
    「だけど?」
    「もし…良ければだけど…その。…最初だけ俺の部屋でにしてほしい」
    「何で?」
     いや、それはその。リンドウは口ごもりながら答える。
    「…知らないとこだと何か緊張するから」
     相手の部屋の勝手が分からないこと。景色も匂いも居慣れなくて、余計に固くなってしまいそうなこと。そして、せっかく繋がる際に無駄に緊張して興醒めさせてしまったら悪い、ということ。相変わらず言葉は上手く繋がってくれなくて、それだけ言うのも辿々しくなってしまった。フレットはそれを聞くと一瞬ぽかんとした後、あっけらかんと破顔した。
    「ぷっ…アハハ」
    「笑うなよ!」
    「ごめんごめん」
     笑い声の合間に言葉だけで謝る。しばらくぷすぷすと吹き出し続けてから、ようやく向き直って、答える。
    「オッケー、心の準備できたらすぐ言って?俺もその時はいろいろ準備してくから」
    「…分かった」 
    「楽しみにしてる」
     機嫌良さげな相手の声を聞いてしまってから、再び黒い端末を手に取り操作を始めるフリをした。そうして俯いて呼吸を整えていると、フレットがクックッと喉の奥で笑いを噛み殺す声が微かに聞こえた。
     部屋はしっかりと冷房が効いていたのに、無性に顔が火照って仕方がなかった。


    **************
    リンドウ先生に質問
    **************

     小さい頃図鑑が好きだった。
     暇さえあれば重たい大判の図鑑を本棚から抱え下ろしてはパラパラめくり、カラーの写真に添えられた説明文を声に出して読み上げていたそうだ。時には動物の生態や恐竜の分類について母さんや幼稚園の先生に解説して、「リンドウ先生」なんて綽名で呼ばれたりもした。
     だからだろうか、今でも人に何かを話してやるのは嫌いじゃない。もちろんそんな相手は一人しかいないし、たまに煩いと思うこともなくはないけど。

    — ギィィィッ!
     ピラーの一撃がカメレオンノイズの腹に深々と突き刺さる。耳障りな悲鳴と共にノイズはモノクロの砂嵐と消え、長い舌から解放されたフレットはべしゃりと地面に落ちた。
    「大丈夫かフレット」
     急いで駆け寄ると、彼はしかめ面で両腕をさすりながら「服がべたついた」と文句を言っていた。これは大丈夫そう。
    「ってかアイツズルくね?消えるとか反則でしょー…」
    「反則とか今更だろ、ノイズだし」
    「そうだけどさー、全然見えないじゃん?実際カメレオンってあんな色変わんのかね」
     平手でパシパシと上着をはたきながら、こちらを見もせずに問いかける。
    「…リンドウ知ってる?」
     スマホを取り出す。検索窓にカメレオン、と打ち込む。もはやお定まりになった流れ。
    「えーっと……”体色を瞬時に変化させるが、保護色というより生理・心理的要因が大きい…”」
    「ってことは?」
    「フツーのカメレオンはあんな風に消えないってこと」
    「じゃーやっぱりズルなんじゃん」
     口を尖らせ、買ったばかりのベストの裾を未練がましく弄っていた。唾液が残っているのをまだ気にしているらしい。ノイズなんだからそのうち消えるだろ。そう言ってやると、そうだけど何か汚い、となおも不満そうにしていた。

     彼はよくこうしてどうでも良い問いを投げてくる。それは死神ゲームが始まる前から変わっていない。

     珍しいエスニックのメニューとか新作ゲームの広告とか、ともかく聞き知らぬものがあると条件反射で俺に振ってくる。俺の方も別に詳しくないので即スマホで検索しては、検索結果をそのまま口に出す。
     Wikipedia→俺→フレット。簡単な情報のフロー。
     それだけなのだが奴はどうもそれで満足らしく、「ふーん」と頷いてそのまま次の話に移ってしまう。俺の意見が聞きたいとか知識を試しているわけでもないらしい。
     —こちらとしてもその方が面倒がないので嬉しい。

     大した手間でもないけれど、10回も20回もそれが繰り返されると流石に気にかかってきた。俺がというよりは相手のことが。よく飽きもせずに俺を読み上げツールにしていると思う。
     それで、一度だけ聞いてみたことがある。
     —いつも思ってたんだけどさ、それ自分で検索した方が早くね?
     彼はぽかんと一瞬静止してから、「ばれた?」と苦笑して頬を掻いていた。
     —いやそうなんだけどね?リンちゃん、スマホ弄ってても聞かれればちゃんと反応してくれんじゃん。それが嬉しかったし、それに俺リンドウの声聞くの好きだし
     今度は俺の方が言葉を続けられなくなってしまった。でもどうせこちらの内心などお見通しだったのだろう、いつもの軽い調子で「リンちゃん照れてる」と揶揄いを向けてきた。
     
     思いもかけないテーマを与えられて、神妙に様子を伺っている彼を横に手慣れた操作をまた繰り返して。わくわくと期待した目で俺を見ているフレットを相手に、知らなかった知識を分かち合う。
     そうやって何かを話してやる時間は割と好きだった。
     今日もまた奴は、自分ではろくに調べもせずに俺に声をかけてくる。
    「なー、分かるリンドウ?」

    **********
    季節の思い出
    **********
    【ハロウィン】

    「…今年もひっどい有様ねぇ」
     と言うより年々酷くなってないかしら。104ビルの屋上で風を受けながら、卯月は誰にともなく愚痴を口にする。眼下のスクランブル交差点は奇抜な格好の人々が百鬼夜行を繰り広げていた。通路の中央に設えられた立ち台の上、黒いサングラスをかけたラッパー風の男性が、騒動に何とか道筋をつけようと涙ぐましい呼びかけを繰り返している。混む分にはまだいいとして、ともかくゴミが出る、諍いが起こる。ついでに、喧騒に誘われるのかこの日だけは妙なノイズやソウルが勝手に湧いてくる。
     新宿死神が去って、空席になったゲームマスターの席には自然と卯月が座すことになった。他の幹部も一般死神も無惨なまでに数を減らしたため参加者登録からミッション出題、場合によっては週末に参加者の相手をして報告書を上げて、と平常業務だけでも火が出るほど忙しい。加えてハロウィンは下位次元の治安維持まで押し付けられるのだからたまらない。自分が死んだ頃はここまで羽目を外すようなイベントじゃなかったはず、と彼女は遠い目で振り返る。
    「あのコンポーザー、絶対GMを便利な小間使いか何かと勘違いしてるわ…」
     柔らかな銀髪を揺らしてクスリと笑う青年の姿が脳裏に浮かぶ。げんなりと俯いた彼女の視線が、街の一点で止まった。
    「…何、あいつらじゃない」
     見つめる先はスペイン坂入口。人通りの多い街路から外れた袋小路に、見知った面影—“黒いキャップを被った金髪の少年”と“顎にマスクを引っ掛けた茶髪の少年”、それから彼らを壁際に追いやろうとする三人組の青年の姿があった。

    「り、リンドウ…これヤバい?」
    「多分…?ってかお金渡して逃してもらった方がいいかも…?」
    「現金持ってる?」
    「おまえ持ってないの?」
     踵でざりざりとアスファルトを踏み退っている。二人の笑顔はひくひくと引きつり、ヒソヒソと小声で交わされる声は震えていた。すぐ後ろに壁が迫っているのでどのみち逃げられはしないだろうに。彼らを追い詰めていた青年のうち一人が大きく前に踏み出すと、応えるように二人の少年の喉からヒッと悲鳴が漏れた。
    「いや〜そんな怖がんなくてもいいじゃん?ちょーっとお金貸してって頼んでるだけなんだけど」
    「すみ、ません…現金持ってなくて…」
    「あー、いいよいいよ!スマホで渋Pay全部送金してくれればそれでいいからさ」
     互いに抱き合わんばかりに情けなく縮こまっているモヤシどもが「渋谷を救った恩人」だとはにわかに信じられないし信じたくもない。少し後ろの上空に羽撃きながら様子を眺めていた卯月は、ハァ、と大きな溜息をついた。それから、じわりと距離を詰め続ける男の背後に意識を寄せる。
     —キィン、と独特の金属音が脳に響く。予想通り”ソレ”は確かにいた。全身の毛を逆立て、血のように紅い舌をだらりと下げ、狼の形をとって背中に張り付いていた。
    (……アレノイズの仕業ね)
     懐から銃を取り出し、イメージを描く。
     両手に構えた銃口から弾け出す光の粒子。
     柔らかで無防備な脇腹に突き刺さる。炸裂する。
     次の瞬間、光の粒は花弁のように弾けて内臓を深々と抉った。ギャイン、と哀れっぽい鳴き声を上げてノイズが消えていく。怖気付いたのか、後ろの男たちに取り憑いていたノイズも自らの次元の奥へと逃げ去っていった。
    「……んぁ?何してんだ俺」
    「…え?」
    「何君ら?何か用?」
    「何か用、って……」
     行こうぜ、と後ろの二人に声をかけられると男は「おう」と鷹揚に答えて踵を返した。腰が立たないのか、少年たちはその場にぺたりとへたり込んでしまう。その目の前に卯月はしゃなりと着地し、少し迷ってから結局RGの次元へと同調した。少年たちが目を見開く。
    「卯月さん!?なんでここに…」
    「あーもう!いちいち驚かない!そんなとこで座ってたら汚れるわよ」
     とっとと立ちなさい、と促されるに従って”リンドウ”と呼ばれていた少年が立ち上がり、尚もへたり込んでいる相方に「大丈夫かフレット」と手を貸した。二人ともまだ少し青い顔をしている。
    「…ノイズ憑いてたわ、あいつら」
    「助けて下さったんですか?」
    「コンポーザー様に言われてんのよ、こっちの次元の面倒見ろって…ってかアンタら仮装しに来たんじゃないの?」
    「してるっすよー、地味ハロウィンですけど」
    「地味ハロウィン?」
     助け起こされていた茶髪の少年—フレットがにぱっと笑い、口元の黒いマスクに指先を引っ掛けて見せた。
    「これ、死神ゲームの時のリンちゃんのコスプレっす!んでリンドウは俺のコスプレ」
    「俺は被らされただけです」
    「ふーん…って分かるわけないでしょうが!」
    「えー、ゲームの時俺らのこと監視したでしょ〜?」
     語気の強いツッコミに怯まずケラケラと笑いを返され、卯月は思わずこめかみを抑えて頬を痙攣らせた。本当なんでこんな奴らに助けられたのかしら。ただでさえ厄介な日にこれ以上こちらの手を煩わせないでくれる。死神もこれで忙しいのよ。無限に出てきそうな文句の代わりに、卯月は少年たちを一瞥して「で」と切り出した。
    「…いるの。いらないの」
    「はい?」
    「お菓子!要るの!要らないの!」
     怒鳴りつけられてようやく思い当たったのか、二人はびくりと肩を強張らせてから控えめに口に出した。「と…とりっくおあとりーと…?」
     おずおずと差し出された手に「ホラ、」と棒付きキャンディーを叩きつける。
    「ハロウィンの渋谷なんてノイズの巣窟よ。特にアンタらの場合は一回UGに来てるんだから尚更危ないわ……まぁ、もしもう一度ゲームに参加したいなら歓迎しちゃうけど★」
    「いいいいいです!遠慮します!」
     顔を引きつらせてブンブンと手を振る二人に卯月は「フン」と鼻を鳴らした。
    「じゃあさっさと帰んなさい、これ以上面倒ごと増やされるとメーワクなの」
    「へーい…あざっしたー」
    「ありがとうございました…」
     ペコリと頭を下げ、二人は卯月の脇をすり抜けてスペイン坂を駅前方面に下っていく。その後ろ姿を見送ってしまってから、そう言えば狩谷に渡すもの無くなっちゃったわ、と卯月は一人文句をこぼす。
     見つかったら悪戯されてしまうだろうか。

