砂漠飛行1938年
遂にハンジはムっとした熱気の中に香辛料の匂いが漂う、北アフリカの地を踏むことができた。
———この国では女に生まれた時から、夫を持ち随行する形でないと、どうやら世界を見ることはできないらしい。
でも彼女は書物にあるいろいろな世界を見てみたかった。
だから幼馴染のレオンがカイロに駐在することが決まった時、彼と結婚して付いていくことは願ってもないチャンスだったのだ。
レオンも駐在を前に身を固めたかったし、双方の両親も大賛成。
とんとん拍子に話が進み、晴れて彼女は初めて窮屈な英国を出て、北アフリカの地を踏むことができたわけである。
全てが自分の思い通り。
でも、とハンジは考える。
私達の結婚は所詮、おままごとの延長なのではないだろうか。
レオンは気安いけれど、2人の夫婦生活は幼馴染のそれ以上でも以下でもなかった。
多分、これは「恋」というものではないのだろう。
「Mrsクリフトンですね!」
迎えに来てくれたのは先に来ていた夫ではなく、褐色の肌をした連合軍の兵士だった。
「クリフトン大尉は今、カイロに出張中で、代わりに私がご自宅までお送りします」
「カイロ?ここからだと遠い?」
「飛行機で1時間ほどでしょうか?明日にはお戻りになるとのことですよ」
飛行機にはまだ乗ったことがない。機上から見るアフリカの地はどんななんだろう…
瀟酒な白壁の新居へ通され、最低限の荷物をほどくと、聞きなれないコーランの大音量にも構わず、長旅の疲れでハンジはベッドに潜り込み、久々に長い手足を伸ばして眠った。
◆
翌日の夕方、帰宅したレオンとやっと再会することができた。
「快適な空の旅だったよ!操縦士がね、フランスの中尉なんだが恐ろしく腕が立つんだ。南仏のトゥールーズから北アフリカまでの長距離を何度も飛んでいるからね。見事な飛行だったよ」
子供のようにはしゃぐ夫の話を聞きながらこちらの紅茶を飲む。
香辛料とミルクを入れて煮出すのだそうだ。不思議な味。
「いいなぁ。私も乗ってみたい」
「ハンジも乗ったらいい。サハラ砂漠の夕陽は素晴らしいよ。今度の休みに連れて行ってもらうように、僕から話をしておくよ」
「ふふ、楽しみだな」
その夜、久々に夫の腕に抱かれながら不思議な夢を見た。
私は銀色に光る飛行機の翼を見ながら、真っ赤な炎の中を堕ちていく。垂直に———
◆
今朝もアフリカは快晴。吸い込まれるような青い空と、ベージュのカサカサの大地。
念願の砂漠飛行にハンジは朝から興奮していた。
貸してもらったフライト用の服に着替え、慣れないヘルメットとゴーグルを装着する。
「彼が、フランス軍のアッカーマン中尉だよ」
紹介してもらった男は、南仏出身らしく、小柄で黒髪と涼やかな瞳が印象的だった。
——が、私を見た途端、細い眼を見開いて固まってしまった。
私、おかしい?慣れてない装備で、変な装着しているのかな⁉︎
内心慌てる心を隠して、フライトグローブに包まれた右手を差し出す。
「ハンジ・クリフトンです。今日はよろしくお願いします」
彼はようやっとその手を取った。
「…リヴァイ・アッカーマンだ」
◆
「離陸してから安定高度に到達するまで揺れる。しっかり掴まっていろ!」
プロペラ機のエンジン音が高くなり、ものすごい爆音の中、長い助走の後、ふわっと身体が浮いた。
思わずギュッと目を瞑る。
しばらくして、恐る恐る目を開けると、小さい人形のような夫が両腕を大きく振っているのが見えた。
プロペラ機は機首を内陸に向けた。
小さなベージュと白の砂糖菓子のような街並み。
段々と高度が上がり、街の家々もまばらになる。
そして、空と砂の大地だけの地平線———
何もかも新しい瞬間
この広い世界の中、2人しかいないような———
太陽は西に傾き、地平線に飲み込まれそうだ。
砂漠は薔薇色に染まり、赤い炎のように燃え上がる。
そして、赤から紫、薄い青の夕暮れ色へと変わり、スミレ色の空と地の境目に一番星が輝く。
いつの間にか、ハンジのゴーグルは止まらない涙で視界が滲んでいた。
なんで私は泣いているんだろう…
ゴーグルを上に上げると、陽が落ちた後の涼しい風が濡れた頬を乾かした。
「———xxxx とっxxxxx に xxった」
無口だったアッカーマン中尉が、何か言ったが、風とプロペラの音で聞き取れない。
———ずっと おまえと このけしきをみたかった———
馬鹿な。聞き間違いだろう。
だって彼とは初めて会ったばかりじゃないか。
プロペラ機は砂漠の上で大きく旋回し、帰路を辿り始めた。
了