ラブインプリンティング明け方までほぼ起きていたと言ってもいいのに今朝は随分と爽やかな気分であった。気怠さは体に残るものの郭嘉は満ち足りていた。その訳は、隣を歩く紫鸞にある。彼もまた寝ていない身でありながら一切その気配を見せない。それどころか肌艶が良く、顔つきも心なしか余裕があった。
「また、一緒に夜を過ごそうね」
敢えてゆっくり言葉を紡げば紫鸞はすぐに頷いた。黒髪の隙間から覗く瞳は昨晩向かい合ったときよりも落ち着いていて、それでもどこか熱を感じる目であった。郭嘉が小さく笑みを零すと彼も唇を緩め、首を傾げれば紫鸞も不思議そうな顔をする。呼応する仕草は懐かれた証であろう。
「さて、私は行かなくては。曹操殿に呼ばれているからね」
恐らく次の戦に関する相談事だと予想した郭嘉はこの場で紫鸞と別れるつもりでいた。聞かれて不味い話は無くとも呼ばれてもいない人を連れて行く必要はない。察しの良い彼ならば黙って了承し素直に従う、そう踏んで口にしたのだが返ってきた言葉は意外なものだった。
「送っていく」
「うん?すぐそこだから大丈夫だよ」
「それでも送りたい。駄目か?」
駄目と答える理由はない。郭嘉は苦笑いを浮かべた。大して休めていないのだから少し寝た方がいいと勧めても紫鸞は頑なに「見送りをする」と言って聞かず、仕方なくもう少しだけ二人は並んで歩く羽目になってしまった。
懐柔が上手く行き過ぎたのかもしれないと、郭嘉は内心でため息を吐く。色々な段階を飛ばして一夜を共に過ごすなど慣れているが稀に妙な縮められ方をされ郭嘉の方が引いてしまうこともあった。ただ楽しみたいだけの相手ならばどうにでも出来るが今回はそうもいかない。自軍にとって彼は重要な存在であるし何よりも曹操が大変気に入っているのだ。
戦場を渡り歩き何処にも所属していないと聞いたからもっと孤独を愛しているのかと思いきや、どうやら違うようだ。人肌を知ってしまったからなのか。そうなると結局原因は己だと、郭嘉はまた心の内でため息を吐いたのだった。
視線を感じる。無言のままでいるのも退屈だろうから幾つか話題を提供し静かながらも会話を楽しんだ。感情表現が控えめなところは同僚に似ているが不思議と彼の気持ちは簡単に読み取れる。或いは向けられるそれが色っぽいから、すぐに悟ってしまうだけなのか。
「ここまででいいよ。送ってくれてありがとう」
間もなく軍議場に着くという辺りでそっと紫鸞を制した。さすがに今回は立ち止まったものの、視線は頑なに郭嘉から離れない。
「待っている」
「いつ終わるか、分からないよ。もしかすると部屋に籠り切りになってしまうかもしれない」
「構わない、待っていたい」
想像以上に頑固な彼はこの場から動く気はないらしい。何故か誇らしげな顔をして郭嘉の言葉に首を振る。
「困ってしまうな……せめて食事に行くとか」
「郭嘉殿と食べに行く」
「うーん……鍛錬でもして来たら?今の時間なら将軍たちの相手が出来るんじゃないかな」
「今は、いい。ここで待つのは不味いのか?」
この質問にもまた郭嘉は薄っすら微笑むことしか出来なかった。多少強めの言葉を用いて追い払うか、冷ややかに無視をするか、これまで相手にしてきた無頼漢ならそういう選択肢もあったのだが紫鸞にはそれが出来ない。先の通り、主君が目を掛けているのもあるが、それを抜きにしたって彼をぞんざいに扱うのは郭嘉には想像し難かった。
何故、と己の感情に疑問が浮かぶ。付かず離れずが好みのはずなのに執拗に迫られる現状に心が踊っている。
「貴方を待たせるのは悪いから」
