初めは穏やかに談笑していた。それが、だんだんと雲行きが怪しくなって、次第に口論じみたものになった。カッとなって胸倉を掴んで、睨みあげて。そこでブラッドリーが場違いに大きなくしゃみをした。満月の、夜だった。
「うわっ!」
「おおっ!?」
二人して奇妙な浮遊感に包まれたかと思うと、気付けば見知らぬ土地にいた。ブラッドリーの傷に巻き込まれたらしい。こんなこともあるのかと思ったが、満月の夜であったため特例なのかもしれない。前にもブラッドリーを取っ捕まえて胡椒をぶちまけたことがあったが、その時は巻き込まれることはなかった。
つい数分前まであった怒りが驚愕に塗り替えられる。ブラッドリーもブラッドリーで大口を開けて立ち尽くしていた。
ダークグレーの地面に、人の海。四角い建物が立ち並んで、あちらこちらに光が灯る、見知らぬ土地。東でも北でも、西でも南でも、中央でも見たことのない風景。
「なあ、ブラッド……ここ、何処だ?」
「俺が聞きてえよ」
不可抗力であちこちの国を渡り歩く羽目になっているブラッドリーですら知らない。よく見ると看板らしきものには読めない文字が踊っている。建物と建物の影で佇む二人を通りすがる人々が稀にちらりと視線を寄越すが、すぐに過ぎ去っていく。皆、賢者と同じような暗い色の髪をしていた。瞳も、同じく。
もしかして、と浮かんだ仮説はブラッドリーも同じらしい。目を見合わせて、まさか、と訴える。いくら満月の夜だったからといえ、こんなことがあり得るのだろうか。
掴んだままだったシャツの襟から手を離し、辺りを見渡す。建物も、衣服も、文字も。ネロたちの世界とは遠くかけ離れたものが当然のように並んでいる。
まだ困惑を隠せないでいる最中、どさり、何かが落ちる音がした。振り返ると、ややかおいろのわるい一人の男がわなわなと震えて目を見開いてこちらを指差している。
「ブラッドリーじゃん!」
「え?」
「あ? ……前の賢者じゃねえか!」
「……前の賢者さん?」
よもや、またもあり得ぬ事態に仮説が事実と化す。ここは、賢者のいた世界だ。落とした鞄を拾い上げた男、ブラッドリー曰く前の賢者がドタドタと騒がしく駆け寄ってきた。
「うっわ、久しぶり、つかどうしたの、えっ、どういうこと? あ、こっちの人も魔法使いなの? 初めまして!」
「え、あ、初めまして……?」
「うるせえうるせえ。相変わらず喧しいな。どうしたもこうしたも俺様も知らねえよ」
ネロはこの世界の人間といえば今現在はあちらにいる賢者しか知らぬもので、その性格のギャップに驚いた。同じ国の者ならば気質が似ているのかと思いきや、穏やかで礼儀正しい賢者とよく言えば気さく、悪く言えばずけずけとした元賢者では全く別の生き物のようだった。
慣れた様子であしらうブラッドリーの陰に隠れる。こちらは初対面だが、二人は見知った仲だ。どことなく疎外感がある。会話に紛れる気力もなくわあわあと矢継ぎ早に言葉を発する元賢者をぼんやりと眺めていた。
「よくわかんねえけど、せっかくだし飯でもどう? 奢るからさ」
「そりゃありがてえ。おい、ネロ。行くぞ」
「お、おお……?」
ぼうっとしているうちにそういうことになっていた。堂々と歩む背に着いていくが、ネロはどうしてもそうなれない。まだ事に頭が追いついていないのだ。くしゃみで飛ばされたと思ったら異世界で、そこは賢者のいた所で、前の賢者に出会って、飯を共にすることになった。異常事態の連続に思考能力が低下してとりあえずなるようになれ、と従うしかない。曲がりくねって複雑な道を通り抜けると、小さな店屋らしきものがあった。慣れた様子で元賢者が扉を開ける。ドアノブもないのにどうするのかと思ったら横に開いたので驚いた。
あれよあれよと流されるままに平たいクッションに似たものに座らせられて腰を落ち着ける。一角一角が壁と横開きの扉で区切ってあり、閉じられると狭い空間には三人だけになった。
「何にする? ビール? あ、向こうにもビールってあったっけ。まあいいや、生三つと、あと適当につまみでも頼むか」
「肉もな」
「焼き鳥とか?」
「何だそれ」
「焼いた鳥」
「まんまじゃねえか。まあいい、それ頼め」
居丈高に命令するブラッドリーに特に気を悪くした様子もなく、元賢者が何やら丸いものを押した。ポーン、と甲高い音が鳴る。ベルのようなものだろうか。数秒と待たずに威勢のいい店員がやってきて慣れた様子で注文するのを落ち着きなく見守る。ネロは彼とは初対面なのだ。この状況では頼る他ないが、ブラッドリーほど平静ではいられない。
「ネロ、だっけ?」
「……ああ、そうだよ。東の国の魔法使いだ」
「やっぱ魔法使いなんだ。面がいいもんなあ。羨ましい」
