食欲が無くとも腹は減るもので、食べたところで吐くだろうのに足はいつものように学食へと向かってしまう。ホワイトボードに書かれたメニューはどれを見ても食べたいと感じられず、半兵衛は適当に日替わり定食を注文して席を探した。
出来れば、いや、絶対にカウンターがいい。一人で食べると斜め向かいに他人が座ってくることは当たり前で、しかし今日は誰とも向かい合いたくなかった。一人きりで壁を見つめながら、ほうれん草のお浸しと味噌汁だけで済ませたい気分だ。…というのに。
「半兵衛」
聞き慣れた声が半兵衛を呼び止める。振り向かなくてもわかる、光秀の声だ。光秀がいるということは利三も一緒なのだろう。取っている講義が違えどいつも二人は昼になると一緒にいる。揃って見た目が良いものだから、あらぬ妄想を掻き立て女子生徒が噂をしているのをたまに耳にする。
「光秀さん」
「席を探しているなら隣が空いてるぞ」
光秀の向かいに座る利三が、小さくため息をついたのが見えた。自分を誘おうとする光秀を止めようにも、止める理由が咄嗟に思いつかなかったのだろう。「すまないな」と目で寄越してくる。それに「いいよ」と目で返し、半兵衛は光秀の隣に座った。
──何のためにマスクをしてるのか察してくれないのが光秀さんなんだよなぁ…。
まだ冬でもなければインフルエンザが流行っているわけでもない。それでも半兵衛はたびたびマスクをつけて登校していた。生来体が強くないため風邪をひきやすいのもあるが、ここのところの理由は別にあった。
躊躇っていても仕方がないし、二人とも知っているのだから、とマスクを外す。一瞬向かいの利三が眉を顰めたが、そんな反応をされるのは慣れている。
左頬の腫れが朝になっても引いてくれなくて、切れた唇の傷は絆創膏を貼っていても喋るたびに開く。余計な詮索をされたくなくてマスクをつけていて、一人で隠れるように食事を取ろうとしていたのに、これだ。光秀は好意で呼び止めたのだから苛立つに苛立てない。
「痛むか?」
「平気だよ」
平気なわけはないけれど、心配されたくなくて会話を早く切り上げたくて、雑にほうれん草のお浸しを箸で摘んで口に押し込んだ。醤油が口内の傷口に染みて痛い。我慢し切れず顔を顰めると、その瞬間を見た利三が「やれやれ」という顔を向けてきた。
胃の中にじんわりと染み込んでいくおひたしが気持ち悪くて、吐いてしまいたくなる。とはいえ吐くわけにもいかず、コップに注いでいた水を無理矢理ごくりと飲んだ。
三人で少しばかりの世間話をした後、いきなり光秀の口から義龍の名が出てきた。その名前に瞬時に身体が強張る。朝まで一緒にいたし、学校が終わればまた会う存在。せめて大学の中ではその名前は忘れていたかったのに…と半兵衛は光秀を軽く睨みつけた。
半兵衛の表情に気付いていないのか、光秀は気にすることもなく言葉を続けた。
「タバコの火を押し付けられたと聞いたんだが」
本当か?と心配そうな目を半兵衛に向ける。動悸が激しくなる。どうしてそれを光秀が知っているのか。傷が見えないように襟のついた服を着ているし、何もおかしい点はないはずだ。もっとも、おかしく見えたとしてもそれはいつもの暴力によるものだから、タバコとは結びつかないはずだ。
──義龍様が喋ったのか。
人の良い光秀の前で、わざとらしく顔を歪めてべらべらと喋る大男の姿が脳裏に浮かぶ。「うるせえから火を押し付けてやってな」と楽しそうに下卑た笑みを浮かべながら、光秀の反応を伺ったのだろう。
「…そうだよ。ここのところ、見る?」
人に見せるものでもなかったが、つい口をついて出てしまい、言葉と同時に無意識に襟元のボタンに手をかけていた。
「義龍様を怒らせてしまったから」
襟を開いて、鎖骨の下に貼った絆創膏を剥がす。昨夜の今日の火傷は治っているはずもなく、生々しく赤く変色した肌があらわになる。
「……僕が悪いんだよ。だから、しょうがないんだ」