    【クリスマス】

     BGM代わりに付けていたネットニュースの画面が変わり、赤と緑が目立つ街の様子が映し出される。それを目にしたフレットは「あ、渋谷」と口にした。大いに混み合っているのは予想通り。こんな日に出かけても着膨れた人々に小突き回されて疲れるばかりだろう、とはハロウィンの時の反省から分かっていた。なら今のうちに終わらせて、人の掃けた冬の街でのんびり時間を過ごした方がいい。
    「なーリンドウ、そろそろ休憩にしよ」
     炬燵の向こう、フレットの手元のシャープペンシルは完全に動きを止めている。先ほどから目を上げてはニュースに一言コメントをしていたせいだろう、彼の進捗は明らかに俺より遅かった。
    「さっきから結構休んでるだろ」
    「んなことない、ちゃんと真面目にやってるってー」
     体育座りしていた足先につんつんと何かが触れる。軽い接触だったそれはすぐに俺の足の甲を包んだり圧しつけたり好き勝手弄り始める。顔を上げるとニヤついている相手と目が合った。何が「真面目にやってる」だ。
    「…フレット、…そういうのは終わってからで」
     そう言ってやると、一瞬ぴたりと動きを止めてから猛然とシャーペンの動きを再開させていた。どうせ録でもないことを考えているのだろうが、どうあれ彼の意欲を邪魔してはいけないので俺も再び世界史の課題に目を落とした。


    【節分】

     もきゅ、もきゅと無言で太巻きを頬張り続ける彼の姿は頬袋を膨らませたハムスターを思わせた。一口をゆっくり噛み、飲み込んではまた次の一口に挑む彼の姿は必死そうにすら見える。
     元々リンドウは食べるのが遅い方で、ツイスターズで食事をしていても最後に箸を置くことが多かった。普段であればそれでもこちらの話にポツポツ返してくれるので気にならないが、恵方巻の場合は食べ終わるまで喋れないので手持ち無沙汰だった。
     急に驚かして声を出させてやろうかな、なんて思ったけど、北の方を一心に見つめながら黙々と咀嚼している姿をみるとそんな気も萎える。何というか食べるというより何か祈っているようだった。
    「なーリンドウ、何か願い事あんの?」
     無言。そして頷いて、同意。
    「当ててみよっか?次の模試A判定〜とか」
     無言、首を振って否定。
    「背が伸びますように〜、とか」
     また否定。それから目だけで俺を軽く睨んだ。
     顎に手を当てる。俺は考える。ゲームの後に「悩み事があったら言って」とか「隠し事はなし」とか伝えたけど、どうも悩みがあるってわけでもなさそうだし。分からないので早々に白旗を上げてネタに走ることにした。
    「じゃあ大穴で…觸澤さん絡みとか!」
     彼はごくんと喉を鳴らし、手元に残った恵方巻きに目を落としてから小さくコクリと頷いていた。


    【バレンタイン】

     季節の底のような寒さが東京を覆っていた。リンドウはこの時期を苦手とする。コートと手袋とマフラーで全身を覆い、帰路の途中で道草を食っては手袋を外して戦利品の温度を慈しむ。冬は小遣いの減りが早くなる彼だった。
     その日も彼は連れと共にコンビニに立ちよった。清潔な白い光の中から外の冷たい闇へ足を踏み出しながら、紙袋から湯気の立つチョコまんを取り出す。その様子を見たフレットはのんびりと羨んだ。
    「バレンタイン限定かー…次来たときはないかも」
    「フレットもこれにすれば良かっただろ」
    「そうだけどさ…ってか半分にしない?どっちも食べれるし」
     そう言いながら自分の袋から皺の寄った肉まんを摘み出し、半分に割った。リンドウは差し出された歪な半円型を見つめ、様子を伺う猫のようにふんふんと空気を吸い込んだ。それから無言で自分のチョコまんを二つに割り、差し出す。
    「分かった。交換」
     フレットは勢いよくチョコまんに手を伸ばしかけ、それから一瞬ピタリと固まった。
    「……本当に貰っていい?リンドウ」
     おまえが言い出したんだろ、と流してハーフサイズになった中華まんを手渡すと、相手はえへへ、と不相応なまでに嬉しそうな照れ笑いを浮かべてそれを手に受けた。その意味に何となく思い至るのは、1日の終わりに布団に入って目を閉じた後のことだった。

    *******************
    夕空リスキーフレグランス
    *******************
     フレットのウィンドウショッピングは服飾店が大半だったけど、時折雑貨とかパーティーグッズ、輸入物のお菓子なんかを見ることもあった。要は暇潰しできれば何でもよいのだろう。俺も別に行き先の希望はないので、基本的に彼が行きたいと言うままどこへでもついて行く。
     大型ディスカウントショップはその点都合が良い。上に並べたものは服以外大概揃う。4~5フロアの間を行ったり来たりしながら、買いもしない着ぐるみやらオモチャの楽器を弄ってはその汎用性の無さに二人で笑いこけたりした。よくもまぁこんな使い所の少ないグッズを考えるものだと思う。
     ただ、その日のフレットはかなり明確に4Fのフロアまでエスカレーターを登った。買いたいものがある、と半ば俺を引っ張るようにして。

    「モトイさんのオフィスも渋谷なんだな…」
     手元の名刺にはそう書いてある。
     フレットと落ち合う前に109前でたまたまモトイさんを見かけ、少しだけ話をした。別れ際、モトイさんは胸ポケットから名刺を一枚スッと引き出して俺にくれた。バイチャンス、何かのご縁があったらよろしくねリンドウ君。そう言って手渡されたカードからはほのかに甘く、バニラにも木の匂いにも似た大人っぽい香りが漂っていた。
     信号待ちの手持ち無沙汰な際にコートのポケットから引っ張り出し、表面にデザインされたアルファベットに目を通していると、フレットが覗き込んできて長い前髪の影が落ちた。
    「何それ?名刺?」
    「うん。さっきモトイさんに会って貰った」
     ふーん、と同じように文字を追っていた彼が不意に顔を顰めた。
    「…なんか変なニオイする?」
    「香水かけてるって言ってた」
     ふーん。再び彼はつまらなさそうに言う。先ほどよりも長く間延びした声が続き、それから信号が変わって周りの人混みが動き出した。行こっかリンドウ、と促されるに従って再び名刺をポケットにしまい込み、歩き出す。
     横断歩道を渡り終える頃になってフレットは言った。
    「俺ちょっと行きたいとこあんだけど、いい?」
     いいけど、と頷いた。別に確認取らなくてもどこでもついて行くのに。それを聞くとフレットはにっこりと笑い、よく足を運ぶ量販店の名前を口にした。—買いたいものがあんだよね、と。普段は歩き回るだけで碌にモノを買わなかったけど、ワックスや制汗剤やリップクリームなんかも置いているから大方その類だろう。彼は身嗜みによく気を遣う。

