それは一瞬の出来事だった。
バッキンガムの手を引いて半歩先を歩くリチャードが、振り返って微笑んだ。かと思うと、あっと表情を一転させ、体勢を崩した。
つられて前のめりになりながらも身を呈して庇い、バッキンガムは剥き出しの硬い木の根に背中を激しく打ち付けた。
「すまない、大丈夫か?」
大丈夫だ、問題ない。それより、あんたに怪我はないか?
慌てたリチャードの声に返事を返そうとするが、言葉が出ない。口が何かに塞がれていて、うまく動かせなかった。
不注意から眼鏡を失い、ただでさえ物が見えにくいというのに、バッキンガムの目の前は微かな月明かりも届かないほど閉ざされている。
これは一体なんだ……?
ほのかにあたたかく、布のようなものが顔を覆っている。重さも感じるが、圧迫されて苦しいというほどではない。
なにかはさっぱり検討もつかないが、早く退けてリチャードの安否を確かめたい。
バッキンガムが己の顔に乗っているものに触れ、形を確かめるように手を滑らせると、微かに息を呑む音が聞こえてきた。
リチャードの身に何かあったのか。
問いかけたいが、声を出しても「ふごふご……」と間の抜けたものにしかならなかった。
やはり、さっさとこの暗闇から抜け出さねば。
せめて口だけでも自由にならないかと首を横に動かすが、左右どちらとも塞がれてままならない。手を這わせると、やはり布のような質感があった。
顔の横にあるものは柔らかな丸太のようだが、人肌並みにあたたかい。
あたたかい丸太? なんだ、それは?
触れれば触れるほど混乱してくる。しかし、現状を把握しなければ打開もできない。
丸太は地に付いたところで折れ曲がっていた。下へと触れていくことは諦めて上へとなぞっていくと、顔の両脇にあった二つの丸太は一つの大きな幹となった。さらに撫であげると、袋のようなものがふたつ。覚えのある膨らみにはっとして手を離すと、夜気をまとった指が躊躇いがちにバッキンガムの手を握って、そっと放した。
「すまない……今退くから、待て……」
バッキンガムの顔に乗っているものは、リチャードだった。視界を塞いでいるものはリチャードが着ているバッキンガムの服で、柔らかな丸太だと思ったものは彼の太もも。感じていたぬくもりは、彼自身のぬくもりだった。
「どこかに裾が挟まってしまって」
夜の森に慈悲はない。暗闇で全てを覆い隠してしまう。多少夜目が効くようになっても、自分たちの陰で闇を深くしてしまっては見えるものも見えなくなってしまう。それでもリチャードはバッキンガムを解放しようと懸命に木の根の隙間を探っている。
顔の上で、リチャードが揺れている。
そう思うだけで、バッキンガムの身体は寒さを忘れ、熱くほてりだした。
リチャードが必死になっている下で不埒なことなど考えたくもないが、一度脳裏に浮かんでしまったものは簡単に消せるものでは無い。
自分がもがくことで解決に繋がるのなら、いくらでも無様にもがく。しかし、それが逆効果になってはいつまでも抜け出せない。
どうすれば最適解を導き出せるのか、半身ならば助け合うべきだ。
バッキンガムは無駄なあがきだと知りながらも、せめて意思は伝えようと言葉にならない声を出す。それと同時に、身体を浮かせていたリチャードが力尽きてバッキンガムの顔を深く覆った。
「……んっ」
艶を含んだリチャードの声が静寂に響く。
「バッキンガム……そこで喋ろうとするな……」
弱々しく叱られ、バッキンガムは呼吸を止めることを決意した。