間をたっぷり置いてからそう言ったものの半分本心ではなかった。有難いことに紫鸞はすぐに否定を返してくれた。小刻みに幾度か首を横に振ってあからさまに納得していない顔をされる。寡黙なせいで彼は表情で訴えるのに長けているようだ。
「揉め事か」
空気が変わったのを覚えた次の瞬間、後方から話しかけられた。振り向くと護衛を伴って歩いてくる主君の姿が目に入り郭嘉はこれ幸いと拱手する。
「少し、お喋りに興じていただけです」
「紫鸞も一緒か」
「ええ」
頷く紫鸞に畏まる様子はない。彼は郭嘉よりも曹操との付き合いが長いからか今更態度を改めることもないのだろう。体はそちらへ向けているが目線は郭嘉へと注がれている。一方で曹操は考え込み顎に手を置いて並ぶ二人を観察しているようだった。頭からつま先までじっくり見ると僅かに笑われる。
「丁度良い。紫鸞、荀彧を呼んで来い」
郭嘉を一瞥した後、曹操は紫鸞へそう指示を出した。おおよその居場所を言われると先程までごねていたのが嘘のようにすっと向かい出す。一応立場は理解しているのだと感心しつつ郭嘉は胸を撫で下ろした。
先に仔細を話すと言う曹操に続き、護衛を外に残して部屋に入る。思っていた通り今後の戦に関することで、耳に入れながら頭の中で整理していく。ある程度方針が定まったところで先の展開を口にすると受け入れられて、もはや用事は済んだと言えるところまで進んでしまった。
「曹操殿、荀彧殿の話も聞かれるのでは?」
「お前と同意見だろう、聞くには聞くが確認程度だ」
「おや。では何故彼を呼びに行かせたのです」
腕を組んだ曹操は愉快そうに唇を歪めた。
「なんだ、纏わりつかれて参っていたのではないのか」
「それは……特に困っていた訳では」
言葉を詰まらせた郭嘉は過ちを犯したことを悟り、余計なことを口にしたと後悔する。既に曹操には昨晩彼とどう過ごしたのか見破られているのだろう。夜遊び好きなのはとうの昔に開示しているし今更朝帰りを恥じらったり隠したりするつもりもない。しかし今日は、相手があの彼だと知られると途端に身を隠したくなってしまう。
「何も煩く言う気はない。好きにしろ」
「……」
「軍師がひとり、使い物にならなくなるのは困るがな」
そう言うと曹操は腕を組みなおし郭嘉を上から下まで眺めてまた笑った。呆れや懸念というよりもっと野暮ったさを含んだ笑いである。何もかもお見通しだと揶揄うように肩を叩かれた。
「失礼します。殿、お呼びでしょうか」
「連れてきた」
妙な空気を明瞭な声が切り裂く。次いで紫鸞が荀彧の後ろから現れて目配せをする。まず始めに見てくれるのが郭嘉の方なのだから、思いは相当強いようだ。
「では、郭嘉。頼んだぞ」
「はい。承知しました」
色々と上手くやれ、そう言われたと受け取った郭嘉はただ静かに返事をした。下がっても良いと許可を貰ったため素直に引いて紫鸞と共に退室する。来たばかりの荀彧はてっきり皆で軍議をするのかと思ったようで少々驚いていた。若干戸惑う彼には軽く手を振っておく。
「もう終わったのか」
数歩離れた辺りで紫鸞から話しかけられた。隠せていない期待に失笑するところであったが、どうにかやり過ごす。
「そう、終わってしまったよ」
「……不服そうな言い方だ」
「まさか。そうだ、ねぇ、何か美味しいものでも食べに行こうか」
静かな癖に意外と騒がしい瞳は見ていて楽しい。戦場では厳めしい顔だってするのに今は童子の如く郭嘉の言葉に一喜一憂している。絆されるとはこういう事かと、掴まれた手首を抵抗せず彼に預けてそのまま外へと繰り出した。