     …という俺の予想を裏切り、彼は日用品類が置いてある1Fを素通りしてエスカレーターに向かった。着いたのは4F。普段は見ない、ブランド物の女性用バッグやアクセサリーのガラスケースが並んでいる。身を縮めるようにして通路や棚を通り抜けた先でようやく彼は立ち止まった。
    「…香水?」
    「ん、俺持ってなかったから1個欲しいなーって」
     リンドウもなんか選んだら、と言いながらテスターの青い瓶を構え、小さな長方形の紙片に吹きかけていた。自分も茶褐色のボトルを適当に手に取り、ラベルを見る。銀色の箔付きの文字で、Musk、と綴られている。
     霧吹きを握る。プス、と音を立てて放たれた霧が角張った紙片を濡らした。
     鼻先に近づけて匂いを確かめる。
     モトイさんに貰った名刺と似た匂い。
    「リンドウそれ好き?ムスク?」
     自分の分を試し終わったのだろうフレットがぴょこんと顔を寄せてくる。
    「知ってんの?」
    「書いてあるし」
     右手に持ちっぱなしにしていたテスターの文字に目ざとく目を落としながら言う。「…それ、ちょっと甘過ぎんじゃね」
    「まぁちょっと大人っぽいかなって感じはする」
    「こっちとかならリンドウにも合いそうだけど」
     既に先端が濡れている紙切れを一枚、手渡された。鼻先に持ってくるまでもなくその正体は分かった。爽やかなシトラスの香り。それも、つんとしたレモンではなく広がるような甘さを含んだオレンジの香り。確かに分かりやすいと言えば分かりやすい。
    「悪くないと思う…俺は買わないけど」
    「んじゃ俺がこれにしよっかな」
     棚の上から箱が一つ取り下ろされる。外箱の中央に夕陽色の長い瓶が描かれ、背景には重そうな実をつけたオレンジの木が描かれていた。安っぽい、とまでは言わないけれど決して高級とは言えないデザイン、そして価格帯。小遣いで生きている身としては相応と言って良さそう。
    「サイズでかいしリンドウにも後で小分けにしてあげる」
    「俺は使わないと思うけど…」
    「使ってよ!練習だと思ってさー」
     そう言ってレジへと歩き出そうとして、すぐにピタリと止まって振り向いた。
    「ソレ、財布とかに入れといたら」
     彼は俺の右手のあたりを指差す。持ちっぱなしにしていた白い紙片には、まだ強くオレンジの香りが残っている。言われなければ捨てて行こうかと思っていた。
    「…なんで」
    「匂い移せるじゃん」
    「だからなんで?」
    「いーからいーから」
     別に自分はそこまで香りに拘りがある方ではない。しかし断るほどでもないので大人しく財布のジッパーを開け、白い紙片を差し込んで閉じた。それを見届けたフレットはふっと笑みを浮かべて、それから再び4Fのレジカウンターへと足を向けた。
     

    ************
    幸せはどんな味
    ************
     冬の帰り道にコンビニに寄ると、リンドウは決まって手持ちのカップに100円で買える具材を一つ、それから出汁をたっぷりと入れ、普段は表情の乏しい顔を少しだけ綻ばせてちょこちょこ食べ進める。「スープだけ一口ちょうだい」とせびってみれば、お人好しの彼は「お前も頼めばいいだろ」と文句を垂れつつも絶対カップを手渡してくれる。タダ乗りも気が咎めるので結局俺も自分が買ったホットスナックを手渡していたけれど、彼は特に面白くもなさそうに受け取って、一口分だけ齧り、なんの感想もなく返してくれた。自分が欲しいからというよりは、俺が平等にしたいなら付き合うけど、といった感じ。

     その日もコンビニ裏の公園のブランコに並んで腰掛け、買ったばかりの獲物を頬張っていた。街灯が切れた真っ暗な公園には人っ子ひとり残っていない。ラスイチのチキンナゲットを口に放り込んでから横を見ると、リンドウも箸の先で最後の一口を摘み上げていた。今日はタマゴ。さっき買ってた。
    「おでん好きだよな〜、リンドウ」
    「うん…コスパいいし暖まるし」
    「他の買わないの?」
    「おまえが結構いろいろくれるから」
     意外と喜んでたんだ。ちょっと嬉しくなって足で地面を軽く蹴ると、錆びのついたブランコの鎖がキシ、と音を立てた。隣のリンドウは腰掛けを椅子がわりにしっかりと地面に足をつけ、まだ出汁がたっぷり残る容器を包み持つようにして手を温めている。
    「……あ」
    「どった?」
    「…要る?」
     フレット、いっつも一口欲しがるだろ。そう言って、カップを左手に持ちかえこちらに突き出している。言われるまで俺の方が忘れていた。既に自分の分は食べ終えてしまっており、もらうだけというのも申し訳ないので「今はいいわ」と手を振って見せた。リンドウは特にそれ以上勧めもせず、ただ「そう」と言って残りに口をつける。
     ほぅ、と白い息を吐き出す彼の口元を見ていてふと、思いついた。「……あ」
    「なに?」
    「リンドウちょっと」
     なに、と再び答えてこちらを向いたリンドウの顎のあたりを捕まえ、すばやく顔を寄せる。まだ暖かく湿っている唇にそっと口をつけ、それから振り払われないうちにサッと離れる。しょっぱくて少し甘い。心にまでじわっと染みるような味につい口元が緩む。
    「リンちゃんがすごく美味しくなってる」
    「…だから、欲しかったならあげたのに」
    「……え?貰っていーの?」
     ずいっと顔を近づける。リンドウはしばらく腑に落ちない顔で俺と目を合わせてから、急にバッとそっぽを向いてしまった。
    「……出汁の話!」
     そう言ってカップの残りを一気に飲み干そうとして、少し咽せていた。その様子を茶化しながら、仄かに昆布とかつおの香りが残る口づけを記憶に焼き付けた。


    *********************
    四月馬鹿は中止になりました
    *********************
     夢の中で、俺はフレットの姿を探して真昼の白い街をフラフラと彷徨っていた。
     皆のいる世界からはぐれた俺は一人で歩き、焼け付くアスファルトの熱に追い立てられるようにモノクロウやJPオブザモンキーのテナントに逃げ込む。店舗には人一人いないのにリンタロウさんやオカダさんは顔も上げない。まるで俺なんて居ないみたいに機械的にTシャツを畳み、ハンガーの配置を入れ替えていた。かつては俺に似合うアイテムを勧めてくれたりしたのに。
     世界から置き去られてしまったようだった。
     それでも、せめてそこに彼がいればそれで良かったのだ。犬みたいに懐っこい笑顔で俺の綽名を呼んで、どんな服が似合うだとかセカンドピアスを選んでやるだとか下らない話を振ってくれれば良かった。しかし、RGやUGで散々通ったどのショップに行ってもどの飲食店に行っても、彼の面影はどこにもない。何も頼まず退店しようとして睨まれ、仕方なく椅子に腰掛けて啜ったラーメンは砂の味がした。
    (どこにいるんだよ…フレットも、ショウカも、ツイスターズの皆も)
     誰もいない世界はただただ退屈だった。
     途方に暮れたまま膝を抱え、スクランブル交差点を眺めていた。そこには影だけになった人々が歩き交わしていた。
    —…ドウ
    (…フレット?)
    —リンドウ……
     坂の上から、それは夏風に乗って俺の耳を擽った。引き寄せられるように俺は走る。
     何人もの影とすれ違った。彼らは時に俺にぶつかり、時にすり抜けて思考の残渣を響かせた。どこで何を買うか。誰と付き合うか。それは規則性のない雑音として頭の中をくるくる回る。
    「フレット!」
     スペイン坂階段の出口に彼はすくっと立って、硝子玉のような澄んだ目で真っ直ぐ俺を見下ろしていた。フレット。俺は叫び、階段を駆け上がる。そこにいることを確かめたくて、手を伸ばして肩を掴む。
     階段を駆けて上がった息のまま俺は吐き出した。フレット、どこにいたんだよ。探しただろ。その間フレットは奇妙に押し黙ったままでこちらを静かに見ていた。つまらなそうに引き結ばれていたその口が薄く開き、ごく短い言葉を紡ぐ。
     消えろ。
     次の瞬間熱を伴った衝撃が鳩尾の下を叩いた。身体中から冷たい汗が吹き出し、一拍遅れて神経を掻き毟られるような痛み。かひゅ、と口から変な息の音が漏れた。混乱する思考のまま、痛みのもとへと視線を下げる。
     刺さっていた。腕が。腹に。
     グポッと音を立ててそれが抜かれる。血で赤く染まった掌がモノクロの大きなバッジを握っているのが微かに見えた。
     痛みと吐き気が思考をぐしゃぐしゃに上塗りしていた。地面が近くなり、頭に衝撃が走ったのちに視界はスペイン坂のレンガだけになる。言うことを聞かない身体に鞭を打って顔を曲げると、フレットは何の感情も篭らない目で俺を見下ろしていた。その瞳の真ん中に灰色の濁りが浮かび、青をじわじわと侵食していく。
     あぁ、ダメだ。この時間は、この世界はダメだ。
     やり直さないと。
     俺がやり直さないと。