自分は賢いはずなのに、うまく出来ない。皆から頭が良いだの聡明だのと言われるのに、男一人に上手く対処が出来ない。人の顔色を読んだり、何を訴えたいか気付いたりすることは得意なのに、一番怒らせてはいけない相手は必ず怒らせてしまう。読んでいるつもりなのに、読めていない。半兵衛にとって義龍は、一番理解出来ている相手であり、一番不可解な相手だった。
横暴で粗野で、すぐ手が出る。普通の男でも彼に殴られたらただでは済まないほどの力なのに、平均的な男性よりかなり華奢な半兵衛ではどうにもならない。イライラして気に入らないことがあったり、半兵衛がつい嗜めると、必ずといっていいほど殴りつけられた。それは性行為の時ほど顕著で、彼は半兵衛を甚振ることすら快楽の一行為としているように見えた。
「しょうがなくないだろう?ましてタバコの火だ。痕が残るぞこれは」
光秀が本気で心配してくれているのに、半兵衛にはそれが居心地悪い。利三に話を終わらせてくれるよう目で訴えても、「殿を止められると思うか?」と首を横に振られてしまった。半兵衛と二人でいる時の利三は無遠慮にあれこれと喋るくせに、光秀がいると途端に喋らない。主人に譲っているのだろうが、半兵衛にとって今は利三の助けが欲しかった。「後で愚痴らせてもらうからね」とじとりと目線を送ると、やれやれと肩をすくめられた。
「痕が残るようにやったんだよ、義龍様は」
痛がる半兵衛を押さえつけて、燻る火を思い切り押し付けてきた。あまりの熱さに身を捩れど、巨軀はびくともしなかった。しばらく押し付けた後、満足げに笑いながら灰皿へとタバコを放る義龍の背中を見ながら、その笑いの意図を必死に半兵衛は考えていた。答えはすぐに浮かんだが、それが奥底にある理由だと思いたくなくて、痛む傷口を押さえるので精一杯だった。
「悪趣味だな」
黙っていた利三がそれだけ呟くと、食べ残していたうどんの汁を飲み干した。ご馳走様、と律儀に手を合わせ挨拶をする姿がいかにも利三らしくて、またざわついた学食の場に似合わない。
「悪趣味、だと僕も思うよ」
「さすがにこれは…半兵衛、道三様に」
「言わないで!」
光秀の言葉を遮るように放った半兵衛の一言が学食に響く。隣のテーブルにいた四人組が、何事かとこちらへ視線を向けてきた。「半兵衛、声を落とせ」と利三に言われ、半兵衛は「ごめん」と深く息を吸い吐き出した。
「……言わなくていい。言ったら、余計ひどくなるから」
義龍の父道三を出せば、確かにその場は収まるだろう。義龍から謝罪の一言でも聞けるかもしれない。でも、それに意味はないのだ。押さえつけられた感情の行き場はまた半兵衛へと向けられるだけで、一時平穏が訪れたとてその後に待ち構えている大きさを想像すれば、現状の方がマシだと考えてしまう。
我ながら、どうしてここまでされても義龍のそばにいるのかと半兵衛は思う。逃げるなり何なりすればいいのに、ズルズルと関係を続けてしまう。いつしか傷や痣が出来ることにも慣れてしまって、人に誤魔化すことばかりが上手くなった。
──でも、義龍様には僕がついていてあげなきゃ……。
義龍の心の中に燻るものを半兵衛は知っている。彼を暴力的にさせている根本が何かをわかっている。だから、半兵衛は義龍を憎めない。憎めば楽になれるのに、どれほどに憎もうとしても憎めないのだ。タバコの火を押し付けられて火傷を負わされようと、それすら自分は受け止めねばならないとまで感じてしまう。
トレイに残された白飯と味噌汁、豚の生姜焼きはすっかり冷めてしまっているけれど、今更食べる気にはならない。それよりも今すぐここから離れたい。光秀と利三とこれ以上いることは、半兵衛の心をかき乱す。
「ごめん光秀さん、利三」
もう食べる気になれないから、とトレイを持って席を立った。マスクをつけ忘れたことに気付いたけれど、それより早くこの場から去りたかった。
光秀が何か言いたそうにしているのに気づかないふりをして、半兵衛は逃げるように学食から出て行った。