きれいなひと勝鬨の響きが収まりつつある中、近づいてくる顔は落ち着き払っていた。得物を背にして郭嘉の下へやってくると淡々と戦果を報告してくれる。真っ先に訪れるのが総大将ではなく軍師の己で良いのか、少々気にはなるが優先される気分は悪くない。寧ろ最初に紫鸞の無事を知ることが出来て、勝ち戦だけでは味わえないじんわりとした喜びが全身に回っていった。
赤ん坊のような顔の紫鸞は郭嘉が妙に微笑んでいるのを不思議に思ったようだ。透き通った瞳が疑問を投げている。
「せっかく綺麗なのだから、汚したままではいけないよ」
涼しげな表情に対して白い頬は泥が付着していた。狭くない戦場を駆け回り拠点を奪取したり敵将を討ち取ったり、鳥よりも忙しなく飛び回るのだから当然だろう。彼の頑張りの証でもある、しかし汚れたままで諸将と会う必要もない。郭嘉は指先で彼の頬を擦ってやった。幸いにも乾いた泥だっため軽く拭うだけで簡単に落ちていく。
「……ありがとう」
「後でちゃんと顔を洗ってね」
「今ので、平気」
顔を触られても紫鸞は身を引くことなくされるがままであった。眼前に剣を突きつけられても動じない人だから柔らかく撫でられるくらい大したことではないのかもしれないが素直に受け入れてもらえるのもまた、純粋に嬉しかった。
その夜、小さな祝賀会が開かれた。まだ大勝利にはほど遠いため盛大な宴は催されないからせめてよく知る人らでひっそりと集まったのだ。要はいつもと変わらない食事会である。郭嘉の前には荀彧と荀攸、そして隣には主役である紫鸞がいて黙々と箸を運んでいる。
「ん……ああ、これ、お酒が進む味だね。荀攸殿、どうぞ」
「いただきます」
「郭嘉殿……不必要に公達殿に飲ませないでくださいね」
味の濃い料理を向かいの人に勧めればすぐさま心配する声が飛んでくる。既に乾杯から何杯も飲んでいるせいか荀攸の呂律は若干怪しい。しかし荀彧も強く止めることはしないため空気は酔いと明るさで満ちていた。
「美味しい?」
横に目を向けて声を掛ければ静かに頷かれる。表情に出さないようでいて案外わかりやすい彼は飲み込んで一拍置いてから「美味しい」と返した。律儀な姿は微笑ましい。
他人に促すばかりでは腹は膨れない。時折郭嘉も箸を持つ。食べることより飲むことの方が好みで食も細いからつい杯に手が伸びてしまう。荀彧にはよくそこを咎められるため今夜は小言よりも先に、と少しずつ胃に入れることに努めた。
「こっちは……結構辛いかも」
「真っ赤ですね……おや、郭嘉殿。お口が」
適当に取った料理は刺激が強いものだった。覗き込んだ荀彧にも同意され興味を持った荀攸へと運ばれる。その際に跳ねたのか口に入れたときに飛んだのか、どうやら汚してしまったらしい。大して感覚がないからほんの一滴程度だろうが赤い香辛料の色のせいで目立つのだろう。
拭うものを探そうとした瞬間だった。やや強めの力が郭嘉の顔を動かす。前を見て荀家の二人を視界に入れていたはずが、いつの間にか薄紫の両眼に捉われていた。
「どうしたの」
全て言い終わるよりも先に紫鸞の手が伸びてきた。片手で郭嘉の顔を押さえながらもう片方の手の指が唇のすぐそばに触れる。肌の弾力を利用するかのような動きはまさしく付いていた赤い染みを取り除いてくれたのだろう。それは理解できる。
「紫鸞殿」
「……貴方も綺麗だから。郭嘉殿。汚れたままでは良くないのでしょう」
さすがに今の行動を予測出来なかった才子は珍しく動揺していた。日中の出来事をやり返されたと考えれば納得するが、やはり驚きが勝る。当然それを見ていた荀彧は言葉を失い荀攸は酔いが吹き飛んだようだ。そして何故か紫鸞もまた皆の反応を見て戸惑っている。
「えっと……」
「ありがとう、拭いてくれたんだね」
その場を断ち切るため郭嘉は敢えて声量を大きくした。それだけで向かいの二人は察してくれたようで軽い咳払いだけで済んだ。紫鸞の方は礼を言われたことで安心したのかおずおずと食事を再開させている。
黒髪の間から覗く耳に、郭嘉はそっと近づく。密着することに今更照れなど無い。それなのに不意打ちには弱かった。
「続きは食べ終えたら、どうかな」
油断していた可愛い奇襲のやり手へ囁くと期待の眼差しが郭嘉に向けられた。