     —カラン。
     乾いた音で目が覚めた。ブラインドが風に煽られて窓枠に当たっている。黒い春の夜気がぼんやりと頬を撫でる。机に突っ伏した不自然な体勢で寝落ちしたから変な夢を見たのだろう。きちんとベッドに入って寝ればよかった、俺は後悔する。
     充電器を挿したままスタンドに立てかけていたスマホには直前まで交わしていたやり取りが表示されていた。
    > アラディブさんの店、シモキタに2号店出すってさ
     相手とのやり取りは即レスのことが多いので、課題を片付けながらダラ絡みするこの時間帯には自動スリープをOFFにしている。少し迷ったのち、スタンドからスマホを手にとり、そのまま通話ボタンを押した。「悩みがあったらいつでも相談」—あのゲームが終わった後に改めて交わした合言葉。自分たちの特殊な経験と平凡な日常生活の両方を踏まえて相談できる相手は数少ない。
     5回のコールののち、スマホの向こうから「おっす」と軽い声が届いた。
    「こんな時間にごめん」23時50分。
    「いーよ別に?ってかリンドウにしては返信遅いからもう寝たかと思ってた」
     …それはそう。「寝落ちしてた」
    「珍しくね、リンドウ夜型じゃん」
    「おまえよりはな」
    「夜更かしはお肌に悪いですからね〜」
    「女子かよ」
     愛おしむように前髪に手櫛をかける彼の癖が思い浮かんで笑いが溢れた。どうでも良い会話。いつものやり取り。ドッドッと駆けていた心拍が少しずつテンポを落としていく。
    「で、急にどったの?変な夢見たとか?」
    「……うん」
     夢の内容について話す気にはならなかった。あのゲームのきっかけになったトラック事故を含め、どこかの時間で起こった悲劇について彼に話したことはない。今ここにいるのは何事もなくあの世を駆け抜けてこの世界に戻って来れたフレット、それでいい。いや、薄々感づかれてはいるかもしれない。不安に襲われて見つめる俺と目が合えば、決まって慰めるような優しい微笑みを返してくる。その癖それ以上詳しく訊いてこようとはしないのだ。
    「まじかー、大丈夫?もう落ち着いた?」
    「まぁ、うん」
    「そっか」
     ふぁ、と向こうで欠伸をする声が聞こえた。もうすぐ日付が変わろうと言うのだから無理もない。話すべきことも見つからず、かと言ってすぐに「おやすみ」と切るのもまだ心細く、何も言えないままでスマホに耳をつけていた。
    「…そーいえばさ。明日…今日?エイプリルフールじゃん」
     少しの静寂ののち、様子を伺うようにフレットが話を切り出してきた。
    「今日…そうだっけ」
     一瞬だけスマホから顔を上げて日付欄を見れば、白いフォントで示された日付は確かに4月1日を示していた。
    「リンちゃん何か嘘思いついた?」
     晴れない頭で精一杯考える。毒のない無邪気な白い嘘。だが先ほどの夢がどうしても後を引いて、何を言っても本当になってしまいそうな気がした。四月馬鹿の冗談だと笑い飛ばしてしまいたいのに、口にしてしまえば取り返せないような気がした。何せあれらは自分にとっては嘘などではなく、確かに一度起こったことなのだから。
    「……ちょっと今は考えられない」
    「嫌な夢見たから?」そういうところは聡い。
    「まぁ、そんな感じ」
    「そっか、そういうことってあるよな」
     フレットはしみじみと言った。時折、俺の知らない過去がこうして顔を覗かせる。普段はお調子者として振る舞っている彼の表情に寂しげな影を落とし、その声を落ち着いたものにする。けれど、一瞬だけ沈んだ空気を払うようにすぐ彼は声のトーンを上げた。
    「じゃさ、俺もリンちゃんに付き合うわ!今年はエイプリルフール無しで」
    「いや別にいいんだけど」
    「えー、もっと喜べよ〜」
    「フレットはやりたきゃやればいいだろ」
    「じゃ…間を取って、リンちゃんには嘘つかないってことで?」
     どこの間を取ってんだと突っ込んでやろうかと思ったが、結局「じゃあそれで」と流すに留めた。先程の夢の後では、何を言われても本当にしてしまいそうな気がした。
    「で、もう寝れそう?」
     話しているうちに胸騒ぎはすっかり落ち着いていた。足先のあたりからぼんやりとした柔らかな熱が広がっていく。置き時計を見れば、長針は既に日付と12の数字を通り過ぎていた。
    「…おかげさまで。悪い、付き合わせた」
     全然いいよ、と電話越しの声が明るく誤魔化す。
    「エンリョすんなって。ってか俺もよくやってるし」
     死神ゲームが終わって以降、暇な夜にこうして電話をするようになった。俺からのこともあるしフレットからダラ話を振ってくることもある。進路が決まらないとか課題が難しいとか親がだるいとか。話の内容が何であれ、言葉を交わした夜は不思議によく眠れる。
    「おやすみ、フレット」
    「おやすみリンちゃん」
     余韻を少し聴いてから、通話終了の赤いボタンを押した。
     窓を閉めて風音を部屋から追い出し、電気を消して、ベッドに横たわって目を閉じた。
     共に言葉を交わし、夜を過ごしたこと。
     きっと今も同じ空の下で息をしていること。
     彼といるこの現実が嘘でないこと。早く朝を迎えて、それを確かめたいと願った。


    ****************
    ふたりでハイチーズ!
    ****************

     パシャリ。カメラ音とほぼ同時に、気配に気づいたリンドウはサッと顔を下げる。液晶画面に焼き付けられたのは、緩く微笑みながら桜を見上げる彼の姿……ではなく、ブレブレになった彼の残像だけだった。隙をついて彼をレンズに収めるつもりが、こういう時ばかり敏感なリンドウは素早く目線を落としてしまう。
     目当ての一瞬を捉え損ねたフレットはわざとらしく頬を膨らませた。
    「あーもう!リンちゃん顔逸らすなって〜」
    「だから不意打ちはやめろって…ほら」
     渋々顔を上げ、型に嵌った営業スマイルと共に右手でピースサインを作っている。なんだかなぁと口を尖らせつつ一応スマホを構え直し、満開の桜を背景にした作り笑顔を写真に収める。そのままストレージを片手でスワイプすれば、週末ごとに試しては失敗した記録が次から次へと流れて行った。
     タコスを片手に持ち、もう片方の手で顔を覆うようにしているリンドウ。
     シェパード・ハウスのコートをハンガーに戻しつつ、急いで顔を横に背けたリンドウ。
     MODIの緑と青空を背景にして映るリンドウ。引き上げたばかりの黒いマスクが口許を覆っている。横から覗き込んできた本人が顔をしかめる。
    「その辺消してなかったのかよ」
    「消さないって」
    「何で?」
    「……シゼンタイのリンちゃんを残しときたいから」
    「自然体」
     借り物のような言葉をリンドウが掬い上げた。
    「そう。美味しいもの食べてるとことか、ポケコヨ?やってる楽しそうなとことか…普段通りがいーの」
    「それ撮って何すんだよ」
    「別にだけど……こーいうの意外と大事じゃん?ずっと後になっても俺はリンドウの顔とか好きなものとか、リンドウと一緒に遊びに行ったなーとか覚えていたいし。そういうのってさ、今忘れないって思ってても…会わないと案外思い出せなくなっちゃうから…」
     続けているうちに、言葉に重みが混じっていくのを感じていた。
     手が届かないところに行ってしまった友人。今や記憶の中にだけ住んでいる旧友。その存在は未だに心を離れていないのに、具体的なイメージ—顔や表情や声を思い描こうとした途端、その気配はスルリと指の間を抜けていってしまうのだ。行き場のない親密な感情だけが取り残され、独りになる。
    「……だから普段のリンドウを写真に撮っておきたいってだけ。それだけ」
     無理に明るい声色で誤魔化そうとしたが、相手との間に流れる妙な空気は取り返せなかった。こうして隠さず素直に思いを伝えるのは未だに慣れない。自分から踏み込んで来ることのなかった親友相手では尚更そう。だから、気まずい思いをさせてまで本音を伝えてしまうのが正しいのか、いつものように笑って流すのが正しいのか、分からなくなる。
    「フレット、」
    「え、何」
     滞った空気を破る呼びかけとともに、ぐい、と強めに肩を引き寄せられた。その目の前に掲げられたのはスマホの液晶。画面の中には、下から目線で見つめる自分たちの姿が映り込んでいる。はいチーズ、の平板な掛け声の0.5秒後に人工的な撮影音が続いた。
    「…そういうのならこっちの方いいだろ」
     すぐに自分のスマホに送信されてきた写真の中では、反射的に硬い笑顔を向ける自分と、掛け声のせいで口をやや窄めたリンドウが片手ずつのピースサインを掲げている。下向きの撮影のせいで桜もほとんど映っておらず、花びらが張り付いた舗装路のアスファルトが背景になっていた。
    「…折角ツーショしてくれんなら不意打ちじゃなくてちゃんと撮りたいんですけど〜」
    「おまえもいつも不意打ちで撮ってるだろ」
    「そうだけどさ〜!なーリンドウもっかい!桜バックで!」
    「シゼンタイ」
    「そうだけどそうじゃなくて!」
     もう一回、とこちらから肩を捕まえようとしたが、楽しげに口元を押さえた彼にひょいひょいと躱されてしまい、結局撮れ高追加なしのまま空しくスマホをしまうこととなった。

     桜も春空もない、全く映えないツーショット。ただ飾らないひと時だけが結晶されている。
     後日いちばん見直す一枚となるとは、その時は思っていなかった。

    ***************
    The Last Re:Start
    ***************
     遠足に行くことにした。

     海がいい。何となくそう思っただけで強い希望ではない。眺めがいい吊り橋、広葉樹が青々と茂った森、もっと言うなら近くの踏切やビルでも目的は果たせるけれど、せっかくの機会だし何となく開けた場所に行きたい、と思った。全てをまっさらに洗い流してくれそうな、深く澄んだ海が見渡せるところ。あの9月以降、旅行どころか碌に遠出もせず、ひたすら家と学校・時折渋谷を行ったり来たりする日々を送っていたので、最後に少し羽目を外すのも悪くないような気がした。相応しい場所をネットで検索して、学校帰りに片手サイズの観光ガイドブックを買って自室で流し読みした。

