チャーシュー煮卵マクガフィン緩んできたタオルを頭に巻き直し、ついでに額の汗を拭う。手を洗い、客席から見えないところで水分補給を済ませてから仕事に戻る。カウンター席の空いた皿やコップを片付けつつ提供口を気にしていると店主の声と共に器が置かれた。すぐに反応して受け取り、数秒で客の元へと届ける。広くない店内だからそこまで慌てる必要はないが少しでも早く、熱いうちに食べて欲しい。店のラーメンの美味さを知っているからこそ全ての客に同じ体験をさせてやりたかった。
「……お待たせしました」
運んだり片付けたり動作の面での自信はあるが、愛想はない。自覚しているし客も店主もそれを求めていない。おかげで紫鸞はこの店でのアルバイトを続けられていた。接客は最小限で済むし何よりまかないが美味い。数種類のラーメンと炒飯、餃子、どれも好物で美味い。食事代が浮くのも利点だ。
ここでの仕事はとても楽しい。加えて、最近は楽しみがもうひとつ増えていた。
「はい。よろしくね」
店のドアが開き、紫鸞とは別の店員が客を席に案内する。一人客だがカウンターが満席のためテーブル席へと促されると笑顔で食券を渡すのが見えた。塩、麺ふつう、スープあっさり。目のいい紫鸞にはオーダーが通されるよりも先に注文内容が確認できた。調理場の方へそれを通せば受け取った店員が驚いた顔をする。が、特に気に留めることもなく別の客の対応に入っていった。
テーブル席にひとりで座り静かにスマートフォンを眺めているその客こそ、紫鸞の最近のモチベーションのひとつであった。細身で色白でアッシュ系の綺麗な髪色の人。総じて、綺麗な人。冬の時期のバイト帰りの夜空に浮かぶ満月のような、そんな印象の客だった。
提供まで時間が掛からないのもこの店の魅力だ。置かれたラーメンを何よりも最優先して彼の元へと運ぶ。相変わらず出すときにあまり感じ良くできないが、それでも彼は「ありがとう」と微笑んでくれる。
素早く下がって他の業務をこなしながら隙を見て観察をする。顔にかかる髪を耳にかけながら麺を啜り、時折熱そうに汗を拭っている。水は足りているだろうか。今日はいつもと比べて来店時間が早い。現れる日に規則性はなく、数日に一度のペースで来るときもあれば二、三週間以上来ない日が続くこともある。一体何の仕事をしている人なのか。
店の客は皆、長居しない。綺麗な彼も食べ終わればさっと席を立って去っていくが退店の際には毎回、紫鸞とアイコンタクトを取ってくれる。名前もわからない単なる客で、名札を付けていないから向こうにも紫鸞の名前は知られていない。健全な店員と客に過ぎず他に何もない。それでも途中、案内をこなした同僚から「見過ぎ」と小声で注意を受けるくらいには気になる存在であった。
彼が帰って少し経てば夜の忙しい時間帯に突入する。回転が速い分、常に動き回っているようで疲れを感じる間もなかった。閉店間際にようやく落ち着いて時間通りに店を閉めることが叶った。暖簾を下げた後もやることは多い。紫鸞の担当はまず外にある食券機の精算だ。一旦店を出て機械をいじる。
「おや。こんばんは」
「……こん、ばんは」
「こんな時間までやっているんだね。お疲れ様」
二十三時、辺りはすっかり暗い。駅からも少し離れた立地であるため人通りも少ないのだが話しかけてくる人がいた。彼だ。認識すると言葉がつっかえて、挨拶すらまともに返せない。
「……今日も目が合ったと思うのだけれど。覚えていない?」
「っ、勿論、覚えて、ます」
「もっと気楽に話してくれて構わないよ」
くすくす笑われると体の奥が騒がしくなった。嫌な感じはしない。むしろ肩の力が抜けていくようでぎこちなくも微笑み返せるくらいリラックスできていた。
聞きたいことは山ほどある。名前だとか仕事だとか、「次はいつ来てくれるのか」だとか、考え出したらきりがない。あり過ぎて何を話せばいいか迷う。そもそも引き留めて良いものなのか。答えが見出せず手の中の鍵を握り締める。
「いつも同じものばかり頼んでしまうのだけれど」
彼の瞳が柔らかく尋ねてくる。会話を続けてくれるようで店外に張られたメニュー表を指さすと困ったように笑っていた。思えばきちんと言葉を交わしたことはなく、彼の声をこんなに沢山耳に入れたのも初めてだった。
「そういう人は、結構多い」
「ふふ、本当?でもせっかくだから貴方のおすすめが知りたいな」
おすすめ、と小さく繰り返す。どれもこれも美味いから全部自信をもって勧められるがそういう流れではなさそうだ。何がいいのか。ちらり、と食券機のボタンを見てから口を開く。
「……叉焼と、卵」
「え?」
「トッピングで……頼む人多いし、何にでも合う」
「貴方も好きなのかな」
大きく頷く。普通の会話なのに胸が大きく跳ねた心地があった。
「次、来たときに試してみようか。素敵な情報をどうもありがとう」
突然現れた彼は軽く挨拶をするとそのまま駅の方へと歩いていった。立ち尽くす紫鸞はぼんやりと後ろ姿を見守る。まだ仕事の残る紫鸞を気遣ってくれたのだろうが結局聞きたいことは一つも聞けなかった。得られたものと言えば再び来店してくれる意思があることくらいだ。
「……充分か」
いなくなってからじわじわと、恥ずかしさや後悔が溢れてくる。もっと話せば良かったし、もっと気の利いたことを言えれば良かった。握り締めていた手を離すと食い込んでいた鍵から解放されて汗を掻いた手のひらが涼しく感じられた。
今日の分の閉め作業をさっさと済まそうと鍵を握り直す。終わった後で時間があれば叉焼の仕込みについて教えてもらおう、勝手に決めた紫鸞は空腹で鳴る体を自分で鼓舞しつつ作業に取り掛かった。