どうやら物怖じしない性格らしい。旧知の仲のように親しげに話しかけてくる。互いに、異世界の、見知らぬ相手だというのにまじまじと顔を眺められてはたじろいでしまう。
こちら側からも何か話しかけるなり質問するなりした方がいいのだろうかの悩んでいるうちに扉ががらりと開いて聞き慣れない単語と共にテーブルにグラスや皿が並べられていく。驚くほどのスピードだ。魔法でも使ったのか、というくらいに。
サラダや切ったトマトなんかは見知った料理だが、見知らぬ料理もちらほらとある。覗き込む前に、元賢者が乾杯の音頭を取った。
「じゃ、再会と出逢いに、乾杯!」
「乾杯」
「……乾、杯?」
ガラス作りのジョッキが三つ交わされた。ノリの良さといい、何といい、カインや西の国の者を思わせる。つまるところ、東の国とは正反対。ぶつけた勢いで縁から溢れる泡を啜るように麦酒を飲む。ネロの知っている味と同じだ。酒というのはどの文化であっても似た道を辿って造られるらしい。素直に感心して、追加で呷った。
「あー、そうだ。箸は使いにくいか。フォーク使う?」
「おう、気が利くな」
「助かる」
さてつまみへ、と手をつけようとした元賢者が思い出したように、用途の不明な棒が刺さった筒ではなく見慣れたフォークを箱から二つ取り出してこちらに手渡す。ありがたい気遣いだ。気質は異なるが、現賢者同様人が良いのだろうなというのは短い時間でも感じ取れた。
赤いソースのようなものが和えられた野菜、が気になりそれを指差して問いかける。
「なあ、これ何て名前だ?」
「それ? キムチ。辛い漬物みたいなの」
「つけもの」
「漬物も通じないか。ええと……辛い……あれ……ピ、ピクルス? みたいな?」
味の想像がつくようなつかないような。とにかく実食してみようと手を伸ばす。匂いを嗅いで、刺激臭に目を丸くして、一口。なるほど酸味と辛味が野菜に染み込んでいて美味い。この辛味はどの香辛料を使っているのだろうか。過去の記憶から似たものを探して咀嚼する。
真面目な顔をしてキムチを食べるネロをブラッドリーが豪快に笑い飛ばした。
「お前は、相変わらずだなあ」
「……いいだろ、別に。気になるんだよ」
「悪いとは言ってねえだろ。料理人の性ってやつか?」
「ネロは料理人なの?」
「おうとも。凄腕の料理人さ」
「何でてめえが自慢げにしてんだよ」
文句を垂れるも、素直に褒められては気恥ずかしい。へえ、とキラキラした目で見る元賢者の視線もストレートだ。
「俺、料理はまあそこそこだからさ。あっちでは日本食作るのに苦労したよ。かなり味噌っぽいのと気持ち米なやつで似たようなの作ったけど、どうにも何か違うっていうか」
「賢者さん……ああ、今の賢者さんもあんたの残した料理を参考にしてるみたいだよ。よじや? ってやつも作ってる」
「よじや……あ、おじや、か。俺の残したもんが役に立ってんならよかったよ。ていうか、今の賢者も日本人なんだな」
「にほん、っていうのは」
「この国のこと。雰囲気でいうと東の国の、もっと東に近いのかな」
「ふうん」
話してみると中々に応答の小気味がいい。酒の力もあってか、肩肘を張らずに済んだ。勧められた日本酒とやらにも舌鼓を打ち、取り止めのない会話が途絶えると、自然に一旦外側へ置いておいた問題について話が寄っていった。
つまるところ、ブラッドリーとネロがこちら側の世界へ来てしまったことについてである。帰る方法も定かではないし金もなければ馴染みもない。宿だって飯だって気掛かりは山積みだ。最悪野宿でもできないことはないが、風貌の異なる二人がその辺で夜を明かしては不審がられるだろう。
厚かましい願いだとは理解しているが。渡せるものも何もないが。人の良さにつけ入るのは気が滅入るが。だがしかし頼みの綱は目の前の人間以外には存在しないのだった。
「ま、狭いけどさ。別にいいぜ。寝床を貸したって」
「……本当か?」
「うん。顔見知りを見捨てるほど薄情じゃないし。……ブラッドリーは俺をすぐ殺そうとしたりしないし……」
「そうさな。血の気の多い奴と一緒にしてもらっちゃ困るぜ」
「いやブラッドリーが一番血の気が多い気がするけど」
「何か言ったか?」
「いいえ!」
ブラッドリーはわざとっぽく低い声を出して、元賢者は大袈裟に首を振った。随分と仲が良さそうだ。妙なところで怖いもの知らずであるし、割り切りの良い性格はブラッドリーとしては好ましいのだろう。盗賊団で部下を揶揄って遊んでいたときと同じ表情をしていた。
「助かるよ、ありがとう。代わりと言っちゃなんだが……借りている間は、飯でも作ろうか? あんたには馴染みのない味かもしれないけど」
「えっ、それはマジで嬉しい。マジで」