     幻覚を見るようになった。
     空白のRGに帰って、それから1ヶ月も経たない頃。フレットもショウカもツイスターズの誰も存在しない灰色の退屈な日々が心の奥底まで染み入った頃。その日もハチ公像に寄りかかって、交差点を行き交う人波をぼんやり眺めていた。
     確かにこの世界は守られた。空は高く青く澄んで、人々はそれぞれの事情を抱えながら思い思いに自分の道を歩んでいく。ただこの世界には彼らがいない。親にとっても友人や先生にとっても何の問題もないこの世界に、自分だけが馴染めていない、それだけのこと。
     リスタートの能力は既に失われてしまっていた。壊れたバッジは次元の向こうに捨ててしまったし、何度104のフロアを行き来しても赤と黒の死神バッジを店頭で見かけることはできなかった。あの緑の光が再び閃くことはない。—尤も、仮に戻せたとしてもそうしてはならないと分かっていた。時間を戻せば黒い鳥ノイズは必ず復活する。まるで、自分の我儘で世界を歪めた自分を咎めるように、渋谷を、そして友人や仲間たちを喰らい、虚無へと還す。だから、せめてこの街だけでも救うたいと願うならば、二度と能力を使うことはできないのだ。
     元はと言えば理不尽に喪われた友人を取り戻したかっただけのはずなのに、いつの間にかそれは次元や渋谷を巻き込んだ戦いとなっていた。
     そして結局、全て失う羽目になる。

    『リンドウ、落ち込んでる』
     風の音に混じって失われたはずの声が聞こえた気がした。幻聴であると分かっていたから、うん、と素直に答えることができた。
    —あの時、時間を戻さないって言ったのは間違いじゃなかったと思ってる。—ただ、そのズレた世界に俺がいるのは間違ってると思う
    『間違ってるって?』
    —この世界にはツイスターズの皆がいない。だから本当は、俺もいなくなるべきなんだ
     どこか遠く風に紛れていた声は、気づけば耳のすぐ傍まで寄ってきていた。まるで彼が隣にいて喋りかけてきているような気がした。割合に大きな手で前髪をわしゃりと掻き上げる彼の癖が思い起こされた。
    『…そんなこと言うなってリンドウ。そうだ、そろそろ冬向けのアイテム揃ってくる頃だからさ、久しぶりに店見に行かね?あそこ宣伝出てるじゃん』
     フレットの幻はQ-FRONTビルを指差す。悪夢のような日々で見慣れたシイバのアップの代わりに、液晶画面にはモノトーンのウィンドブレーカーを纏って派手なステップを踏む男女が映し出されている。映像に続いて表示されたロゴは見慣れたJupiter of the Monkeyの長方形。
    『どーせ今日も特に予定とかないっしょ?ほら行こーぜ!』
     幻はカラリと笑顔を浮かべて、腕を引き歩き出す動作をした。感じるはずもないのに勝手に体が動き、釣られるようにキャットストリートの方面に足を向ける。9月の澄んだ光と風を受けて、メッシュの入った茶髪がキラキラと光っていた。
     その日はフレットの像に手を引かれて渋谷を歩いた。
     後に、ショウカが。ナギさんが、ミナミモトさんにネクさんにビイトさんが、俺の視界の中に現れ、声を響かせるようになった。
     それはがらんどうの日々より幾らか救いがあった。けれどそれは自分の心が操縦する延命処置にすぎず、その先に待つのが袋小路であることは自分自身がいちばんよく理解していた。
     存在しない彼らの妄想もそれを手繰る自分も、この世界からすれば異質の要素。全て白紙に戻すことでようやく元の完全な世界に戻る、そんな気がした。そうして幾度もの夜を幻覚と戯れて過ごしているうちに、遠くに行きたい、とぼんやり願うようになった。


     旅に出る前日。9月から手付かずにしていた小遣いの現金を財布に詰め込んだ。スマホとモバイルバッテリーと充電器、それから散々読み込んだガイドブック。それだけの荷物はボディバックに余裕で収まってしまった。服は冬前にフレットに選んでもらったもの、そしてその上にマフラーと手袋、厚手のコート。
     明日だと思うと胸に積もった澱が消え、浮き浮きとさえ言えそうな気分になっていた。小学校の遠足を思い出す。貸切バスで鎌倉に向かい大仏と博物館を見学するだけのささやかな旅行だったが、その前日も胸がドキドキしていつまでも眠れなかった。
     ベッドに寝転んだまま、到着地のガイドブックをペラペラと手繰る。
     大きなとんかつが載った黒いカレーが名物なのだと言う。フレットは好きかもしれない。どうせなら小遣いの残りを浪費してトッピングを爆盛りにして腹一杯詰め込んでみようか。
     これが最後だし。
     

     当日、渋谷に遊びに行ってくるとだけ家族に告げて家を出発した。渋谷駅で私鉄を降り、JRに乗り換える口で”彼ら”は俺を待っていた。
    『おっすリンドウ!早かったじゃん』
    —別に、着いてきてくれなくても大丈夫なんだけど
    『一人とかミズクサ』
     気配だけになったショウカにフツリと揶揄われる。後ろにはナギさんやネクさんやビイトさんが優しげな笑みを浮かべて待ってくれていた。ミナミモトさんまでが不機嫌そうに腕を組んで、気怠げに柱に寄りかかって虚空を見ていた。
     彼らを引き連れてJRに乗り換え、東京駅に辿り着く。切符を買って新幹線の改札を潜り、凍るようなホームの冬の空気の中でスマホに目を落としていると、幻聴ではない声が自分の名をはっきりと呼んだ。
    「リンドウ」
     あのゲームの終わりに呼び留めてきた声。顔を上げれば予想通り、あの日と変わらない鳥模様のジャンパーを羽織った青年—ミカギさんが、感情の籠もらない目でこちらを見下ろしていた。目が合った瞬間にその目がスッと細くなり、久しぶりだね、と型に嵌めたような笑顔が現れた。
    「ミカギさん……どうしてここに?」
    「リンドウが何を考えているのか、分かるからね」
     彼は長く伸ばした前髪を面倒そうに掻き上げる。
    「僕は旧新宿のコンポーザー…責任者のような者だけど、渋谷や丸の内であれば自由に行き来して良いことになっている。けれど東京を離れるとなると色々と言われてしまうから」
     説明はそれきりだった。尤も、それを説明と呼べるならの話だけど。相変わらず掴みにくい話をする人だ、と勝手に口の端がぎこちなく引き上がるのが感じられた。それを笑顔と捉えたのか、ミカギさんは軽く首を傾げてにこりと微笑みを返した。
    「もしそうしたいというなら僕はそれを止める立場にない。だけど、勿体無いとは思う。せっかくリンドウをこの世界に戻したというのに」
    「いいんです」
     温度のないその声はよく調律された電子音を連想させる。無理矢理に遮って、心の中まで見通す澄み渡った琥珀に真っ直ぐ視線を返した。
    「俺の選択が間違ってたとは今でも思ってません。渋谷は崩壊してないしシンドロームも起きていない。でも…ツイスターズが消えてしまったのにまだ俺が残ってる、そこだけが正しくないんです。だから、やり直します」
    「リンドウがいなくなってもやり直したことにはならない。この世界で君が死んだという事実は残る」
     ミカギさんの言う通り、今からこの世界を去ったところで全て無かったことにはならない。リスタートの能力とは違って、自分がここにいたと言う事実を拭い去ることはできないのだ。この世界にいる母さんや父さん、学校の皆は悲しんでくれるだろう。
     それでも、自分にとって歪んでしまったこの世界を静かに矯正する方法はそれ以外見つけられなかった。”この手段”に落ち着くまでに何度も葛藤し反芻したことは、不思議そうに自分を見つめている相手も知っているはず。だからこうして言葉にするのも単なる意志確認に過ぎない。
     お互いに。
    「俺にとってはやり直しなんです。誰かにとってそうでなくても。そう、したいんです」
    「リンドウはそう決めたのか」
     そうです、と言おうとしたとき、目を光らせた新幹線の車両が勢いよく滑り込んできた。轟音がホームに反響し、仰反るほど強い風に煽られて思わず目を瞑る。暗くなった視界の中で相手の声だけが響く。
    —そうか。それは残念だね。
     再び目を開けたホームの光景からはつい先程まで話を交わしていた相手の姿が消えていた。ただいそいそと新幹線の腹内に吸い込まれる人の列だけがあって、遅れてしまわないようにその一番後ろに並んで乗り込んだ。ドアが閉まる直前に、さようなら、と聞こえた気がした。

