「ただいまぁー」
間延びした帰宅の声に返事はない。虎春は再度呼びかけようと息を吸ったが、口をついてでたのは大きなため息だった。
「……ふぅ、」
リビングに置かれた大きな柱時計。フェリクスがいつの間にか持ってきたもので歌に出てくるおじいさんの時計はコレかと思うほどの貫禄と存在感がある。22時半。アンティーク調の美しいそれが指すのは外の暗さを納得させるには十分な時間だった。
手に持っていたカバンを置き、スカジャンを脱ぐ。凝り固まった肩を回しながら、こちらに来てめっきり二人の時間が減ってしまった恋人を想った。
フェスのために上京して数ヶ月。仕事の事、住居の事、そしてバンドの事。運営の手回しがあるとはいえ、フェスに伴った環境の変化は皆の多忙を呼んだ。かく言う虎春も同じ保育士とはいえ場所が違えば勝手も違う、新しい職場で毎日奔走していた。慣れないことも多く、今日のように遅くまで残る日も少なくはない。そんな忙しない日々の中で、メンバー達、特に恋人でもある大門が家で待っていてくれる事、「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってくる、ただそれだけの事がどうしようもない程の幸せとなっていた。
しかし今夜はどうした。明かりの着いたリビングで虎春を迎えたのはクラシックにまとめられた家具たちと厳格な静けさだけだった。
ったく誰もいねぇのかよ。
疲労に任せた理不尽な呟きは肌触りの良いラグに吸い込まれていった。
人肌が恋しいのは慣れない土地のせいかはたまた歳のせいなのか。良くない方に行きかけた思考を止めたのは盛大に鳴いた腹の虫だった。
「………メシだな」
虎春にとって最近の楽しみの1つは家での食事だった。一人暮らしの頃は何かにつけて面倒で自炊もそこそこにコンビニ飯が主であった。しかし今やほぼ毎食が愛しい恋人の手料理なのだ。料理上手の彼が作る食事は仕事の疲れを溶かしてくれた。暖かな食卓は嘗て子供の頃に見たドラマの昭和臭いプロポーズに妙な説得力を持たせた。
まぁ今日は味噌汁じゃなくてポトフだけどな。
鍋を火にかけゆっくりと温める。沸騰させてはいけないと困り顔でたしなめられたのはこちらに越してきてからすぐのことだっだ。冷えたキッチンに暖かい香りが広がる。厚切りのベーコンと甘く蕩けた玉ねぎの香りは言うなれば“殺人的”であった。
明日は休みだしビールでも開けるか。
どうにも我慢がならなくなり、冷蔵庫に向かう。些か大きすぎるのではないかと思われるそれは冒険と実験の間を縫うフェリクスの趣味に本人が妥協しないためのものだそうだ。そこにかけられたチープなボード。まるでこの家に似合わない生活感を放つそれには持ち主に似合った丁寧な字が書かれていた。
おつかれ、夕飯は温めて食べてくれ
明日の夕飯は虎春の食べたいものにしようと思う。考えておいて欲しい
あまりの愛おしさに頬が緩む。消してしまうには惜しくてさんざ迷った結果スマホで写真を撮ることにした。
「んまぁ」
堪らず感嘆する。帰宅直後とは打って変わってすっかり機嫌を持ち直した虎春は1人晩酌と洒落こんでいた。子気味良い音を鳴らしタブを開ける。冷えたアルコールを流し込み、満足気に唸る。アイツらがいたら笑われそうだなと考えたところで思いがけず扉が開いた。
「虎春、帰ってたのか。」
少し驚いた顔をしたのは既に就寝したものだと思っていた大門だった。
「おう、ただいま」
「おかえり」
大門の待ち望んだ返事に虎春はさらに気分が良くした。自分も飲もうと珍しくキッチンに向かった大門を目で追う。風呂上がりだろうか、赤らんだ項と甘い香りがやけに艶っぽく感じた。
親父くせぇ
下心丸出しの自分に呆れながらも未だ目を離せないでいるのは酔っているからだと結論づけた。
「今日はまた随分遅かったな。外も寒かっただろ」
「まぁな。でもそろそろ落ち着きそうだぜ。園長さんも突然だったろうに快く受け入れてくれてさ、休みが開けたら子供たちをよろしくお願いしますだってさ。」
仕事の話をしながらも一度熱を持ってしまった視線はなかなか冷めてはくれなかった。
セットされていない髪は重力に従い、端正な顔を覆う。時折覗く切れ長の目はアルコールのせいかいつもより柔らかく溶けていた。形のいい唇が微笑み、スラリと長い指が缶を寄せる。溜まっていく熱に耐え切れず席を立った。
「俺、そろそろ風呂入ってくるわ。食器頼んでもいいか」
「あぁ」
「ありがとう」
礼を言って頬に小さくキスをする。掬った頬は存外に熱く、少しばかり期待を寄せた。
触れたい衝動を抑え、頬を撫で顔を引く。
「ぁっ」
離れた唇に大門が小さく声を上げた。大門が虎春の手を掴む。