     首尾よく窓際の切符を取ったのは良かったものの、車窓はトンネルに次ぐトンネルばかりで田舎の風景は殆ど見えなかった。仕方なくキオスクで買ったミルクティーをちびりちびりと舐めながら、行き先の天気や地方ニュースを流し見して過ごした。規制シーズンを過ぎた車内はガラガラに空いており、同じ列に誰も座っていないのがせめてもの救いだった。
     空き席に、ツイスターズの面々の幻が腰掛けているのを見る。互いに楽しそうに話を交わし、お菓子を披露したり、むっつりと黙り込んだままのミナミモトさんに餌付けよろしく分け与えたりしていた。隣の席にはショウカが、その向こうにフレットが並び、時折手元のガイドブックを覗き込んでは目的地について訪ねてくる。その度にページを手繰って、口には出さないままにお土産やら名物やら観光地の案内をしてやっていた。トンネルを出入りするたびに車内は明暗を繰り返し、車体の僅かな揺れと共にゆったりとしたリズムを作っていた。
    『リンドウ、もしかして眠いんじゃない』
     ショウカの甘いハスキーボイスが耳を擽る。そうだろうか。昨日は眠れないままに夜中までブルーライトを眺めていたし、今日も休日にしては早い出発だったので体の芯に怠さがあった。気づかない間に欠伸でもしていたかもしれない。
    —うん。眠い…かも
    『寝ちゃいなよ、まだ1時間は着かないし。着いたら起こしたげる』
    —そうする…
     40分ほどとろとろと眠って、起こされる頃には窓の外の景色はトンネルを抜けていた。空は晴れているものの、延々と広がる平野は一面が銀色の雪に覆われている。有名な小説の冒頭の一節が思い出された。
    『ゴーセツ…』
    『こんな雪降ったのゲレンデ以外で見たことないなー』
    『ワイもです…というか皆様方東京のお生まれで?』
    『俺はずっと渋谷育ちだよ』
     1月の空はカランと晴れ渡っていて、太陽の光が銀世界に反射して目に刺さった。ずっと見ていると眠くなってしまうほどに白い光景を、もう居ないはずの仲間たちと眺めてはしゃいだ。

     終点で降り、その足のまま駅直結の施設のカレーショップに向かった。普段から食べるのは遅いのに「最後だから」と大盛りをオーダーしてしまったが、大判のとんかつが乗ったそれは普段口にするよりも塩辛く、付け合わせのキャベツをシャリシャリと噛んでは水を飲んで口の中を中和しなければならなかった。なかなか減らない黒いカレーに悪戦苦闘する姿をフレットとショウカが面白そうに見下ろし、リンちゃん、リンリン頑張ってと無責任な応援を飛ばしていた。
     
     目的地は新幹線からローカルの鈍行に、さらに路線バスに乗り換え40分ほど揺られた先にある。最後にバスに乗る前、駅前のバスターミナルで年長の二人とは別れた。泥混じりの雪で汚れた車が何台もロータリーを回り、びしゃびしゃした霙を跳ね飛ばしていた。彼らはバスが来るまで一緒に待ちながら、リンドウ、と諭すように呼びかけてくれた。
    『今からでも…戻れるなら戻ったほうがいい』
    —帰りの切符代、持ってないんですよ
     わざと曖昧に笑って誤魔化した答えを、怒気を含んだ声が叱った。
    『あンなぁ!金なんかなくても親に連絡とかはできるだろうが!そういうこと言ってんじゃねぇだろ!』
    『やめようビイト。…分かってるんだよな、リンドウ』
    —はい
     大人しく頷いて見せた。戻れれば良いなと、心のどこかで他人事のように思った。けれどどこに戻るというのだろう。本当に戻りたい場所—彼らがいて、彼らの存在を含んで回っている世界はもうどこにもないのだ。
    『こういうこと言っても今は届かないかもしれない。でも最後の最後にでも良い、まだここに居て良いって思ったら…戻ってきて欲しい。俺とビイトはここで待ってるから』
    —…分かりました。俺も、そうできたら良いなって思ってるんです。
     本当に。
     クリームの車体に赤のラインが入ったバスが巨体を揺らしてロータリーに侵入し、目の前に停車して白い息を吐いた。埃雪とガソリンの匂いが立ち昇る中、ステップに足をかけて乗り込み小さな乗車券を引き抜いた。
     バスが発車するまで彼らはこちらを見つめ、大きく手を振っていた。

     市街地を少し走ったバスはやがて広いバイパスを抜け、雪に埋もれた平原と家がやや疎らになった町を通り、それから寂れた商店街を過ぎた。商店街の終わりにある電気屋の角を曲がると、左手に黒々と揺れる海が唐突に開けた。
    『見てリンちゃん!海!』
    『そ、壮観ですなぁ』
    『うっわ、寒そ…』
     窓の外で漁港を洗っている荒々しい眺めを、彼らは思い思いの騒がしい感想で迎えた。寒そうなのは同意する。実際、新幹線を降りた時から手袋の中にまで冷気が染みたし、生地の厚い外套を選んできたのに首から風が入り込んで勝手に体が震えるほどだった。暖房が効いたバスの中だからこそ手袋を脱いでいるが、一歩外に出ればずいぶん堪えるだろう。
     窓ガラス越しに眺めている分には確かに壮観な風景でもあった。今まで見たことのない、山脈を挟んだ向こう側の海。たまに見る東京湾よりも深く豊かな色をしている。ぼんやりと眺めているうちに道路は登り坂となり、海は少しずつ眼下へと引き離されていく。気分が乗るままにワイヤレスのイヤホンを耳に押し込み、いつかフレットに教えてもらったナンバーをかけた。
     — You have gone from my world.
     — Now I’m all day alone
     甘く乾いたギターの音をバックに、鼻にかかった男性ボーカルが切々と歌っていた。相応しすぎて少し笑えた。
     
    『そこから先は勝手に行け』
     バスを降りたところでミナミモトさんは長い足を止めた。海の方から吹いてくる風が、あの夏に着ていたクロコダイル柄のコートを揺らしている。丈は十分に長いものの決して厚手とは言えないそれは1月の枯れた風景の中ではずいぶん寒そうだった。
    『ワイも…ここから先はお手伝いできませぬ。申し訳なし』
     隣にちょこんと控えるナギさんはもっと寒そうな服装をしていた。いつの間に着替えたのか、半袖のTシャツは見慣れた文字ではなく”お気をつけて”の一文がプリントされたものに変わっている。
    —いえ、こちらこそ。ここまで付き合ってもらってすみません
    『リンドウ殿』
     ナギさんの眼鏡は吐息で白く濁り、暮れる陽のような目の色を覆い隠していた。ただ、掴みかかるように両手を広げて見せる癖から、彼女が怪しげな笑いを浮かべている様は見て取れた。
    『…確かめてきてくださいませぬか。レガストのご当地グッズ』
    —ご当地グッズ?
    『左様、昨年から各地の名所とコラボを始めたのです』
     かじかむ指でスマホを打ち込み検索すれば、確かに一番上に公式ページがヒットした。デフォルメされた二頭身の男性キャラクターたちが画面を所狭しと埋めている。或いは東京タワーにしがみつき、或いは和服に袖を通し、もみじ饅頭を頬張って、それぞれ観光地の宣伝に励んでいる。赤いリボンを付けた白猫のキャラクターが連想された。
    —あー、キーホルダーとかな感じですね
    『ええ、置いてるやもしれませぬ。しかしこの際レガスト関連であれば木刀でもペナントでも木彫りの熊でも何でも無問題!』
    『木彫りの熊のコラボグッズってどんなよ…』
    『ですので』
     呆れ笑いするショウカの言葉を区切って、ナギさんはきっぱりと言った。
    『…何でも構いませんから…できればワイに買ってきて欲しいのです』
     お願いします、と彼女は頭を下げる。そうできれば良いと思う。手に持ったままのスマホで決済アプリを立ち上げると、チャージはまだ2000円と少しが残っていた。キーホルダーなら買えるだろう。木彫りの熊はどうか分からない。
    —分かりました。探してみます
     お待ちしておりますぞ、と手を振るナギさんの隣で、ミナミモトさんは黙りこくったまま風の吹いてくる方を見つめていた。

     海まで続く石畳の道は雪でべっとり黒く濡れ、脇には売店が立ち並んでいた。古びた机に設られた籠に魚の干物が盛られ、最盛期を外れた玩具が軒先に吊り下げられている。奥の棚にはプラスチックのキーホルダーが幾つも吊り下げられていた。当地のマスコットらしい恐竜、ひと昔前の漫画のキャラクター。けれど、いくら安っぽいプラスチックの群れを掻き分けても不適な笑みを浮かべ日本刀を構えた青年のグッズは見つからなかった。
    『テキトーに買ってってみたら?何でも良い、ってナギ言ってたし』
    —うーん…でもゆるキャラ?とかナギさん使わなさそ…
    『木彫りのクマとかよりはマシじゃね?』
    —それはそうかもな
     熱心に土産物を吟味する彼らの後ろ姿を見ていると少しだけ名残惜しくなった。まだもう少しこれを続けて、彼らの声を聞き、姿を見ていたいような気がした。けれどその思いはすぐに黒い失望で上塗りされた。
     所詮、自分が都合よく作り出した幻に過ぎない。渋谷の命運と引き換えに彼らの存在を否定したのは他ならぬ自分自身だ。
    —ごめん
     後ろ姿に声をかけると、彼らは振り返りきょとんとした表情で俺を見返した。
    『…えっと、何が?』
    —その、ここまで付き合わせた
     彼らは力が抜けた姿勢でぽかんと口を開けていた。一筋の風が吹いて、空気に句読点が打たれて、それから堰を切ったように吹き出す。可笑しそうに肩を揺らす彼らを「何だよ」と睨むと、ごめんごめん、と口々に言いながら腹の辺りを押さえていた。
    『だってリンドウ、それ今更すぎ』
    『まー、ここまできちゃったらさ、イチレンタクショウ?ってやつだって』
     一蓮托生。
     彼らも連れて行っていいものかは少し迷っていたが、肩を押してもらえた気がした。考えてみれば、自分で生み出しておいて置き去りにするという方が薄情なのかもしれない。それよりは、手を繋いで虚無へと落ちていく方が。幾らか。
     じゃ、海見に行こう。そう声をかけてから先導して歩いた。彼らは路傍の店を指差しては、お土産を売っていないかだの、タワーに展望台があるだの、冷えるからホットコーヒーを飲んで行こうだのと一々引き止めていた。

     
     海は崖の下で轟々と吠えている。
     正午を過ぎたばかりの見晴台は清潔な1月の陽光に照らされていたが、寒さのせいで人はごくまばらにしかいなかった。風は海の向こうから渡ってきていた。雪と氷の気配を孕んだ灰色の風だった。
     サスペンスみたいだね、とフレットが言う。
     手すりとかないんだ、とショウカが言う。
     岸壁はじっとりと滑りそうに湿っており、細い柱をいくつも突き上げたような岩塊は所々が崩れ、寒々しい大口を開けていた。その一つの縁に立ち、覗き込む。真っ黒な水の塊に波が弾けると、白い泡と共に不思議な緑色がゴポゴポと渦を巻いていた。吸い込まれるように幻想的な色に引き込まれてしまいそうになる。一歩、更に深く覗き込もうとした俺を張り詰めた声が呼び止めた。
     リンドウ。
     どうしても行くの。
     今からでも、戻れない?渋谷に。
     振り返ると、親友と少女の幻が身動ぎもせず俺を見つめていた。彼らの髪だけが風に靡いてサラサラ流れていた。壊れてしまった宝物を惜しむ子供のような、ひどく哀しそうな表情で、声色だった。
    —戻れない。あの渋谷は、俺のいるはずの渋谷じゃない。
     突っ立ったままの二人に心の中で語りかける。
    —あの時俺は、ツイスターズで渋谷を守るってことに自信も責任も持てなかった。だから、誰もいない渋谷を残すことを自分で選んだ。…それで、渋谷はちゃんと残った。おかしいのは…今俺がこの世界に残ってるっていう、それだけだ

     決めたんだ、リンドウ。
     俺らじゃ止められないっぽいな。

     二人は諦めた様に笑って、そんじゃ俺らも行くわ、と隣に並んだ。両側に並んだ彼らの掌の気配と自らのそれを結ぶ。それから真っ直ぐに、泣き喚いている黒い海に向き合った。
     冷たい風が頬を掠り、大地へと吹き抜けて行った。せーの、と心の中で掛け声をかけて足を踏み出す。落下する感覚。

     滅ぶはずの渋谷の運命を、俺は変えたのかもしれない。
     けれどその中には、最初から俺自身など含まれていなかった。一人だけ帰ってきたのは間違いだった。
     だからその、一つだけ間違っている世界を—あるべき姿に戻す。
     「やり直す」のは、きっとこれが最後。夢見るように深い海の群青が、成層圏まで透き通った高い空が、飛沫をキラキラと光らせる岸壁が、網膜から遠ざかり無限に後退していく。

     視界の速度がだんだんと遅くなっていくように感じた。いつか危機に陥ったときに視界を埋め尽くした緑の光が渦巻いているように錯覚した。それから、自分にとっては消えて無くなるはずの他人の世界に、最後に俺は笑いかけた。

    *********
    ナイトライト
    *********
    「ほい、リンドウもどーぞ」
     差し出されたパックから恐る恐る摘み上げた。MIYASHITA PARKの眩しいライトに照らされたそれは、海苔を内側に巻き込んだ白い巻き寿司。リンドウにとっては初体験で、得体が知れない。スーパーや駅地下の海外フェアで見かけたことがある程度。
    「…マグロと…アボカド?」
    「そ!ハワイアンポキロール!」
     フレットは同じパックから一切れをひょいと摘み上げ、ぽいっと口に運んで「うまー」と頬を綻ばせた。それを毒見の代わりに、一口サイズの寿司をそっと舌に乗せる。爽やかに酸っぱい。刻み玉葱ソースの風味に続き、鮪とアボカドがねっとりと舌に絡む。
    「…ん、うまい」
     別に普通の海苔巻きでも美味いだろうけど。ベンチの隣に腰掛けた友人は「でしょお」と自分ごとのように胸を張ってもう一口を勧めてくる。別に腹は減っていないけれど、何しろ久しぶりの寿司だと思うと勿体ない気もする。それにフード死神たちも「今日はステッカー特別増量だから〜」と気がかりなことを言っていたし、明日以降もこの近辺で買い物ができるという保証はなかった。リンドウも素直にもう一切れを摘み上げる。
    「やっぱコレだよな〜!寿司とか魚とか食えなくて寂しかったんだけど生き返ったわ!」
    「生き返れたらいいんだけど」
    「例えよ例え」
     彼がにししっと口を押さえた。
     UGでの食事は良く言えば手軽で手頃で見栄えよく、悪く言えば落ち着きのないチョイスばかりなのだ。ファストフード、スナック、せいぜいが小洒落たカフェ。死神たちの趣味か、あるいはゲーム運営の効率化のためだろうか。ジャンクフードは決して嫌いでないけれど、続くと飽きる。
     そこに今日の奇妙なミッション。
     大量のステッカーが追加された街を歩き回り、普段は食べられないメニューの数々に目を輝かせて「協力者」の袖を引いた(主にフレットが)。
    「結構いろいろ食ったよな、今日」
    「だねぇ、酸っぱいギョーザとか麻婆豆腐とか…あと巨大タピオカ?」
    「…キツかった」
     喉が焼けるように甘い苺タピオカを思い出し、リンドウはグゥッと腹を抑えた。タンブラーいっぱいのそれは、どちらかと言えばスイーツというより砂糖汁と呼ぶのがふさわしい。逆流しそう、と苦笑いするリンドウを横目に、フレットはポキロールの最後の一切れを口に放り込み、口をもぐもぐ動かしながら渋谷駅の方に目をやった。
    「協力者さん、ちゃんと帰れたかな」
     JR、渋急、メトロ、渋王線。それから路線バス。いくつもの道がこの街に集まり、放射状に散らばっていく。今日一日の短い時間を並走した彼は何のために渋谷を訪れ、そしてどこへ帰って行ったのだろう。
     リンドウも夜の渋谷駅の方を何となしに眺める。星の見えない夜空はのっぺらぼうで、代わりにオフィスビルや商業施設の虹色の光が地上に宝石を散らばしている。街から吹き上げる夜風は生温く、埃と塩素の匂いを含んでいた。


     長いようで短く過ぎた1日だった。
     スキャンが使えないと慌てていたところで「協力者」と出会った。彼のスマホでノイズが炙り出せると分かって、頼み込んで「彼のペースで」ミッションに協力してもらうことになった。そこまではスピーディだったのだが、問題はその後。
     DVDを見に行こうよぉ、と言ってはTSUTAYAに。
     買うものがあってさ、と言ってはマークシティに。
     新作があるんだ、と言ってはタワレコに。全く急いでくれる気配はないが、善意で協力してくれている以上急かすわけにもいかない。付いて回っているうちに何だか楽しくなってしまった。普段は入れない店にまでステッカーが増やされていて、アニメストアやゲームセンターにまで足を運んでは満喫した。他チームのメンバーたちも死神もどこか緩んだ空気で街をぶらついていた。
     それでもなんとか最後のノイズを討伐し、彼とは存在する次元ごとお別れとなった。光の中へと消えていく協力者を見送ってしまうと例によってミナミモトは靴を鳴らして雑踏に消え、ナギは「今日だけでもしれませんのでッ」と脱兎の如くアニメイト方面に駆けていった。取り残された二人は呆然と見つめ合い、それからふはっと笑い声を漏らした。

     過ごした時間の割には大きい、淋しさに似た感情が胸を少しだけ染めた。名残惜しさに任せて公園の下のショップを巡って時間を過ごした。気づけば辺りはすっかり暗くなっていて、珍しいな、だね、と二人は頷き合う。
     ミッションが終わり次第参加者の意識も終了、というのが死神ゲームのルールで、だからこうして夜まで起きていられるのは本当に珍しいことなのだ。


    「なんかさー、RGの頃を思い出すよな」
     緩い夜風を浴びながらフレットがぼんやり口にする。階下にある飲食店街は定時終わりの憂さ晴らしで賑わい始め、喧騒に混じって時折JRの発車チャイムが聞こえた。
    「だな…ちょっと懐かしい」
    「ショップの新規開拓もできたし、なんかいつもの日曜終わりーって感じだわ」
    「平日だけどな」
     リンドウが笑いかける。ぐっと伸びをしていたフレットがぴたりと動きを止め、「あ、でも」とこぼす。
    「何?」
    「…俺ら夜まで一緒にいんの、なにげ初めてじゃね」
     そうだっけ。RGで過ごしたいくつもの週末を振り返る。昼前に集まって、どこかで昼食を共にして、彼のファッションチェックに付き合って。疲れたらどこかでベンチを探して、相手の話を聞き流しながらポケコヨの更新チェック。それでいつも、まだ日が落ちない5時頃に解散していた。それから死神ゲーム。いつもならミッションが終わってすぐに寝落ちしてしまうので、日が暮れてからも時間を共にするのは考えてみれば初めてのこと。
    「確かに」
    「なんかリンちゃんとデートしてるみたい」
    「何がデートだか」
     フレットはクスクスと含み笑いをしてから、リンドウの方を振り向かないままで「あのさ」と切り出した。
    「RG帰ったら…またこんな感じで夜まで遊ばね?」
    「夕食どうすんだよ」
    「コンビニとかでいいじゃん。家帰ってもヒマなのよ」
     つまらなさそうな口調だった。翻って自分の事情はどうだろう、いや大して変わらない。今までも、課題が多い時などは「外で食ってくる」と言って図書館に詰めていたことがあったが、事前に言っておけば母さんはお咎めなしで済ませてくれた。むしろ自分に深い交友関係が少ないのを気にして、友達と遊んでくると言えば満面の笑みで送り出してくれる彼女である。別に怒られはしないだろう。
    「まぁ俺もヒマだし別にいいよ」
     それを聞くとフレットはまじで、と勢いよくこちらを振り向いた。青い瞳は渋谷の夜景を映し込んでキラキラと輝いている。
    「よっしゃ!じゃ約束…な…」
     その語尾が急激に曖昧に消え、フレットはぐらりと頭を下げた。どうした、と支え起こそうとした瞬間、リンドウの頭の中にもズシリと鉛のような荷重が加わり、上半身を支えるのが難しくなった。暴力的とも言える眠気が目蓋を押し下げる。
     いいよ、約束しよう。だから。
     俺たちでちゃんとゲームに勝って、絶対RGに戻ろう。そう言いたかったけれど舌が動かず、約束の同意を返すことすらできないまま、彼の意識は海底のような沈黙へと沈み込んでいった。

    *************
    Lingering Scent
    *************

    「竜胆、食べれるもの増えたわよね」
     抹茶モンブランに沈ませたデザートスプーンを一瞬止める。
    「…そう?」
    「うん。前は竜胆、プリンとかバニラアイスくらいしか頼まなかったじゃない」
     スプーンを咥えたままぼんやり思い出す。そうだったかもしれない。こうして家族で外食に出かけるときは結構デザートを注文するが、基本定番のものを選ぶようにしていた。外れを引いたら面倒だし食べ残すのも失礼。そう思うと知らない味に挑戦する踏ん切りがつかない。別にそれでいい。無理に幅を広げる必要性も感じない。たまに話題になるコンビニスイーツなんかも試したことはないし、おそらくこれからも縁がないんだろう。
     きっかけでもない限り。
     抹茶モンブランにしても、以前貰った一口が美味しかったのをたまたま思い出しただけ。
    「前別のとこで食って美味しかったから」
    「お友達と遊びに行った時?」
    「あー、うん」

     以前口にしたのは原宿。フレットとのいつもの街歩きに疲れたとある午後、休憩を兼ねた「スイーツ男子会」という名目で竹下通り裏の奥まったカフェに引っ張り込まれた。テーブルの向かいからこちらの手元を物欲しげに見てくるのも良くあることで、流石にもう慣れた。
    「そーいう硬いプリンさー、最近流行りだよな。美味い?」
    「フツーに美味い」
    「いーなー、ちょっと交換しない?」
     迷っている間に「はいあーん」と差し出されたフォークの上には、解体されたばかりの抹茶モンブランの小山が載せられていた。パウダーが練り込まれた草色の生地の下から小豆クリームが覗いている。当然のように餌付けスタイルを強要してくるのには閉口したけれど、皿に置かせるのも面倒だし店内の人も多くない。仕方なしに、差し出されるまま一口分をパクリと飲み込む。
    「美味しいっしょ?俺にも一口ちょーだい」
     嬉しそうにするフレットに自分のプリンを渡す。
    「えー、リンドウも食べさせてよ」
    「なんでだよ」
     何ででもー、と頬を膨らましていたが、ずいっと皿を押し出してやると不満げにスプーンを取って食べ始めていた。最初から普通にそうしろ。

    「リンちゃん、高校に入ってからよくお友達と遊ぶようになったわよね。中学の頃は結構一人でゲームするって出てったじゃない」
    「まぁ、誘われるから…」
    「あの感じのいい子?えっと、フレサワくんだっけ」
     どんなとこに遊びに行くの?お昼どこで食べてるの?次は母さんにもお土産買ってきてちょうだいね。気恥ずかしさに話を逸らそうとしたが無駄だった。彼女はふんわりと休日の話題を俎板の上に戻し、ザクザク鮮やかに休日の過ごし方を解剖してくる。こういう時、自分の話し下手が呪わしい。軽く受け流してスルーはアイツの得意分野だろうし、次会ったときにコツでも聞いてみるか。
    —とりあえず、次家族で食べるときはいつもの頼もう、と肝に銘じておいた。


    *******
    雀百まで
    *******
     雀たちはジュリジュリと喉を鳴らし、公園の乾いた砂を小さな足で蹴飛ばしながら、手元から零れ落ちたパンくずを啄んでいた。その後ろからは何食わぬような顔の鳩たちがとぼとぼと歩み寄ってきている。昼下がりの公園は珍しく人がまばらだった。首尾よくベンチを確保できたのは運が良かったけど、こうして開けた場所で菓子パンを食べていると凄い勢いで鳥が寄ってくる。ちょっと怖い。
    「午後だけどさー、どっち先行こっか」
    「どっち?」
    「さっき言ったじゃん、ジュピモンとモノクロウ。聞いてた?」
     聞き流してしまっていたが、確かに冬向けの新作を見に行きたいとかどうとかを言っていた気もする。手元のスマホを凝視したまま、上の空のままに、いいよ、と答えた。片手間で応じていたことが今更申し訳なくなって顔を上げると、コッペパンの端を千切っては投げていた彼もこちらを向き、パチリと目が合ってしまった。彼はニヤリと口を歪めて笑いながら、わざとらしく咎める振りをした。
    「リンちゃーん、今の流し聞きだったでしょ」
    「…ゴメン」
    「いーけどさ。で、どーする?」
    「どっちでも…っあ」
     あー、とフレットも同時に口を押さえた。
     相手任せにする割にいざとなれば文句ばかり口にする。自らの選択がそのまま自分や仲間たちの存亡に直結するあのゲームの中で、自分にはそういった悪い癖があるのだと、嫌と言うほど自覚させられた。あれからは自分なりに心を入れ替えたつもりだった。自分の立場と意見をはっきり持って、何がしたいか、したくないかはきちんと伝えるよう心掛けている…つもりなのだが未だに時折やってしまう。
     気のおけないが友人相手だと、特に。
     フレットもそれは気付いているようで、懐かしいなー、と笑っていた。
    「あれからリンちゃん変わったなーって思ってたけど…もう口癖でしょ、それ」
    「うん…無意識だった」
    「直そうと思ってもすぐ直せないの、わかるわ」
     フレットはうんうんと一人頷いていた。彼も彼で努力しているらしいことは、隣で聞いているだけでも察せられた。”ゲーム”の前と異なり、素直な思いを言葉と表情に載せるようになった。少し真面目な話になって、考え込んだのちに真摯な意見を口にしても、すぐに「なんつて」と笑って茶化すことなく黙って相手の出方を伺うようになった。…尤も、こうして普通に話している限りはそんな変化の影響は殆ど無いのだった。
    「ま、たまにはいーんじゃね?今はそんな大事なヤツじゃないし…それに俺はそんな気になんないし」
     コッペパンの端を口に押し込み、立ち上がった勢いで大きな伸びをしてから、こちらを覗き込むようにして朗らかに誘う。背後に負った真昼の光が眩しく、その表情は少し陰が差して見えていた。
    「ジュピモン行こリンドウ。…それでいいよな?」
    「うん…それでいい」
     今だけ。
     こいつとこうやって適当に連んでるときだけだから。
     誰にだか知らない言い訳を心に呟いて、連れ回されるがままの散策の午後へまた身を遊ばせる。サンドイッチの残りを飲み込んでベンチを立った拍子に、足元で踊っていた雀たちは驚いて跳び退き、そのまま群れをなしてどこかへ飛んで行ってしまった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    限界羊小屋

    DONE用語
    <キルドレ>
    思春期で成長が止まり決して大人にならない種族。一般人からは異端視されている。
    ほとんどが宗教法人か戦争企業に所属して生活する。
    <戦争>
    各国に平和維持の重要性を訴えかけるために続けられている政治上のパフォーマンス。
    暴力が必要となる国家間対立は大方解決されたため実質上の意味はない。
    <シブヤ/シンジュク>
    戦争請負企業。
    フレリン航空士パロ 鼻腔に馴染んだガソリンの匂いとともに、この頃は風に埃と土の粉塵が混じっていた。緯度が高いこの地域で若草が旺盛に輝くのはまだもう少し先の話。代わりのように基地の周りは黒い杉林に取り囲まれている。花粉をたっぷりと含んだ黄色い風が鼻先を擽り、フレットは一つくしゃみをした。
     ここ二ヶ月ほど戦況は膠着していた。小競り合い程度の睨み合いもない。小型機たちは行儀よく翼を揃えて出発しては、傷一つ付けずに帰り着き、新品の砂と飲み干されたオイルを差分として残した。だから整備工の仕事も、偵察機の点検と掃除、オイルの入れ直し程度で、まだ日が高いうちにフレットは既に工具を置いて格納庫を出てしまっていた。
     無聊を追い払うように両手を空に掲げ、気持ちの良い欠伸を吐き出した。ついでに見上げた青の中には虫も鳥も攻撃機もおらず、ただ羊雲の群れが長閑な旅を続けていた。
    8396

    recommended works